教室の中にはたくさんの掲示物がある。
学校によっては統一した掲示物にしているところもあるだろう。
新学期になると、先生が教室のロッカーに一人ひとりの「名前シール」を貼ったり、昇降口の下駄箱に名前シールを貼ったりする。放教室に季節の飾り付けをするのも先生。掃除当番表も、給食当番表も先生が美しく作って掲示する。
そして教室は「先生が丁寧に創り上げた場所」となる。ここで学ばれていることはなんだろうか。
「自分がやらなくても自分の周りの環境は自動的に整っていく。」
「自分の周りを居心地よくするのは先生の仕事。」
よかれと思っていることが子どもたちの自主性を阻害し、「やってもらうが当たり前」という受け身にさせている。
子どものお客さん化。
「子どものため」と一生懸命にやることが結果として何を引き起こすのかを常に考えたい。「掲示物は先生がつくるもの」「子どもが困らないように"親切"に準備しておくもの」という前例踏襲は目的を忘れたただの手段になり、学校の「表向きのストーリー」として残り続ける。
自分の環境や未来に関与しなくてよい、という体験の積み重ねが生み出すことは何か。
学習環境も学習者であり、その場の主体である子どもたちと一緒に創っていけばよいのではないだろうか。
「教室のロッカーに一人ひとりの名前シールを貼る」には他の方法はないだろうか。
「先生、ロッカーに名前シールが貼ってありません。」
「ほんとだねー」
「誰がどこに入れるかわかりません」
「そっかー、それは困ったね。で、どうしたい?」
「名前シール貼りたいです。」
「お!いいアイデア。どうぞどうぞ。そこにシールもあるし、名前の印もあるよ。あっちのテプラもあるから使ってもいいよ。説明書も入ってるから読んで使ってみてねー」
これで何の問題もなくスタートできるはずだ。(スタートカリキュラムなんてこんなところからスタートすればいいんじゃないかな。)
「先生、給食献立表ないと明日の給食が何かわからないです」
「確かにそうだね」
「貼っていいですか?」
「いいも悪いも、自分たちの場なんだから、いいと思ったことは、ぼくに断らずにどんどんやるといいよ」
イラストが得意な子が手伝ってくれたりして、必要に応じた「給食献立表コーナー」ができあがる。
困ったら、不都合を感じたら、自分たちでなんとかしていく。そうして、自分たちで教室をつくっていく。「〜したい」が大切にされる環境の中で、学習者の中に環境への当事者性が育つ。
そんな小さな民主主義を丁寧に積み重ねていくこと。
小さなことだけれど、学校文化を変えていく確かな一歩のはず。
つくることの体験の積み重ねなくして、社会の当事者になるはずがない。
「学校の仕組みや制度が変わらないから今の教育はダメなんだ」といいたくなったときは(その気持ちもわかるし,一定妥当だとは思うけれど)要注意。それを理由にして思考停止し、結果として荷担していることもある。
やれることなんて手元にごろごろ転がっているんだよね。
関わる人が当事者になること,自分事からスタートすること。シンプル、シンプル。
同じこと、3年前にも書いてます。