いわせんの仕事部屋

Mailは「naoki.iwase★gmail.com」です。(★を@に変えてください。スパム対策です)

自分用メモ。日々の振り返り。


①継続できているか。

 

②エピソードまで記述しているか。

 

③起きたことだけではなく自分の感情にも向き合えているか。


④そこからの気づきの質をあげられるか。


⑤「自分」に焦点があてられているか。


⑥視点を変えられているか。視野を広げられているか。視座を上げられているか。

 

⑦前提を問い直せているか。自分を問い直せているか。

 

⑧とはいえ、楽しく、気楽にやれているか。

次のためのポジティブななにかをみつけられているか。


●「いまここ」で振り返ることが重要。
先延ばしにした振り返りは、あっという間に経験が流れていってしまう。無意識のうちにゲシュタルトがその経験を流してしまい気づきが生まれにくい。
感情の機微が薄れてしまっている。

 

●他者のせいにしている振り返りは学びが生まれにくい。

 

●自分に酔った振り返りは残念な自己を強化する。

 

●エピソードのない雑ぱくな振り返りは、記録としての価値が半減する。のちに読み返しての「メタリフレクション」がおきにくい。

 

●たまの振り返りは、ただのイベント。

 

●気づきの質を上げるには、「他者の目」が必要。
自身に見えていないところにフォーカスするための「他者の目」。これは必ずしも人でなくともよい。
視点を変える、ということ。

 

●書かされる振り返りは、鉛筆のムダ(パソコンの電源のムダ)。
グチは振り返りではない。

 

●自己肯定ばかりを続けていては、同じところをグルグル回り続ける。

 

●真摯に自分に向き合い、誠実に振り返りを続けた者が、振り返りを成長の糧にできる。フィードバックを自分の成長につなげられる者が、やがて自分を自分で育てられるようになる。

 

●振り返りは自身との真摯な対話であり、「自分がどうなりたいか」の結晶。

一気読みした!『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』。

ちょっと前に『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』を読み終えました。

おもしろくて1日で一気読み。

 

ブレンディッド・ラーニングの衝撃 「個別カリキュラム×生徒主導×達成度基準」を実現したアメリカの教育革命

ブレンディッド・ラーニングの衝撃 「個別カリキュラム×生徒主導×達成度基準」を実現したアメリカの教育革命

  • 作者: マイケル・B・ホーン,ヘザー・ステイカー,小松健司
  • 出版社/メーカー: 教育開発研究所
  • 発売日: 2017/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 いやあ、★★★★★ですね。

教育×破壊的イノベーション~教育現場を抜本的に変革する

教育×破壊的イノベーション~教育現場を抜本的に変革する

  • 作者: クレイトン・クリステンセン,マイケル・ホーン,カーティス・ジョンソン,櫻井祐子
  • 出版社/メーカー: 翔泳社
  • 発売日: 2008/11/20
  • メディア: 単行本
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この本の実践編と考えていいです。この本もおもしろかった。

 

学びの個別化を考えていくときに、避けては通れないオンライン学習。
翻訳本が出ているともつゆ知らず。発見できてよかった。

「ブレンディッド・ラーニング」とは、

少なくとも一部がオンライン学習から成り、生徒自身が学習の時間、場所、方法またはペースを管理する正式なプログラム(p47)

のこと。
同じICT活用でも、いわゆる電子黒板での授業や教師の指示によるタブレットの一時的な使用とは全く位置づけが違います。
学習者に主導権を渡した学び方といえます。

著者は、今の学校制度(学齢別学年制度、工場型教室モデル)は、これまでは時代に見合っていたとした上で、もうこのモデルは不十分だとしています。

〜二人の子どもが同じ年齢だからといって、同じペースで学び、同じ学びのニーズを持っているわけではないからです。子子どもは一人ひとり異なる学びのニーズを持ち、学びのペースも違うのです。認知科学者、神経科学者、教育研究者など専門家たちは、知能や学びのスタイルの違いについて激しく議論していますが。生徒によって学びのペースは違うということに異論を唱える専門家はいません。

〜すべての子どもたちが学校と人生で成功するよう願うのであれば、生徒一人ひとりの学習ニーズにあわせて教育をカスタマイズ、または個別化する必要があるということです。

しかしこれまでは、教師一人で30人もの学習をカスタマイズするのは不可能でした。

そりゃそうですよね。(愛知県緒川町立緒川小学校のような個性化・個別化教育のチャレンジはありましたが。)

だからこそ学齢別学年制度、工場型教室モデルがずっと残ってきたわけです。
しかしICTの発展によって一気にそれが可能になる!=ブレンディッド・ラーニングです。

ブレンディッド・ラーニングにより個別学習と習熟度基準学習が実現する。

自分のペース、自分の方法で学べる環境は、学習者にとってとても大事。自分のコントローラーを自分で持つことに他なりません。


この本にはブレンディッド・ラーニングのモデル分類(ローテーションモデル、フレックスモデル、アラカルトモデル、通信制モデル)とともに、その実例校が、動画のリンク(QRコード)と共にいくつも紹介されています。
この動画のリンクがいい。実際の様子がわかるので、本の理解が進みます。

例えばフレックスモデルのSummit public schools。
https://www.nextgenlearning.org/grantee/summit-public-schools

 

ぼくはこの本の中で紹介されている学校では、ここが最も気になっています。
詳細は本を読んでいただくとして、サミット校の8つの特徴を紹介します。

 

①生徒主導
②個人の達成度
③(生徒自身の)学習データへのアクセスとフィードバック
④学習目標の透明性
⑤静かに一人で読書をする時間
⑥意義ある就業体験
⑦メンター体験
⑧前向きな集団体験

ね、気になるでしょう?

「ブレンディッド・ラーニング」は破壊的なイノベーション。

前作で言及されていましたが、今の教育が変わらないのは「誰かの怠惰や悪意」ではなく、人々の「努力や善意」こそが停滞をもたらす。一斉授業の改善は「持続的イノベーション」で結局変わらない。「学習の個別化」こそが「破壊的イノベーション」で教育を変える。新しい教育システムは、既存の教育システムから分離して導入を進めるべき。その実例としてのサミット校です。

 

ブレンディッド・ラーニングでオンライン学習を取り入れることで学校はどう変わっていくのでしょうか?


筆者によれば、オンラインで基礎学習教材を提供すれば、教師は空いた時間とエネルギーを、例えばプロジェクト学習などの深い学びのデザインに注力できるといいます。確かにその時間を生み出せることはとても重要だと思います。これは子供達にとっても同様で、個別学習で効率的に学ぶことで、そこで生み出される時間を有効に使えるといいます。


学校は授業以外の重要な課題に資源配分をシフトすべきです。たとえば、優れた対面でのカウンセリングやロールモデルの提供、討論会、振り返り、清潔で快適な環境、いじめの撲滅、栄養十分な食事、知識型市民の育成、健康福祉の増進、体育・音楽・芸術系のプログラム、生徒を創造的なイノベーターに転換すること等です


この本での指摘で特に印象に残っているのは、

教師の専門分野(例えば教科の専門性)は、より重要になる。

 

ということ。つい、
「そういう学びの場が成立すると、教師の重要な仕事は場づくりや、メンター、ファシリテーターの役割に徹することになるんじゃない?」
とぼくらは思ってしまいがち。
もちろんそれも大事だけれど、今まで以上に専門性が大事になると指摘してます。
なぜか?それはぜひ本書を。

 

もう一つは、ブレンディッド・ラーニングが成功するには

「学校文化(校風)」の醸成が不可欠である

ということ。個別化を「孤立化」にしないためにも重要。ではどんな学校文化がいいのか?

仮説を持ちつつ、是非本書をお読みください。


とここまで書いてきましたが、疑問点もいくつか。

 

1,日本でそこまで活用できるオンライン教材はあるのか?

2,数学、英語は親和性が高そうだが、国語は?

3,ほんとに教師の時間はそれで生み出されるのか?

4,パソコンにみんなが向かっている様子が楽しそうに見えないけれど、これはぼくの「既存へのとらわれ」の証拠なのか?

5,「最短距離」で学ぶのがいい学び方なのか?

 

・・・・と書いてきて自分の疑問点がはっきりしてきました。

 

オンライン教材である必要はどこまであるのか?

 

です。それこそそれが合う子もいれば、合わない子もいる。

アナログ教材でけっこういける気もする。

その時に重要なのはきっと学校文化、というかコミュニティの文化になっていくのでしょう。

iwasen.hatenablog.com

 

「でも学習の進捗管理はICTが絶対いいな」とか、

「おもいきって取り入れることで、そもそもから問い直すきっかけになるのかもな」とか、いろいろ思考を深めたい問いが生まれた良書でした。

日本の学校教育パラダイムがいかに遅れているかを実感します。

 

「興味はあるけれど、本を読むよりも動画とかのほうが学びやすいんだよね、自分」という方は、なんとカーンアカデミー(反転学習で有名ですね。これもブレンディッド・ラーニングのひとつ)に動画が多数あります。

ぼくは通勤電車の中で全部見ましたがとてもわかりやすい!日本語字幕もついていて(!)おすすめです。

www.khanacademy.org

 

 

あすこまさんのブログにこの動画サイトが紹介されていて、見ることができました。

2014年から注目していたなんて、どんだけアンテナが高いのだろう・・・・

askoma.info

 

 

このつながりで、ネット界で話題(?)のN高校についても読んでみました。

 キンドルで購入して、お風呂で一気読み。

ネットの高校、はじめました。 新設校「N高」の教育革命

ネットの高校、はじめました。 新設校「N高」の教育革命

 

 いやあ、これもまた刺激的。

ある意味これもブレンディッド・ラーニングだ。

 

Alt Schoolといい、サミット校といい、実際に見てみたい学校が増えてきた。

どこでもドアがほしい・・・

 

 

一生懸命向き合う。

うん十年前。

ぼくが初任のせんせいだったころの学級通信が出てきた。

 

f:id:iwasen:20170512215812j:plain

 

1994年っていったら、まだwindows95が発売される前。

パソコンの世帯普及率が15パーセントを切っていた時代。

人生初の学級通信は手書きだったんですね。NO54ということは週1回以上出していたんだ。がんばったなあ、おれ。

 

この通信の題名、「ゆうき」は、ケストナーの『飛ぶ教室』からとりました。

 

「賢さを伴わない勇気は乱暴であり、勇気を伴わない賢さなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人たちが臆病だったような時代がいくらもあります」 

飛ぶ教室 (講談社文庫)

飛ぶ教室 (講談社文庫)

 

今となっては若々しい選択だったなって思うんですが、でもいいタイトルだとも思います。ちなみに次の年の題名は「風に向かって立つライオン」(さだまさしの曲です)、その次の年は「ちんぱんじいからかいじんぱんち」でした。

 

どんな授業をしたらよいのか、毎日毎日悩んでいた時代。

学校から歩いて10分のところの山の斜面に行って、葉っぱの布団で寝てみたようです。このころって、鳥山敏子の『イメージをさぐる』を読んでいたり、学生時代にキャンプリーダーをやっていたなごりで、「身体」や「体験」の中に学びを深めるヒントがある、って思っていたんですよね。そもそも、子ども時代外で遊びまくっていたからこそ、「やってみよう!」と思えたんだと思います。

イメージをさぐる―からだ・ことば・イメージの授業

イメージをさぐる―からだ・ことば・イメージの授業

 

 

春が来る直前の斜面。まだまだ肌寒い中、葉っぱの布団は温かかった。

その頃の子たち(もう30過ぎの立派なオジサンオバサンだけれど)に聞いてみると、全然覚えていないみたい。でも原体験なんてそんなものだよね。

 

今。

もしこの物語を学校で読んだら、やっぱり同じことをするなあ。

そう思うと、人の「根っこ」って思いの外いろいろなことに影響しているんだろうなあと思います。

 

外で遊びほうけた子ども時代。自由な試行錯誤が許されていた子ども世界。

幸せな子ども時代の原体験は、全然知らないところで人生にいい影響を及ぼしているんだろうと思いたい。学びを教室の中に矮小化してはいけないなあ。

 

読んだら恥ずかしくなるものばかりの初任の頃の学級通信ですが、一生懸命向き合っていたことだけは間違いない。

それで免罪になることはないけれど、でも「一生懸命向き合う」って初めてだからこその誠実な熱があったんじゃないかなあと思います。

 

若い人に期待することって、「できること」なんかじゃない。足りなくて当たり前。とびこんで、一生懸命向き合い、時には痛い思いをしながら、悩みながら、ちょっとずつ一緒に進んでいく。
その頃にしかできないこと。

手慣れな頃に大きな失敗しますしね(心あたり大あり……)。

 

その初々しいまでの熱を、今ぼくは取り戻しつつあります。

軽井沢風越学園の学校づくりプロジェクト。

すごく大変だけれど、すごく楽しい。一生懸命向き合っていこうと思います。 

「そうきたか」。

学級がはじまってすぐの頃。

まずは先生であるぼくらがあそびの触媒になることも大事。

 

そんな頃の昼休み。こんなことがありました。
「Sケンやろう!」とクラスの子が飛び出していきました。
「せんせいも来る?」
「うーん、じゃあ職員室にこのプリント置いてから行こうかな」
「じゃー先に行って始めてるね」
「チーム分けどうする?」
「昨日は男女対決だったから、今日はまぜて出席番号でいいんじゃね?」
「外行って決めよう-」

外に向けて駆け出します。こらこら階段を走らない。


ぼくは職員室によってのんびり校庭に向かいます。
まだ4月でクラスがスタートしたばかり。
ぼくが早く行くと、
「先生にチーム分けを仕切ってもらおう」という気持ちが生まれやすい。
でも自分たちで適当にチーム分けしてスタートすることってとても大事だと思うので、わざわざのんびりめに。
校庭に行くと、何人かの子が憤慨した感じで駆けてきました。

 

「Sケンの場所、他のクラスにとられてた!」
「私たちがいつも使ってるのに、先にとったって!」

 

他のクラスでもSケンが流行り始めているので、場所の奪い合いになったようです。

 

「あらら。どうする?」
「だってずるいよー!」
「どうしたらいいかねえ。このままじゃできないよ?」
「でも、あの線、せんせいが書いた線でしょ?」

「そうだけど、校庭はみんなのだからね」

「……じゃあ、一緒にやろうって言うかぁ……」
「言ってみれば?」
とボク。

ある男子が交渉にいきました。
「2クラスで対戦しようよ」
「こっちは全員来てないから負けるし!!」
「オレ達が先にとったんだぞ!」
と、ボス的な感じの男子。
「だってよ!センセイ!」
憤慨してます。
なんだか険悪な空気。

ついつい、先生であるぼくらはなんとかしようとしてしまいがち。

でもこんなときは、

「そうきたか!」とリフレーミングする。

一緒に困ってみる。

 

   *  *  *

 

 

おお、そうきたかー!おもしろくなってきた。どうなるかなあ。こういうトラブル体験するの大事だぁ。まずは見守ろう。)

 

「こまったねえ・・・」
とぼく。

爆発寸前の人。
なんとかしようとする人。
あきらめて鉄棒に向かう人。
行動はホント様々。

そんな中、一人の女の子が、その男の子に、

「じゃー、ごちゃごちゃに混ぜてやろうよ!」

と一言。
そうしようそうしようと場の数人がグッと動き出し、
勝手に2チームに分かれ始めた子がでました。

「えーー」
と顔をしかめる子も何人もいる中、周りがばばっと動き出して、それを止めることもできずに、なんとなく混ざってスタート。

始まってしまうと、何事もなかったように遊び出します。
風が強く、砂埃が舞う中、泥だらけになり、ぶつかり合ってます。

まあ、なんともうまくいきすぎですが、たとえもめてしまってもいいと思ってました。
そのトラブルは子どもたちのためのもの。
どちらにせよ、待っているつもりでした。

この場で解決しなくてもいい。

 

「そうきたか」とそのトラブルを見守るのってけっこう大事だと思うんです。

たくさん失敗する機会を大切にしたいな。

 

 

※「そうきたか!」というリフレーミングの言葉を教えてくださったのは、福岡寿さんです。『授業づくりネットワーク』2016年春号での対談、是非お読みください!

振り返りジャーナル重版がきまりました。ありがとうございます。

おかげさまで重版が決まりました。

みなさんありがとうございます。

(同僚の渡辺さんがもうすぐ書評を書いてくれるそう。楽しみやらこわいやら…)

 

「振り返りジャーナル」で子どもとつながるクラス運営 (ナツメ社教育書ブックス)

「振り返りジャーナル」で子どもとつながるクラス運営 (ナツメ社教育書ブックス)

 

 

 振り返りジャーナルは、毎日書くのが大切。

日々の中に「振り返ってみたいなあ」というポイントがあるかどうか。

それは、日々の学びが充実しているかどうかともつながります。

ぼくらの仕事が問われる面でもあります。

 

ある日の振り返り。

『時をさまようタック』という本で、ブッククラブをしていたころです。

 

時をさまようタック (児童図書館・文学の部屋)

時をさまようタック (児童図書館・文学の部屋)

 

 

★今日のブッククラブはとてもよかったと思います。理由はみんな本の内容をしっかり読んできていて、話し合いがスルスル進んだし、もうとまらなかった。○○のとってもいい質問のおかげでみんなさらに深まって話し合うことができた。作者の気持ちになって「どうしてこんなストーリーにしたんだろう。」

「どうしてこんな結末にしようと思っているんだろう」

などといった話し合いをしました。
他に特によかったのは、登場人物になりきって「自分だったらどうする?」「どうしてこんなことしたんだろう?」「わかるー!」「どうしてこうしなかったんだろう?」「〜だからじゃないかな?」
「なるほど〜!だったら賛成だな」など、自分だったら、がたくさんでたブッククラブでした。
人の幸せってなんだろう。限りがあるから幸せってことはあるかもしれないな。

 

 

★今日のブッククラブは、とっても奥が深かったような気がします。
なぜかというと、タック家の行動で、メイがなぜ打ったのか、ということです。
このとき、メイはどんなことを思っていたのかを話し合いました。そこでぼくたちの班は、「ウィニーのため」という考えが出ました。
(コールバーグの)レベルで言うと「他者を思いやる」ですね。
だけど、自分で正しいと思ったんだとしたら、メイは少し考えたほうがいいなと思う。もしメイの行動が正しいということになったら、世界は成り立たないと思います。

世界がこれをうまく理解できたとしたら、きれいな世界ができると思う。でももう少し家で考えてきます。今日は家で哲学者になってきます。

 

同じ日でも算数の方が自分にぐっと迫ってくる人もいる。そのちがいがおもしろい。 この日の算数は「5分の1÷3は、なぜ分母に3をかけるか」をクラスで協同探究。


★算数で○○の説明を聞いて、わかったような気がしたので、自分なりにちょっと変えて考えて見ました。
でも算数って難しいところがおもしろいと思います。特に、わからないところを自分たちの力だけでどうにかしてわかるようになるっていうのが、おもしろいです。                               

 

★私は、今日の算数めっちゃ楽しかった。
 だって5分の1÷3のやり方を、○○と考えていた。 そしたら、○○が来て「大丈夫?」と聞いてくれたしゅんかん、
「全然大丈夫じゃないから教えて-!」と言ったら、
「OK!」と言ってくれて助かった−!
 でもそこからすごいことになったんだ!
 話が止まらなくなって、ホワイトボードもいっぱい!
 すごかったよ。
 
 話がとまらなくなって、
 ブッククラブみたいじゃない?
 ○○も、算数にホワイトボード出して使うって、天才というか、さえてるなー!
 わかったしゅんかん めっちゃうれしくて信じられなかった。
 だから今度の算数も、こんな感じの算数にしたいな−!  

 

その日1日、あの子はどんなことを考え、感じていたんだろう。

放課後、そんなことを想像しながらジャーナルを読む時間は、ぼくの大切な時間でした。ひとりひとりの成長のストーリーが紡がれていく感覚。

 

とはいえ、ジャーナルの限界も知っておきたい。

ジャーナルを通してみえてくること、みえてこないこと。

書けること、書けないこと。 

askoma.info

 

あすこまさんが書かれているように、

「教室という権力空間で、教師が生徒に振り返りを書かせる」ことに対する懐疑

ということは絶えず意識しつづけないとなあと思います。

読者であるぼくがいることで「書かせてしまう」こともたくさんあったと思うのです。

 

 
        

「おなじ」から「ちがう」へ。

 

「教室前面は子どもの注意がそがれないように掲示物を最低限に抑えましょう。」

 


これがユニバーサルデザインか。うんうん。そうかそうか。・・・・・ん?

学校現場でこの言説があっという間に広がっていくなか、ボクはずっと違和感が残っていた。なんか違う気がすると。

それで軽やかに取り合わないでいた。

 

 


そもそもこの提案の前提はなにか?それは「全員前を向いて先生の話を聞いて学ぶのがデフォルト」ということだ。盟友、KAIの言葉で言えば「後頭部凝視型授業」。いや、「一斉授業が悪い」とかそういうことを言っているのではなく、これまでの一般的な授業形態、教室のあり方に、子どもたちが合わせていくという方向がおかしい。

あわせることへの「困難」を取り除く為の手立て。教育におけるユニバーサルデザインの提案は、ボクが知っている限りではそういう方向性のものも多い。

 

「同じ」にするための工夫や手立て。


しかしその「困難」は誰が作り出しているのか?その視点が欠如したユニバーサルデザインは、もしかしたら学校や教室が作り出しているかもしれない「困難」にどうやって付き合わせるかに終始してしまう。みんなが「参加」できる学びとは?学びの場とは?視点を変えて考えてみたい。アイランド形式の教室だったら?いや学ぶ場所を自分で選べたら?学びが自分のペースだったら?一人一人の「ちがい」に応じられる学びの場とは?それを支えるコミュニティとは?

そこから問いを立てて、そもそもから考えていく。

 

 「ちがう」からスタートしてみよう。

 
書くのは簡単。実現は難しい。おもいっきり自戒を込めて書くが、教室単位ではダメなんだ。それは次年度に、かえって「学びにくさ」を生み出しかねない。自身の関心である学級経営で考えると、学級単位での学級経営を考える時代はもう終わりに来ているのだと思う。そもそも毎年振り出しに戻っているようじゃだめなんだ。そこに歩み出さなければ。

子どもの育ちを単年で考えるなんて大人の都合に過ぎない。


大学に来て3年目。たくさんの教室や学校におじゃまし、先生方と話し、文献を読み、ようやくそこに腹を決めることができはじめた。そのためにボクは小学校現場を離れ、ここにいるのだと思う。自身がやってきたことも批判的に検討し直さなくてはならないのだと思う。


だからといって、ただ「学校全体であわせればよい」という話ではない。それではあっという間に管理的な形骸化が起きるし、現に多くの学校で起きていて、子どもたちは(先生も)窒息しそうになっている。教師・学校都合の「共通理解」という名の形式的な管理。

 

そもそもの学校のビジョン、学習者観、学習観からの丁寧なスタートが必要。

そして、自由な試行錯誤を大切にする。

なにがいいかは事前にはわからないからだ。

 

軽井沢風越学園設立のプロジェクトにじっくりじっくり取り組みながら、ぼくらは、「新しい『普通』の学校」の情景をていねいにていねいに描いていく。

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『学習原論』その①

今日より行き帰りの電車で『学習原論』を読み始めました。

 

学習原論 (1972年) (世界教育学選集〈64〉)

学習原論 (1972年) (世界教育学選集〈64〉)

 

 木下竹次。大正自由教育を代表する実践家であり研究者。

この本がでたのは大正12年。1923年です。ほぼ100年前です。

Amazonの中古87000円って・・・・・ 

 

自序からグイッと攻めてきます。

 

学習は学習者が生活から出発して生活によって生活の向上を図るものである。学習は自己の発展それ自身を目的とする。異なった遺伝と異なった環境とを持っているものが、機会均等に自己の発展を遂げ自己を社会化していくのが学習である。学級的画一教育法を打破した自律的学習法は、いずれの学習者も独自学習から始めて相互学習に進み、さらにいっそう進んだ独自学習に記入する組織方法であって、実に性質能力の異なったものは異なったように活動し、しかも、自由と協同とに富んだ社会化した自己を建設創造しようというのである。教師は学習の指導者でまた共学者である。環境に順応しさらにこれおを創造することは自己の創造発展と同一事実である。学習すれば師弟ともに全自己を活動させてともに伸び、ともに歓ぶことができる。

 

教師の役割を指導者であり「共学者」と位置づけ、「ともに伸び、ともに歓ぶ」というあり方は、苫野一徳さんのいう「協同探究者としての教師」と同じ。いきなりスタートからしびれます。

 

第1章、「序論」では、教師についてこう喝破しています。

 

教育本来の意義は引立てることと取り除くことだ。すなわち教育は外部からの憂患を除去し、児童固有の本性を発揚することである。かくのごとき作用をする主人公は元来児童自身であるべき筈だが、従来は教師が余りに深入りして自分が主人公になった。そのためにかえって教育の効果を十分に挙げることはできなんだ。

各児童は各自の個性を基礎とし、自分の環境に依拠して種々の経験を積み、工夫創作を為し、よかれ悪しかれ、自分でなくては辿ることのできない道を辿って、人間固有の本性を発揚し社会に貢献していく。

自律的学習法の真髄は児童が本来具有する所の創作性自律性を発揚することだ。児童には本来伸びる力がある。教師はあまりに自分の力を過信して余計な干渉をしてはならぬ。

 

身が引き締まります。

「取り除くこと」というのはその通りだなあと思います。

教師がよかれと思ってやっていることが、木下に言わせると「〜いたずらに外部の権威に服従して課業に努める知力的奴隷を作る」。

教師が学習者の学習を阻害しているというのは耳の痛い指摘です。

 

丁寧に読み進めていこうと思います。