教室に行ったときに見ていること。
知り合いからメッセージで、「教室に行ったときに何を一番見ていますか?」と聞かれました。
ふむ、なんだろう。考えてみよう。
ここ数年、いろいろな教室にお邪魔することが増えてきています。
あらためて考えてみて、ぼくが一番気にしていること、それは、「教室の中に参画の仕組みと文化があるか」です。
見ているというより気にしている。
例えば 、そろそろ12月も近いしクリスマスパーティーをしたいなあと思った子がいたとします。
その時に、声を上げて実現へ向かう仕組みがあるか、そのように「〜たい」ということが実現できる文化があるかということです。
「先生!パーティーしようよー!」ではなく。
朝のサークルタイム。
「何か相談したいことある?」と今日のファシリテーター役の子が問いかけます。
ある子が「12月が近いしクリスマスパーティーがしたいんだけど」と切り出しました。
「もう少し詳しく聞いていい?」
「うん、12月、みんなでクリスマスパーティーがしたいんだよね。卒業も近いし、今何人かで練習しているダンスも披露したいし」
「じゃあ、プロジェクトチームに入りたい人を募集して企画してもらおう。やりたい人−」
「はーい!」
「12人もいる!まーいいか。ではお願いします!」
これでOK。
やるかやらないかを話し合うより、やりたい人が、必要な人に相談しながら企画して進めていく。この試行錯誤が大事だなと思うわけです。
そのうち、プロジェクトチームから朝のサークルで提案があるはずです。
プロジェクトチームの人は時間確保のために、担任と交渉したり、どんなことをしたいかアンケートをとったりとステークホルダーと必要な相談をしながら進めていく。「〜たい」を大事にする。
「最近、登校班(近い地域の子どもが集まって登校する仕組み)でちょっとトラブルがあるんだけど、だれか解決のためにファシリテーターやってくれない?」
という声がでる。
何か問題が起きたとき、企画したいこと、やってみたいこと、改善したいこと等、「〜たい」という欲求が生まれたとき、すぐに提案して動き出すことができる、そんな仕組みや文化が教室の中にあるか。
まずやってみること(試行)が大事にされているか。
教師を介さずに動き出せる仕組みと文化、教師に許可を得るということなく動き出せる仕組みと文化、それを一番気にしているなあ。
簡単に言えば、「自由を使ってみること(試行錯誤してみること)が大事にされているか」です。
言い換えると、生成的アイデアで組織が創られていく、自己組織化していく、ということでしょうか。 正解や目的、目標に向かっていくのではなく、弁証法的に意味を形成していくわけですね。
担任時代、学級で行ったワールドカフェである子が書いていたこと。
熊谷晋一郎さんは、依存先を増やすことが自立すること、とおっしゃっていました。
そのためにも、「〜たい」から出発して、折り合いつけたり、一緒にやったり、力を借りたり、貸したりする原体験を積み重ねること。
学校だからこそできることだなあと思います。
では、せんせいはそこにどういればよいか。
苫野さんは協同探究者としての教師と行っていますが、共感します。
ぼくは協同探究者でいるために、共同修正のマインドを持っていたいなあと思います。
犬のロンのこと。
小学生の頃、通学路の途中の家に「ロン」という黒白の犬がいた。ちょっと大きめの犬。青い犬小屋に住んでいた。毎朝「ロンおはよう!」となでて、帰りには「ロン!元気だった?」と、めちゃくちゃになでる。そんな毎日。
ロンとの時間は、ぼくの日常だった。自分が飼っているような気分だった。
5年生のある日、
「ロンは天国に行きました。かわいがってくれた皆さんありがとう」
という紙が小屋に貼ってあった。死というものに初めて出会った瞬間。
なんと受け取ってよいかわからない出来事。
ロンのいない小屋は、小学卒業まで置かれていた。毎朝前を通るたびにロンのことを想った。
中1になる時に北海道から三重に引っ越した。
引っ越してすぐ。近くのジャスコ(今のイオンですね)に行くと、ペットショップの前のゲージに子犬が6匹。
「1匹1000円」という雑種の中に黒白の子犬がいた。
「ロンだ」。そう思ったぼくは両親に懇願し、半ば強引に連れて帰った。生まれ変わりと信じたぼくは「ロン」と名付け、一緒に暮らし始めた。
青い犬小屋を父親と一緒につくった。
山奥に住んでいたので、散歩は山の中。
春に散歩に行くと、家に着く頃には、ビニール袋の中は、わらび、タラの芽、ぜんまいでいっぱいだった。
ヘビに出会って2人で格闘したこともある。
夜には中学の友だちと、ロンと蛍を見にいった。
中高と深刻な反抗期まっただ中だったぼくにとって、ロンは日常の中の心の支えだった。かなりしんどい状況だったぼくにとって、何も言わずに好意を寄せてくれるロンにぼくは救われていた。親とは毎日のように口論。ひどい状態で兄弟にもとても迷惑をかけた。ロンにだけは、優しい言葉をかけることができた。
高校の時には、ロンの散歩中に知り合った人と、初めて付き合うことにもなった。毎日毎日1年半、ロンの前でおしゃべりした。
ぼくが東京の大学に行くとまもなくロンの訃報を聞いた。
ロンのことが気になっていたぼくにとって、どう受け止めていいかわからなかった。
大学の寮のまわりを散歩しながら、ほっとして泣いた。
ぼくにとってロンはペット以上の存在だった。
* * *
あれ?
気づいたら、先週から我が家に黒白の犬が!
ようこそ。
名前はロンではなく、よつばです。
小5娘がつけました。
彼女にとってどんな存在になるだろうか。
いやー、よつばかわいいわー。
毎日さっさと家に帰りたい。明日の朝6時からお散歩デビューです。
研究授業で本当にいいの?
今日の大学院の授業での小講義(ミニレッスン)で話そうと思っていたこと(≠話したこと)を転記しておきます。
教員が学校内で学び、成長する機会をどうデザインするか、ということは重要なテーマです。校内研究がその大きな役割を果たす「はず」なのですが、「校内研究」『校内研修」と聞くだけで「ああ…」とため息が出る人も多いはず(若い頃のぼく)。
木原(2010)は、校内研修には企画・運営に関わる 5つの問題点があると指摘しています。
1.機会が限定されている
2.個々の教師の問題意識を反映させがたい
3.型はめに陥りやすい
4.閉鎖性・保守性が強い
5.適切なリーダーシップが発揮されない
ひとつひとつの項目をみると、思い当たることも多いのではないでしょうか。研究の成果を「型」の創出に求める考え方が強く、また「仮説検証型」という名の、最初から落としどころが決まっているものもよく見受けられます。
(「子どもの主体性が発揮される授業が展開されれば学習意欲は高まるだろう」的な・・・そりゃそうでしょ的な・・・・ほんと多い。)
また、日本の主に公立校における校内研究は、その「内容」、つまりどの教科領域を対象にするか、どのような授業を目指すかなどに終始してしまいがちでした。
体育の得意な方が校長になると「校内研究は体育でいくぞ!」というわけです……
その一方、研究組織はどのように組織すべきか、研究はどう進めていくのがよいのか等、組織の形態やプロセスのデザインへの意識は弱かったといえるでしょう。
今津(2001)は、学校研究における「組織の形態」への意識の弱さを指摘した上で、
日本では教師相互の関係性が緊密であることが前提とされていたために、「形態」へと研究関心が向かわなかったせいであろうと述べています。
かつての学校では、同僚性がある程度機能していたので、若手教師は学校文化に参入することで同僚との関係性の中で学ぶことができていたと言えそうです。ぼくの若い頃はギリギリそうだったなあ。教育実習の時は職員室でお酒を飲むがまだ許されていた時代。
しかし、年齢構成の変化、多忙化の中で、その同僚性も機能しにくくなってきています。 また今津は、今までの日本の一般的な教師集団を「共同文化」すなわち、同質同調性が原則であり、個々の自己主張や競争よりも、組織メンバー全員の強調や同調を重視してきたといいます。つまり、まずはじめに「共同」ありきで画一性へと拘束し、各教師の個性や自律性の優先順位が低かったということです。この文化が木原の指摘している問題点とつながっていそうです。
教師が勤務時間内に学び合う時間はほとんど取れていないのが現状です。その限られた時間を従来の授業研究だけでは、とってももったいない!、とぼくは思います。「研究授業」という言葉を聞くだけで「ああ…」と気持ちが沈む人が少なからずいる現状。研究授業や授業研究自体が悪いのではなく、そこへ至るプロセス設計のミス、組織における学びの場としてのデザインの失敗があるとぼくは考えています。
ではこれからの校内研究はどこへ向かっていけばいいのでしょうか?
一つのアイデアとして、内容ではなく形態に焦点を当てる、つまり学校に「協働文化」を構築するための時間にするのはどうでしょうか。
今津によれば、協働文化とは、
「各教師のユニークなアイディアや実践を尊重しつつも、相互の連携を深めて、各教師が成長発達して学校全体の教育実践の質を高め、生徒の学習を促進させる文化」であり、教師一人ひとりを尊重した相互連携を目指すべきだと主張しています。そうすると子どもたちや教師の利益となり、さらにその学校が持つ組織文化が専門的に高められるだろうというわけです。
学校に協働文化を創出しようという試み、教師を同質同調性から解き放ち、自律した専門家への道を歩むための素地を組織的につくっていく。その上で相互に連携し個人も組織も高まっていく、そしてそれが子どもの利益となる。そのような協働文化が生まれれば、教師同士は互いにサポートしあい、同僚同士で学び合い、教え合う活動が生まれやすくなるのではないでしょうか。
そう考えると、端的には、対話型組織開発に向かっていくべきと考えます。
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職員室のチームビルディング、様々な対話をベースとした組織開発の手法(アプリシエイティブ・インクワイアリー、OST、フューチャーサーチ、ワールドカフェ等)などいろんなアプローチがありそうです。
対話型模擬授業検討会も、学校の中に対話の文化の構築という側面もあります。
そもそもぼくが2002年頃からワークショップやファシリテーションに関心を持ち始めたのは上記のような問題関心でした。
形態(組織デザイン)が変わってくれば、研究授業も価値ある学びの場として再機能してくるかもしれません。もちろん研究授業のあり方の変革から組織自体を変えていくというアプローチもあります。これは対立関係ではなく、両方あり、です。
とはいえ「校内研修」、「学校研究」という言葉に囚われてしまって、限られまくっている学校関係者全員が関われる貴重な時間を、慣習的に「研究授業」にしてしまうことで、今学校がしなくてはいけないこと、したほうがいいこと、したいことが見えなくなってきているんじゃないかなあと思ったりするわけです。
少なくとも「えー・・・研究授業だれやる?・・」という時点で、その組織は、その前にやるべきことがあるはずです。研究授業アプローチを一度手放してみるといいと思うなあ。
参考・引用文献
・木原俊行「教師の職能成長と校内研修」北神正行、木原俊行、佐野享子『学校改善と校内研修の設計(講座現代学校教育の高度化第 24巻)』2010,学文社
・今津孝次郎 「学校の協働文化」 『変動社会の中の教育・知識・権力」藤田英典、清水宏吉編 新曜社 2001
お客さん化しない。
教室の中にはたくさんの掲示物がある。
学校によっては統一した掲示物にしているところもあるだろう。
新学期になると、先生が教室のロッカーに一人ひとりの「名前シール」を貼ったり、昇降口の下駄箱に名前シールを貼ったりする。放教室に季節の飾り付けをするのも先生。掃除当番表も、給食当番表も先生が美しく作って掲示する。
そして教室は「先生が丁寧に創り上げた場所」となる。ここで学ばれていることはなんだろうか。
「自分がやらなくても自分の周りの環境は自動的に整っていく。」
「自分の周りを居心地よくするのは先生の仕事。」
よかれと思っていることが子どもたちの自主性を阻害し、「やってもらうが当たり前」という受け身にさせている。
子どものお客さん化。
「子どものため」と一生懸命にやることが結果として何を引き起こすのかを常に考えたい。「掲示物は先生がつくるもの」「子どもが困らないように"親切"に準備しておくもの」という前例踏襲は目的を忘れたただの手段になり、学校の「表向きのストーリー」として残り続ける。
自分の環境や未来に関与しなくてよい、という体験の積み重ねが生み出すことは何か。
学習環境も学習者であり、その場の主体である子どもたちと一緒に創っていけばよいのではないだろうか。
「教室のロッカーに一人ひとりの名前シールを貼る」には他の方法はないだろうか。
「先生、ロッカーに名前シールが貼ってありません。」
「ほんとだねー」
「誰がどこに入れるかわかりません」
「そっかー、それは困ったね。で、どうしたい?」
「名前シール貼りたいです。」
「お!いいアイデア。どうぞどうぞ。そこにシールもあるし、名前の印もあるよ。あっちのテプラもあるから使ってもいいよ。説明書も入ってるから読んで使ってみてねー」
これで何の問題もなくスタートできるはずだ。(スタートカリキュラムなんてこんなところからスタートすればいいんじゃないかな。)
「先生、給食献立表ないと明日の給食が何かわからないです」
「確かにそうだね」
「貼っていいですか?」
「いいも悪いも、自分たちの場なんだから、いいと思ったことは、ぼくに断らずにどんどんやるといいよ」
イラストが得意な子が手伝ってくれたりして、必要に応じた「給食献立表コーナー」ができあがる。
困ったら、不都合を感じたら、自分たちでなんとかしていく。そうして、自分たちで教室をつくっていく。「〜したい」が大切にされる環境の中で、学習者の中に環境への当事者性が育つ。
そんな小さな民主主義を丁寧に積み重ねていくこと。
小さなことだけれど、学校文化を変えていく確かな一歩のはず。
つくることの体験の積み重ねなくして、社会の当事者になるはずがない。
「学校の仕組みや制度が変わらないから今の教育はダメなんだ」といいたくなったときは(その気持ちもわかるし,一定妥当だとは思うけれど)要注意。それを理由にして思考停止し、結果として荷担していることもある。
やれることなんて手元にごろごろ転がっているんだよね。
関わる人が当事者になること,自分事からスタートすること。シンプル、シンプル。
同じこと、3年前にも書いてます。
人が学んだり育ったりする場ってどんな場所なんだろう。
今日は、軽井沢風越学園設立準備財団の放課後の学び場「風越こらぼ」の隅っこでお仕事。ライティング・ワークショップをやっている人、フェルトで筆箱をつくっている人、木工をやっている人、ドールハウスを作っている人等々、それぞれ忙しそう。
そんな「〜たい!」の熱を背中で感じながら仕事するのは心地いい。ぼくがパソコンを打っているのも誰も気にしない。
この本のこんな一節を思い出す。
あなたの地域で子どもたちが集まってきて(もちろん、大人も可!)、遊び、探究し、新しい友達をつくり、学べるようなコミュニティー・センターを想像してみてください。そこには、コンピューター、芸術をする道具、スポーツをする道具、科学をするための道具などが、遊ぶために用意されています。同じところには公共図書館も併設されています。地元の人がたくさんのクラスの教師をして講座を開いています。音楽、芸術、スポーツ、数学、外国語、料理、ビジネス、小切手帳の収支の合わせ方や、他に地域の人が勉強したり、練習したりするのが面白い、楽しい、大切だと思うものは何でもです。そこには、講座を取るための要件も、成績も、人のランク付けも比較もありません。地域の劇団や音楽グループがそこで発表もします。自分たちの興味関心に合わせて、すべての年齢の人が新しいグループを起こすことができます。そこには、室内で遊べるように体育館もあります。可能なら、外で遊んだり探索したりできるように野外の運動スペースや林まであればいうことありません。子どもたちもセンターにやってきます。来なければならないからではなくて、友だちがそこにいて、たくさんやることがそこにあるからです。日中働かなければならないので、保育サービスが必要な親にとっては、センターがそれを提供しているかもしれません。そこに集っている年長の子どもたちの楽しみと実益を兼ねて、年少の子たちのケアを手伝える仕組みがあれば、誰にとってもいいこと尽くめです。
人が育っていく場ってどんな場なんだろう。
「学校」という枠組みを外して考えたとき,どんな場が立ちあがってくるんだろうか。
あ、子どもに「宝石探しに行こう!」と誘われたので,ちょっと外に行ってきます。
真っ暗だけど・・・・・
これは、顕微鏡が必要になるな−。いろんな岩石の特徴に進むかもなー。
とはいえ、欲張ると本人の探究にならないし。
今日も協同探究者の修行は続く。
もうすぐ第2期はじまりまーす。
あこがれる気持ち。
サマースクールの高学年プログラム、「風越山荘を作ろう」でのこと。
プロの大工の方(以下師匠)がインパクトドライバー(電動ドライバー)の使い方を見せてくれた。。柱を「チュイーン」という軽快な音ともにあっという間にビスで留める姿は、単純にかっこいい。
プロの仕事にあこがれる、そんな感じ。
早速練習を開始したけれど、なかなかうまくいかない。強く押しつけるのがこわくてねじが飛んでったり、ねじ山が切れてしまったり。しかし不思議なもので諦めたりしない黙々とやり続ける。
「できた!」その時の顔はグッとくる。
窓と扉を作っていたチームでは、師匠が鋸で直角に切るお手本を見せてくれた。
「おー!」。
早速、「直角コンテスト」と称して、鋸で直角に切るチャレンジスタート。初めて鋸を本格的に使う人にとっては当たり前だけれど最初はなかなかうまく切れない。でも真剣。師匠のようにきれいに切りたい。
最初は「鋸はできない」と手を出さなかった子も。
でも。
他の人たちが真剣に鋸に向かう姿を見て影響を受けたのか、しばらくして「自分もやってみたい」という気持ちが生まれたよう。いや、どうしてやりたくなったのかはわからないな。何が起きていたんだろう。
緊張した様子でスタート悪戦苦闘しながらもようやくひとつ切れて、「できた!楽しい〜!」と最高の笑顔。早速師匠に見せたら「70点!」の評価だった。
例えばこれが学校での漢字テストだったら、70点だとなんだか気持ちが萎えてしまったりできない自分にガッカリしたり。
しかしこのときは違ったんだよなあ。
「つぎは100点だ!もっともっと直角にする、かんぺきな直角を目指す!」と言って、何度も何度も直角目指してギコギコ。
その様子を見た人は直角にするためのアドバイスをしにきてくれる。アドバイスを素直に受け入れていくと、どんどん直角に近くなっていく。その後の自由時間にも「鋸を練習したい」と主張するくらいの没頭ぶり。ぼくが近くに行ったときも、自慢げに切り口を見せてくれた。
プロのようにできるようになりたい、友だちのようにやってみたい、うまくなりたい、マネしたい、というような「〜たい」という気持ち。
それは言い換えると「あこがれの気持ち」といえるのではないか。
あこがれの対象のようにすぐになれるわけではないし、その差も感じる。でもそんな時は不思議なもので、その差から「できない自分」にがっかりする、比較して劣等感を感じるというようにはなりにくいんだ。むしろ「なってみたい自分」に向かって情熱がわき起こってくる感じ。あこがれの気持ちって成長するエネルギーなんだなあ。
一方、例えば漢字テストでは、自分よりできる人がいても「あこがれる」となりにくい。我が子の小学校時代を思い出してみても、「〇〇ちゃん、漢字50問テスト一発で100点だったんだよー」「えーすごいじゃない。目指してみれば?」「えー無理だよ、苦手だし…」。彼女にとって漢字の練習は、やらなくてはいけないこと。やるべきこと。そんな時、私より漢字ができる〇〇ちゃんはあこがれの存在ではなく、比較して「できない私」を感じさせられる存在になるよう。「できている状態」から引き算した「できない私」。
あこがれの場合は、今の自分の時点と比べてどんなに離れていても、あのようになってみたい、やってみたい、マネしてみたいというエネルギーを生み出す。ところが、やらなくてはいけないこと、やるべきことの場合は、今の時点と比べて離れている自分、できない私に焦点が当たる。
あこがれの気持ちから生まれる「〜たい」という気持ちは、学びの源泉だ。
探究の学びを考える時、「その子の問いから出発する」と、ついぼくは、その子の中から湧き上がってくるものと固定的に考えてしまいがちだった。
もちろん、そういうこともあるけれど、いつでも中から湧き上がってくるとは限らない。
最初のエピソードに書いたサマースクールの時のように、何か未知のもの、すごい人や、すごいこと、没頭する友だちに出会ったりすることを通して、「あー自分もあんな風になってみたい」「自分もやってみたい」と外からやってくることもあるのだと。
ただひたすらやっているうちに、気がつくと探究が始まるいうこともある。そうなったら、「それは学びか遊び」かなんて問いは、大人が安心したいだけで、当事者にとってはどうでもいいんだよな。
だからぼくたちは、本物との出会いを通して生まれるあこがれの気持ちを大切にしたい。「しなければならない」から出発しないようにしたい。
学びの核は「〜たい」という情熱だ。
完成、おめでとう!
今日は、インドネシアの教育を変えようという熱い思いの方々が狭山まで来てくれた。限られたリソースであることを言い訳にせず、本気で教育を変えたい!と試行錯誤している方々はかっこいい。
「〜たい」は社会を変える情熱だ。
なんかその情熱に感染しちゃったなあ。
言い訳せず、前を見続ける姿勢にあこがれてしまった。
来年はインドネシアに行こう。
いまここ。
公立であれ、私立であれ、オルタナティブであれ、いろいろな「しがらみ」や、制度や、予算や、人間関係や、程度問題はありますが、どこでも必ず「不足なもの」が存在します。
ぼくがいた公立小学校は、「不足なもの」も多数存在しましたが、逆に制度やシステムに守られているとも多々ありました。(もちろん問題は山積みですが、それでもなお。)
「今ここ」でやれることは確実にあるし、ぼくらが思っている以上に公立での実践は自由度が高いはずです。
今ここでやれることは、どこに行ってもやれるし、今ここでやれないことは、どこに行ってもやれない、ぐらいに思っていていいと思います。
もちろんそれは、ぼくができていたということではなく、そう思って試行錯誤を重ねていたということです。
制度をいじることはなかなかできない。でもその中でしなやかに可能性を広げることはできます。時々くじけそうになりますが、それはどこにいてもそうだと思います。
「どこか」が問題ではなく、「今ここ」で何をやるか、です。
念のため、制度の変革の可能性を探るのはそれはそれで重要であることは間違いありません。
制度やシステムが変われば、人の意識、学び方、働き方は確実に変わります。
どちらかではなく、どちらも大切だなあと思うわけです。
今日の朝散歩の空。秋だなー。