速報!新しい本がでます!
今から15年前ぐらい。
ぼくは小学校で研究主任をしていました。
研究テーマは、「月曜日に行きたくなる職員室」。職員室を学び合う場、学び続ける組織にすることに関心が高かった頃だったので、校内研究・研修を通じて、そんな職員室づくりにチャレンジしたのでした。
15年前では斬新なテーマだ!
外部の力も借りながらの試行錯誤の日々。研究主任や推進委員がひっぱるのではなくて、「みんなでつくる」を徹底しました。ひとりひとりの「やりたいこと」から出発し、それをつなぎ合わせていきました。職員室から学校が変わる可能性を感じた3年間。
もちろんなかなかうまくいかなかったし、あっちへ行ったりこっちへ行ったりの大変だったし、正直たくさん悔し泣きもしたし、諦めそうにもなった。
しかし「月曜日に来たくなる職員室」をテーマに進んだ組織開発の3年間は、「なんだ、公立の学校だって変わるじゃん!」という、今思えば当たり前の確信を自分の根っこに据えることのできる体験になりました。
当時の職員は例えばこんな振り返りを書いてくれていました。
研修の進め方についての固定概念が変化した。研究推進委員や研究主任がレールをひいておいて、そのレールに職員を乗せて進めていく研修から、自分自身、一人ひとりが他の職員と協力してレールをひいていく研修へと変化できた。今ではそのやり方が当たり前だと思うようになった。一人でできること考えることは限られたもので、推進委員とか主任の知恵は狭い。それを他の人との協同で、全員でアイデアを出し合うと、できることは無限大に広がっていくことを実感できた。職員室で変わったことは、やらされるのではなく自分達の意志でやっているという雰囲気になってきた。日々の実践が、日常的に全校でおこなわれている。一人ひとりが建設的にものを言ったり、考えたりするようになった。本校の研修のスタイルというのが確立するまでに3年かかった。今は当たり前のようにやっているけど、3年かかってようやく確立した。他のテーマになっても、この堀兼のスタイルでやっていけるんじゃないか。
人には力がある。それは子どもも大人も同じ。子どもの学習どうこうの前に、先ずは職員室の学び方の変革からだという実感をこの経験から得ました。今も変わらないぼくの軸になっています。
その学校を異動するとき、先輩に、これはこの学校だからできたんじゃないと思う。どこでもできるはず。だから岩瀬にはもう一度どこかで再現してほしい、と言われたのを思い出します。
と、ここまでは過去の物語。
その後、ぼくは大学に転身し、教員養成の道に進みます。
そこで出会った、現職院生の村上敏恵さん。
彼女が現場に戻ったのを機に、公立小学校での「職員室が変わる校内研究・研修」に一緒にチャレンジすることになったのです。
彼女は研究主任。ぼくは伴走者。
3年間の歩みで、その学校は、ぼくが15年前に経験したことの遥か先へと進みました。職員室が学び続ける組織に変化したのです。
人には力がある。自分たちで自分たちの組織を変えていく力がある。それはぼくが思っていた以上だったようです。ぼくが経験したことの遥か先の情景がこの学校で出現しました。
その歩みを赤裸々に綴った、新しい本が出ます。
予約が始まりました。
学校版組織開発の記録です。
帯はなんと中原淳さん。
巻頭言は、小金井市教育長の大熊さんが書いてくださいました。
類書のない価値の高い本になったと自画自賛したいです。
校内研修をなんとかしたい、組織づくりに悩んでいる、学校改革をしたい、職員室を学び合う関係に変えたい、自身のこれまでの歩みを振り返りたい、組織づくりの伴走者をしてみたい、そんなニーズに応えられるんじゃないかな。そんなチャレンジしている方々の振り返りに寄り添い、歩んでいる背中をそっと押せる本になったと思います。
研究主任としての村上さんの3年間の奮闘、三小のみなさんの3年間の試行錯誤、大学教員としてのぼくの3年間の伴走の記録。そこから導き出される実践知の記録。
従来の校内研究・研修本や、研究結果をまとめた本は、綺麗なところばかり、良いところばかりを綴ったものが多かったように思います。
しかしこの本は、葛藤や苦労、悩みも含めたナラティブ(物語)が描かれています。なにより村上さんの自己開示が詰まっています。本人が「赤裸々すぎて恥ずかしい」とおっしゃるほど誠実な本です。職場の人がゲラを読んで泣いてくれたと聞きました。本当、が描かれていたからこそだと思います。
だからこそ、そのプロセスを追体験し、「自分ならどうするだろうか」「どんな一歩を踏み出そうか」と問いを手元に引き寄せることができるはずです。
この本は村上さんの本です。ぼくはこの本ではささやかな伴走者です。
ぜひぜひ手に取ってください。公教育の可能性と未来が描かれています。
厚い!でも読みやすくて最後まで一気に行けるはず!
15年来の先輩との約束をようやく果たすことができました。しかもぼくはささやかな伴走者に過ぎず、その学校の先生方自身がが自分たちで「学び続ける組織」をつくったことがなにより嬉しい。
学級でサークルタイムをするということ
1、サークルタイムの価値
さまざまな教室を参観させていただく中で、サークルになって話し合ったり、対話したりしている場面をよく見るようになりました。アドラー心理学に基づくクラス会議、イエナプランのサークル対話、てつがく対話など、サークルになるという場のつくり方が一定の認知を得てきたようです。朝の会や帰りの会をサークルで行っている、という話もちらほら聞こえてきますし、ぼく自身も現場にいるころ、サークルという場をとても大切にしていました。
ダン ロスステイン、ルース サンタナが本の中で、
「ミクロ民主主義」
という概念を提示していましたが、教室や学校で、小さな民主主義を実現していくことが未来につながっていくとぼくは考えています。言い換えれば、「教室の中に参画の仕組みと文化があるか」。その小さな出発点がサークルタイム(仮称)です。
例えば 、そろそろ12月も近いしクリスマスパーティーをしたいなあと思った子がいたとします。
その時に、声を上げて実現へ向かう仕組みがあるか、つまりは「〜たい」ということが実現できる文化と仕組みがあるかということです。
「先生、パーティーしようよー!」ではなく。
例えばこんな感じです。
サークルタイムで、
「何か相談したいことある?」と今日のファシリテーター役の子が問いかけます。ある子が「12月が近いしクリスマスパーティーがしたいんだけど」と切り出しました。
「もう少し詳しく聞いていい?」
「うん、12月、みんなでクリスマスパーティーがしたいんだよね。卒業も近いし、今何人かで練習しているダンスも披露したいし」
「じゃあプロジェクトチームに入りたい人を募集して企画してもらおう。やりたい人−」
「はーい!」
「12人もいる!まーいいか。ではお願いします!」
ぐらいの軽やかさでまずはok。
やるかやらないかを話し合うなどコンセンサスを得ようとするより、やりたい人が言い出しっぺになり、必要な人に相談しながら企画して進めていく。この試行錯誤が大事だなとぼくは考えて実践していました。
そのうち、プロジェクトチームからサークルタイムで提案があるはずです。
プロジェクトチームの人は時間確保のために、担任と交渉したり、どんなことをしたいかアンケートをとったりとステークホルダーと必要な相談をしながら進めていく。必要な人に助言を求める。
何か問題が起きたとき、企画したいこと、やってみたいこと、改善したいこと等、「〜たい」という欲求が生まれたとき、すぐに提案して動き出すことができる、そんな仕組みや文化が教室の中にあるか。
まずやってみること(試行)が大事にされているか。それがサークルタイムの価値だと考えています。
教師を介さずに動き出せる仕組みと文化、教師に許可を得るということなく動き出せる仕組みと文化、簡単に言えば、「自由を使ってみること(試行錯誤してみること)が大事にされているか」です。
言い換えると、生成的アイデアで組織が創られていく、自己組織化していく、ということでしょうか。 正解や目的、目標に向かっていくのではなく、弁証法的に意味を形成していくわけですね。
2、でも難しい!
とはいえ丸くなって話せばオールOKというわけではない。
サークルタイムはそう簡単にステキな場所になりません。沈黙が続いたり、がちゃがちゃしたり、なんだか重い時間になったり。丸くなることが目的化すると、その中での経験がマイナスにもなりかねません。
例えばこんなことはないでしょうか?
①プレッシャーがかかる
まず30人近くが丸くなって座ると、当然ですがサークルがでかい。正面の人ははるか先です。自分以外の29人の顔が見える。それは良さでもあるのですが、この中で発言するなんて実はプレッシャーがかかります。全員の反応が見えるわけですから。他者を意識しすぎた結果、言いたいことがいえないということが容易に起こります。
②参加度が下がりやすい
どうしても沈黙しやすくなるし、基本的に「1人が話し手で29人は聴き手」という状況になるので、「だまってきく」ことがメインになります。よっぽどそこで取り扱われているテーマに関心がないかぎり、ずっと聞きっぱなしになって参加度はグッと下がります。その内に隣とつつきあったり、意識がサークルの外にふわーっと飛び立っていったり。そうなるのは必然です。
③一斉講義と変わらない状況
というわけで、初期の頃は学習者同士のやりとりになりにくく、先生を介したコミュニケーションになりがちです。
先生→子どもA→先生→子どもB・・・というように。
なかなか対話が生まれず、焦って先生の発話が増える。先生がつながないとコミュニケーションにならない。これでは一斉講義と何ら変わらない状況です。そもそもなんでサークルなんだっけ?という問いが生まれてきます。
④声の大きさで決まる
進行を工夫しないと、聞き手が多数になりやすい構造なので、話し手にパワーがある場合、グッとそっちに引っ張られる可能性があります。
いつもあの子の意見で決まる。いつもあの子の反対で止まる、みたいになってしまうと残念。
⑤発表モードになってしまう
みんなの前で話す=ですます調での発表モードというのは、学校教育では身体化されていることが多いです。
「〜だと思います。その理由は〜」
のような話型表と言われるものが教室に貼られていることもあります。
○○さんに反対です。その訳は〜
○○さんにつけたします。〜
のような。
ぼくはこれを「発表モード」と読んでいましたが、話型の不自然さから対話を阻害しているのではないかと思います。
これは不思議なもので、小学校に限らず幼稚園や保育園でも起きがちです。
サークルタイムで必要なことは自由に話せるカフェのような雰囲気です。
数人でおしゃべりするような「おしゃべりモード」(仮)で自然に話せるようになるのがまず大切だなと思います(そしてこれが結構難しい)。
学校の中でもっとインフォーマルな「普通の話し方」を大事にしたいと思います。子ども同士でいる時間のほとんどを学校で過ごします。そこでどのようなコミュニケーションが行われているのか、あるいはその機会がほとんどないのか、ぼくらはもっと真剣に考える必要があります。話し方は関係性と密接なつながりがある。そのことにもっと自覚的でありたいです。
石井英真さんが著書の中で、
「〜話し合い活動も書き言葉的な「発表」をメインに遂行されてきた、書き言葉優勢の教室のコミュニケーションに対し、即興性や相互に触発し合う偶発性を特徴とする話し言葉の意味を復権する」ことを「ことばの革命」と呼び、これからの授業で重要になると指摘しています。
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もちろん話し方だけの問題ではありませんが、サークルを大切にするコミュニティは対話を大切にしようとするコミュニティのはず。子どもたちがサークルで「どのように話しているか」にもっと注意を払いたいです。
話型が、対話や学びの深まりを阻害していることは十分に考えられるわけです。
と、サークルタイムを例えば学級のようなコミュニティの真ん中におこうとすると、そう簡単にはうまくいかない問題にぶつかります。他にも合意形成に時間がかかりすぎて決まらない、そもそも話し合いたいというテーマではない(学級会とかでありがち)など様々な難しさがあり、そう簡単にはステキな感じにはならないのです。
ぼくも5年近く実践してようやくわかってきたことです。
3、サークルタイム具体的にどうやる?
導入で必要なこと
「サークルタイムを実践したい!」と思ったときに最初に大切なことってなんでしょう。それは、「この場は楽しい」という経験を積み重ねていくことだとぼくは考えています(ぼくはけっこう構成的に場を作る派です。もっともっと自然につくれる人もいるはず)。例えばまずは「きくことの楽しさ」を実感する。
毎日読み聞かせをたっぷりすること。その中で対話を促すこと(「対話型読み聞かせ」で調べてみて下さい)。
ペアで対話する経験、小グループで対話する経験を積み重ねること(以下の本を参照)。
オープン・クエスチョンのように「やりかた」として練習していく道もありますし、マーキーの本に書かれているように、非構成的に経験していく道もあります。そのあたりは好みと価値観とやりやすさで。
ともあれ「きくことの価値」を実感できると感じが変わってきます。これは大人でも難しいのですが・・・・・
サークルタイムはそれだけで完結するわけではありません。
授業の中で例えばブッククラブをするとか、てつがく対話をするとか、協同学習がベースになっているとか、そんな日々の経験とも地続きです。サークルタイムだけで、素晴らしく対話的になる、ということは残念ながらありません。地続きの経験の総体、つまりはどんな価値観で日々の学びが営まれているか、なのです。
サークルタイムの例
進行のプログラムはいろいろ考えられます。
サンプル数1で恐縮ですが、ぼくはこんなプログラムで実践していました。
最初はファシリテーター役はぼくが行っていました。場が安定してきたら子どもに譲渡していきます(並行して、子どもたちとはファシリテーターのお稽古を授業の中で行い、一人一人がファシリテーターを目指します)
①サークルになる。
「毎日隣の人を変えて座ろうね」と提案していました。その理由は以下に。
ちゃんとまとめたいんだけど。
②チェックイン
ファシリテーターはこう切り出します。
「おはようー。向こう三軒両隣と健康観察してしてください」
子どもたち、両隣とその先の何人かと「おはよー元気?」「ちょっと寝不足なんだよねー」「なにやってたの?」みたいにやりとりして体調を知り合います。
「みんなで共有しておいた方がいいことがあったら教えてー」
「○○が風邪気味で頭痛いんだってー。熱はないらしい」「じゃあみんなで気をくばっておこうねー」とやりとりします。
ぼくが勤めていた学校には「朝必ず健康観察を行うこと」というルールがありました。それをチェックインがわりにコミュニケーションのきっかけにしていました。
その後は、
「昨日どんな1日だった?近くの人とどうぞー」
と気楽なおしゃべりでチェックイン。時には「みんなに共有したい話ある?」と共有しても楽しいです。
例えばこんな感じ。
そこで月曜朝は決まって「おはよー!」とあいさつをした後、
「土日どんな風に過ごしていた?」
というテーマで、2,3人で対話する。
まずは少人数でたっぷりチェックイン。全員の前で話すのはプレッシャーもかかる。数人ならたくさんの人が話せる。
いろいろあった人もなかった人も、ワイワイと楽しそう。
「野球大会だったんだけどさあ・・負けちゃった−」
「雨降ってたからずっと家にいたよー」
「父の日の準備始めた?」
漏れ聞こえてくる声をききながら、元気かな−、つかれてないかなーと子どもたちひとり一人の様子を見る。
3分くらい話した後、数人の人が全体にシェアする。
「だれかみんなに話してくれる?」
「じゃあ、おれが」と、Kくん。
「土曜は朝は10時頃起きて、お母さんに怒られながらパンを食べたんだよね」
起きるのおっそー!
子どもたちからつぶやきがもれる。
(日頃から「幸せなら態度で示そうよ」なんて呟いてる。坂本九。ウナウナと頷いたり、小さな声で反応したりすると話し手は「ああ聞いてくれているんだなあうれしいなあ」って伝わるよ、と。)
「昼ご飯は食べなくて−、で。部屋の片付けしろって母さんに怒られたから、いやいややって〜」 あはは
「夜ご飯食べて、1日終わった−。」
わはははは!なんにもしてないじゃん!
さまざなつぶやきがもれる。
「日曜はなにしたっけなー、午前中部屋の片付けして」どんだけ汚いんだ!
「午後は部屋の片付けしてるっていいながらゲームして、夜ご飯食べて終わった−。
雨降っちゃうと野球がないから急にやることなくなるんだよねえ〜 」
ああ、わかるー。
外のスポーツをやっている子達から共感の声。
つまりは、たわいもないこんなことを、みんなで笑ったり、うなずいたりしながら、クラスの波長をゆっくり合わせていくチェッックインの時間です。
③ホワイトボードの議題
教室にはサークルタイム用のホワイトボードを常設していました。3等分して自由に書き込めるようにしてあります。
それはこんな構成です。
・いいねありがとう
・連絡・報告
・相談したい、提案したい、いいクラスにしたい
「いいねありがとう」。
子どもたちは、思い立った時にどんどん書き込んでおきます。ここに書かれていることの共有で1日のサークルがスタートするのです。
「いいねありがとうからいくねー。『○○が昨日チームつくるときに、一緒にやろうよと声かけてくれた』と田中っち。田中っち詳しく教えてー」
「昨日さー〜」
と、グッドニュースの共有からスタート。これは健康観察や昨日どうだった?のおしゃべりで代替してもいいかもしれません。ぼくはわりとこの時間が好きで毎日やっていました。たくさん書かれているときはさーっと読み上げるだけでもok。時間にしたら2、3分です。この時間もチェックインの要素が強いですね。書いていて、今ならこの時間取らないなーとも思ったり。
「連絡報告」。
特に話し合うわけではなく、お知らせしたいことを書いておきます。
例えば、「○○は明日締め切りです」とか「出し物の準備進んでますか?いよいよ来週クリスマスパーティーです」などなど。
「相談したい、提案したい、いいクラスにしたい」。
ここがメインです。
ここにはさまざまな「〜たい」が書かれます。
「クリスマスパーティーをしたい」
「ハムスター買いたい」
「ちょっと隣のクラスの○○と揉めていて・・」
「プロジェクトの時間もう2時間延長してほしい」
「掃除で困ってる」
などなど。これをひとつずつ扱っていきます。
基本的な流れは、
1、そのお題について書いた人に詳しくきく。
2、プロジェクトチームで動けそうなことはその場で募って決定。
3、みんなで相談した方が良いことは以下の手順で。
・詳しく状況を知るために質問する(発散)
・それはホワイトボードに書いていって可視化する。
・質問が終わって状況がわかったら、一番困っていること、解決したいことを決める(収束)
・解決策をブレスト(2、3人の小グループで出し合う)
・全体で共有
・相談を出した人が解決策を上位3つを選ぶ(活用)。
・1位のものから1週間試してみる。うまくいったらそれでok。いかなかったら2位の解決策を試す。
・結果を後のサークルで報告。
大きくはこんな感じです。
ここメインで、一番詳しく書かなくちゃいけないんだけど、またいつかの機会に。
課題解決、お困りごと解決のミーティングのファシリテーションですね。
ぼくはホワイトボード・ミーチングを実践していたので、<発散ー収束ー活用>の進行の枠組みは基本的にその流れをもとにやっていました。
経験すればするほどいい感じになる。リアルな課題であればあるほど次に生きる。そんな時間です。
子どもたち自身もホワイトボード・ミーティングのファシリレータートレーニングをしていたので、やがてこんな「相談したい」があらわれます。
「登校班(近所で異年齢で登校する制度)で揉め事が起きているのでファシリテーター募集」。
みんなで話し合うのではなく、ファシリテーターを募集してその人に入ってもらい、小さな単位で問題解決するようになっていくわけです。
つまりやがては日常の中にとけてゆくことになります。
進める上でのポイントは、時間を決めておくということ。
例えば朝のサークルタイムが20分だとすると、チェックインと「いいねありがとう」で4分、連絡報告1分、③相談したい、提案したい、いいクラスにしたい15分のように。③をやっているうちに時間が来てしまいますが、時間が来たら「では続きはまた明日ー」とサクッと中断。無理なく続けられるのが大事だし、時間感覚も大事。
どうしても長くなりそうなテーマ、コミュニティにとって重要なテーマは別途時間をとってたっぷりやるといいですね。
ちなみに軽井沢風越学園では毎日30分とります。週に1回は全校で。
どんな感じの時間になるのか楽しみ楽しみ。
さて、サークルタイムがが意味ある時間になるかどうかは、そのコミュニティの成熟度と入れ子ですし、なによりかかわる大人の本気が試されます。本当に「子どもといっしょにつくる」に腹を決められているか。子どもの参画を本当に望んでいるか。サークルタイムをコミュニティの真ん中に据えようとしているか。
子どもはよく見てますよ(ああ苦い思い出がたくさん・・・)。
さらには先生がファシリテーターであるかどうか。
とくに「相談したい、提案したい、いいクラスにしたい」では、ファシリテーションが大事大事。
冗長にすすめると、かなりざんねんなことになる・・・・
ここものすごーく大事だけど、ここはまたあらためて。
サークルの感じはこの本から伝わるかな。
とここまで書いて力尽きました。
サークルタイムを運営する上で大切なこと、をまとめたいのですが、またの機会に。少なくともこの2つは共有しておきたいです。
言いたくないことは言わなくていい。
共同修正
と、ここまでは、あくまでかたち。
もっともっと、子どもと共につくることもできるし、非構成的につくれると思う。
型には功罪があるし、ぼくはつい構成的にアプローチしちゃう悪い癖がある。
いずれにせよ、子どもを中心において、子どもがこの時間からなにを経験しているのかを振り返りつつ、いっしょに修正し続けるのがいい。
帰りはサークルタイムをしていたり、振り返りジャーナルを書いたりしていました。
帰りのサークルのことはちらっとけんじが書いてくれていた。
https://iwasen.hatenablog.com/entry/2015/10/20/191606
そして何より大事なことは、一人ひとりの人と信頼関係をつくること。
せんせいにとっては「学級というまとまり」にみえるかもしれないけれど、子どもからはやはり「先生」は気になる人。
それぞれが、この場をつくっている大人に大切にされている、信頼されている、自分のことが好きだ、と思っているかどうか。
そのためには、サークルの場以前に勝負が決まっているんですよね。
朝始まる前の時間のおしゃべり、休み時間のおしゃべり、全員と毎日フラットな関係でコミュニケーションを積み重ねているか。シンプルにいい関係をつくれているか。
これに尽きると思います。
これなくして「サークルでなんとかしよう」は、基本的に筋が悪いわけです。
ではでは。
先生、学校にチョコ持ってきていいですか?
バレンタインデーが近づくと、毎年教室で行われていた会話。
「ねえ、明日バレンタインデーだねえ。誰かにあげるの?」
とぼく。
「だって学校に持って来ちゃいけないんでしょ」
「○○の家は遠いから、学校じゃないと無理なんだよね」
「ねえ。。。こっそり持ってきていい?」
「聞いている時点でこっそりじゃないでしょ」
「いいの?」
「いいか?って聞かれたら、持って来ちゃいけないルールだって答えるしかないでしょうよ」
「じゃあだめなの?」
「だから。聞かれたら持って来ちゃいけないルールだって答えるしかないでしょ」
「じゃあ、聞かなきゃいいのか」
「もう言っちゃってるんだから、こっそりじゃないでしょ」
「いいの?」
「いいかって聞かれたら~ 」
以下続く。
あれこれこっそりやりとりしてたようです。
「いわせんには放課後持ってきてあげるよ」
「口止め料じゃん!」
明日は、1年に1度の華やぐ日ですね。
ドキドキする1日になりますように。
学校の表向きのストーリーと対立するときはユーモアで切り抜けるのがいいなと思うな。
なんとなく気にしているという関係
あるところでの授業見学。
6年生算数の自由進度学習。
学習進度に基づいてそれぞれが自分のペースで進めていた。
教室はアイランド形式。4人ずつのグループになってすわって取り組んでいた。雰囲気はとても落ち着いてて、学びにぐっと集中している。男女の関係も柔らかい。担任の先生と子どものやりとりも柔らかい。
その中でのあるグループでのやりとり。
Aくんが、
「最小公倍数ってなんだっけ・・・覚えてる?」
Bくん、
「えっとー・・・」と言いながら自分の解いた最小公倍数の問題のノートを開いて見せる。
「え?どういうこと?最小公倍数ってなに?」
その様子を前の席のCさんがなんとなくきいている。じっと見たり。ちょっと気になる様子も声はかけない。Dさんも時々チラチラと。
Bくん説明はできず、Aくん自分のノートに戻る。
「だめだわかんね。これでいいの?」と間違えた答えをBくんに見せる。
Bくん気になるも説明はできない様子。
Cさん自分の問題を解きつつ、そのやり取りが気になるようでじっと見たり、自分の問題に戻ったり、何となく気にしている。
そこにDさん。
「だから、3と5があったら、両方かけてっておんなじ数になるの探すの。」
「おんなじ数?えー15ってこと?」
「そう。そうやっておんなじになるやつで、一番小さいかずになるやつってこと」
「じゃ15。」
「そう」
そこで自分の問題にそれぞれ戻る。「わかりやすかった」と呟くAくん。
そのやりとりをきいていたAとCも自分の問題に戻る。しばらく問題を解いていて、Aくん、
「最大公約数ってもわかんない」とDさんに。Dさん「それは私もわからない」。笑
そこにCさんが説明にスッと入っていき、それを一緒に聞くAとD。
Cさん、Dさん 、自分のことに取り組みつつ、Aくんと、Bくんのやりとりをなんとなく聞いていて、必要かな、と思ったらそこに入っていく。
この「なんとなく気にしている」という関係。
「わからないところない?教えるよ!」と過剰に関わるでもなく、
困っている人を放置するわけでもなく、過不足なく関わり合う関係。
そのコミュニティが学び合いケアし合う関係かどうかって、なんとなく気にしているという関係あるかどうかで見ることができるんじゃないかな。
ちなみに、そのやりとりを終えた後、
AくんがDさんに
「でも俺の方が進んでいるからね」といばると、
Dさん、
「私は遅いけど、全部わかって進んでるから。」
学ぶ≠進むだということをビシッと言い渡していました。
「見える」ようになって見えなくなること。
ぼくは教員になってから、いい先輩に恵まれた。
なんといってもSさん。本当によく叱られた。
でも愛があった。こわかったけと。喧嘩もよくした。
当時ぼくは、Sさんがみている世界が見えていなかった。自分の見えている世界だけでいきがっていた。
自分の見えている世界が全てと思っているところで、視座が上がると違う世界が見えるんだよ、と教えてくれた。解ったのはずいぶん先だが、諦めずにずっと説いてくれた。
研究主任になったときには、先輩のkさんにしこたま怒られた。
KさんはSさんのお弟子さん。
視座が高い人には、ぼくのように視座が低いのに全てが見えているように行動している人は目に余ったんだろうな。
Kさんもまた、諦めずにずっと説いてくれた。
ぼくもずいぶん歳をとり、50歳の足音がもうすぐそこに。ひえー。
ようやくSさんやKさんのみていた視座はこの辺だったのかーと、おぼろげながらわかってきた。
なのに、そうなるとずっと自分は見えていたような気になってしまって、コミュニケーションが雑になってしまう。
今こそきくこと、なのにね。
お互いの見えている世界が違うということ。
違うからこそ、新たな可能性が開けるにちがいないということ。
だからきくこと。
視座が上がると見える世界が広がるって思っていたけど、それで見えなくなることってたくさんあるんだな。
「見える」ようになって見えなくなること。
最近はそんなことばかりに直面している。
視点と視野と視座はこちら。iwasen.hatenablog.com
なんでもないことの幸せ
首と右肩が痛くて、動けなくなった。毎日の長距離運転がたたったか。
鍼灸に行き、今日は仕事を断念し、安静の1日。
そうなると、一昨日の首も右肩も痛くなかった時が懐かしい。
あのころは幸せだった。そのときは少しも思わなかったけど、よくやってたよ首と右肩。
ぼくの両親は15年以上前に他界している。
いないことにはもう慣れたけれど、話したいな、とか近況を報告したいなと無性に感じる時がある。
そういうときにいないことを再確認する。
もし生きていたら、そんな風に思っただろうか。
高校時代、三重の田舎に住んでいたぼくは片道16キロを自転車で通っていた。
8キロ地点くらいで、猛烈な腹痛におそわれ、進むも地獄戻るも地獄みたいなことが時々あった。
冷や汗が止まらない。今のようにそこかしこにコンビニがない時代。朝からトイレなんて見当たらない。
「ああお腹が痛くないときはなんて幸せだったんだろう。なぜオレはその幸せを噛みしめていなかったんだろう」
と高校生のぼくはよく悔やんだ。
なんでもないときって、そのよさはわからない。
公務員を辞めてから、公務員っていかに恵まれていたかを知った。
中にいるとわからないけど、びっくりするぐらい手厚く守られているんですよ。
手元にあるときにはわからない。なくなってからわかることって、その前にはわからないからどう触っていたらよいかわからない。もっともっと丁寧に触っておいたらよかった、と思わないようにしたいのに。
なんでもないことの幸せ。
そんなこと考えながらぼーっとしてます。
写真は氷川神社に初詣行った時のおみくじ。
誘われて、あーめんどくさいなーとごねたりしたけど、取り立てて楽しくもなかったけど、過ぎてみるとそのなんでもない時間が幸せだったりするんだよね。
おみくじは吉だったけど。
個別化すればよい、という話ではなさそう。
Facebookにこんな投稿をしたら、いろいろコメントがあったので、もう少しここで書いてみます。下書きなし一本勝負です。
若い方々から、個別化にチャレンジしている、なかなかうまくいかない、という相談もよくメールでいただくので、その応答を兼ねて。
↓Facebookの書き込み
自由進度の学びやイエナのブロックアワーのような「自分で学習計画を立てて学ぶ学び方」は、ややもすると進むこと、早く終わることがモチベーションの中心になりやすい。
そうなると学びが陳腐化する。そうなっている例がとてもとても多い。AIによる個別最適化も同様。
個別化すればよい、という話ではないんだよね。教師の力量の底が抜けることにもつながる危険性がある。
どうすればその壁を越えられるか。
いくつか道筋がある。
うまくいっていないところに共通していることの仮説は以下の通りです
①コンテンツの貧困
なぜ陳腐化しやすいか?それは「やらなければならないことリスト」から学習計画を立てているに過ぎない例が多いからです。それでは宿題をやるのと大差ありません。宿題は、明日までにやらなくてはならないことですが、個別化の学びも、いくら学習計画を立てる自由があったとしても、今週中にやらなくてはならない宿題に過ぎなくなります。それでは「早く終わらせよう」がモチベーションになるのは必至。つまりはコンテンツが貧困で「やらなくてはならないこと」に覆われていると陳腐化するのです。学びに気持ちが向かっていない子ほど、「やりがいのないコンテンツ」に終始させられている例もみられます。これが最も大きな要因ではないでしょうか。
②その結果「立ち止まらない」
①から「早く進むこと」がモチベーションになってしまうと、「わからなくて立ち止まる」はマイナスなこととして認知してしまいかねません。そうなると、立ち止まり考えること、わからなさのなかで試行錯誤すること、協同で考えて「わかった!」の喜びを感じる機会が少なくなってしまいます。早く進めたいのだから協同も起きにくい。自分にフォーカスします。
またネットコンテンツによってはすぐに解説や補助問題が出るので、立ち止まる間も無く「進む」ことが前提となります。
③孤立化
②に関連しますが、
「わからない」が「わかる」に移行する際に、自分の力以外になくなってしまいます。行き詰まってしまったときどうしようもなくなってしまう。その学びの環境は必ずしも安心・安全とはいえません。実践の方法によっては格差の拡大につながります。「個人の責任で個人で進め個人で責任をとるモデル」になりかねません。
さて、ではどうするか?
『教育の力』にはこんな一節があります。
...いつ何を学ぶかがかなり決められてしまっている学びのあり方は、考えて見ればひどく非効率的なことです。
子どもたちの興味・関心はそれぞれ異なっているし、学ぶスピードも、また自分に合った学び方も、本当は人それぞれ違っているはずだからです。にもかかわらず、いつ何をどのように学ぶのかが一律的に決められてしまうのは、少なくとも子どもたち一人ひとりの学びの観点からすれば、やはり非効率的なことといわなければなりません。
(苫野一徳『教育の力』 講談社 現代新書、2014、73頁)
「そうそう!だから一斉授業よりも学びの個別化を!」と、ブロックアワー的なアプローチに一足飛びに行きたくなりますが、個別化を目的化しないことです。
この一節の肝は「子どもたちの興味・関心はそれぞれ異なっているし」のところ。
学びの個別化がうまくいくかどうかの鍵は、
そこにその子の「〜したい」があるかです。
昨日の続きがしたい!
あの探究の続きをしたい!
あの本もっと読みたい!
まだつくっている途中だった!
今日はいま書いている作品の下書きを先生やクラスメイトに読んでもらって修正してもらって、文章に磨きをかけたい!
「〜したい」があるからこそ、「その時間を生み出すために時間をどう使おうか」という欲求が生まれる。「今週はこう学ぼう」と計画したくなる。学びに没頭している経験があるからこそ、算数の自由進度においても、立ち止まって考えるおもしろさに留まれる。
日々の学びが充実しているからこそ、たとえ「ねばならない」コンテンツですら豊かに学ぼう、効率的に学ぼう!というモチベーションが生まれてくる。
つまり、遠回りなようですが、学びの個別化の質を上げる一番の近道は、「日々の学びの質を上げる」ということです。プロジェクト、総合的な学習の時間、リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップ、ワールドオリエンテーション、科学者の時間、なんでもいいのですが、良質な学習者中心の学びのなかで、子どもたちの探究が個別の時間に発揮されていくのです。「やめられない!」「続きをせずにはいられない!」からです。
自律的な学習者に成長していくには、その人にとって自分ごとになった「具体的な何か」が不可欠です。逆を言えば、日々の学びが貧困なのに、個別化の時間が豊かで学びがいのある時間になるなんてことはあまりないということです(わからなくなった学習者を置いていく型の、単線の一斉授業よりはずっとよいですが)。
学びへの情熱が、個別の時間に生かされていくのではないか。ですから、個別化の時間、自由進度の時間だけ眺めていても見えてこないことがあるというのがぼくの考えです。
学習者側から考えてみると、
「今日なにするの?」と学習をスタートするのと、
「今日はなにからしよう」あるいは「今日は○○からやろう」とスタートするのでは、大きな違いがあります、その際、自分で学習計画を立てるという、自己選択・自己決定があるからやる気が出る(自律性への欲求)はもちろん、その先の学びへの情熱があって初めて学びの個別化は意味のある時間になるのではないでしょうか。
その根っこになるのは「あそび」。
たっぷり自分で決めてあそび、楽しさをじぶんでつくる経験、没頭をじぶんでつくる経験の積み重ねこそが、「学びの個別化」の土台になります。学びのコントローラーを自分で操作する、というのは自分のコントローラーを自分で操作するということ。その原体験は「〜したい」から出発する日々のあそびです。ですから軽井沢風越学園では「あそび」を大切に大切にします。
話が脇道にそれました。
もう一つの道筋は、ゆるやかな協同文化をそのコミュニティ(学校や学級)に育んでいくということ。小学校の教員はこのアプローチの方がなじみがあるでしょう。関係性が良好だから学び合い、助け合う。だから孤立化が起きにくい。
中高の先生にはなじみの少ないアプローチですし、その場づくりの専門性を低くみる人にもよく出会いますが、ものすごく大事ですよ。それがないところに専門性の刀を振り回しても、その専門的な知識は宙を舞うだけです。
でも、例えば自由進度の学びの「コンテンツ」自体も大事。
それ自体が「やりがいのあるものか」「没頭してしまうものか」どうかは大きい。
NHK「プロフェッショナル」に出ていたイモニイは、まさにそうですね。なんか顔が似ているとよく言われます。大阪にいる妹からもお兄ちゃんそっくりとラインがきました。
さて、では今回書いた道筋。どれがいいんでしょう?そう問うてしまうのは、「問い方のマジック」。
どれも大事だと思います。
「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」はこれからの教育を具体的に変えていく道筋です。
つまりは、「融合」が大事で、どれかひとつじゃないんだということです。
融合して初めて子どもにとって意味のあるものになります。
軽井沢風越学園のカリキュラムづくりも大詰め。さあがんばろう。