いわせんの仕事部屋

Mailは「naoki.iwase★gmail.com」です。(★を@に変えてください。スパム対策です)

自分の「支えとするストーリー」はどのようにできていくのか?予告編。

学校においては隠れたカリキュラムが存在します。隠れたカリキュラムとは、アメリカの教育学者フィリップ・ウェズリー・ジャクソンが用いた言葉で、いわゆる学習指導要領や授業計画等の明示的なカリキュラム(顕在的カリキュラム)ではなく、教師から生徒へ「暗黙のうちに伝達される価値や規範、信念などを指」します。*1

例えば「集団を乱す行動をしてはいけない」というのは隠れたカリキュラムといえます。学校で子どもは、明示的に示されていないことを結果として学んでいることがあるのです。

 

しかし子どもたちだけでなく、教師もまた無自覚に、所与のカリキュラムから学んでしまっている実践知があるのではないでしょうか。

以下は僕の昔の日々の振り返りからの抜粋です。

f:id:iwasen:20180715142811p:plain

 

新任からの5年間、「学校についてのストーリー」(学校は何のためにあるのかについて、他者によって綴られ、他者に対して語られるストーリー*2)への違和感を見過ごすことができませんでした。整列、行進、大きな声の返事等々…

オルタナティブな教育に関心のあった僕は、このようなストーリーが我慢できず,職員会議で反対を大声で唱えたりもしていました。

当然そこでは「対立のストーリー」となってしまいます。学校についての支配的なストーリーへの違和感、それと衝突する若い教師…しかし、教員として駆け出しだった僕にはそれを変えるような影響力はありませんでした「対立するストーリー」は学校についての支配的なストーリーに逆らっているので、若い教師にとってはなかなか持ちこたえることができません。行進への違和感は、学級の子どもたちにやることを強要しない、あまり必要と考えていないんだよねと教室でこっそり吐露するなど、「秘密のストーリー」(学校の風景においてであれ、その外においてであれ、安全な場所でのみ他の人に語られるもの*3)として生き続けることとなりました。


しかしそうしているうちに、年齢を重ねるにつれて、いつの間にかそこに違和感を感じにくくなっていっていたのです。

「対立を避けるために秘密のストーリーとして持ち続けているのだ」と自分を納得させていたのですが、そうしているうちに、自身も「学校についてのストーリー」と同化していっていっていたのでした。当初持っていた違和感を少しずつ手放してきてしまっている,そのことに気づいたときには愕然としました。


 学級への「集団凝集性*4」 についても新任の頃は違和感を持っていました。しかし上記の例と同じくいつのまにか学級経営の中に凝集性を持ち込むことは普通となっていってしまっていたのです。
 学級の集団凝集性が高まってくると、周囲の評価が変わってきます。
例えば運動会の行事のときに、後述のブログの記事のようにまとまっている学級は、保護者からも同僚からも評価されるようになっていきます。学級経営に力を入れている先生。「先生、熱血ですね−!」と言われると素直に褒められていると感じていたのが正直なところ。子どもからも保護者からも「いい先生」と思われるのは、正直悪い気はしません。同僚からも「力のある」教員と思われるのは気持ちいいものです。そのような日々の積み重ねは、自分の実践が「うまくいっている」という認知になるので、それを問い直すベクトルが弱くなってしまいます……

2009年になってもこんなブログを書いています。

iwasen.hatenablog.com

 

正直に告白すると、このような実践にあまり疑問を感じていませんでした。

いや、むしろ「好ましい実践」と認識していました。

教員になりたての頃の僕だったら、このような学級は「気持ち悪い」と考えたに違いないありません。にもかかわらずなぜそうなってしまったのでしょう。

今ならわかります。
なぜなら学級内は盛り上がり、外部(同僚、管理職、保護者)からも評価されるからです。学級を「チーム」というメタファーで捉え、目標がはっきりする運動会やミニバスケットボール大会など仮想敵がいる行事で学級の結びつきを強くしようと続けてきました。行事の盛り上がりは保護者からも評価されます。行事で活躍する人は、学級内にあって目立っている子が多い。彼らの満足は学級の安定にも繋がると考えているところもあったのでしょう。もちろん学級全体に気を配りながら、私は、目標に向かっていくプロセスで起きる凝集性に頼っていたのです。まとまりのある学級、行事で結果を出す学級、の担任は学校文化の中で生きやすい。この状態が評価される状態では自己の問い直しが難しい。自身の持っていた違和感が薄れていき、学校の文化と徐々に競合しなくなっていったのです。
 2つのストーリーの齟齬を感じていない時、ストーリー間の緊張関係がない状態というよりむしろ重なり合っていくプロセスであると言えます。

 そんな時、そもそもを問う振り返りをするのはとても難しいものです。

 

では僕はその中で、どのように自身の「支えとするストーリー」を取り戻し、更新し、自身が大切にしていることと実践がつながっていったのか。

大学院では、そんなことをナラティブ探究という研究手法で探究してみました。

  (いつかに続く)

 

※1保田卓「カリキュラムと学力問題」石戸教嗣編『新版教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社,2013,146頁。

※2※3

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

  • 作者: D ジーンクランディニン,ジャニスヒューバー,アン・マリーオア,マリリンヒューバー,マーニピアス,ショーンマーフィー,パムスティーブス,田中昌弥
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2011/04/15
  • メディア: 単行本
  • クリック: 1回
  • この商品を含むブログを見る
 

 

※4集団凝集性とは、フェスティンガー(1950)らにより「集団成員に留まるように作用する心理学的な力の総量」と定義された(小杉考司「集団の静的構造」藤原武弘編『社会心理学』,晃洋書房,2009,153頁)。凝集性が高ければ、「まとまりのよい集団」としてコミュニケーションが活発で、集団全体で共同的に活動することができるが、マイナス面も指摘されている。例えば平野は「特に日本のような集団の凝集性(一致団結しようとする傾向)や集団の一斉性(互いに同一性を保とうとする傾向)、そして集団の同調圧力(同じように行動するよう求める傾向)が強い文化では、集団思考の危険性が高いと言える」とし、このような集団心理がいじめに繋がる危険性を指摘している。(平野美沙子「いじめを考える心理学 - いじめの深刻化を防ぐために -」『環境と経営 : 静岡産業大学論集 21(1)』, 9-16, 2015,11頁。)