「おなじ」から「ちがう」へ。
「教室前面は子どもの注意がそがれないように掲示物を最低限に抑えましょう。」
これがユニバーサルデザインか。うんうん。そうかそうか。・・・・・ん?
学校現場でこの言説があっという間に広がっていくなか、ボクはずっと違和感が残っていた。なんか違う気がすると。
それで軽やかに取り合わないでいた。
そもそもこの提案の前提はなにか?それは「全員前を向いて先生の話を聞いて学ぶのがデフォルト」ということだ。盟友、KAIの言葉で言えば「後頭部凝視型授業」。いや、「一斉授業が悪い」とかそういうことを言っているのではなく、これまでの一般的な授業形態、教室のあり方に、子どもたちが合わせていくという方向がおかしい。
あわせることへの「困難」を取り除く為の手立て。教育におけるユニバーサルデザインの提案は、ボクが知っている限りではそういう方向性のものも多い。
「同じ」にするための工夫や手立て。
しかしその「困難」は誰が作り出しているのか?その視点が欠如したユニバーサルデザインは、もしかしたら学校や教室が作り出しているかもしれない「困難」にどうやって付き合わせるかに終始してしまう。みんなが「参加」できる学びとは?学びの場とは?視点を変えて考えてみたい。アイランド形式の教室だったら?いや学ぶ場所を自分で選べたら?学びが自分のペースだったら?一人一人の「ちがい」に応じられる学びの場とは?それを支えるコミュニティとは?
そこから問いを立てて、そもそもから考えていく。
「ちがう」からスタートしてみよう。
書くのは簡単。実現は難しい。おもいっきり自戒を込めて書くが、教室単位ではダメなんだ。それは次年度に、かえって「学びにくさ」を生み出しかねない。自身の関心である学級経営で考えると、学級単位での学級経営を考える時代はもう終わりに来ているのだと思う。そもそも毎年振り出しに戻っているようじゃだめなんだ。そこに歩み出さなければ。
子どもの育ちを単年で考えるなんて大人の都合に過ぎない。
大学に来て3年目。たくさんの教室や学校におじゃまし、先生方と話し、文献を読み、ようやくそこに腹を決めることができはじめた。そのためにボクは小学校現場を離れ、ここにいるのだと思う。自身がやってきたことも批判的に検討し直さなくてはならないのだと思う。
だからといって、ただ「学校全体であわせればよい」という話ではない。それではあっという間に管理的な形骸化が起きるし、現に多くの学校で起きていて、子どもたちは(先生も)窒息しそうになっている。教師・学校都合の「共通理解」という名の形式的な管理。
そもそもの学校のビジョン、学習者観、学習観からの丁寧なスタートが必要。
そして、自由な試行錯誤を大切にする。
なにがいいかは事前にはわからないからだ。
軽井沢風越学園設立のプロジェクトにじっくりじっくり取り組みながら、ぼくらは、「新しい『普通』の学校」の情景をていねいにていねいに描いていく。