例えば。
教室環境をどうしたら子どもたちは使いやすいかなあ、学びやすいかなあと考える時、
エンドユーザーである子どもたちに、
「ねえ、どうすると使いやすくなる?」と相談して一緒に教室環境をつくっていく。
意見が割れたら、
「じゃあ、1週間ずつ試してみて、よかった方でいこう。」
とアクションリサーチにする。
教室環境を「共同修正」する。
学習進度や予定を記入するワークシートも。
「試しにこんなカタチにしてみたんだけど、使ってみていろいろ意見ください」。
使っている本人ならではの建設的な修正案がたくさんもらえます。
使うワークシートも「共同修正」する。
圧倒的によくなっていきます。
一緒に創っていく。
困ったら相談する。
これが、学校の先生にとって(いや先生に限らないですね)、最も重要なあり方だとボクは考えています。
これを「共同修正」という言葉で定義することにします。
学校のあらゆることで、子どもたちと共同でよりよくしていく。
本気で参画の場をつくる。
「共同修正」を学級の、学校の核にしましょう。
それが民主主義の第一歩。
そして自由の相互承認の感度を育む第一歩です。
例えば、研究授業だって。
子どもたちに授業案を示して、
「どう思う?」
と相談。
「最初はもう少し時間とった方がいいんじゃない?ペアでの対話で3分は短い。
1人しか話せない。」
「振り返りはノートよりジャーナルの方が書きやすい」
「全体での対話は、10分じゃ足りないよ」
「ホワイトボードに話し合いのテーマ書いて出しておけば?」
「途中、見に来ている人にに『〜って私は思うんですけど、どう思いますか?』って振ろう」
「あとはだいたいいいと思うよ。これでいけるとおもう。」
など様々なアドバイスをもらえたりします(笑)。
授業案を共同修正です。
「この問いで深まりそう?」と聞くと、
「難しいけど何とかなるじゃない?」だって。
その時の問いは、
「本が存在する意味とは何か」
でした。
授業だって共同修正することでよりよくなっていきます。
ちなみにこのときの授業は会心でした。
まさに「心」が「会った」という授業。滅多にほめてくれなかった校長が、
「教育の原点のような学習者の対話中心の授業だった」。
本来の意味で、子どもと一緒に創った授業だったからだろうなあ。
共同修正=そのコミュニティのメンバーでよりよくし続けるプロセス
これが文化になりつつあったある日、こんなことが起きました。
ある朝のサークルタイム(朝の会)でのこと。
ある議題で話し合いが行き詰まり、
困った司会(ファシリテーター)の子がいった一言。
「どう進めていいかわからなくなったんだけど、どうしたらいいかな」
この一言にボクは震えました。
場がグッと変わりました。
謙虚な問いかけの力。共同修正のあり方。
まったくもって人の力はすごいわけです。
大人も子どももないわけです。