友人であり、尊敬する実践家、秋吉憲司さんから書評をいただきました。
ありがとうございます。
秋吉さんは、3月に授業を見に来てくれました。
ボクの実践の最後の目撃者なんだなあ。
そのときの参観記はこちら。
ご本人の許可をいただきましたー。
【岩瀬学級参観記】
今回、念願かなってゴリの学級を参観することができました。ゴリの「先生」としてのあり方や、ゴリの学級に流れる空気を感じることが今回の1番の目的でした。
3時間の子どもたちの「TED×6−3」は、ゴリが大切にしていることが子どもたちの腹にしっかりと落ち、そして自分のものにしているのが十二分に伝わってきました。僕も腹に落ちました。
【訪問メモ】
★朝のリハーサル
9時前に教室の近くに行くと、子どもたちがワイワイと発表の準備をしていた。男女混ざっているのかな?と思ったらそんなことはない。女子は女子、男子は男子でいくつかのグループに分かれて練習していた。それでもそれぞれのグループに固執しているわけではなくて、近くのグループと自然に、おしゃべりもしていた。僕は男女混ざることになんの価値を感じているのか、僕はそこで何を判断してるのか、しっかりとよく考えてみようと思った。
ゴリはその間、教室で声をかけたり、隣のクラスのリハーサルを見に行ったり、参観に来る保護者と談笑したりしていた。それにしてもゴリは積極的に保護者に声をかけていくんだな〜と思った。挨拶+雑談をどの保護者ともしていたのがとても印象的。
★発表
途中チャイムの休憩をはさみながら3時間目の途中まで発表が続いた。
子どもたちが発表している時のゴリは、ずっと笑顔でうんうんと頷いていた。
放課後ゴリと話している時に、「実は話せるかどうか心配だった子がいた。」と言っていたけど、その子の時もゴリはみんなと時と変わらない「優しく、大丈夫だよ」という笑顔で見つめていた。
一人一人のプレゼンは本当に素晴らしかった。「上手な子」もいれば「そうでない子」ももちろんいたが、そんな基準で見ることが意味のないほど、素晴らしかった。全員が自分の成長や思い、葛藤を物語のようにエピソードを交えて語っていた。そこには指導方法なんてなくて、子どもたちが自分自身の力でこの1年間でトライアンドエラーを繰り返しながら得たものだと思う。
先生が作ったお膳立てしたドラマではなく、子どもたちが一人一人が創り上げていったドラマ。ゴリはそのドラマが生まれるように環境(1人1人が成長実感し、次の成長へのプロセスを回していく)をいやらしくなくデザインしているのだと思う。そして、デザインして、見つめているのではなく、一緒にその環境の中に溶け込んでいる。一人の子が言っていた「イワセンは何もしていないようで、何かしている」
がとても印象的だった。
一人一人のプレゼンに共通していた事は
「成長を実感し、それを担保に次へのチャレンジをしていった。」
ということだった。まるで、組体操をした、修学旅行に行った、と言うのと同じようにあたりまえに言っていた。全員が自分が成長のプロセスを実感し、それを次のチャレンジに向けて回していた1年間だったことがありありと現れていた。
「あの子が変わっているんだから自分も変われるはず」
「自分が変わったんだから、あの子も変わったはず」
「みんなが変わっているんだからクラスも変わるはず」
そんなイメージを子どもたちは抱いているんじゃないだろうか?
そういえば、スピーチの中で
「最高のクラスだった」
とは誰一人して言わなかったような気がする。クラスのためにとか、クラスをよくするためにってのは、彼らの中にあまりなのかもしれない。クラスが変わることは成長した自分たちが行き着く先の結果論なのかもしれない。僕たちは、日本を良くするために、世界をよくするためにを考えなきゃいけないわけで、クラスをよくするなんて、スケールが小さいことを言っていてはいけないのかもしれない。クラスはなんて1年で終わってしまうけど、日本や世界は永遠に続いていくもので、それをよくするために、自分たちは何ができるようになるかを考えていれば、ほっといてもクラスなんてよくなるのかもしれない。クラスからもっと先の視点へ、1年間から10年、20年へ視座を上げて子どもや、クラスを考えていく必要をゴリはきっと考えているのだろう。
では、子どもたちが「成長を実感し、それを担保に次へのチャレンジをしていく」ためにゴリは何をしていたのだろう。と思いを巡らせてみた。自分の成長実感を担保に次へのチャレンジができるようになれば、そこに先生の変な褒め言葉や、勇気づけなんていらなくて、自分で自分を鼓舞することができるようになる。周りの友達も成長していれば、自分も伸びるはずという安心感や期待感に変わるはず。
ゴリは、そばで見守っている。受容している。聞いてあげる。興味をもってくれる。大丈夫。失敗してもまたチャレンジしようっていってくれる。全員に対する絶対的公平性と絶対的受容。
変わるから、それを信じてチャレンジしていこう。応援するし、できるようにするからって信じて言い続ける。そんなことをずっとずっとそれこそ4月から今もきっとブレずに言葉と態度で示してきているのだろう。これがゴリがしてきたことだと思う。だから、ゴリは多分、チャレンジしないことを許さないと思う。そういう子がいたら、朝マラソンで3ヶ月間チャレンジしなかった子に介入したように、ゴリは介入していく。あたりまえに聞こえるかもしれないけど、毎日チャレンジしなきゃいけないって思うことは子どもたちにとって、結構シンドイのではないかと思ってしまう。
でも、ゴリの学級の子たちはシンドイと思っている感じがしなかった。むしろ、チャレンジを楽しんでいる、チャレンジは自分を成長させることって腹で理解していると思った。それは、多分チャレンジの質の違いなのではないかと思う。チャレンジって言う時に、ゴリや僕たち先生がが思い描くチャレンジじゃなくて、
その子が自己選択自己決定したチャレンジが尊重されるいるのだと思う。ゴリはそれをひたすら見守り、大丈夫失敗して当然、できるようになるから。困ったらちゃんと助けるから、自分で一歩踏み出してみようと心から言い続ける。子どもの力を心底信じている。もしかしたら、全員で同じことにチャレンジしていることはクラス目標ぐらいなのかもしれない。
いや、到達の仕方はその子の自己選択自己決定だから、厳密に言えば全員で同じことにチャレンジしていることはないのかもしれない。きっと個人がそれぞれのことのにチャレンジしていることの方が多いと思う。
「ゆるやかな共同性」っていうのはたぶんここでも同じことなのではないか思う。
そして、ゴリは成長実感を全員感じることができるようにそのプロセスを一人ひとり最初のチャレンジの時にていねいに作っているだと思う。それが結果として、全員を一律に見ないで個別で見るような文化をクラスにつくりあげているのだとう。いや、一律にみないで個別で見るというのは子どもたちの文化の文脈ではあたりまえで自然であるのだと思う。
しかし、教師が個別のチャレンジを見つけ設定し、チャレンジをサポートしていくのは非常に難しい。そこには、個人への観察力や翻訳力、そこの子の裏に流れるストーリーの見立て力、そして、チャレンジを達成するまでの様々な道筋を立てる力が要求される。ゴリはここの力が以上に高いのだと思う。しかも、それを黒子に徹してできているのだと思う。だから、子どもたちは自分の力でそれを成し遂げたと思える
。一人の子が言っていた
「イワセンは何もしていないようで、何かしている。」
とはまさにこのことなのではないかと思う。
1人の女の子の発表の中に「ライバル」という言葉がステキだった。
「最初、私の自学ノートはあまりよくなかった。ある日、◯◯の自学ノートを見たら凄かった。◯◯のようになりたいと思って頑張った。そうしたら、追いつきたいから、追い越したいと思ってライバルになった。」
あの子はすごいな〜で終わるんじゃなく、あの子みたになりたから、抜かしてやる!そう思えるこの子の中にはたくさんのたくさんの成功体験と失敗からくる成功体験がサイクルとなって回っているんだな〜と思った。
★休憩時間や休み時間
さっきまでと打って変わって、いい意味で低学年や中学年のように無邪気に遊んでいた。けん玉したり、緊張から開放されて寝っ転がったり、「TED×6−3」の黒板には、文字を立体にしたり、いたずら書きをしている子もいれば取っ組み合いをしたり。
高学年だってことで大人になることを要求しちゃうけど、まだまだ子どもの1面があっていんだよなと再認識させてもらえた。
そして、ゴリがこの間、動き回っていたのが印象的だった。司会グループの所へ行ったり、遊んでいる所で一緒に遊んだり、終わった子にFBしたり、次の子へ大丈夫だよと声をかけたり。イワセンであったり、一人の岩瀬少年であったり、まさにクラスの一員という感じだった。休憩時間や休み時間にこそ積極的に子どもたちとコミュニケーションを取っているようにみえた。
★帰りのサークル
帰りのサークル。後で見ていた僕を、一人の女の子が
「一緒にサークル入りませんか?」
と誘いに来てくれた。
きっとゴリの教室に参観に来た人も同じように帰りのサークルに入っていたんだろう。と思えるほど、自然に当たり前のように誘いに来てくれた。正直とても嬉しかった。サークルに座ってみると、サークルで出来上がっている空気感がとてもいい。サークルを子どもたちがとても大切にしていて、自分たちのものとして思っているのかがよく伝わってきた。
帰りのペアトークのお題は「TEDどうだった?」
誘ってくれた女の子とペアトーク。
「TEDどうだった?」
「緊張した。練習とかリハーサルもいっぱいやったけど、本番は緊張した。でもうまく行ってよかった。」
(中略)
「他の子の聞いてどうだった?」
「みんなもすごいよかった。」
「一番印象に残っているエピソードある?」
「最後の◯◯のTEDが良かった。」
「どうして?」
「◯◯は、前は・・・・」
「はーい、時間です。」
この先を聞きたかったけど、ちょうどいいところで時間切れになってしまった。残念。
その後のゴリは1分位でで月曜日の予定を話して
「今日は土曜日だから、帰ってたくさん遊ぶようにさようなら〜。」
と言ってサークルは終わった。
先生からのTEDの感想を伝えるわけでもなく、今日一日をまとめるようなこともなかった。
「なぜしなかったの?」
と今これを書いている時に疑問が湧いてきたが、あの場にいると言わないことの方があたり前だったと思う。それは、子どもたちは自分とお互いに満足感を十二分にもっていたからだと思う。あそこで、ゴリが話すことや価値付けすることはきっとノイズになってしまうんだと思う。サークルの時間は全部で5分もなかったけど、きっとこのサークルで子どもたちは明日も来ようと思う位元気をもらえる場なのだ。
すぐに帰るのかと思ったら、みんななかなか帰らない。
「この時期は名残惜しいんだよ。」
とゴリは言っていたけど、みんな休み時間のようにワイワイと話しながら、高学年にあるような恋の話をしたり、けん玉をしたり、じゃれあってみたりしていた。ゴリはそこウロウロ回りながらけん玉のお手本を見せてみたり、雑談したり、TEDの話をしたりしていた。うまくいえないけれど、僕にはすごく不思議な時間だった。でも、ステキな時間きっと僕に足りない一番の時間なのかもしれない。
★〈感想〉
ゴリの中には、どんな学習者になって欲しいのかがまずあって、そのためのトライアンドエラーができる成長実感を感じるプロセスを決められたコンテンツを使ってスパイラル状に1年間迫っていたんだなと思いました。乱暴に言うと、教科のコンテンツができるようになることに重きを置いていない。「最高のクラス」にも重きを置いていない。
個人が成長実感を伴いながらチャレンジを続けていくことができるかを、自分の足でちゃんと一歩踏み出すことができるようになることに重きを置いていると思いました。
でも、いきなりは、失敗してしまうから、成長実感を感じることや、失敗を楽しめること、そこまでは伴走し、指し示す。そこからはそれを糧に、自分のチャレンジを回すことが始まる。そのためのに常に、成長を感じる、変化を感じるプロセス、ふりかえり、授業デザインが肝になっているのではないかと想像します。
そう考えると、ゴリもやっぱり体験学習を回していると思います。きっと、優しいように見えて、多分冷たい厳しい部分もあるんだと思います。でも、安定的にたつことで、日々の圧倒的なコミュニケーションの量で、見放されたとかではなく
「信じて待ってくれている」
と子どもたちは感じて1年間を過ごしてきたのだ発表をみながら思いました。
個人の中に低学年と高学年が混在しているように見える6年3組の子どもたちは
「子ども時代を幸せに生きて」いました。
ゴリが一人ひとりの成長のエピソードを語ることができるように、ゴリのクラスの子どもたちは友達の成長のエピソードも語れると思いした。それも自然に。今回の参観で、自分の中に自信がもてたこと、自分の中に足りないもの、自分が目指すべきものが子どもの姿として見みることができました。突然の参観を引き受けてくれてありがとうございました。
6年3組のみなさんにも、ありがとうと伝えて下さい。
ゴリへ、本当に本当にありがとうございました。
一生の宝になりました。
まだ、言語化できない所があるので、また色々話をさせて下さい。
秋吉健司