ぼくの恩師から学んだこと。
「授業はうまくいっているときが要注意なんだよ、岩瀬さん。」
授業に流れができてしまっているから、その流れの中で、本当のことが言えなくなってしまっている人がいるかも。
授業者が「うまくいってると思っているとき」は、起きていることが見えにくくなっていく。バイアスがかかる。そういう時こそ要注意。
→いやあこれは授業に限らないなあ・・・・
「授業の中で気楽に振り返りをするけれど、それは本当に子どものためになっているのか?」
振り返り(に限らず、授業の中でのさまざまな活動は)、子どもの求めではなく、教師の求めで行われていることが多い。
例えば授業の最後は「振り返り」と定型化すること、帰りは必ず振り返りジャーナルを書くことは本当に意味があるのか?
常に「子どもにとってどういう意味があるのか?」を問いながら、子どもにとって必然性のあるタイミングなら振り返りをやる意味がある。
「振り返る=対象から引きはがす」行為にもなりかねない。活動に没頭しているときに止めるほどの必然性があるのか。たった1時間程度の授業で、毎回振り返る必要があるか。その活動は教師のためなのか、子どものためなのか。活動をとめるとはどういうことなのかを絶えず問うこと。
→確かに振り返りで閉じるのではなく、明日へ続いていく「開いた状態」で終わったっていい。形骸化すると意味がなくなることって多い。目的が手段に入れ替わるから。子どもの必然性からシンプルに考えること。なんのためかに常に戻ること。
「リフレクションは、ある種の自己否定を伴うので痛い。だから避ける人が多いし、フィードバックを嫌う。でも本当に痛い思いをし続けているのは、その先にいる子どもだ。」
→なんと痛烈なことば。プロであり続けるとはどういうことか。人の成長に関わるとはどういうことか。僕自身もリフレクションの質を上げなくては。痛みに向き合わなくては。スタッフ、子どもたちがその先にいる。
お話を伺ったときにノートにメモしておいた言葉なんだけど、今読んでも突き刺さる。
「はじめに子どもありき」という言葉は、言葉としてはシンプルだが、そうあり続けることは本当に難しいことなんだと言うことに何度も立ち戻りたい。