いわせんの仕事部屋

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あこがれる気持ち。

サマースクールの高学年プログラム、「風越山荘を作ろう」でのこと。

プロの大工の方(以下師匠)がインパクトドライバー(電動ドライバー)の使い方を見せてくれた。。柱を「チュイーン」という軽快な音ともにあっという間にビスで留める姿は、単純にかっこいい。

プロの仕事にあこがれる、そんな感じ。

 

早速練習を開始したけれど、なかなかうまくいかない。強く押しつけるのがこわくてねじが飛んでったり、ねじ山が切れてしまったり。しかし不思議なもので諦めたりしない黙々とやり続ける。

「できた!」その時の顔はグッとくる。

 

窓と扉を作っていたチームでは、師匠が鋸で直角に切るお手本を見せてくれた。

「おー!」。

早速、「直角コンテスト」と称して、鋸で直角に切るチャレンジスタート。初めて鋸を本格的に使う人にとっては当たり前だけれど最初はなかなかうまく切れない。でも真剣。師匠のようにきれいに切りたい。

 

最初は「鋸はできない」と手を出さなかった子も。

でも。

他の人たちが真剣に鋸に向かう姿を見て影響を受けたのか、しばらくして「自分もやってみたい」という気持ちが生まれたよう。いや、どうしてやりたくなったのかはわからないな。何が起きていたんだろう。

緊張した様子でスタート悪戦苦闘しながらもようやくひとつ切れて、「できた!楽しい〜!」と最高の笑顔。早速師匠に見せたら「70点!」の評価だった。

 

例えばこれが学校での漢字テストだったら、70点だとなんだか気持ちが萎えてしまったりできない自分にガッカリしたり。
しかしこのときは違ったんだよなあ。

「つぎは100点だ!もっともっと直角にする、かんぺきな直角を目指す!」と言って、何度も何度も直角目指してギコギコ。

その様子を見た人は直角にするためのアドバイスをしにきてくれる。アドバイスを素直に受け入れていくと、どんどん直角に近くなっていく。その後の自由時間にも「鋸を練習したい」と主張するくらいの没頭ぶり。ぼくが近くに行ったときも、自慢げに切り口を見せてくれた。

 

プロのようにできるようになりたい、友だちのようにやってみたい、うまくなりたい、マネしたい、というような「〜たい」という気持ち。
それは言い換えると「あこがれの気持ち」といえるのではないか。

あこがれの対象のようにすぐになれるわけではないし、その差も感じる。でもそんな時は不思議なもので、その差から「できない自分」にがっかりする、比較して劣等感を感じるというようにはなりにくいんだ。むしろ「なってみたい自分」に向かって情熱がわき起こってくる感じ。あこがれの気持ちって成長するエネルギーなんだなあ。

 

一方、例えば漢字テストでは、自分よりできる人がいても「あこがれる」となりにくい。我が子の小学校時代を思い出してみても、「〇〇ちゃん、漢字50問テスト一発で100点だったんだよー」「えーすごいじゃない。目指してみれば?」「えー無理だよ、苦手だし…」。彼女にとって漢字の練習は、やらなくてはいけないこと。やるべきこと。そんな時、私より漢字ができる〇〇ちゃんはあこがれの存在ではなく、比較して「できない私」を感じさせられる存在になるよう。「できている状態」から引き算した「できない私」。

 

あこがれの場合は、今の自分の時点と比べてどんなに離れていても、あのようになってみたい、やってみたい、マネしてみたいというエネルギーを生み出す。ところが、やらなくてはいけないこと、やるべきことの場合は、今の時点と比べて離れている自分、できない私に焦点が当たる。
あこがれの気持ちから生まれる「〜たい」という気持ちは、学びの源泉だ。

 

探究の学びを考える時、「その子の問いから出発する」と、ついぼくは、その子の中から湧き上がってくるものと固定的に考えてしまいがちだった。
もちろん、そういうこともあるけれど、いつでも中から湧き上がってくるとは限らない。

最初のエピソードに書いたサマースクールの時のように、何か未知のもの、すごい人や、すごいこと、没頭する友だちに出会ったりすることを通して、「あー自分もあんな風になってみたい」「自分もやってみたい」と外からやってくることもあるのだと。

ただひたすらやっているうちに、気がつくと探究が始まるいうこともある。そうなったら、「それは学びか遊び」かなんて問いは、大人が安心したいだけで、当事者にとってはどうでもいいんだよな。


だからぼくたちは、本物との出会いを通して生まれるあこがれの気持ちを大切にしたい。「しなければならない」から出発しないようにしたい。

 

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学びの核は「〜たい」という情熱だ。

完成、おめでとう!

 

 

今日は、インドネシアの教育を変えようという熱い思いの方々が狭山まで来てくれた。限られたリソースであることを言い訳にせず、本気で教育を変えたい!と試行錯誤している方々はかっこいい。

「〜たい」は社会を変える情熱だ。

なんかその情熱に感染しちゃったなあ。

言い訳せず、前を見続ける姿勢にあこがれてしまった。

来年はインドネシアに行こう。

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