2学期が始まります。
新型コロナウィルスの影響で、この春に「せんせい」という仕事に就き、教育という世界に夢を持ってチャレンジしはじめたみなさんは、ものすごく大変な4ヶ月だったのではないでしょうか。休校からのスタート。登校開始後も、コロナ対策に縛られ、子どもたちと関係を作ることもままならない。管理職や先輩も余裕がないように見えるし、子どもたち自身もしんどそう。
パソコンを整理していたら、5年ほど前に書いた文章がでてきました。ちょこっとリライトして再掲。今年度「せんせい」になったあなたへのエールと、その「せんせい」を学校で迎える私への戒めとして。
●「せんせいという仕事」スタート! そしてリアリティショック・・・・
団塊世代の大量定年退職によって、都市部を中心に若い先生がすごい勢いで増えています。学校を支えるミドル層(30,40代)が極端に少なく、大量の20代と50代といういびつな年齢構成になっている学校も少なくありません。
今は都市部ですが、これから地方にも同じ波がやってくるでしょう。東京、大阪、横浜等の大都市では既に担任の半分が20代なんていうことも珍しくありません。自分と同じぐらいの年齢の先生がたくさんいる中、あなたは「せんせい」という仕事をスタートしました。
あなたは、ついに全権を渡されて、突然担任になりました。
教育実習や大学の勉強、この日に向けてたくさん準備してきましたよね。
今、期待と不安でいっぱいなことでしょう。
最初から冷や水を浴びせるようですが、いくら事前に勉強していたとはいえ、学校現場で起きるリアリティの中で右往左往します。
私の子育ての経験から言っても、たった3人の子育てですら思うようになりません。すぐケンカが起きるし、言うことを聞かない。言わないとやらない。3人公平に、と思ってもなかなか難しい。
それよりも多様な環境で育った子たちが、本人たちの望むと望まざるとに関わらずに30人近く一つの部屋に集められるのです。いろいろなことが起きるに決まっています。同時多発的に起きるトラブル。だって30人ですよ。3人兄弟の10倍です。授業も準備も追いつきません。30人公平に関わろうと思ってもうまくいかない。ましてやこの状況です。うまくいくはずもありません。
隣の先生はすごくうまくいっているように見える(ベテラン勢はこういう状況でうまく力を抜いたり、「通達」を打っちゃったりするのが上手な人もいるので)。どうすればよいかわからないのに、ひとりで何とかしなくてはならないと思い込んでしまう。困っているけれど、困りごとが多すぎてもはや何に困っているかわからない。圧倒的な現実の渦にショックを受けます。これを「リアリティショック」といいます。現実のリアリティの前に、これまで学んできたことが「洗い流されて」しまうのです。
こんなはずではなかった。ステキなクラスができると思っていたのに。子どもに会えないところ、マスクで表情がわからないところからスタートなんて。一緒に遊ぶこともままならないなんて。
あなたは自分のふがいなさを責めはじめるかもしれません。保護者の目も、同僚の目も、管理職の目も気になります。心ない先輩や管理職から「もっとビシッとシメないから、なめられるんだよ!」とプレッシャーをかけられ、ますます焦り、何とかしようと子どもたちを叱ります。そうするとますますうまくいかなくなる。負のループです。
寝る間も惜しんで仕事をする。でも一向によくなる感じがしない。日々に疲れ、休みの日も学校に行って準備。保護者から連絡が来る夢をみる・・・
他の仕事と比べて教員という仕事のしんどさは、人間関係と感情の渦の中で日々仕事をするところです。正のループが回っているときはいいのですが、うまくいかなさが続いてくると自分に向く刃物のような感情に日々傷つき続けます。保護者からのクレームの連絡帳ひとつで、何日も思い悩む。子どもたちからの冷たい視線を感じたとき、それが1日中何日も続く。その後ろにいる保護者も同じ目をしているのではないか。見えない影におびえながら、負の感情と視線の渦の中に居続けなければならないつらさ。
かつては若い先生もゆっくり成長することがある程度許されていました。
しかし冒頭でも書きましたが、年齢構成のいびつさから、学校は都市部を中心に若い先生ばかりになっています。学校現場自体にゆっくり成長を待つ余裕がなくなりつつあります。自分はもちろん、周りの先生も若くて自分に精一杯かもしれません。即戦力が期待され、早く一人前になることを要求され、「若手」でいられる期間がグッと短くなっています。また学校へ対する社会の視線も厳しくなっています。若いあなたは早く育つことが求められ、絶えず評価され続けます。
「早く早く」と追い立てられた教員は、子どもを「早く早く」と追い立てます。
成長を見守る余裕もなく。短期的な成果を上げようと絶えず評価し「早く早く」とせき立てる。人は扱われたように人を扱い、自分が見られているように人を見てしまいがちです。
●ゆっくりせんせいになっていく。
ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
冷静に考えてみれば、突然渡された「全権」を、いきなり使いこなせるはずがないのです。免許取り立てでF1レースにでるようなものです。ましてやこの状況。うまくいかないのが当たり前です。困っていて当然です。本来、私たちは日々の経験の中でゆっくりゆっくり「せんせい」になっていくのです。子どもたちとの日々のやりとりの中で、同僚たちの仕事を見ながら、教わりながら、ゆっくりゆっくり。あなたが「せんせいになっていく」ということは、子どもたちと一緒に成長していくプロセスに他なりません。
確かにあなたは、いわゆる「技術」はベテランの先生に劣るかも知れません。でも、子どもたちと年齢が近いという「若さ」と、何とかしたいというエネルギー。いい先生になりたいという学びの姿勢。それらは子どもたちに伝わります。子どもたちにとって年齢の近い学び手としてのモデルであるあなたは、もしかしたら手慣れのベテランの先生よりも子どもたちにいい影響があるかもしれません。
慌てず慌てずいきましょう。クラスをクラスと見るのではなく、一人ひとりに関心を寄せ、子どもたちと一緒に成長していきましょう。そしてその子たち一人ひとりもまた、あなた同様に自分のペースでゆっくり成長しているのだ、ということを忘れないようにしたいですね。
そんなあなたを、ベテランである私たちは今こそ「ゆっくりせんせいになっていくプロセス」を見守る余裕を持ちたいと思います。私たちの役目(同僚、管理職、保護者、行政の役目)は管理することではなくエンパワーし、支え、学ぶ機会をたくさんつくることことです。見守ってくれる、悩みや不安を聴いてくれる他者。学びに伴走してくれる人。「あのお、ちょっと相談があるんですけど・・」「困っているんです。助けてください」と声をあげてみてください。早めに早めに声をあげてみてください。
私たちもつい日々の忙しさに追われて、目の前ばかりを見て、横にいるあなたが困っていることに気づけていないかもしれません。
あなたのその声が学校を変えていくはずです。私たちベテランはその声を真剣に、丁寧に受け止められる存在でいたいと思います。
職員室で助けを求められる。援助希求が気楽にできる環境の中でこそ人は成長します。ああ自分はこの環境の中で、必要な学びを積み重ね、ケアしケアされながら成長しているなあ、と少しずつ「いいせんせい」にむかって歩いていると実感できる。この体感こそが大切です。そうすればその体感を自分の核に、子どもの成長に寄り添えるようになっていくのではないか。私はそう考えています。
あなたが成長していくのを見守り、共に成長していきたいと思います。あなたに訪れるたくさんの失敗と悩みに寄り添い、向き合い、共に乗り越えていきます。
成長していくことに貢献しあえる職員室。「困った-」が気楽に言える職員室。ベテランである私たち自身も、あなたに刺激を受け、これまでの経験の前提を疑い、あなたと共に変化し続けていく、そんな職員室をあなたと共に創っていきたいと思います。もちろんあなたの力を貸してください。実は職員室と教室は入れ子構造なのです。お互いから学び合う職員室があって初めて、教室もそうなっていくのです。そのような職員室の中で仕事をしていれば「この職場のような教室をつくりたい」と思えるはずです。
●岩瀬さん、職場をつくれないひとは、本当の意味でクラスもつくれないよ
ふと一つのエピソードを思い出しました。若い頃の思い出です。まあちょっとつきあってください。私は「自分のやっていることが正しい」と無邪気に信じ、同僚や管理職から何かを言われても、自分のやりたいように学級で実践し続ける教員でした。自分の学級さえよければそれでいい!恥ずかしながらそう思っていました。当然職場では浮いていたのです。「自分はこの職場の中でいちばん勉強している。外にも学びに行っている。にもかかわらず同僚たちは学びにも行かず、今までのことを繰り返しているだけではないか。教育委員会もおかしい。管理職もおかしい!」学校の現状に落胆し、批判的であることが私の中の正義だったのです。初めての異動先でも私の態度は変わらずでした。異動先で出会った先輩教員、染谷さんに4月早々、私はこう言われました。
「岩瀬さん、職場をつくれないひとは、本当の意味でクラスもつくれないよ」。
私はしばらく染谷さんの言葉の意味がわかりませんでした。その意味が少しずつわかってきたのは、職員室の中に、初めて私の居場所が生まれた頃です。彼は、本当に職員室を大切にする人でした。「担任同士は夫婦みたいなもの。いっぱい話して協力していい関係を作って一緒に子どもたちを育てていくんだ」。学年ハイツもチームでした。校内研究でも職員を巻き込み、保護者を巻き込み、「みんなで学校をつくる」を第一に、職員室を一つのチームへとファシリテートしていました。「岩瀬さん、この企画お願いしていい?職員みんなが活躍できるようにね。期待しているよ!」「若いからどんどん動いてくれて助かるよ」、いつの間にか私もチームの一員として巻き込まれ、それが嬉しくなり始めていたのです。跳ねっ返りだった私も「岩瀬さんやっていることおもしろいねー!教えてくれる?」と先輩の先生が聞いてくれるようになりました。職員室で実践の話が日常の中に当たり前にありました。「みんなの学校をみんなでつくる」が原則の学校。ずっとここで働いていたい、そんな職員室の中で「自分は大切にされている」と体感した私は、染谷さんの言葉、
「岩瀬さん、職場をつくれないひとは、本当の意味でクラスもつくれないよ」
の意味が、少しずつ少しずつ身に染みてきました。
何のために学校はあるのか。例えば「その学校に来ているすべての子に居場所があり、その居心地のよい場で、一人一人が成長していけるため」と仮定してみます。そこからスタートして考えると、学級単位で考えていては1年限りのことになってしまいます。子どもたちは6年間かけて成長していきます。中学、高校を入れると12年間。
その長いスパンの中で「学校」としてなにをしていくか。目指す教育を学校で丁寧に共有していく。職員が対話を重ね、学び合い、エンパワーし合う。学校全体で学びの文化を創っていく。そこがスタートなんだと彼は伝えたかったのだと今ならわかる気がするのです。
ついつい思い出話が長くなりました。
職員を信じることは、人の力を信じること。そして、それは子どもの力を信じることにつながります。先ほどもお話ししましたが、2つは入れ子構造です。職員の力を信じることができないならば、本当の意味で子どもの力も信じていないと言えます。だからこそ、あなたには、教室を大事にしつつ、職員室を大切にしてほしいなと思います。周りを頼って下さい。あなたの一つの行動から職員室は変わっていきます。
●ピンチはチャンス
今「先生」になった人、これから「せんせい」になっていく人にとっては厳しい現状が待っています。それは知っておいてください。
でも、若い皆さんが増えることはチャンスです。
極端なことをいえば、教員総取っ替え期ともいえます。若い先生たちが新たな学校モデルを創っていくチャンスだと考えることはできないでしょうか?その意味で私は、若い先生、これから先生になっていく方々に期待しています。ピンチはチャンスです。だからこそ、学校や教育を「視野の狭いメガネ」でみないでほしい。
学校の先生になった私たち、これからなろうとしている方々は、小学校から大学まで、1万時間を超える膨大な時間を学校に「弟子入り」して、学校とはこういうもの、教員とはこういうものという、体験を通した強烈な被教育者としての学びを積み重ねてきています。言い方を変えれば、学校に対する「思い込み」が強すぎる可能性があります。
知らず知らずのうちに無意識の信念や価値観になってしまっているかもしれません。頭では「新たな教育を!」と思っていても、気がつくと無意識の前提に戻ってしまう。でも今の学校の有り様はこれからの学校を考える時の前提にしてよいものなのでしょうか?
私の子どもは、小学校の一時期「学校に行きたくない期」がありました。
つまらない、と。私にとっては、自分の仕事のアイデンティティを揺るがされるような出来事でした。
その時考えました。「もしこの子がもう学校行かない!と決めて、仮に私が、「よし、この子のために学校を創ろう」と覚悟を決めたら、どんな学校をつくるだろうか」
朝マラソンってする?いやあ、しないなあ。朝の会って?あんな不自然なプログラムにはしないなあ。授業はどうするだろう?読書は大事にしたい。もっと本人の「やってみたいこと」からカリキュラムを考えるなあ。社会との繋がりはどうしよう。魅力的なオモシロイ大人に出会う機会は必要。一人一人今必要なことは違うから、もっと学習を個別化していく必要があるな。そもそも、ずっと「教室で学ぶ」は不自然だ。 等々。
相当真面目に考えました。その時の思いが、今の軽井沢風越学園づくりにつながっています。
たくさんの本を読む中で、見学に行く中で、世界の教育に目を向け、様々な「カタチ」があることを知りました。現状を「当たり前」と思ってはいけないと改めて思ったわけです。いろいろな人が集う公立校だからこそ、「どんな学校だと子どもも大人も幸せになれるんだろう?」を根本から考えたい。現状を否定するなんて簡単だけど無責任。今の学校の良さを引き継ぎつつ、より良くしていくには?そう考え、実践をさらに変えていくきっかけとなりました。
繰り返しになりますが、今の学校の現状を前提にせず、教員としてスタートする(したばかり)あなただからこそ、「私たちはどんな学校を目指すのか?それはなぜなのか?」からスタートしてほしい。それは「私たちはどんな社会を目指すのか?」に他なりません。
今までの学校のあり方が通用しなくなってきた今、無意識に私たちの多くは「元に戻ろう」としています。この大変な状況をチャンスに変えるか、変化へとつなげていくか。それは、あなたの手の中にも選択肢があります。
いつの時代も、社会を変革していくのは若者です。「近頃の若者は」なんてよく言いますが、そんなことは紀元前からいわれていること。常に若者は、新たな感性で社会を変えていくのです。確かに学校現場は大変。申し訳ないぐらいに多忙。朝令暮改で変わっていく仕組みや制度に右往左往。皆さんを迎える前に変えられずに申し訳ない。これはこれでなんとかしていきましょう。
一方、いつの時代も「現実的な制約」はあります。現状の中でもその制約をずらしながら、しなやかに実践できることがあります。
今、教育が大きく変わる転換期に差しかかっています。だからこそ、より大きく教育を捉えるために、「そもそも学校って?」「そもそも教育って?」と根っこから考える時間をたくさん持ってほしい。世界の教育や日本のこれまでの教育ではどんなことが蓄積されてきているのか?
そこから未来の教育を考えるのにヒントはないだろうか?学校外の社会では、どのように「学び」を捉えているのだろうか?未来はどうなっていくと予測されているのだろうか?
そこで必要にされることってなんだろうか?幅広い視野を持ち続け、学び続けてほしい。あなたの手元にこの国の教育の未来の種があります。
●最後に。変化の種は手元にある。
教育の現状はお世辞にもよいとは言えません。制度やシステム上の欠陥もたくさんあります。そこへのアプローチは続ける必要があります。
しかし、まず確実に言えることは、制度やシステムの改革を待っていてもしかたがない、ということです。結局はあなたを含めた私たちこそが変えていくのです。私たちはシステムを直接変えることはできないけれど、現状のシステムの中でしたたかに変化を生み出していく力があります。私たちこそが変化の担い手なのです。
SOSは早めに。同僚も必死で日々に向き合っています。あなたが困っていることに気づいていないだけです。どんどん相談しましょう。相談できそうな誰かはきっと職場の中にいるはずです。私たちもアンテナ高くそこにいるようにします。そこにいなかったら学校の外に目を向けましょう。受け止めてくれる誰かは必ずいます。
さて2学期です。
子どもたちは、楽しい時間を待っています。
時計の進みを少しゆっくり目にして、子どもたちとゆっくりとした時間、楽しい時間を過ごすところからスタートしたいですね。
それにしても。
まずはこのクソ暑い日々よ、去ってくれ!
参考文献
F.コルトハーヘン(2010)『教師教育学』(学文社)
脇本健弘・町支大祐(2015)『教師の学びを科学する』(北大路書房)