「先生はねー」と自分を先生と呼んじゃう問題。
「先生の方を向いてください。」
「先生はね、」
学校の先生の多くはなぜ自分のことを「私」とは言わずに「先生」と呼ぶのでしょうか。
さらには、大人同士でお互いのことを「◯◯先生!」と呼ぶのも普通だったりする。
かつて企業に勤めている友人にも、
「お互いを先生と呼び合ったり、自分のことを先生っていうのって変だなって思わないの?」と突っ込まれたことがあります。
うん、本当に変だよね。
そもそも日本語の特性として、役割を一人称に使うということはあります。特に家族は多い。「お母さんはね〜」とか、「じいちゃんはな〜」とか。
でも今回はそれは置いておきます。
自分のことを先生と呼ぶこと、お互いを先生と呼び合うことで何が起きているか。
おそらく「役割スイッチ」が入るのではないでしょうか。
自分は先生なんだ!と自分に言い聞かせることで、「先生モード」に切り替わる。
先生という役割を演じ始める。
これはプラス面面もあるかもしれません。シャキッと仕事モードに切り替わるという意味では。
でも実はマイナス面が大きいのではないか。
学校の先生になるまでに1万数千時間の被教育体験、つまり生徒として先生と接し続ける体験を積み重ねています。その中で無意識に出来上がっていく先生という役割像。
膨大な経験から出来上がっている像なのでなかなか強力です。
意識としては「こんな先生になりたい!」という想いがあっても、自らを「先生」と呼ぶことで、お互いを「先生」と呼び合うことで、生徒に「先生」と呼ばれることで、この「無意識の先生像」を演じてしまうスイッチが入ってしまうのではないか、という仮説をたてています。
普段はすごいオモロイ人で、魅力的で、多趣味で、という友人も、一度教室に入ると、先生モードになって、マジメになって、話すトーンまで変わってしまうというのに驚いたことがあります。それでなかなかクラスが上手くいかなくなったりして、
「いつも通りの自然な感じでいれば、子どもとの関係も保護者との関係もうまくいくのに」と思わずアドバイスしちゃったりもしました。
でもそれがなかなか難しい。
つい真面目な先生という「役割スイッチ」が入ってしまう。無意識の中に眠っている「先生像」が顔を出して、それを目指して演じてしまう。
そういう側面もあるのではないかな。
自分のことを「わたしは」と呼ぶことから始めてみたらどうだろう?
まずは「わたし」として場にいること。役割は役割に過ぎないのだから。
お互いのことを「先生」と呼ぶのをやめてみる。
「〜さん」と呼ぶことから始めてみる。
ちなみにぼくは初任の頃から同僚を「〜さん」と呼ぶようにしていました。生意気にうつっていただろうなあと思ったりもしますが、続けてよかった。
廊下で「〜さん」と呼ぶと、子どもから「えー、先生って呼ばないんだ!」と囃されましたが、「だってぼくの先生じゃないしね」とサラリと。
(管理職には日和って「校長先生!」と呼んでましたが・・・・どんまい!)
もっと自由に、おもしろがって、自然な自分で、自分なりの先生像を試行錯誤してみてはどうでしょう?そのための小さな一歩は「わたし」からスタートすることではないかとやや強引に考えています。
そもそも自分やお互いのことを先生と呼ぶの、普通に考えて変だからね。
ちなみに、軽井沢風越学園では、お互いを「呼ばれたい名前」で呼び合っています。ニックネームの人もいれば、「◯◯さん」と名字の人も。
ぼくは「ゴリさん」です。
最近朝起きると、こんな感じで「なでて〜」と待っているうちの犬。。なんか猫みたい。
校内研修を進めるのに一番大切なことって?
秋が近づいてきたなあ。
先日、ある人に、
「(研究主任として)校内研修を進めるのに一番大切なことはなんですか?」
と聞かれました。
一番大切なことかあ、なんだろう。
大切なことはわからないけれど、一番覚えていることはこんなできごとでした。
それは研究主任になって2年目。
外部のワークショップやファシリテーションのトレーニングに積極的に出かけて行って、「学んだことを校内に活かすぞ!」と張り切っていました。2006年あたりでしょうか。研修の進め方をワークショップやファシリテーションで学んだことをもとにデザインし、われながら「先進的なことをやっている!」と自信満々でした。
実際の研修はどうだったかというと、興味を持ってくれる人と、抵抗を感じる人と半々といった感じ。一生懸命準備をしているのにノッてくれない人にいらだちを感じていました。熱烈に応援してくれる先輩いたものの、露骨に口を聞いてくれない人もいました。
なんだよ、こんなに一生懸命やってるのに。いつまで古いことにしがみついてんだよ。
ある日の飲み会のこと。
応援してくれていた先輩、Kさんと飲みながら研修の話になりました。
「これだけ準備してやってるんだから、もっと研修加速していいはずなんですけど、抵抗している人まだいるんですよね」
とグチを言った次の瞬間、それまでウンウンと聞いてくれたKさんは激怒しました。
「おまえなあ!おまえは自分が正解持ってると思ってるんだろう!自分が正しいことをやっている、自分は勉強している、自分は知ってる、とおもってるんだろう。確かに勉強してる。でもそうやって同僚を下に見てるんだろう!」
「そういうの出てるんだよ!」
「お前は人のために汗をかいているんじゃない。自分が可愛くて、自分のために汗かいているんだ!そんな奴に誰もついていかない。
お前が口を聞いてくれないといった◯さん見てみろよ!あの人は自分の仕事じゃないのに毎朝早く来て、校庭にライン引いてるんだよ。おまえ知らないだろう! みんな人のために汗かいている人がいて、そうやって学校は成り立ってんだよ。
お前みたいな自分のためにしか汗かけない奴に誰もついていかないんだよ!
人は、何を言っているかではなく、誰が言っているか、で動くんだよ!」
おおよそこんな話でした。
それまで賑やかだった居酒屋の和室はシーンと静まりかえりました。
もう15年も前の話ですが、今もこのシーン、そのときの空気を鮮明に残っています。
ぼくはKさんにあれこれ言い訳を重ねました。
その後先輩たちが慰めに来てくれました。
でも自分が一番わかっていました。その通りだと。
Kさんの言った通りだった。それが毛穴から出ていた。
学校のために、全校の子どものために、なんてお題目であって、そこまで考えていなかった。
自分のために研究主任をやっていた。
恥ずかしいぐらいその通りだった。
このあと狭山市の駅前で、明け方まで泣きながらKさんと話しました。
いや、説教されてました。
途中、酔っ払った指導主事が通りかかって「おまえらなんで駅前で泣きながら話してんだ」と言われたなあ、そういえば。
この後紆余曲折あり校内研修は進んでいきました。ぼくも少しずつではあったけれど変化できたはず。
教室でのあり方も少しずつ変わったはず。
他者と真剣に向き合うってどういうことか。
遅きに失しましたが、その試行錯誤と探究が始まりました。
きっとそれが怖かったのだと、今振り返ると思います。
この出来事が、ぼくのその後の根っこになってます。
人の根っこって、常に美しい、輝かしいものではない。
でも、ぼく自身に自分を発見させてくれた出来事。
思い出して嬉しい「根っこ」ではなく、思い出すたびに胸の奥がググッと苦しくなる。
この出来事でちょっとだけ進んだ自己理解が、今もぼくを支えてくれています。
今自分はどういるか、を思い出すアンカーのような役割を果たしてくれている。
情けないことに今もなお克服できていないけど・・・
「(研究主任として)校内研修を進めるのに一番大切なことはなんですか?」
の解なんてないんだよな。
どう進めるか?(方法)とか、どんな研修を?(内容)とか、その目的は?の前に、そこにいるわたしはどういるのか?を繰り返し繰り返し振り返ることしかできないのかもしれない。
劇的にうまくいく方法!なんてないんだよな。
ごめんなさい、なんのヒントにもならない話しかその方にはできなかった。
Kさん、今近くの学校で校長先生をされているそう。
ひさびさに説教されに行こう。
とはいえ、自身の「やりたい!」もとても大切で、それを手放そうという話ではないんだよな、と蛇足的に。
自分モードは圧倒的な原動力なので。
異質な人と船をこぐ。
幾多の失敗を経験して確信した大切なこと。
考え方を共有する同僚だけではなく、そうではない(と思われる)同僚と話し、一緒に仕事をし、時にはサポートや助言を求めること。
同じ考え方だから信頼する、のではなくて、
同じ船に乗っているけれど異質である他者と、
一緒に船をこいでみること。そして一緒に変化すること。
それが自分と組織の変化に大切なこと。
言うはやすし、横山はやすし。
何度も悩み、苦しみ、怒られ、ケンカし、
そしてようやく肚落ちしたなあ。
そう思うと、「月曜日に行きたくなる職員室」をテーマに研究した堀兼小での6年、うち研究主任4年は、ぼくが大きく変化した時間だった。
過日、その堀兼小の時に、それこそ一緒に船をこいだ先輩と駅でばったり出会って、いつものように「おお、いわせさーん!!」とハグしあったときに、いつものように思い出したんだ。
今はすげー仲良しだけど、最初1年は口聞いてくれず、次の年半年はずっと「そんな研究主任じゃダメだよ岩瀬さん!!」と怒られ続けていたっけ。厳しい先輩だった。
でもきっとそれがあったから、
それでもあきらめなかったから、
お互いちゃんとぶつかったから、
共に成長できたんだなあと思う。
変わるべきはぼくだったということに気づけた。
自分のいる場を諦めたらそこで試合終了。
諦めなくてよかった。
その後、一緒に外の研修会にも行くようになったもんなあ。今も毎年ぼくが地元でやっているパパママ講座のお手伝いもしてくれる。定年されて何年もたつけれど、あのとき以上にパワフルでやさしい。
彼女もぼくも変わった。
人には力がある。
変化の種は、常に自分の手元にある。
わかっているけど、くじけそうになるときもあるよね。
人間だもの。
でも、このような「異質な人と船を漕いで同志になる体験」は残りの人生を支えてくれる。
メモ「ボクの自学ノート」と「幸せな子ども時代」。
こうすることが「自分らしさ」として当たり前になる学校の形、場の形とは?
7年間の歴史がつまった"ボクの自学ノート"|NHK1.5ch(NHK1.5チャンネル)
新しい学校のかたちは、ぼくらが思っているよりもずっとずっとシンプルなものなのだろう。
昨日、ご一緒した世田谷区立桜丘中学校の西郷校長は、インクルーシブ教育をわかりやすい言葉で
「すべてのこどもたちが3年間を楽しく過ごす」
と再定義していた。
そのためには、すべての子どもたち一人ひとりに特別な配慮が必要なのだと。
校則がないからこそ、教師と生徒は対等に話し合うことができる――西郷孝彦校長インタビュー | 文春オンライン
控え室で、LITALICOの野口さん、こたえのない学校の藤原さとさんを交えてお話ししていた時に「ほんとそうだ!」と共感したお話は、
「何か特別な配慮が必要な子がいたとして、その子に必要な環境や手立ては、すべての子が過ごしやすく学びやすくなる可能性がある」ということ。
以前、その子の学びやすさのために「タブレットを使わせてほしい」と保護者から依頼があった時、西郷さんは、
「では、全員OKにしましょう!」全校でOKにしたそう。
いやあすごい。
一人ひとりを大切にする、ということがどういうことかを改めて考えさせられた。
野口さんは、「インクルーシブ教育はプロセス」であると強調していた。
そのプロセスを大切にするためには、学校のかたちをもっとシンプルに。
試行錯誤しやすい、改善し続けやすいシンプルなかたちに。
子どもも大人も、誰にでもよくわかるかたちに。改めて「幸せな子ども時代のために」に足をぐっと置いて。子どもも大人も、自分の学び、自分の人生の「つくり手」である、ということはどういうことかをもっと考え尽くそう。
登壇の機会が、自分の学びになるというのは一番素敵なかたちだ。まだまだまだまだやれることあるな。
週末読んだ本(メモ)
今週末読んだ本。
スマホからSNSを消したことで、自分の時間が持てるようになった。
週末久々良く本が読めた。
先週、軽井沢にいらした神戸大、赤木さんに紹介していただいた本。
一気に読了。いやーおもしろかった。
スウィング(NPO法人スウィング:岩瀬注)のモットーのひとつに「ギリギリアウトを狙う」がある。だから始業時間はまちまちだし、眠くなったら昼寝をすることが奨励されているし、特に理由もないのに休みを取る人には拍手が送られる。知らぬ間に僕たちの内面に巣くってしまった窮屈な許容範囲の、ちょっと外側に勇気を持って足を踏み入れ自己規制を解除し続けることで、かつてはアウトだったものが少しずつセーフに変わってゆき、「普通」や「まとも」や「当たり前」の領域が、言い換えれば「生きやすさ」の幅が広がってゆく。
そもそもこの社会の隅々にまではびこり、恐らく多くの人を苦しめている「できること=良いこと(素晴らしい)」「できないこと=悪いこと(ダメ)」という価値観って一体何なのだろう。ホント何これ、教育? マジで意味分かんない。できることはただできるだけ、できないことはただできないだけ、良い悪いでもないし、それ以上でも以下でもない。これじゃいけないんだろうか?
必読の★★★★★。
できるーできないって何だろう?
仕事って?障がいって? まともがゆれる本。
★★★
久々に仕事術の本。『スプリント』の著者ですね。どこかで読んだことも多いけれど、あらためてざっと読んで考え直せる。
★★★★★ KAIに紹介されて読んだマンガ。
引き込まれた−。5巻でここまでいくかー。いやーすごいマンガをありがとう、KAI。
insight(インサイト)――いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力
- 作者: ターシャ・ユーリック,中竹竜二,樋口武志
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同僚、うまっちに紹介されポチッと。今日届いたので読み始めます。
ハーバード・ビジネス・レビュー[EIシリーズ] マインドフルネス (ハーバード・ビジネス・レビュー EIシリーズ)
- 作者: ハーバード・ビジネス・レビュー編集部,DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2019/02/07
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★★★
先週からマインドフルネスをはじめた。
理論的にも知っておきたかったので、読了。ざっと概観できる良書。マインドフルネスのやり方ではなく,その効果についての論文集。
★★★★★
ご存じ吉田新一郎訳本シリーズ。
下訳を読む役目を仰せつかっていたので、ずいぶん前に読んでました。
教師のためのマインドセットの本ですね。おすすめです。
今週末は久々じっくり本読めて満足。
さて、1週間がんばりましょう。
先ずは選挙速報みよう。
- 作者: 岩瀬 直樹,山中 正大,矢島 江里
- 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
- 発売日: 2011/03/20
- メディア: 単行本
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あ、おかげさまで8刷になりました。
2011年から細く長く読まれていてうれしい限り。
ありがとうございます。
まだのかたはぜひ。写真も豊富なうえに、袋とじのおまけつき!!
こんなお得な本はなかなかないです(当社比)。
学期末、テストに追われたりするのもったいない。
今年の梅雨は長い。
しっかりと雨が続きますね。
軽井沢なんて、ダウンを着る日があるんだよ,寒くて・・・
小学生の娘の様子を見ていると、プールになかなか入れなくて残念そうです。
プールの時間って、なんだかんだで開放的で好きな人が多いんですよね。それだけ普段の授業が開放的ではないという・・・以下自粛。
さて、1学期も終わります。
終わっていない漢字ドリルや計算ドリルやテストに時間を使って,子どもも大人もヒイヒイ言うのは本当にもったいない。
夏が近いのだからこそ遊びましょう。
学年を組んでいた同僚に教わって以来、毎年やっていた「水鉄砲大会」。
持ち物
・着替え一式。
・水を飛ばせるものならなんでも。
・タオル。
・着替えを入れるビニール袋。
パンツまでぐっしょりになるので、全て着替えられるように、靴も含めて一式持ってくることをオススメします。
水鉄砲はもちろん、プラコップやペットボトル、バケツを持ってくる人まで。
濡れたくない人、参加したくない人は、遠巻きに眺めているのももちろんOK。
カメラマンをやってくれる人がいたり,教室の窓から半ば呆れながら眺めつつ本を読んでいる人がいたりもします。
あそぶ
特に目的もなく、ただただ思いっきり水をかけ合うだけ、です。
ルールなんてありませぬ。
ひたすらかけあう。
最初の頃は水鉄砲でかけ合っていた人たちも,
途中からバケツでかけ合いはじめます。 笑
自分で水をかぶる人も。バケツ最強説。
大人であるぼくは,財力を生かして大きな水鉄砲を購入して,いざ鎌倉。
「ずるすぎる!」と非難囂々です。
始まった後は、起きることに委ねて一緒に遊んじゃいましょう。
何回か水鉄砲大会を実施すると、その内自分たちで企画しはじめ、盾をつくってくる人がいたり、ペットボトルを使って背中に背負える水のタンクをつくる猛者まであらわれて、いや何とも遊びの想像力ってすごい。
最初のきっかけだけつくれば、あとはどんどん広がっていきます。
「レクは子どもが考えることに価値があるのでは?」という声も聞こえてきます。
しかし、仮にそれを学級会で扱うとしても、子どもの中には,これまでの学校での経験(隠れたカリキュラム)から、「学校のレクでやっていいことってこれくらいのことだな、たぶん」と自制を働かせてしまいがち。結果、いつかどこかでやったような「ドッチボール」とかになりがちです。
「自由な企画が許される!」なんて経験、していない人が多いんじゃないかな。
先ずはその「学校についてのストーリー」を問い直す場面が必要そうです。そこは担任の出番だったりします。提案することをためらわなくてよい、とぼくは思っています。なによりぼくがやってみたかったし!
「とはいえ、来週1週間は雨模様だしな」
という声が聞こえてきますが、雨降っているからこそ楽しいですよ。
どうせ濡れるとわかっているなら,より大胆になれます。
せっかくの夏前ですよ。遊びましょう遊びましょう。
写真は、なんだかんだで一番楽しんでいた人。
「本を読む」ことと、「自分で考える」ことはつながっていると思います。
体調がすぐれず、ベッドでグズグズ。
目がさめるとちょこっと読書。今日は安野光雅『かんがえる子ども』を再読しました。
本を読まないでも、生きていけます。でも、本を読んで生きた人は、同じ十年生きていても、二十年も三十年も生きたことになります。
〜
「本を読む」ことと、「自分で考える」ことはつながっていると思います。「本を読むことは、自分の考えかたを育てること」です。とにかく、子どもたちには、自分で考えるくせをつけてほしいと思います。だれか偉い人がいっていたからとか、テレビでいっていたからとか、判断を他人に任せるようではつまらないではありませんか。でも、自分で考えるためには、日頃の訓練が必要です。頭がやわらかいうちに、たくさん本を読んで、世の中にはいろんな考えかたがあることを知りたいものです。
軽井沢風越学園の真ん中にライブラリーを置いた理由の一つのは、ぼく自身、学ぶこと、世界を知ることの大きな核の一つは「読むこと」であると思っているから。
公立小にいたときも教室に大量の本を置いていた。本が身近にあること、これは家庭環境に左右される。だからこそ学校こそが本を身近な存在に感じる環境であるべきだと思う。
せっかく本があっても、本の世界とつなぐ大人の存在はとても大切。
そのためにはぼくら自身が、子どもの本をどれくらい読んでいるかが決定的に大事で、それなくして子どもと本をつなぐことはできない。
たくさん読んで、知っている本が増えると、ある子に出会った時に、
「ああ、○○には、あの本が今ぴったりだな」とわかるようになってくる。
他ならぬあなたのために選んだ本を手渡すと、けっこうな割合で大切に読んでくれる。
「他ならぬ私のために選んでくれた」が実は大切。そのためには、その子のことと、本のこと、両方にアンテナを張り続けて、マッチングの試行錯誤を積み重ねるしかない。
学校や幼稚園、保育園の先生にとって、たくさんの子どもの本を読んでいること、知っていることは、「先生としての大切な土台」だとぼくは考えている。子どもの本を読んでいないのに、国語の授業ができるわけがない。
児童書やヤングアダルトをたくさん読んで、100冊を超えたあたりから見える世界が変わってくる(当社比)。
騙されたと思って読んでみてください。
ちなみにぼくや、盟友のKAIは、かなりおじさんになってから児童書やヤングアダルトに目覚め、それから何百冊と競うようによんできました(ちょっと盛ってるかなww)。大事な経験だった。
「何を読むか」も決定的に大事なので、例えばこちらも参考程度に。http://iwasen.hatenablog.com/entry/2015/11/05/193414