うん十年前。
ぼくが初任のせんせいだったころの学級通信が出てきた。
1994年っていったら、まだwindows95が発売される前。
パソコンの世帯普及率が15パーセントを切っていた時代。
人生初の学級通信は手書きだったんですね。NO54ということは週1回以上出していたんだ。がんばったなあ、おれ。
この通信の題名、「ゆうき」は、ケストナーの『飛ぶ教室』からとりました。
「賢さを伴わない勇気は乱暴であり、勇気を伴わない賢さなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人たちが臆病だったような時代がいくらもあります」
今となっては若々しい選択だったなって思うんですが、でもいいタイトルだとも思います。ちなみに次の年の題名は「風に向かって立つライオン」(さだまさしの曲です)、その次の年は「ちんぱんじいからかいじんぱんち」でした。
どんな授業をしたらよいのか、毎日毎日悩んでいた時代。
学校から歩いて10分のところの山の斜面に行って、葉っぱの布団で寝てみたようです。このころって、鳥山敏子の『イメージをさぐる』を読んでいたり、学生時代にキャンプリーダーをやっていたなごりで、「身体」や「体験」の中に学びを深めるヒントがある、って思っていたんですよね。そもそも、子ども時代外で遊びまくっていたからこそ、「やってみよう!」と思えたんだと思います。
春が来る直前の斜面。まだまだ肌寒い中、葉っぱの布団は温かかった。
その頃の子たち(もう30過ぎの立派なオジサンオバサンだけれど)に聞いてみると、全然覚えていないみたい。でも原体験なんてそんなものだよね。
今。
もしこの物語を学校で読んだら、やっぱり同じことをするなあ。
そう思うと、人の「根っこ」って思いの外いろいろなことに影響しているんだろうなあと思います。
外で遊びほうけた子ども時代。自由な試行錯誤が許されていた子ども世界。
幸せな子ども時代の原体験は、全然知らないところで人生にいい影響を及ぼしているんだろうと思いたい。学びを教室の中に矮小化してはいけないなあ。
読んだら恥ずかしくなるものばかりの初任の頃の学級通信ですが、一生懸命向き合っていたことだけは間違いない。
それで免罪になることはないけれど、でも「一生懸命向き合う」って初めてだからこその誠実な熱があったんじゃないかなあと思います。
若い人に期待することって、「できること」なんかじゃない。足りなくて当たり前。とびこんで、一生懸命向き合い、時には痛い思いをしながら、悩みながら、ちょっとずつ一緒に進んでいく。
その頃にしかできないこと。
手慣れな頃に大きな失敗しますしね(心あたり大あり……)。
その初々しいまでの熱を、今ぼくは取り戻しつつあります。
軽井沢風越学園の学校づくりプロジェクト。
すごく大変だけれど、すごく楽しい。一生懸命向き合っていこうと思います。