今日より行き帰りの電車で『学習原論』を読み始めました。
木下竹次。大正自由教育を代表する実践家であり研究者。
この本がでたのは大正12年。1923年です。ほぼ100年前です。
Amazonの中古87000円って・・・・・
自序からグイッと攻めてきます。
学習は学習者が生活から出発して生活によって生活の向上を図るものである。学習は自己の発展それ自身を目的とする。異なった遺伝と異なった環境とを持っているものが、機会均等に自己の発展を遂げ自己を社会化していくのが学習である。学級的画一教育法を打破した自律的学習法は、いずれの学習者も独自学習から始めて相互学習に進み、さらにいっそう進んだ独自学習に記入する組織方法であって、実に性質能力の異なったものは異なったように活動し、しかも、自由と協同とに富んだ社会化した自己を建設創造しようというのである。教師は学習の指導者でまた共学者である。環境に順応しさらにこれおを創造することは自己の創造発展と同一事実である。学習すれば師弟ともに全自己を活動させてともに伸び、ともに歓ぶことができる。
教師の役割を指導者であり「共学者」と位置づけ、「ともに伸び、ともに歓ぶ」というあり方は、苫野一徳さんのいう「協同探究者としての教師」と同じ。いきなりスタートからしびれます。
第1章、「序論」では、教師についてこう喝破しています。
教育本来の意義は引立てることと取り除くことだ。すなわち教育は外部からの憂患を除去し、児童固有の本性を発揚することである。かくのごとき作用をする主人公は元来児童自身であるべき筈だが、従来は教師が余りに深入りして自分が主人公になった。そのためにかえって教育の効果を十分に挙げることはできなんだ。
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各児童は各自の個性を基礎とし、自分の環境に依拠して種々の経験を積み、工夫創作を為し、よかれ悪しかれ、自分でなくては辿ることのできない道を辿って、人間固有の本性を発揚し社会に貢献していく。
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自律的学習法の真髄は児童が本来具有する所の創作性自律性を発揚することだ。児童には本来伸びる力がある。教師はあまりに自分の力を過信して余計な干渉をしてはならぬ。
身が引き締まります。
「取り除くこと」というのはその通りだなあと思います。
教師がよかれと思ってやっていることが、木下に言わせると「〜いたずらに外部の権威に服従して課業に努める知力的奴隷を作る」。
教師が学習者の学習を阻害しているというのは耳の痛い指摘です。
丁寧に読み進めていこうと思います。