お世話になっている、藤原さとさんのブログが興味深いです。
リアルな体験談だからこそ、個別化のよさと課題がよく見えてきます。
ありがたい。
以前、学習の個別化の実践で考えられる問題点について、以前4点にまとめました。
①「孤立化」が起きやすいこと。
「わからない」が「わかる」に移行する際に、自分の力以外になくなってしまいます。
行き詰まってしまったときどうしようもなくなってしまう。
その学びの環境は必ずしも安心・安全とはいえません。
②実践の方法によっては格差の拡大につながること。
「個人の責任で個人で進め個人で責任をとるモデル」になりかねません。
③学びのブレイクスルーが起きにくくなること。
④「自由の相互承認の感度を育む」機会を失ってしまう可能性
これらのことは自分の実践から気づいた点なのですが、これはもうずいぶん前からわかっていたことのようです。
1920年代に実践されたドルトン・プラン。
学習の個別化の先駆的実践です。わかりやすい解説は苫野さんのブログへ。
すごいですよね。1920年代ですよ。
大正時代は日本にも紹介され、広がっていきました。
パーカーストも何度も来日したようです。実践もされていたそう。
そして学習の個別化の問題に既に実践的に気づいているんですよね。
佐藤(2006)「宮城県におけるドルトン・プランの紹介とその反響」
http://www.sed.tohoku.ac.jp/library/nenpo/contents/55-1/55-1-14.pdf
によると、大正時代の成城学園でのドルトン・プランの実践の時に既に、学力差の拡大が既に問題になっていたそうです。
また、パーカーストがアメリカで実践している頃、教科の枠組みはそのまま保持しつつ(教科中心カリキュラムの保持)実践しうることへの批判もあったそうです。
で、方法上の自由は確保されている学習事項の自由が確保されていないとの批判から、キルパトリックのプロジェクト・メソッドによって修正・補完される必要があるという議論が当時からあったと佐藤は述べています。
ひえーです。
今ボクらが考えていること、実践していること、そこでぶつかっていることってとっくにその時代に考え、実践され、ぶつかっているんですよね。
さて。
ICTの普及、人的、物的リソースの充実により、再び実践の土壌が整っているのが今だとボクは考えています。
先に挙げたような問題点、当時クリアできなかった課題をどのように超えていくか。そのヒントは、今の日本の実践の中にいくつもあります。自由と協同をどのように融合していくか、ですね。
次は具体的なカリキュラムのイメージを書いてみたいと思います(いつかに続く)。