いわせんの仕事部屋

Mailは「naoki.iwase★gmail.com」です。(★を@に変えてください。スパム対策です)

汎用的能力とは?(メモ)

この本がおもしろい。

 特に5章が刺激的。

教科は手段と喝破する。でもこの章だけ読んでいてもよくわからない。

いいタイミングで、こんな論文の紹介がツイッターで流れてきた。

京大、松下佳代さんの「汎用的能力を再考する -- 汎用性の4つのタイプとミネルヴァ・モデル」だ。

repository.kulib.kyoto-u.ac.jp

 

今は非認知能力等を中心に、汎用的能力があるということを前提に語られているが、それって本当なのだろうか?文脈に依存しない、いつでもどこでも発揮される汎用能力ってあるのか?数学が得意な人は、どんな場面でも論理的思考を発揮するのだろうか?

 

松下は、汎用能力を以下の4つに分類した。

①分野固有性に依らない汎用性:
 分野を越えた幅広い応用可能性としての汎用性
②分野固有性を捨象した汎用性:
分野固有性があるはずのものを捨象して得られる見かけの汎用性
③分野固有性に根ざした汎用性:
特定の分野で獲得・育成された知識・能力が分野を越えて適用・拡張されることで得られる汎用性
④メタ分野的な汎用性:
各分野に固有の知識・能力の特徴をふまえつつ、それを俯瞰・融合することで得られる汎用性

 汎用的能力の教育(①)の先端事例としてミネルヴァ大学のカリキュラムの特徴が明らかにされていて、この種の議論をすっきりまとめてくれている。

PBLや評価、非認知能力に関心がある人、実践している人は必読です。

このようなミネルヴァの取組は、これまで日本でぼんやりと「汎用的能力」(あるいは「汎用的技能」「ジェネリックスキル」)と称されてきたものについて、細かい粒度で具体化し、その習得・活用に必要な条件とプロセスをくっきりと描き出した点で、意義がある。また、カリキュラムマップとは異なる方法で、プログラムの学習成果を各科目の学習成果と結びつけ、評価する方法を示した点も参考になる。さらに本稿では検討できなかったが、オンライン授業の方法も学習者によっては有効だろう。

 

この論文を読んでから、先の本の5章に戻ると、理解度が全然変わってくる。

メモとして。

振り返りジャーナルを始めよう

学校現場で口頭での対話やコミュニケーションが難しい状況だからこそ、振り返りジャーナルのようなコミュニケーションのチャンネルが大切です。
2学期ぜひ。あるとないのとでは全然ちがいますよ。

 

はじめに

ある年の5年生。グループ間で競争するアクティビティを行った後に書いた、振り返りジャーナルを紹介します。テーマは「リーダーって何だろう?」です。


リーダーシップってしきるんじゃなく、話すことでもなく、ちゃんとみんなの意見を公平に聞いてまとめる役、だと思います。今日一番高く積んだチームは、いつも意見をよく聞いている人たち(あんまり話をしない人たち)がけっこういたから、あのチームはちゃんとみんなの意見を聞いていて、みんな公平だったんだと思う。自分にはどんなリーダーシップがあるだろう。 いつも○○ちゃんたちはこんな気持ちだったんだ…ってことがわかった。


 リーダーシップって「引っぱること」って思いがち。でも自身の体験を振り返る中で「きくことのリーダーシップ」に気づき始めているのがわかります。
振り返りジャーナル(以下「ジャーナル」)は、その名の通り、毎日の振り返りを習慣化するノートです。
そのままでは忘れてしまう毎日の出来事を1日の最後に丁寧に振り返り、自分の成長を記録します。 行事に限らず、授業でできるようになったことや友だちとのトラブルで感じたこと、日々の学校生活すべてが子ども達の成長の種です。しかし体験したことはあっという間に忘れてしまいます。これらをジャーナルに記録すると、後から読み返したときに自分や他者、コミュニティの成長を自分自身でたどることができるのです。先のジャーナルも振り返って言語化したからこそ、その人の「学び」として残っているのですよね。

●なぜ書き残すの?
 ジャーナルを書く間、子どもたちはシーンとした集中した空気を作ります。カリカリカリ…鉛筆の音だけが静かに響く教室で、子どもたちは自分との対話を深めながら振り返りを進めます。
 その日の思考や心の動きを書き出すプロセスを通じて、子どもたちは自分の体験を一旦、整理して、自分の中から外に出します。書くことで「文章化された自分の体験」を、まるで読者のような気分で、客観的に眺めることが可能になるのです。
 ペラペラとジャーナルをめくって「1週間前の自分」と比べてみると「あのときはこう考えていたけれど、今は違うな」といった具合に、自分の思考や行動の変容、そこにある成長を知ることができます。メタに眺めるからこそ、次に生かせることが整理され、振り返りのサイクルが生まれるのです。1年が終わって改めてジャーナルを読むと、自分や友達、クラスの成長がはっきりとわかります。自分で成長を確かめる時間はなんとも幸せな時間です。

新学習指導要領でも「自らの学習活動を振り返って次の学びにつなげるという深い学習のプロセス」 が重視されていますが、そこでも振り返りジャーナルで育まれる力が役立つはずです。

 

●「振り返りジャーナル」を始めよう!
具体的な導入方法を紹介します。誌面の都合で概略の紹介ですので、詳しくは拙著、『「振り返りジャーナル」で子どもとつながるクラス運営』(ナツメ社)をご覧ください。始めるのに必要なのは、クラスの人数分のノートだけです。B5判の大学ノートを横半分に切って使います。

f:id:iwasen:20170614124523j:plain

 

低学年も同じノートでスタートし、最初は、罫線2行分で1文字分を目安にします。慣れてくると小学1〜2年生も横罫1行にびっしりと書きます。毎日以下の手順で進めます。
①基本は帰りの会に取り組みます。
②黒板に今日のテーマを書きます。
③子ども達は振り返りジャーナルを書きます。
④書き終わったら、前に座っている先生に提出します。
⑤先生はサその場でサッと読んで、簡単なフィードバックをします。

以下、実践で大切にしたいことを整理していきます。

・毎日、帰りの会で5〜10分!
 振り返りジャーナルを書く時間は5〜10分が基本です。B5ノート半ページの分量は、1日分を5分で振り返って書くのにちょうどいいサイズサイズです。最初の2週間は、書くことに慣れるためにも余裕を見て10−15分とりましょう。1日に1ページ書ききるのを目標にします。

・毎日、書くことを徹底しよう 
 何よりも、まず大切にしたいのは「毎日書く」ことです。
 振り返りジャーナルの目的は、「振り返り」の習慣化です。そのためには当たり前すが「続ける」のが一番です。優先順位をあげて時間確保に努めます。続けているうちに、子どもたちが振り返り慣れてきます。とにかく続けましょう。

・ 最初はポジティブなテーマで
 残念な「反省日記」にしないことが大切。最初はポジティブなテーマからスタートしましょう。振り返ることが楽しい!という体験を積み重ねます。ポジティブなコミュニケーションが一定量貯まると、うまくいかなかったこと、辛かったこと等の深い振り返りもできるようになります。「今日の○○大成功!その時どんな気持ちだった?」「私の好きなこと、実は○○なんです」「こんなクラスにしたい!」「今日の算数で私ががんばったことを紹介します」「この土日どんなことが楽しかった?」等々。他のテーマ例は拙著を参照してくださいね。
 
・フィードバックは40人で20分!
忙しい業務の中で、フィードバックを書く時間の確保は難しいものです。ぼくらは他にも教材研究や会議、事務仕事など山のように仕事を抱えています。 無理なく、毎日、続けるために、フィードバックにかける時間は40人を20分と決めてチャレンジしましょう。

・共感のコメントを2カ所程度。
 ジャーナルにフィードバックを書くときは、子どもたちの書いた文章に赤ペンでアンダーラインを引き、コメントがある場合はその横などに一言書き込みます。コメントの内容は、先生の意見ではなく、相づちのようなもの。先生が「うんうん、なるほどなるほど!」と、子どもの話を聞いている姿を想像すると、イメージしやすいでしょう。先生が子どもの毎日を励まし、応援していると子どもが感じるコメントにしましょう。よく使う言葉は、「うんうん」「ナルホド」「OK!OK!」「ありがとう」「スゴイ!」「感動!」「大丈夫」「そっかあ」「一緒に考えてこう」「了解」「へえ〜」「あらら」「そっかあ」「は〜い!」「応援!」などです。

 

・長く書きたくなる時は直接の対話で。
 とはいえ、内容によっては返事を長く書きたくなることもあります。そんな時は、次の日の直接の対話の機会につなげます。「昨日〜って書いてあったから気になってさー」「昨日のジャーナル読んだよ。いやあすごい気づきだなと思って〜」。振り返りジャーナルの中ですべてを解決しようとしないようにします。日々の子どもとの関係性を深めていくことに生かしていきます。


●先生を成長させてくれる
学校教員時代、一番の楽しみは、放課後にコーヒーを飲みながらジャーナルを読んでコメントを書く時間でした。一人ひとりの成長に思いを馳せ、自分自身の実践も振り返る時間。この時間が、先生としてのぼくを成長させてくれました。拙稿を読み、やってみよう!と思ってくださった方々にとって、振り返りジャーナルが子どもの成長、そしてぼくら教員の成長に寄り添ってくれるものになったら嬉しい限りです。

 

振り返りジャーナルについては以下の記事も参考にして下さい。

 

iwasen.hatenablog.com

iwasen.hatenablog.com

iwasen.hatenablog.com

 

今年、先生になったあなたへ。あなたを迎える私へ。

2学期が始まります。

新型コロナウィルスの影響で、この春に「せんせい」という仕事に就き、教育という世界に夢を持ってチャレンジしはじめたみなさんは、ものすごく大変な4ヶ月だったのではないでしょうか。休校からのスタート。登校開始後も、コロナ対策に縛られ、子どもたちと関係を作ることもままならない。管理職や先輩も余裕がないように見えるし、子どもたち自身もしんどそう。

 

パソコンを整理していたら、5年ほど前に書いた文章がでてきました。ちょこっとリライトして再掲。今年度「せんせい」になったあなたへのエールと、その「せんせい」を学校で迎える私への戒めとして。

f:id:iwasen:20200815110431j:plain

 

●「せんせいという仕事」スタート! そしてリアリティショック・・・・
団塊世代の大量定年退職によって、都市部を中心に若い先生がすごい勢いで増えています。学校を支えるミドル層(30,40代)が極端に少なく、大量の20代と50代といういびつな年齢構成になっている学校も少なくありません。
今は都市部ですが、これから地方にも同じ波がやってくるでしょう。東京、大阪、横浜等の大都市では既に担任の半分が20代なんていうことも珍しくありません。自分と同じぐらいの年齢の先生がたくさんいる中、あなたは「せんせい」という仕事をスタートしました。

 

あなたは、ついに全権を渡されて、突然担任になりました。
教育実習や大学の勉強、この日に向けてたくさん準備してきましたよね。
今、期待と不安でいっぱいなことでしょう。
最初から冷や水を浴びせるようですが、いくら事前に勉強していたとはいえ、学校現場で起きるリアリティの中で右往左往します。
私の子育ての経験から言っても、たった3人の子育てですら思うようになりません。すぐケンカが起きるし、言うことを聞かない。言わないとやらない。3人公平に、と思ってもなかなか難しい。
それよりも多様な環境で育った子たちが、本人たちの望むと望まざるとに関わらずに30人近く一つの部屋に集められるのです。いろいろなことが起きるに決まっています。同時多発的に起きるトラブル。だって30人ですよ。3人兄弟の10倍です。授業も準備も追いつきません。30人公平に関わろうと思ってもうまくいかない。ましてやこの状況です。うまくいくはずもありません。

 

隣の先生はすごくうまくいっているように見える(ベテラン勢はこういう状況でうまく力を抜いたり、「通達」を打っちゃったりするのが上手な人もいるので)。どうすればよいかわからないのに、ひとりで何とかしなくてはならないと思い込んでしまう。困っているけれど、困りごとが多すぎてもはや何に困っているかわからない。圧倒的な現実の渦にショックを受けます。これを「リアリティショック」といいます。現実のリアリティの前に、これまで学んできたことが「洗い流されて」しまうのです。
こんなはずではなかった。ステキなクラスができると思っていたのに。子どもに会えないところ、マスクで表情がわからないところからスタートなんて。一緒に遊ぶこともままならないなんて。

 

あなたは自分のふがいなさを責めはじめるかもしれません。保護者の目も、同僚の目も、管理職の目も気になります。心ない先輩や管理職から「もっとビシッとシメないから、なめられるんだよ!」とプレッシャーをかけられ、ますます焦り、何とかしようと子どもたちを叱ります。そうするとますますうまくいかなくなる。負のループです。
寝る間も惜しんで仕事をする。でも一向によくなる感じがしない。日々に疲れ、休みの日も学校に行って準備。保護者から連絡が来る夢をみる・・・

 

他の仕事と比べて教員という仕事のしんどさは、人間関係と感情の渦の中で日々仕事をするところです。正のループが回っているときはいいのですが、うまくいかなさが続いてくると自分に向く刃物のような感情に日々傷つき続けます。保護者からのクレームの連絡帳ひとつで、何日も思い悩む。子どもたちからの冷たい視線を感じたとき、それが1日中何日も続く。その後ろにいる保護者も同じ目をしているのではないか。見えない影におびえながら、負の感情と視線の渦の中に居続けなければならないつらさ。

 

かつては若い先生もゆっくり成長することがある程度許されていました。
しかし冒頭でも書きましたが、年齢構成のいびつさから、学校は都市部を中心に若い先生ばかりになっています。学校現場自体にゆっくり成長を待つ余裕がなくなりつつあります。自分はもちろん、周りの先生も若くて自分に精一杯かもしれません。即戦力が期待され、早く一人前になることを要求され、「若手」でいられる期間がグッと短くなっています。また学校へ対する社会の視線も厳しくなっています。若いあなたは早く育つことが求められ、絶えず評価され続けます。

「早く早く」と追い立てられた教員は、子どもを「早く早く」と追い立てます。
成長を見守る余裕もなく。短期的な成果を上げようと絶えず評価し「早く早く」とせき立てる。人は扱われたように人を扱い、自分が見られているように人を見てしまいがちです。

 

●ゆっくりせんせいになっていく。
ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
冷静に考えてみれば、突然渡された「全権」を、いきなり使いこなせるはずがないのです。免許取り立てでF1レースにでるようなものです。ましてやこの状況。うまくいかないのが当たり前です。困っていて当然です。本来、私たちは日々の経験の中でゆっくりゆっくり「せんせい」になっていくのです。子どもたちとの日々のやりとりの中で、同僚たちの仕事を見ながら、教わりながら、ゆっくりゆっくり。あなたが「せんせいになっていく」ということは、子どもたちと一緒に成長していくプロセスに他なりません。

確かにあなたは、いわゆる「技術」はベテランの先生に劣るかも知れません。でも、子どもたちと年齢が近いという「若さ」と、何とかしたいというエネルギー。いい先生になりたいという学びの姿勢。それらは子どもたちに伝わります。子どもたちにとって年齢の近い学び手としてのモデルであるあなたは、もしかしたら手慣れのベテランの先生よりも子どもたちにいい影響があるかもしれません。
慌てず慌てずいきましょう。クラスをクラスと見るのではなく、一人ひとりに関心を寄せ、子どもたちと一緒に成長していきましょう。そしてその子たち一人ひとりもまた、あなた同様に自分のペースでゆっくり成長しているのだ、ということを忘れないようにしたいですね。

そんなあなたを、ベテランである私たちは今こそ「ゆっくりせんせいになっていくプロセス」を見守る余裕を持ちたいと思います。私たちの役目(同僚、管理職、保護者、行政の役目)は管理することではなくエンパワーし、支え、学ぶ機会をたくさんつくることことです。見守ってくれる、悩みや不安を聴いてくれる他者。学びに伴走してくれる人。「あのお、ちょっと相談があるんですけど・・」「困っているんです。助けてください」と声をあげてみてください。早めに早めに声をあげてみてください。

私たちもつい日々の忙しさに追われて、目の前ばかりを見て、横にいるあなたが困っていることに気づけていないかもしれません。

あなたのその声が学校を変えていくはずです。私たちベテランはその声を真剣に、丁寧に受け止められる存在でいたいと思います。

職員室で助けを求められる。援助希求が気楽にできる環境の中でこそ人は成長します。ああ自分はこの環境の中で、必要な学びを積み重ね、ケアしケアされながら成長しているなあ、と少しずつ「いいせんせい」にむかって歩いていると実感できる。この体感こそが大切です。そうすればその体感を自分の核に、子どもの成長に寄り添えるようになっていくのではないか。私はそう考えています。

あなたが成長していくのを見守り、共に成長していきたいと思います。あなたに訪れるたくさんの失敗と悩みに寄り添い、向き合い、共に乗り越えていきます。
成長していくことに貢献しあえる職員室。「困った-」が気楽に言える職員室。ベテランである私たち自身も、あなたに刺激を受け、これまでの経験の前提を疑い、あなたと共に変化し続けていく、そんな職員室をあなたと共に創っていきたいと思います。もちろんあなたの力を貸してください。実は職員室と教室は入れ子構造なのです。お互いから学び合う職員室があって初めて、教室もそうなっていくのです。そのような職員室の中で仕事をしていれば「この職場のような教室をつくりたい」と思えるはずです。

 

●岩瀬さん、職場をつくれないひとは、本当の意味でクラスもつくれないよ
ふと一つのエピソードを思い出しました。若い頃の思い出です。まあちょっとつきあってください。私は「自分のやっていることが正しい」と無邪気に信じ、同僚や管理職から何かを言われても、自分のやりたいように学級で実践し続ける教員でした。自分の学級さえよければそれでいい!恥ずかしながらそう思っていました。当然職場では浮いていたのです。「自分はこの職場の中でいちばん勉強している。外にも学びに行っている。にもかかわらず同僚たちは学びにも行かず、今までのことを繰り返しているだけではないか。教育委員会もおかしい。管理職もおかしい!」学校の現状に落胆し、批判的であることが私の中の正義だったのです。初めての異動先でも私の態度は変わらずでした。異動先で出会った先輩教員、染谷さんに4月早々、私はこう言われました。
「岩瀬さん、職場をつくれないひとは、本当の意味でクラスもつくれないよ」。

私はしばらく染谷さんの言葉の意味がわかりませんでした。その意味が少しずつわかってきたのは、職員室の中に、初めて私の居場所が生まれた頃です。彼は、本当に職員室を大切にする人でした。「担任同士は夫婦みたいなもの。いっぱい話して協力していい関係を作って一緒に子どもたちを育てていくんだ」。学年ハイツもチームでした。校内研究でも職員を巻き込み、保護者を巻き込み、「みんなで学校をつくる」を第一に、職員室を一つのチームへとファシリテートしていました。「岩瀬さん、この企画お願いしていい?職員みんなが活躍できるようにね。期待しているよ!」「若いからどんどん動いてくれて助かるよ」、いつの間にか私もチームの一員として巻き込まれ、それが嬉しくなり始めていたのです。跳ねっ返りだった私も「岩瀬さんやっていることおもしろいねー!教えてくれる?」と先輩の先生が聞いてくれるようになりました。職員室で実践の話が日常の中に当たり前にありました。「みんなの学校をみんなでつくる」が原則の学校。ずっとここで働いていたい、そんな職員室の中で「自分は大切にされている」と体感した私は、染谷さんの言葉、
「岩瀬さん、職場をつくれないひとは、本当の意味でクラスもつくれないよ」
の意味が、少しずつ少しずつ身に染みてきました。
何のために学校はあるのか。例えば「その学校に来ているすべての子に居場所があり、その居心地のよい場で、一人一人が成長していけるため」と仮定してみます。そこからスタートして考えると、学級単位で考えていては1年限りのことになってしまいます。子どもたちは6年間かけて成長していきます。中学、高校を入れると12年間。
その長いスパンの中で「学校」としてなにをしていくか。目指す教育を学校で丁寧に共有していく。職員が対話を重ね、学び合い、エンパワーし合う。学校全体で学びの文化を創っていく。そこがスタートなんだと彼は伝えたかったのだと今ならわかる気がするのです。
ついつい思い出話が長くなりました。
職員を信じることは、人の力を信じること。そして、それは子どもの力を信じることにつながります。先ほどもお話ししましたが、2つは入れ子構造です。職員の力を信じることができないならば、本当の意味で子どもの力も信じていないと言えます。だからこそ、あなたには、教室を大事にしつつ、職員室を大切にしてほしいなと思います。周りを頼って下さい。あなたの一つの行動から職員室は変わっていきます。

iwasen.hatenablog.com


●ピンチはチャンス
今「先生」になった人、これから「せんせい」になっていく人にとっては厳しい現状が待っています。それは知っておいてください。

でも、若い皆さんが増えることはチャンスです。
極端なことをいえば、教員総取っ替え期ともいえます。若い先生たちが新たな学校モデルを創っていくチャンスだと考えることはできないでしょうか?その意味で私は、若い先生、これから先生になっていく方々に期待しています。ピンチはチャンスです。だからこそ、学校や教育を「視野の狭いメガネ」でみないでほしい。
学校の先生になった私たち、これからなろうとしている方々は、小学校から大学まで、1万時間を超える膨大な時間を学校に「弟子入り」して、学校とはこういうもの、教員とはこういうものという、体験を通した強烈な被教育者としての学びを積み重ねてきています。言い方を変えれば、学校に対する「思い込み」が強すぎる可能性があります。
知らず知らずのうちに無意識の信念や価値観になってしまっているかもしれません。頭では「新たな教育を!」と思っていても、気がつくと無意識の前提に戻ってしまう。でも今の学校の有り様はこれからの学校を考える時の前提にしてよいものなのでしょうか?

私の子どもは、小学校の一時期「学校に行きたくない期」がありました。
つまらない、と。私にとっては、自分の仕事のアイデンティティを揺るがされるような出来事でした。
その時考えました。「もしこの子がもう学校行かない!と決めて、仮に私が、「よし、この子のために学校を創ろう」と覚悟を決めたら、どんな学校をつくるだろうか」
朝マラソンってする?いやあ、しないなあ。朝の会って?あんな不自然なプログラムにはしないなあ。授業はどうするだろう?読書は大事にしたい。もっと本人の「やってみたいこと」からカリキュラムを考えるなあ。社会との繋がりはどうしよう。魅力的なオモシロイ大人に出会う機会は必要。一人一人今必要なことは違うから、もっと学習を個別化していく必要があるな。そもそも、ずっと「教室で学ぶ」は不自然だ。 等々。

相当真面目に考えました。その時の思いが、今の軽井沢風越学園づくりにつながっています。


たくさんの本を読む中で、見学に行く中で、世界の教育に目を向け、様々な「カタチ」があることを知りました。現状を「当たり前」と思ってはいけないと改めて思ったわけです。いろいろな人が集う公立校だからこそ、「どんな学校だと子どもも大人も幸せになれるんだろう?」を根本から考えたい。現状を否定するなんて簡単だけど無責任。今の学校の良さを引き継ぎつつ、より良くしていくには?そう考え、実践をさらに変えていくきっかけとなりました。

繰り返しになりますが、今の学校の現状を前提にせず、教員としてスタートする(したばかり)あなただからこそ、「私たちはどんな学校を目指すのか?それはなぜなのか?」からスタートしてほしい。それは「私たちはどんな社会を目指すのか?」に他なりません。

今までの学校のあり方が通用しなくなってきた今、無意識に私たちの多くは「元に戻ろう」としています。この大変な状況をチャンスに変えるか、変化へとつなげていくか。それは、あなたの手の中にも選択肢があります。


いつの時代も、社会を変革していくのは若者です。「近頃の若者は」なんてよく言いますが、そんなことは紀元前からいわれていること。常に若者は、新たな感性で社会を変えていくのです。確かに学校現場は大変。申し訳ないぐらいに多忙。朝令暮改で変わっていく仕組みや制度に右往左往。皆さんを迎える前に変えられずに申し訳ない。これはこれでなんとかしていきましょう。


一方、いつの時代も「現実的な制約」はあります。現状の中でもその制約をずらしながら、しなやかに実践できることがあります。
今、教育が大きく変わる転換期に差しかかっています。だからこそ、より大きく教育を捉えるために、「そもそも学校って?」「そもそも教育って?」と根っこから考える時間をたくさん持ってほしい。世界の教育や日本のこれまでの教育ではどんなことが蓄積されてきているのか?
そこから未来の教育を考えるのにヒントはないだろうか?学校外の社会では、どのように「学び」を捉えているのだろうか?未来はどうなっていくと予測されているのだろうか?
そこで必要にされることってなんだろうか?幅広い視野を持ち続け、学び続けてほしい。あなたの手元にこの国の教育の未来の種があります。


●最後に。変化の種は手元にある

教育の現状はお世辞にもよいとは言えません。制度やシステム上の欠陥もたくさんあります。そこへのアプローチは続ける必要があります。

しかし、まず確実に言えることは、制度やシステムの改革を待っていてもしかたがない、ということです。結局はあなたを含めた私たちこそが変えていくのです。私たちはシステムを直接変えることはできないけれど、現状のシステムの中でしたたかに変化を生み出していく力があります。私たちこそが変化の担い手なのです。

 

 

SOSは早めに。同僚も必死で日々に向き合っています。あなたが困っていることに気づいていないだけです。どんどん相談しましょう。相談できそうな誰かはきっと職場の中にいるはずです。私たちもアンテナ高くそこにいるようにします。そこにいなかったら学校の外に目を向けましょう。受け止めてくれる誰かは必ずいます。

 

さて2学期です。

子どもたちは、楽しい時間を待っています。

時計の進みを少しゆっくり目にして、子どもたちとゆっくりとした時間、楽しい時間を過ごすところからスタートしたいですね。

 

それにしても。

まずはこのクソ暑い日々よ、去ってくれ!

 

 

参考文献
F.コルトハーヘン(2010)『教師教育学』(学文社)
脇本健弘・町支大祐(2015)『教師の学びを科学する』(北大路書房)

 

 

小1プロブレムとは何か?

今日から2学期がスタートした学校もあるようです。ぼくが以前勤めていた某市は、夏休みが10日間しかないらしい・・・・

例年であれば、4月に小1プロブレム、中1ギャップがクローズアップされますが、今年は分散登校、6月以降に通常登校と異例の事態。登校しても周りとのコミュニケーションが十分に取れなかったり、前倒しで授業が進んだり、たっぷり遊べなかったり、コロナ対策で全員前を向いて無言の給食だったりなど、特に初めて学校に来た小学校1年生にとってはこれがデフォルトになるわけで「学校ってこういうところなの??」と悲惨な体験を積み重ねている可能性があります。先生たちも苦心を重ねているところでしょう。初任の先生はこの状況でかなり苦しい思いをしているというのをよく耳にするようになり、教員養成に関わっていた身としては、そのリアリティに胸が苦しくなります。

 

そういう意味では小1プロブレム、中1ギャップは、今は顕在化していないけれど、2学期以降じわじわとその副作用のようなものが出てくるはずです。僕らはそこにどんな備えをしておけばよいのでしょうか。

f:id:iwasen:20200601094041j:plain

(軽井沢風越学園の低学年はたっぷり遊ぶところからスタートしました)

 

さて一般に小1プロブレムとは、小学校1年生などの教室において、学習に集中できない、教諭の話が聞けずに授業が成立しない児童が増えている、等の課題を指します。一般に、幼児期から児童期にかけての教育において、自制心や耐性、規範意識が十分に育っていない等、家庭教育や幼児教育の問題にしてしまう議論をよく見かけますが、本当にそうでしょうか。

 

ぼくは「学校種が変わるときに起こる文化的な違いへの子どものとまどい」と捉えています。子ども側から眺めると、幼稚園、保育園で3月まで遊びを中心に、自身の「〜したい」を大切にした生活を送っていたにもかかわらず、ある日突然、自分が暮らす世界のルールが変わってしまうのです。とまどって当然です。これは子どもの育ちの問題ではなく大人の側の問題、制度の問題です。

 

小1プロブレムに内実は、小学校が自分たちの文化に疑いを持たず、教員の「教えやすさ」を優先させて、「学校のお作法」を教えることの優先順位を上げてしまっているからではないでしょうか?

 

我が家の3人の子のうちの1人は、遊ぶこと、自己決定すること、自分たちで自分たちの暮らしをつくることを大切にするこども園を卒園しました。小学校に入学した際、

「学校ってずっと座ってるんだよ」

「手は膝の上に置かなくちゃいけないんだって」

「どんなに晴れていても、教室の中にいるんだよ」

「遊ぶ時間は20分しかないんだよ」と不思議そうに報告してくれました。

ある日を境に文化が180度変わる。ギャップを感じる方が自然です。

今年度1年生になった子は、さらに悲劇的な経験をしている可能性が高い。ここは注意すべきポイントです。

 

にもかかわらず学校文化への移行、今年に関して言えばコロナ対策と遅れを取り戻すための様々な方策(行事削減、土曜授業実施、7時間授業、教科書の内容を授業と家庭学習に分けて家に持ち帰らせる、協同あそびの禁止など)を盲目的に目指してしまうと、それに従わないこと、「いかに45分間座らせるか」「マスクを外させないためにどうするか」ということが「課題」として立ちあがってしまいます。例えば指名されるまでしゃべらないという「スキルをいかに身につけるか」に一生懸命になってしまうのです。

 

言い換えると、小1プロブレムを考えるとき、小学校教員側が「いかに学校文化にスムーズに移行させるか」という問いを立てていることに問題の核心があります。「グーピタピン」とか、「筆箱の置く位置は」とか、「1の声、2の声」とかいう話になってしまうわけです。

 

では私たちはこの問題に対してどのような問いを立てたらよいのでしょうか?

「良質の幼児教育を継続する形で小学校教育をリデザインしたら?」という問いを立てたい。どうすればギャップのない一貫した育ちの環境をつくれるか。この問題は、実は新学習指導要領でもしっかり書かれています。

 

「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿を踏まえた指導を工夫することにより、幼稚園教育要領に基づく幼児期の教育を通して育まれた資質・能力を踏まえて教育活動を実施し、児童が主体的に自己を発揮しながら学びに向かうことが可能になるようにすること。(中略)特に、小学校入学当初においては、各教科等における学習に円滑に接続されるよう、生活科を中心に、合科的・関連的な指導や、弾力的な時間割の設定など、指導の工夫や指導計画の作成を行うこと。」(小学校学習指導要領 第1章総則より)

 

 

幼児期で身につけたこと・育まれたことを大切にしながら、その力が生かされる学校教育を構想するのが重要と言えます。

では具体的にはどうするか?ピンポイントには低学年教育をいかに変えていくかになるでしょう。幼児期に大切に育まれてきた「〜したい」からあそびに没頭する経験の積み重ねは、ひとり一人の「学びに向かう力」につながっていくでしょう。そのためには生活科を中心としたプロジェクトとしての活動の充実が鍵だと考えています。子どもの「〜したい」からはじまるあそびをつなぎ、プロジェクトとして発展させていく。その中で結果として教科の学びも起きるでしょう。そこで起きる結果としての教科の学びは現状よりもレベルが上がるのではないかとさえ予想します。幼児教育から学べることは多いです。

 

でもこれは思った以上に難しい。

軽井沢風越学園は幼小中の混在校です。前期を「年少〜小2」後期を「小3〜中1」でスタートしました。幼児期と低学年教育をつなげていこう、幼児期の学びを義務教育学校でも生かしていこう、という試みです。

しかしコロナ禍の影響もあり、まざって遊んだり学んだりすることは日常的にみられるものの、気づくと幼稚園と義務教育学校の間に壁がある状態。さらには小1、2と後期の間にも壁ができ始めている状態。じわじわと分かれていくのですよね。この辺りの分析はもう少し丁寧にしたいと思っていますが、子供の意識というより、結局大人の意識が壁を作っていくのだなと実感しています。この課題意識はスタッフ間でも共有されていて、夏休みも課題の大きな柱の一つになって検討されていました。どうやって年少〜中3までの学び、育ちを緩やかにつないでいくか、試行錯誤は続きますが「簡単でははい」ということはよくよくわかりました。

でも、きっと超えていきますよ。スタッフそれぞれが課題だと認識している時点で、解消に向かっているのです。たのもしや。

 

さて、最後に一つエピソードを。ぼくが初めて1年生を担任した際、やはり「なにもできないんじゃないか」と不安になり、友人の幼稚園の先生に相談しました。「年長さんは園で『番を張っていた』んだから、何でも自分たちでできるの。朝の会の司会も自分たちでやるし、給食の配膳だって、ケンカの仲裁だって、下の子の世話だってやってきてるの。なんでも任せてみてよ。失敗したっていいじゃない。そこから学ぶ力だってあるんだよ」。

実際1年生はまことに頼もしい存在でした。給食を運ぶとき、Mくんが倒してしまって廊下がカレーだらけに…廊下中に広がったカレーから湯気が上がっているのを見てつい「なんで倒したの!」と叱ってしまいました。するとKちゃんが、「先生、そんなことより片付けることが先でしょ」とぼくを諭しました。本当にその通り。みんなでカレーを拭く作業は、不謹慎だけれど、なんだかお祭りのようで楽しかった。その間に給食当番の子は食缶を持って他のクラスに、「カレーこぼしちゃったんで少し分けてくださーい」と集めて歩いていました。

 

子どもをどんな存在として見るかで、アプローチは変わっていきます。

いまだ学校が始まるまえ、「学校楽しみ!」と思っていた1年生はたくさんいたはず。この状況だからこそ、0から教育を問い直すチャンスです。2学期のスタートは、楽しいこと、没頭できることからスタートしたい。今の状況でリスクを鑑みつつ、たっぷり遊んでみてはどうかと思うのです。

大人の都合からスタートするのではなく、一人一人の子どもが日々何を経験しているのか、どんなことを感じているのか、に想像をふくらませ、何を経験して欲しいのか、どんなことを感じてほしいのか、からスタートしたい、切にそう思います。

 

 

 

『宿題をハックする』

宿題の記事、けっこう反応が大きかったです。

フェイスブックに書いた、

気づいちゃったんだけど、学校教育って、家庭での宿題や課題を前提でカリキュラム考えているんだよね。なぜだろう。考えてみると不思議。そもそも履修の量が多すぎるのか。
その前提を疑ってみるとどうだろう?
最初から「家庭ではやらない」を大前提でつくっていったらどんなかたちになるだろう?思考実験として興味深い。

にもいろいろなコメントをいただき、せっかくだからさらに思考を深めようとこれを読み始めています。

まえがきから熱い。

 

毎日の宿題に効果があることを示すだけの研究結果がほとんどないにもかかわらず、生徒の学びの可能性を破壊するようなことを、教師に(そして、結果的に生徒に)対して私たちが期待し続けるのはなぜでしょうか。

生徒は、すでに十分な努力をしているのです。それゆえ、彼らには大人が介入しない主体的な遊びに費やすだけの時間が必要なのです。遊びをとして、ワークシートを埋めることからは得られない大切な車騎的スキルを身に付けることだってできるのです。

 かなり強めに批判していますね。

さらにはこんなふうに書いています。

宿題(家庭学習)は、教育においてもっとも誤用されているツールです。あまりにもたくさんの矛盾する考えが、宿題という枠組みの中に組み込まれています。顕著なものとしては、学校で学ぶことのほかに出される課題と、より自然な状況で行われる遊びや学びとの間に矛盾があります。生活と直接関係しない宿題を出した時は、生徒の時間に対する価値をおとしめているだけではなく、学ぶことの価値も軽んじていることになります。 

「もっとも誤用されているツール」とはさらにぐいっと踏み込みますね。大切なポイントは「誤用」といっているところ。いらないといっているんじゃないんですよね。

まえがきはこんな文章で締められています。

結論を言えば、読者の皆さんに、すべての生徒が学ぶことを好きになり、授業時間以外においても学ぶことを促すといった、従来の宿題に代わる理にかなった方法を検討していただきたいのです。

単に批判するのではなく、前提を疑って、よりよいものに変えていこう!という姿勢がぼく好みです。

では実際にどんなハックがあるのでしょうか?目次は以下の通りです。

目次
1 宿題を毎日やらせない―悪い習慣の方向転換を図る
2 教室で計画実行の仕方と責任の取り方を教える―アカウンタビリティーと時間の管理能力を高める
3 信頼関係を築く―学習を促進する建設的な関係を構築する
4 生徒のニーズにあわせた特別仕様にする―課題や時間を柔軟に
5 生徒に学びを奨励する―イノベーションと創造性を促進するために
6 授業の前に好奇心を刺激する―学びへの興味関心を生み出すつながりをつくる
7 デジタルでやり取りする場を活用する―学びのためにソーシャルメディアを利用する
8 生徒の発言を拡張する―宿題の内容と方法を生徒が選択できるようにする
9 家庭と協力する―保護者に教え方のモデルを示す
10 成長の過程を見えるようにする―生徒が自分で成長を記録し、確認できるようにサポートする

目次から想像できることあるかもしれませんが、この本、実は宿題を変えよう!という提案にとどまっていないんですよね。学習者が自立して学び手、ぼくの言い方では、学びのコントローラーを自分で操作する学び手になるための方法と、大人の役割をまとめてある本なのです。つまり、日々の学校の学びのあり方自体を学習者中心に変えようよ、という大胆な提案書です。

あたりまえですが、宿題単体で語れることなんてないわけです。日々の授業、学校のあり方と地続きなんですよね。

大人がどのように生徒に伴走すれば良いかも具体例(ストーリー)で描かれていてわかりやすい。2学期前に一読をお勧めしますし、保護者として子どもとどう関わるかのヒントも満載です。

 

 

ちなみにこのハックシリーズ、どれもおもしろいですよ。是非一読を。単純に反対!するわけではなく、それをおもしろく工夫しちゃおうという姿勢が素敵。そしてその中に本質的な提案が隠されている名シリーズです。

 

 

 

それにしても、

「宿題を出すことで、家庭や社会にどんなメッセージを出していることになるのか?」

 は深めるべき問いだな。

家庭や社会の学校化の一翼を担っているのかもしれない仮説。

では。

私たちは宿題に何を望んでいるのだろうか。

この夏、軽井沢風越学園の説明会(風越づくりミーティング)でも話題にしたが、「宿題」のことについて最近よく考えています。

f:id:iwasen:20160826142729j:plain

宿題については本当にいろいろな意見があります。

ぼくも公立の教員時代は毎年試行錯誤でした。基本的には「家に帰ったら思いっきり遊べー!」と思っていたので、宿題を出さなかった年もあります。そのときは保護者から「宿題がないと家で勉強しないのでだしてほしい」「他のクラスが出ているのにこのクラスだけ出てないと差が出る」という意見をたくさんもらいました(管理職にも電話が…)。ちなみにこの年は学級通信で「宿題はサービスである」と公言、つまり出してほしいという家庭があるのでそこへのサービスとして出すが、やるかどうかは各家庭で相談してほしい、やらないからといって注意したりもしないし、出したからと言ってほめもしない、としたわけです。

あの頃ぼくは若かった。

その後、宿題(10−15分程度で終わるもの)を出してあとはそれぞれで!とした年もあれば(これはこれで「少ない!」という声が出たりする)、思いっきり宿題を出していた年もあります。自主学習として、ちょこっとの宿題と、あとは自分で計画して「自主的に」やる、みたいなことも長く試してきました。 これは伊垣の実践に詳しいです。基本的にはこのやり方を追試してきました。歴史的には「自学ノート」という実践の積み重ねがあります。

 その時の実践はこんな感じ。

iwasen.hatenablog.com

せっかく取り組むなら、自身の「〜したい」からやってほしい、でも「ねばならぬ」ことや継続する方がよさそうなもの(読書や漢字や計算練習など)はちょこっと出していたり、ようは折衷案的にやってきたわけです。

でもよく考えると「ねばならぬなら、家でやるのではなく学校でこそやるべきなんじゃないの?」「継続が必要ならそれこそ学校でやるべきなんじゃない?家庭でやることにすると、各家庭環境に左右されるから格差が開く一方でしょ」と当然な考えが浮かんでくるわけ、わけがわからなくなってきます。

「自主学習を通して自分で学んでいく子になってほしい」とかなり真剣に思っていたわけですが、「それこそ日々の授業の中で達成すべきことでしょ。なぜそれを家庭で?」と誠にもっともな反論が自分の頭の中に浮かぶわけです。

 

さて、軽井沢風越学園では、現状あまり宿題はないんじゃないかな。保護者からは、宿題を出してほしいという声があります。宿題がないことで親子のバトルが減って穏やかに過ごせているという声もあったりします。スタッフの間でも、「宿題は効果があるのだから、最低限出す方がよい」という声と、「基本的に家庭の時間なのだから学校が口を出すべきではない」という声と、「自分で学びのコントローラーを操作できるようになれば、必要なことを自分自身で考えてやるようになるだろう。それを待とう」という声などがあります。

子どもの中にも「出してほしい」「いやいらない」「出されないと死んでもやらない」「少しはあるとうれしい」なんて様々な声があり、子ども×保護者×スタッフで一度じっくり話したいなと思うぐらいバラバラです。宿題への考えの背景にはその人の学習観があるはずで、「そもそも学ぶとは何か」を考えるよい切り口だと思っています。

 

話がそれました。そもそも宿題って効果があるのでしょうか。ジョン・ハッティの『教育の効果』に宿題についてのメタ分析の結果が載っているので参照してみます。

 (p248-250)。

この本では、大きくはクーパーのメタ分析の結果に寄っているわけですが、箇条書きでまとめるとこんな感じです。

・宿題の効果は高校生では中学生の2倍、中学生では小学生の2倍である

(ということは小学生の宿題の効果は、高校生の4分の1。年齢によって随分違うな)

・最も効果が小さいのが数学、最も効果が大きいのが理科と社会。英語(日本語でいう国語)は中程度。

(日本では算数・数学の宿題が多いイメージ。なぜ数学が一番小さいのだろう)

・宿題の効果と宿題に費やした時間の間には負の相関。費やす時間は少ない方がよいが、小学生の場合には宿題に費やした時間と学習成果の相関はほぼ0。

(たくさんやっている方がよい、と感じる場合は、「勉強している姿」に大人が安心するからか。)

・タスク指向の宿題の方が深い学習や問題解決をさせる宿題より効果が高い。

(大人からのフィードバックなしにできる、基本スキルや浅い知識を身につけるための繰り返しに有効)

・高次の概念的思考を必要とする宿題やプロジェクト・ベースの効果は低い

(大人からの支援やフィードバック、学習者同士の学び合いが起きにくいからだろうと推測)

・宿題の効果は、能力の低い学習者より高い学習の方が、また年齢の低い学習者より高い学習者の方が高い。

(高校生に一番効果的なのはここか)

・宿題を与えることは、学習者の時間管理能力を高めることにはつながらない。

(意外。たしかに嫌々だらだらやってた我が子を思い出すと妙に納得)

以上をまとめると、年齢が上がるにつれて宿題は効果がある、タスク志向の基本スキルや浅い知識(暗記、練習、繰り返し)に効果が高い、ということでしょうか。小学校の宿題で漢字や計算練習が多いのは、実践的にこのことを現場の教師が感じ取っていたからかもしれません(出し方にはいろいろ文句を言いたくなるところもあるけど)。

 ハッティの研究では「効果量」をだしている。d=0.40を基準(目標値)としているのだが、小学生ではd=0.15、高校生ではd=0.64と顕著な差があります。小学生には宿題はあまり効果がなさそう、と(この研究にかぎっていえば)いえそうです。

 

メタ分析は個別の学習者には適用できないし(全体の傾向を掴むのが目的)、あくまでも「従来の宿題ではこうである」ということです。ここはとても大事なところで、安易に「では高校生になったらドリル的なものを出せばよいということね」ということではないということです。

 

長々と引用してきました。宿題のことを考えるときに、経験や直感から「必要だ!」「無駄だ!」とやりあうよりも、少なくともこのような研究結果を参照しつつ、あらためて同じ土俵に乗って考えたいところです。

ここで「宿題を出すべきか否か」という問いだてで考えてしまうと、二項対立の問い方のマジックにハマってしまいます。問い立てを変えたい。

例えば「私たちは宿題に何を望んでいるのか」という問いを立ててみると、宿題にこだわる背景にはもしかしたら「家で勉強をしている姿を見ると安心(=みないと不安)」という要素があるかもしれません。そういう仮説を立ててみると、大人であるぼくたちが自身の不安を分析してみることができそうですし、「そもそも学校での学びの様子が伝わっていないからでは?」という学校側の情報発信や情報共有の問題も浮かび上がってくるかもしれません。

他にも、

・「学習者自身が意味と価値を感じられる『宿題』(もはやそう呼ばないと思うが)はどんなものか」。

・「家庭と学校の役割はどう重なり、どう違うのか」。

・「学校で学ぶことと、家庭で学ぶことはどうつながっているのか」。

・「そもそも学ぶとはなにか。そこでの大人の役割は何か」

・「効果のある宿題をみんなで発明しよう」

などなどいろいろな角度で考えられそうです。

 

宿題は昔からあるし、やるの当たり前だよね、みたいな地点にたったままだと、コロナ禍の中で授業時間の20%程度を補修や家庭学習で補うことが可能、なんて通知が文科省から出てきている今、「家庭でやってこいー!」と素直に現場が呼応してしまうことに「本当にそれでいいんだっけ?」と立ち止まれなくなってしまいます。

それにしても、ここまで網羅にこだわると負の側面しかないと思うけれど、またそれは別の機会に。

 

ハッティはこんな指摘もしています。

宿題によってかえって自力で学べなかったり学校の学習についていけなかったりということが助長されてしまう学習者はあまりにも多い。自力で学べなかったり学校の勉強についていけなかったりする学習者にとっては、宿題は動機付けを軽減させ、誤った学習行動を定着させ、効果的でない学習習慣を身につけてしまうことにつながりうる。このことは、特に小学生にとって当てはまる。

宿題を考える前にぼくたちが向き合うべきこと。それは一人ひとりの学習者に日々伴走できているだろうか、自主性という名の放置になっていないか、そこにつきます。

さらに言えば、日々の学校での学びが「自分の学びのコントローラーを自分で操作する」経験になっているか、子どもが「〜したい」と情熱を燃やす経験の中で学習者としてのアイデンティティを築きはじめているか、自身の変化や成長を感じられているか、です。まずそこに向き合いたい。そこを飛ばして「家でやってこいー!」はあまりにも乱暴。

日々の学びに没頭して、思わず家でも続きをやりたくなる。読み始めた本がおもしろくて思わず続きを持ち帰ってしまう。進みたい道が見えて、そのために自身で計画して、学習を進め始める(中学生はこうなっていくといいな)。

そんな姿を理想を思い描きつつ、「いやでもやっぱり家に帰ったら、子ども時代を思いっきり謳歌して遊びひたればいいんじゃない?」とも思ったりもします。子ども時代に経験したいことって「学校の勉強」ばかりではないからです。このことは最近考えていて、あらためて「あそぶ」ということを軸にまとめてみたいと思います。

一方で「読書ぐらいは毎日家でやるといいよなー」とも強く思いつつ、2学期もあれこれ葛藤し対話しながら進んでいきたいと思います。

 

(ちなみに直感的には「宿題」という概念が消えていく。子どもの遊びや学び、つまり経験が地続きになっていくイメージ。メモ程度に残しておく)

 

つくり手であり続けるということ

 

 

f:id:iwasen:20200814130323j:plain

ぼくの夏休みは明日でおしまい。怒涛の1学期は遥か昔のような気がする。もう少しだけのんびりしようと思いつつ、そろそろ再始動だな。

 

1学期、コロナ禍で全国的にオンラインへの対応を迫られ、そのスピード感に「学校教育を根本から問い直すチャンスである」という機運もあったけれど、通常登校に徐々に切り替えられるにつれて、その機運もしぼみつつあり、なんだか全速力で「元に戻ろう」としているようにも見える。

授業時数確保のための夏休みの短縮、行事削減、土曜授業実施、7時間授業、教科書の内容を授業と家庭学習に分けて家に持ち帰らせるなど、「通常」に戻るための知恵を絞っているようにも見える。(ぼくがかつて教員をやっていた某市は夏休み10日間だそうだ・・・)そこには学習の当事者たる子どもの声は聞こえてこない。3密を避けるという号令のもと、コミュニケーションを分断され、決められた防護策を守らされる。子どものための余白の時間は「時数確保のため」にカットされていく。

 

いったい私たちは何をしているのか。

 

今こそ子どもを真ん中に置いて、学校を再設計するチャンスなのに。学校は本来、人が成長していく、どんな子も幸せな子ども時代を過ごす場、自分(たち)の成長を実感する場。そんな場が楽しくないわけがない。世の中で一番希望を持って語られるべき場なのはずだ。

 

ぼくは公立学校の可能性を信じている。しかし、同時に公立学校は変わっていく必要があるとも考えている。これからの社会を創っていく子どもたちとって、教室での経験は「20年後の社会」のありようにつながっている。主体的に学校や自身の学びをつくる経験は、主体的に社会に参画しようというマインドを育て、「言われた通りにする」経験を積み重ねれば、受動的で消費的なマインドを育てるだろう。

自分の人生をデザインしつくっていく主体性・創造力は前者でこそより育つ。では、誰がそんな学校をつくるのか。教員だけが頑張ってもそんな学校はできない。「子どもこそがつくり手である」とぼくは考えている。

 

ぼくは今、私立学校にいる。「それは風越だからできるんですよね」という声を本当にたくさんきく。もちろんその側面はある。

でも本当に全てがそうだろうか?

共通する「大切なこと」があるのではないか?私たちの試行錯誤を触媒として、それぞれの現場にいる多くの子どもの日常が少しでも変わっていくことを共に探究できないだろうか?

公教育が変わっていく触媒。公立にいる時も、大学にいる時も、今も、その思いは変わらない。変化の種は手元にあるということを手放したことはない。

 

軽井沢風越学園は、子どもも大人も「つくる」経験を、じっくり、ゆったり、たっぷり、まざって積み重ねていきます。
本気で手間をかけて「つくる」ことに没頭し、ときには不安や不安定さを味わいながら「つくる」ことに挑戦していきます。
私たちは子どもこそがつくり手であることを信じています。
ここでいう「つくる」は物理的なものや学習の成果物だけにとどまりません。安全・安心な場を自分たちでつくる、学びをつくる、自分たちの学校をつくる、コミュニティをつくる、仕組みをつくる、ルールをつくる、自分をつくる。つまり、「わたし(たち)の未来をわたし(たち)でつくる」冒険をするのです。
子どもたち、スタッフ、保護者、地域の方々など、軽井沢風越学園では誰もがつくり手です。
「つくる」ことを通じて、「自由に生きる」ということと「自由を相互に承認する」ということを繰り返し試していきます。そうすることで、1人ひとりが幸せになり、幸せな社会をつくっていくのです。

これはなにも軽井沢風越学園だけのことではなく、多くの学校で大切にしてみてはどうだろうかとぼくは思う。
よりよい学校は自分たちでつくっていくもの。つくっていくためのコントローラーはぼくたちの手元にある。「よりよい学校とはどのような学校か」を探究し続け、自分たちでつくっていく。そのプロセスで「自分が行動すれば自分を取り囲む環境は変わるのだ」と実感する。その経験は、ひいては社会に対する効力感につながり、主体的に社会をつくっていく市民になっていく。つまり子どもも大人も共に「なっていく」プロセスの只中にいるということだ。
学校が変わっていける鍵はここにあると思う。

 

とはいえどこから始めたらいいんだ・・・と日々の営みの中にいるととっかかりを見つけにくいかもしれない。小さくて手元からできることもある。明日からできることもある。その具体的な小さな第一歩はどこだろうか。まずは自分たちの学習環境を自分たちでつくる、からスタートしてみてはどうだろうか。急ぎたくなる今だからこそ、ゆっくり共につくることから始めたい。


学習環境をとらえなおす

日本の学校建築の多くは、同じ形の教室が廊下に沿って一直線に並んでいる、いわゆる片廊下型校舎である。そのような教室の形式は「他に対して閉鎖的であり、この中では1人の教師によってクラスメンバー全員が「一斉進度学習」によって主導されることが学校教育の基調となる」といわれるように、現在の一般的な教室環境が、教師主導の一斉授業を強化してしまっているとも考えられる。
全国的には、70年代からオープンプラン・スクールをはじめとした子どもたちの学びやすさに焦点を当てた学校建築は増えたが、先進的な学習環境も当事者にとって「与えられた環境」になってしまい十分に機能していない所が多いときく。渡辺(2017)は、

「その空間に込められた思想を教師たちが活かそうとしなければ、新たな学校建築上の試みは役に立たなかったり、かえって「他と違っていて不便な施設」と認識される可能性がある。実際、教室の横に配置された、子どもが数名中に入ってくつろいだりできることを意図された「アルコーブ」と呼ばれる小さな空間が、教師たちに単なる物置として使われ、子どもが寄りつかなくなってしまっているといった例が、学校建築の「先進校」とされる学校においてさえ見られることもある。設備があっても、教師たちにその空間を活かそうとする構えがなければ、その設備は活かされない。」

と指摘しているが、残念ながら、ハードとしての学校建築を変えたからといって、ただちに子どもたちの学びに変化が起きるわけではない。大切なことは、空間の意味と価値を踏まえ実践を変えていこうとする意識や継続的な取り組みだ。ただ学校建築を一から検討できるチャンスはそうあるものではない。でもそこで諦める必要もない。
澤本(1996)が、

教室といえばようかん型の校舎に同じ長方形の教室が長廊下の片側に並ぶ現行方式しか思い浮かべられない教師は、その枠の中でしか授業を考えれない。木陰の読書、屋上での合唱や詩の暗唱、廊下に机を出したひとり学び、廊下コーナーのパソコンコーナーやミニ美術館等々、頭を切りかえれば、いろいろなアイデアがわいてくる」

というように、従来の学校建築の枠中でもその空間の活用の仕方次第で様々な可能性が広がっていくはずだ。


教室リフォームプロジェクト

見方・考え方を変えれば、実は一般的な教室にも多くの利点がある。自由に移動できる机と椅子、余計な壁や柱がないすっきりした部屋……見方を変えれば、自由度の高いフレキシブルな学習空間と見ることもできる。
 
ぼくが小学校で担任をしていたころ「教室リフォームプロジェクト」を行ってきた。
学習の当事者である子どもたちが主体的に参画して、「どうすれば居心地のよい空間になるか」「どうすれば学びやすい環境になるか」のアイデアを出し合い、協働で教室環境をつくっていくのである。先に澤本が指摘していることを学習者と共に試行錯誤する営みだ。

このプロジェクトで重要なのは、
①学習者自身が「こうしたい」というアイデアを出すこと。大人である「わたし」も共に考えること。
②子どもたちが実際に空間をデザインしてみること、
③まずプロトタイプ(試作品)を試し、不都合があれば改善を図ること。

この3点を大切にしながら、継続的に実践を重ねることによって、子どもたちは学びやすさや居心地のよさに敏感になり、「毎日過ごす教室の環境を、自分たちの手でつくり続けたい」というオーナーシップ(物事を自分事と捉え、主体的に取り組む姿勢)が育まれていく。子どもこそがつくり手であることを実感する時間だ。

 

教室だって変えられる。

f:id:iwasen:20200815110431j:plain

学習環境を教師が準備して「あげる」のではなく、学びの主体であり教室のオーナーである子どもたちと一緒につくる。
机をアイランド(グループ)に固定することで、協同的な学びをクラスの中心とする。座り方ひとつで学び方が変わっていく。私は30歳の時に、アイランドで固定することで、自身の授業スタイルを変える縛りとなった。
共同を促しやすいので、異学年合同の学び、自律した個の学びに合った環境といえる。

f:id:iwasen:20200815110520j:plain

例えば畳を置いて図書コーナーを作る。畳は人が集う場を促す。本を読んだり、少人数で話し合ったり。教室を学習コーナーにわけることで、様々な学び方が同時に起きやすくなる。
キャンプ用の椅子は「クールダウンチェア」。感情が揺れた時はここに座ってクールダウンする。誰が使っても良い。ぬいぐるみを抱きながら座っている人は、みんなで気にしつつそっと見守る、をお互いが居心地良く過ごすためのマナーにしていた。

 f:id:iwasen:20200815110552j:plain

子どもたちが自分たちで試行錯誤することが大事である。図書・畳コーナーを窓際に寄せてみたこともあった。手が届くところに本があると、読書をする子は飛躍的に増える。この経験が風越でのライブラリーセンターの校舎につながっている。

kazakoshi.ed.jpぼくの中では地続きでこうなることは必然だった。

 

f:id:iwasen:20200815111040j:plain

 


人が集うベンチを置いたことも。子どもたちと一緒にベンチを作り、朝の会や帰りの会、授業で全員で集まって話す際のコーナーとして活用した。集まる場所をつくると人は集まる。畳コーナーも同様だ。風越の各ホームベース(荷物を置いたりミーティングをしたりする小さな部屋)にもベンチは置かれているし、2階のROOM(汎用教室)には畳の小上がりがある。そこにいる子を見るとちょっと嬉しくなる。

2020年6月 校舎紹介 on Vimeo (4分01秒あたり)

 

f:id:iwasen:20200815111228j:plain

 こんな小さな工夫も大切。環境をより良くすることは自分たちの手元にあることを実感できる。
 子どもたちの現状に応じて、やりたいこと、やれるところから小さく出発していくことが大切だ。
「やってあげる」から「自分でやってみる」へ。
教師が手を尽くすことで、子どもの主体性を奪っているかもしれないことに自覚的になりたい。

 

この教室リフォームプロジェクトは、教室という手元からスタートできる。

この学校版が「風越づくり」だ。

kazakoshi.ed.jp

kazakoshi.ed.jp

「だれもがつくり手である」という大切にしたいことが根底にあれば、それぞれの現場でそれぞれのサイズでできることがある。

風越の校舎、手前味噌ながら考え抜いてつくった。今のところ校舎という環境が生み出すことがプラスに働いているようにぼくには見えているが、それはあっという間に日常になり、先に渡辺が指摘していたことも起きかねないし、その兆候がみえなくもない。例えば7月に入って校舎内が散らかりはじめたが、それが当たり前になっていたり、気づいている大人が声を上げていなかったり、みたいなことが大人でも起き始めている。常に大切にしたいことに戻る。言葉では簡単だが日常にするのは大変だ。 

 

共同修正

教室リフォームプロジェクトにおいて身につけてほしいものは、ハウツーではなく考え方である。現状の空間をどうリデザインするかを、すべての当事者がともに考え試してみる。教室いう小さな空間の改善から目覚めたオーナーシップは、やがてその他の環境、ひいては社会への当事者性と、自らの行動による改善可能性への確信へとつながっていくのではないだろうか。

それは、OECDが「OECD education 2030」の中で、これからの教育で重要なのはエージェンシー(社会参画を通じて人々や物事,環境がより良いものとなるように影響を与えるという責任感を持っていく姿勢・態度)だと言っているが、それは手元で子どもと共に学習環境を試行錯誤する、こんな一歩から地続きだとぼくは信じている。

 

教室環境をどうしたら子どもたちは使いやすいか、学びやすいかなあと考える時、エンドユーザーである子どもたちに、「ねえ、どうすると使いやすくなる?」と相談して一緒に教室環境をつくっていく。意見が割れたら、「じゃあ、1週間ずつ試してみて、よかった方でいこう。」と一緒に実践研究する。教室環境を「共同修正」する。

共同修正=そのコミュニティのメンバーでよりよくし続けるプロセス。

学校のあらゆることで、子どもたちと共同でよりよくしていく。本気で子どもや大人がが参画する場をつくる。「共同修正」を学級の、学校の核に据えると腹を決める。それが民主主義の第一歩ではないかと思う。

 

例えば自立した個の学びのための学習計画表や学習進度、振り返りを記入するワークシートも、「試しにこんな形式にしてみたんだけど、使ってみていろいろ意見ください」と問う。使っている本人ならではの建設的な修正案がたくさんもらえるはずだ。このようにワークシートも「共同修正」すると、圧倒的によくなっていくし、なにより子どもたちが消費者から「つくり手」に変化していく。 

極端なことを言えば、研究授業においても、子どもたちに授業案を示して、「どう思う?」と相談したっていい。「導入はもう少し時間とった方がいいんじゃない?ペアでの対話で3分は短い。1人しか話せない。」
「振り返りはノートよりジャーナルの方が書きやすい」
「全体での対話は、10分じゃ足りないよ」
「ホワイトボードに話し合いのテーマ書いて出しておけば?」
「途中、見に来ている人にに『〜って私は思うんですけど、どう思いますか?』って聞いてみよう」
「そもそも、課題が簡単すぎるんじゃない?」
「参観者が見やすいように、教室のレイアウト変えた方が良いかも」

ぼくが担任していた子たちは教員の指導案検討さながらの真剣さで授業案を共同修正した。 

 

人には力がある。

その力は普段は見えにくかもしれない。大人も子どももそう見えないかもしれない。

しかし「つくり手」になったときに、力みたいなものがぶわっと湧き出てきて、呼応し合うんだよなと思う。

 

  

《引用・参考文献》
①上野淳『学校建築ルネサンス』鹿島出版会、2008年。

②田中耕治他 『教育方法と授業の計画 (教職教養講座)』協同出版 2017年
③澤本和子『学びをひらくレトリック』金子書房、1996年。
④岩瀬直樹ほか『子どもとつくる教室リフォーム』学陽書房、2017年。

⑤岩瀬直樹・吉田新一郎『シンプルな方法で学校は変わる 自分たちに合ったやり方を見つけて学校に変化を起こそう 』みくに出版