教員1年目。
池袋の書店で『9日は学級記念日です』という本を手に取りました。
1993年の出来事です。すげー前だな。おっさんになったなあオレ(涙)。
ボクにとって、園田雅春さんの実践に出会ったことが自分のその後の人生を大きく変えるきっかけとなっています。その出会いの瞬間でした。
この本に衝撃的な写真が。
畳とこたつの写真。
他の教育書では見ないぶっとんだな写真でした。
当時、特に深く考えたわけではなく
「おもしろそう!」というその思いだけで教室においてみることにしたのが、
何ともボクらしい(笑)。
(これはきっとボクの子ども時代の原体験にあると思うのですが、それはまた別のお話。)
当時、伊那小や高島小の総合学習に関心が高かったボクにとって、
現場に出てみると、総合学習はおろか、日々をしのぐことで精いっぱいで、そんな自分にもがっかりしていました。
まさにリアリティショックに打ちのめされていたんです。
今思えばよくもまあチャレンジしてみたものだなあと思います。
学校には、クランディニンのいう「学校についてのストーリー」があります。
子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―
- 作者: D ジーンクランディニン,ジャニスヒューバー,アン・マリーオア,マリリンヒューバー,マーニピアス,ショーンマーフィー,パムスティーブス,田中昌弥
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2011/04/15
- メディア: 単行本
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簡単に言えば、
学校とはこのような場所であるという社会的に語られている表向きのストーリー。
教室には、教卓があり、黒板があり、個人の椅子と机があり、前を向いて座り、先生が話し、生徒は聞く。
このような当たり前の風景は、学校についてのストーリーが支えています。
「だってそういうものだよね」と。
そこに畳を持ち込むとどうなるか。
教室の風景が変わり始めるんですよね。
そこに集まって本を読む子。おしゃべりを始める子。休み時間の係の打ち合わせをこたつでする子。教室の中に子どもたちの意思が見え始めてきました。
「こたつぶとんほしいよねー!」
「トランプ持ってきたい!ここに置いておけばみんなでやれるよー!」
「読書はここですることにしよう!」
人が集まる場所ができると、人は自然に集まってくる。
たった畳1枚で教室の風景が変わり始める。
当たり前の風景に、学校外で日頃慣れ親しんだ畳を置くことで、子どもたちの関心が誘発され始めたのです。
「学校についてのストーリー」に揺らぎが生じる。その「揺らぎ」にボクは可能性を感じていたのだと思います。それ、すごい大事ですよね。
そもそもの前提を「それでいいのかな?」と考え直すきっかけ。
学習環境の改善ではその揺らぎを起こしやすいのかもしれません。
というわけで、伊那小にあこがれ、
「子どもが『自分のやりたい』で満たされている場を学校の中に創りたい」
と潜在的に考えていたことが、畳1枚の導入の経験をきっかけにして、
「もしかしたらできるかも」という手応えに変わったきっかけとなった出来事でした。
その頃は次々のこのような「環境変化を誘発する具体的な何か」にチャレンジしていきました。本をたくさん置いたりね。
しかしそれはあくまで教師であったボクがやっていること。子どもたちにとっては「関心を引き出される」受け身の立場です。
やがて、「子ども自身が教室環境を変えていく」という教室リフォームプロジェクトへとつながっていきました。
しかしその発想につながるまでには5年近くかかっています。
人の成長って時間がかかるんだなあ。
たった1枚の写真との出会いから、教師としてのボクが大きく変わるきっかけに。
その後園田さんの実践記録は全部買い、読みました。
この写真は、園田さんの何冊もの実践記録の魅力とともに、ボクにとっての象徴的な1枚となりました。そう思うと、「実践記録」というのは本当に重要だなあと思うのです。
こうやろうというノウハウではなく、ストーリーを伴った記録へ。
昨今、「実践記録」が減ってきています。
もう一度日々の実践を記録として残し、共有する価値を考え直したいなあと思うわけです。
蛇足ですが、
「よし!畳をおいてみよう!」
というのはオススメしません(笑)。
そういうことではないのですよ。
畳はあくまで「比喩」です。
当たり前を見直すきっかけがボクはたまたま畳だったというだけです。
そんなきっかけが見つかりますように。