いわせんの仕事部屋

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ヒドゥン・カリキュラム

アメリカの教育学者、P・W・ジャクソンは、学校には意図されたカリキュラムの他に、無意識に伝わる隠れたカリキュラム=ヒドゥン・カリキュラムがあることを明らかにしました。
その上で、葛上は「教室の権力性、すなわち、大人が子どもを支配する中での学びの危険性」を指摘しています。

教育社会学への招待

教育社会学への招待

  • 作者: 若槻健,西田芳正,志水宏吉
  • 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
  • 発売日: 2010/05/07
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 葛上秀文(2010)「教師が子どもを『教える』ということ」『教育社会学への招待』大阪大学出版会

 

教室の中では必ずしも明示されていないが、教師に代表される管理者に服従したり、意図を先読みして行動することを結果として学んでいる、ということです。

学級制は、効率と規律の歴史であることは柳(2005)が指摘していますが、今もなお、ヒドゥン・カリキュラムとして「効率と規律」は綿々と受け継がれているのが現状です。

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

 


その視点で学級や学校をあらためて見直してみると、数々のヒドゥン・カリキュラムに気づきます。号令、朝の会、45分という授業時間、行進、机の並べ方の形態、年齢別の学び、等々。これらは結果として何を教えてしまっているのでしょうか。

 

ヒドゥン・カリキュラムの存在を知った私たちにはどんな選択肢があるでしょうか。
その一つは「潜在的に教えてしまっていること」を意識化、言語化して、前提を問い直してみること、です。

 

例えば、前向きに机を並べていることで、教えてしまっていることはなにか。

「対話的に学ぼう」と言いつつ、「先生に向かって発表する」という構造にある教室環境の矛盾が何を引き起こしているか。

例えば選挙への関心の低さも、明示的な「主権者教育」を実施する前に、ヒドゥン・カリキュラムが引き起こしていることの検討が必要ではないか。「黒染め強要問題」をみるにつけ、そもそもルールを作り合う体験、ルールを変える体験ができない学校時代を過ごした人が主権者意識を持つだろうか?選挙に関心を持つだろうか?そんな疑問も湧いてきます。

 

 

これからの学校・学級はいかにあるべきかを共有した上で、ヒドゥン・カリキュラムがそのビジョンの逆に作用していないかを、学習者も含めた関係者で丁寧に点検し続けていくこと。潜在を顕在化して再検討していくことを通して学校をリデザインしていくこと。新学習指導要領の実施に向けて、今こそ重要であると考えています。

 

情報時代の学校をデザインする: 学習者中心の教育に変える6つのアイデア

情報時代の学校をデザインする: 学習者中心の教育に変える6つのアイデア

  • 作者: C.M.ライゲルース,J.R.カノップ,Charles M. Reigeluth,Jennifer R. Karnopp,稲垣忠,中嶌康二,野田啓子,細井洋実,林向達
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2018/02/21
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それを考える上でこの本は必読。徹底的に問い直す視点を提供してくれます。★★★★★ 

 

こんな危惧もあります。

ヒドゥン・カリキュラムを教師「だけ」が意識化し、さらに強化して使っていくという選択肢です。学習者が知らず知らずのうちに「学んでしまっている」状態を「意識的」に作っていくことができてしまうのではないか。これ、あぶない。隠された権力の暴力性については改めて書きたいと思います。

 

そういえば、「LINE利用禁止」等々、児童・生徒のスマホ利用への大人の慌てた対応ぶり。これらの方策から子どもたちは結果として何を学んでいるのか、も検討しなくては、です。だなあ。残念なことを学んでいるに違いない。

我が子で考えてもとても難しいところ。少なくとも禁止や罰、脅しは効果がないというのは身を持って感じています…

また自身の学級経営を思い返すと、自身が埋め込んでいたヒドゥン・カリキュラムにも思い当たります。そこも批判的に検討しなくちゃならない...

 

GW最終日。

今日は原稿に追われてます・・・・涙