中学生の時に初めてパソコンを買った。
シャープのX1。それまで溜めてきたお年玉を全て使い、足りない分は父が出してくれたように思う。たいそう貧乏な家だったけれど、かなり無理をしてくれたんだろう。
記憶媒体がカセットテープの時代。
ゲーム1本やるのに、ロードするのに20分とかかっていた。
『BASICマガジン』という雑誌があって、読者投稿のゲームのプログラムたくさん載っていた。それをみながら、毎月膨大な時間をかけてポチポチ打ち込んでゲームをやっていた。その繰り返しの中で、プログラム言語にじんわりと馴染んでいった。
でもその後のパソコンの進化に予算もついていかず、プログラムに関しては完全に落ちこぼれ。次にパソコンを買ったのは教員に就職してからだ。
そんな折り、面白い本が届いた。
こんな記事もある著者。
ネットで流れてきた記事で関心をもって予約しておいた本だ。
毎日1つ100日連続プログラムを書いたという著者。中学生の時にパソコンの前に座ってポチポチしていたのをふと思い出した。著者が最初に作ったゲームは「オセロ」。
chatGPTを使うとプログラムも書けるのか。
今日は朝、留学に関しての説明会をききにいくという娘を駅に送り、怠惰に過ごさぬよう、本に倣いながらやってみた。
何度も試してうまくいかない中、たどり着いたプロンプトはこれ。
>オセロ風のゲームをPythonで作ってください。環境はgooleのColaboratoryです。Matplotlibで描画するようにしてください。コマは白と黒。盤は緑です。
PythonもgooleのColaboratoryもMatplotlibもよくわからないままChatGPTに聞きながら、少しずつ「ちょっとわかる」を繰り返しながら試す。
思うように動かないと、また相談。
例えば、
>ChatGPTで実行しようとしたら、「実行されました OSError: [Errno 29] I/O error」と出ました。修正してください。
のように。ひたすら繰り返し、分からない言葉が出たら聞いてみる。
そんなこんなを繰り返していくうちに、ver9でようやく「オセロ」になった。
気づくと2時間くらい経過していたが、なるほど本当につくれるんだな。驚きだ。
昨年11月、マイクロソフトのナデラCEOが「将来のプログラミングは自然言語で行うようになる」と言ったらしいが、その世界がやってきているようだ。
午後には本も読了。
そもそもエンジニアを目指している著者なので、専門的なところはよく分からずだったが、どのようなプロセスを描いて学習していったのかとても参考になった。
最も印象にのこった箇所を引用しよう。
ChatGPTは、あくまで私の理解を深めるための「支援ツール」あるいは「補助線」に過ぎない。最終的には私自身がどう作品を仕上げるかが重要だ。
「chatGPTは使い手の能力以上のことはできない」
この言葉が、頭の中でゆっくりと浮かび上がってきた。
Chat GPTは確かに強力なツールだけれど、その力を適切に引き出すには、使い手となる私自身がしっかり課題や問題を理解した上で、的確な指示を出す必要がある。そして、その指示が本当に的確かどうかは私の理解力と洞察力にかかっている。結局のところ、私の理解力と洞察力が試されるのだ。
冬休みからここまでのお稽古を経て、実感していることとまっすぐ繋がる記述だ。
自分が理解していること、洞察していること、実現したい未来をえがくこと。
その広さや深さができることとまっすぐつながっている。
* * *
そのあと、小諸にある「あぐりの湯」に移動しながらzoomでミーティング。
ミーティング終了後、引き続きzoomで、未来の学び協創研究センター第24回「生成AI活用の先にある学校の未来」を視聴。渡辺光輝さんの発表に刺激を受ける。
例えば、「教師の助手役として、生徒の感想をgoogleFormで集めて、「傾向を分析して」だけで参考になる。その上で「シンプルで深い問いをつくってください」のプロンプトを使う。”シンプルで”が重要(大意)」。さらっとこんなことを言うけどすごいこと言う。
たくさんの試行錯誤の中での実践発表で、たいへん刺激になった。GPTsの使い方もなるほどなるほど。
生成AIの活用の先にある国語教育の未来は、「自分軸」であると渡辺光輝さん。大塚さんの本の引用にも繋がるな。
心身を整えるべく、足圧(指圧を足でやる施術)を受けて、こわばっている身体と気持ちを和らげる。身体と心はつながっているはずだから、今の自分には必要だろう。
* * *
今の風越の現在地はどんな感じなんだろう。
金曜日、午前中の予定が変わって時間が生まれたので、午前中いっぱい校舎で行われている授業を隈無く見て歩いて、胸が熱くなった。
それぞれのスタッフが子どもたちと本気で授業をつくっている。もちろんうまくいったりいかなかったりはあるけれど、質的な変化が明らかに起こっている。それは一人ひとりの学びの姿に表れていて、あああの子は今こんな感じで学んでいるのか、とぐっとくる。
なにより授業に真剣に向き合い、子どもに真剣に向き合って、実践を重ねている一人ひとりのスタッフの姿、ここまで新しいかたちに真剣に向かい続けている学校はないんじゃないか、と思う。
一人ひとりが「よりよい」を探究し続け、変態し続けること。それが日常になっている学校だ。その先に「ありたい学校」の姿が立ち現れてくるし、今はそのプロセスだ。そしてそのプロセスはずっと続くのだろう。まるで森が育っていくように、
そういう、一人ひとりの実践者と一人ひとりの子どもに敬意を持つこと。
その変化をつぶさに観察すること。
そういうことだよな、と思う。
この4年半の変化を、どれくらいの解像度で、どう語れるのか。そこに「何を見てきたか」があらわれる。ゆっくり言葉にしてみようと思う。
きっと今それが一番大切なことだと思う。