いわせんの仕事部屋

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小1プロブレムとは何か?

今日から2学期がスタートした学校もあるようです。ぼくが以前勤めていた某市は、夏休みが10日間しかないらしい・・・・

例年であれば、4月に小1プロブレム、中1ギャップがクローズアップされますが、今年は分散登校、6月以降に通常登校と異例の事態。登校しても周りとのコミュニケーションが十分に取れなかったり、前倒しで授業が進んだり、たっぷり遊べなかったり、コロナ対策で全員前を向いて無言の給食だったりなど、特に初めて学校に来た小学校1年生にとってはこれがデフォルトになるわけで「学校ってこういうところなの??」と悲惨な体験を積み重ねている可能性があります。先生たちも苦心を重ねているところでしょう。初任の先生はこの状況でかなり苦しい思いをしているというのをよく耳にするようになり、教員養成に関わっていた身としては、そのリアリティに胸が苦しくなります。

 

そういう意味では小1プロブレム、中1ギャップは、今は顕在化していないけれど、2学期以降じわじわとその副作用のようなものが出てくるはずです。僕らはそこにどんな備えをしておけばよいのでしょうか。

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(軽井沢風越学園の低学年はたっぷり遊ぶところからスタートしました)

 

さて一般に小1プロブレムとは、小学校1年生などの教室において、学習に集中できない、教諭の話が聞けずに授業が成立しない児童が増えている、等の課題を指します。一般に、幼児期から児童期にかけての教育において、自制心や耐性、規範意識が十分に育っていない等、家庭教育や幼児教育の問題にしてしまう議論をよく見かけますが、本当にそうでしょうか。

 

ぼくは「学校種が変わるときに起こる文化的な違いへの子どものとまどい」と捉えています。子ども側から眺めると、幼稚園、保育園で3月まで遊びを中心に、自身の「〜したい」を大切にした生活を送っていたにもかかわらず、ある日突然、自分が暮らす世界のルールが変わってしまうのです。とまどって当然です。これは子どもの育ちの問題ではなく大人の側の問題、制度の問題です。

 

小1プロブレムに内実は、小学校が自分たちの文化に疑いを持たず、教員の「教えやすさ」を優先させて、「学校のお作法」を教えることの優先順位を上げてしまっているからではないでしょうか?

 

我が家の3人の子のうちの1人は、遊ぶこと、自己決定すること、自分たちで自分たちの暮らしをつくることを大切にするこども園を卒園しました。小学校に入学した際、

「学校ってずっと座ってるんだよ」

「手は膝の上に置かなくちゃいけないんだって」

「どんなに晴れていても、教室の中にいるんだよ」

「遊ぶ時間は20分しかないんだよ」と不思議そうに報告してくれました。

ある日を境に文化が180度変わる。ギャップを感じる方が自然です。

今年度1年生になった子は、さらに悲劇的な経験をしている可能性が高い。ここは注意すべきポイントです。

 

にもかかわらず学校文化への移行、今年に関して言えばコロナ対策と遅れを取り戻すための様々な方策(行事削減、土曜授業実施、7時間授業、教科書の内容を授業と家庭学習に分けて家に持ち帰らせる、協同あそびの禁止など)を盲目的に目指してしまうと、それに従わないこと、「いかに45分間座らせるか」「マスクを外させないためにどうするか」ということが「課題」として立ちあがってしまいます。例えば指名されるまでしゃべらないという「スキルをいかに身につけるか」に一生懸命になってしまうのです。

 

言い換えると、小1プロブレムを考えるとき、小学校教員側が「いかに学校文化にスムーズに移行させるか」という問いを立てていることに問題の核心があります。「グーピタピン」とか、「筆箱の置く位置は」とか、「1の声、2の声」とかいう話になってしまうわけです。

 

では私たちはこの問題に対してどのような問いを立てたらよいのでしょうか?

「良質の幼児教育を継続する形で小学校教育をリデザインしたら?」という問いを立てたい。どうすればギャップのない一貫した育ちの環境をつくれるか。この問題は、実は新学習指導要領でもしっかり書かれています。

 

「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿を踏まえた指導を工夫することにより、幼稚園教育要領に基づく幼児期の教育を通して育まれた資質・能力を踏まえて教育活動を実施し、児童が主体的に自己を発揮しながら学びに向かうことが可能になるようにすること。(中略)特に、小学校入学当初においては、各教科等における学習に円滑に接続されるよう、生活科を中心に、合科的・関連的な指導や、弾力的な時間割の設定など、指導の工夫や指導計画の作成を行うこと。」(小学校学習指導要領 第1章総則より)

 

 

幼児期で身につけたこと・育まれたことを大切にしながら、その力が生かされる学校教育を構想するのが重要と言えます。

では具体的にはどうするか?ピンポイントには低学年教育をいかに変えていくかになるでしょう。幼児期に大切に育まれてきた「〜したい」からあそびに没頭する経験の積み重ねは、ひとり一人の「学びに向かう力」につながっていくでしょう。そのためには生活科を中心としたプロジェクトとしての活動の充実が鍵だと考えています。子どもの「〜したい」からはじまるあそびをつなぎ、プロジェクトとして発展させていく。その中で結果として教科の学びも起きるでしょう。そこで起きる結果としての教科の学びは現状よりもレベルが上がるのではないかとさえ予想します。幼児教育から学べることは多いです。

 

でもこれは思った以上に難しい。

軽井沢風越学園は幼小中の混在校です。前期を「年少〜小2」後期を「小3〜中1」でスタートしました。幼児期と低学年教育をつなげていこう、幼児期の学びを義務教育学校でも生かしていこう、という試みです。

しかしコロナ禍の影響もあり、まざって遊んだり学んだりすることは日常的にみられるものの、気づくと幼稚園と義務教育学校の間に壁がある状態。さらには小1、2と後期の間にも壁ができ始めている状態。じわじわと分かれていくのですよね。この辺りの分析はもう少し丁寧にしたいと思っていますが、子供の意識というより、結局大人の意識が壁を作っていくのだなと実感しています。この課題意識はスタッフ間でも共有されていて、夏休みも課題の大きな柱の一つになって検討されていました。どうやって年少〜中3までの学び、育ちを緩やかにつないでいくか、試行錯誤は続きますが「簡単でははい」ということはよくよくわかりました。

でも、きっと超えていきますよ。スタッフそれぞれが課題だと認識している時点で、解消に向かっているのです。たのもしや。

 

さて、最後に一つエピソードを。ぼくが初めて1年生を担任した際、やはり「なにもできないんじゃないか」と不安になり、友人の幼稚園の先生に相談しました。「年長さんは園で『番を張っていた』んだから、何でも自分たちでできるの。朝の会の司会も自分たちでやるし、給食の配膳だって、ケンカの仲裁だって、下の子の世話だってやってきてるの。なんでも任せてみてよ。失敗したっていいじゃない。そこから学ぶ力だってあるんだよ」。

実際1年生はまことに頼もしい存在でした。給食を運ぶとき、Mくんが倒してしまって廊下がカレーだらけに…廊下中に広がったカレーから湯気が上がっているのを見てつい「なんで倒したの!」と叱ってしまいました。するとKちゃんが、「先生、そんなことより片付けることが先でしょ」とぼくを諭しました。本当にその通り。みんなでカレーを拭く作業は、不謹慎だけれど、なんだかお祭りのようで楽しかった。その間に給食当番の子は食缶を持って他のクラスに、「カレーこぼしちゃったんで少し分けてくださーい」と集めて歩いていました。

 

子どもをどんな存在として見るかで、アプローチは変わっていきます。

いまだ学校が始まるまえ、「学校楽しみ!」と思っていた1年生はたくさんいたはず。この状況だからこそ、0から教育を問い直すチャンスです。2学期のスタートは、楽しいこと、没頭できることからスタートしたい。今の状況でリスクを鑑みつつ、たっぷり遊んでみてはどうかと思うのです。

大人の都合からスタートするのではなく、一人一人の子どもが日々何を経験しているのか、どんなことを感じているのか、に想像をふくらませ、何を経験して欲しいのか、どんなことを感じてほしいのか、からスタートしたい、切にそう思います。