きく
去年から、ぼくの個人的な探究テーマは「きく」。
教師という「きくこと」がとても大切な仕事をしていながら、果たしてぼくはなにをどのようにきいているのだろうか。
ぼくは、人の話をきいているとき、相手が話したことを自分の思考の材料にしてしまう。
例えば「結局、学校教育はもう限界なんだよ」と相手が言ったとする。
するとぼくのノーミソは
「新しい思考の材料が増えた!」
とばかりに喜び出す。餌に飛びつく感じ。
ほどなく自分の中で脳内対話が始まる。
そうなるともう相手はぼくの前にはいない。
「そもそも限界と考えた時点で限界なんだよ」
「学校って守られているじゃん。その中でやれることって山のようにある。縛りがあるから自由になれるっていう面もあるんだよ」
「縛りがある分、検討すべき範囲が狭まるから、それは実はイノベーションを起こしやすいのかもしれないよ。そもそもゼロから考えるってすごく大変なことなのだから」
「ああ、でもぼくもそう考えた時期があったなあ。あれはいつだっただろう」
「異動して同僚となかなかうまくいかなくなった時だ。なるほど個人的に行き詰まると、一般化して制度のこととかにしたくなるんだな」
例えばこんな調子だ。
脳内対話に喜んでしまい、内省に突入してしまう。自分に潜っていくのが楽しい。
これ、読書している時と同じだ。
読みながらあれこれ考えるのが好き。それを日常のコミュニケーションにも適用してしまっている。相手を本のように扱っているのか。うむむ。
講演会や、そもそも議論している時などは、まあこれでいいんだと思う。
問題は日常のコミュニケーションにおいても、うっかり同じようにしてしまいがちなところ。
相手が話したことを思考の材料にして脳内対話がスタートする。(そう書くとなんだか素敵な感じだけど、ようは自分の思考のエサにしているという、とても失礼な構えだな‥)
「今日カレーにしようと思うんだけど」
「えー!」
(三が日明けてすぐカレーか・・・・せっかく時間があるんだから、もっと普段作れないもの食べたいなあ。そもそもカレー先週も食べたし。まてよ、これは俺に作れということか?週末はご飯当番だし。さらに家事最近サボり気味だし。だからといってこんな風に遠回しにやれはないよな。以下続く)
もはや妄想に近い。
「今日カレーにしようと思うんだけど」
「今日カレーにね」
「そう、明日天気良さそうだし、御岳神社の方にハイキングでも行きたいなーって。帰りにのんびり温泉入ってきて、新学期に備えようよ。カレーにしておけば、晩御飯ギリギリまでのんびりできるし」
「あー、それすごくいいねー。御岳神社ってハイキングできるの?」
という展開も充分に考えられるわけだ。
実際そんな感じだった。
「宿題やってきてないんだー」
「ああ、宿題やってきてないんだー」
と、そのままきければ、
「うん、実はさ〜」
とその先に相手が話したかったことにすすめるかもしれない。
「宿題やってきてないんだー」
「昨日もそうだったでしょ。休み時間にやりなね」
では、関係性すら遠のいてしまう。
人をどういう存在としてみているのかと、きくは地続きなのだろう。
相手の話したことを思考のエサにしないで、
判断の材料にしないで、
思考をスローダウンして、そのまま「きく」。
相手のことばについてゆくききかた。相手を追い越さない。相手の案内で旅に出る。
意識しているんだけど、なかなかできるようにならない。
数回、いつもと違う風景が見えた瞬間があったんだけれど。
今年も引き続きうろうろしてみよう。
御岳神社はきれいでした。
横並びの文化
教室で何か新しいことを実践しようと思ったとき、同僚の顔や管理職が気になる。
「自分だけ勝手なことをやっていると怒られるんじゃないか」と。
これは杞憂ではなく、
実際に「あなただけ勝手なコトされると困るんだよね」とか、
「学年で揃えましょう」という言葉は全国で飛び交っているだろう。
スタンダードなどはその最たるものだ。
なぜそうなるのか?
学年の先生は、
「あなたのクラスだけやっていると、保護者が不安になるから」と。
管理職は、
「いいのはわかるけど、他の先生のプレッシャーになるから」と。
新しいことにチャレンジしたい人は、イライラする。
「下にあわせているだけじゃ、学校が良くならないじゃないか!」と。
そこを強行突破し、やがて、その人は一人尖っていって同僚とうまくいかなくなる。
実践が誰の目から見ても素晴らしく、子どもが成長している姿で周囲が納得せざるを得ない場合はまだいい(それはなかなか難しいことだ)。
たいていは野心的なチャレンジなので、うまくいかないことだらけだったりする。
そうなると同僚や管理職からの風当たりも強くなる。
その人は、意固地になって籠もるか、外に出て行って憂さを晴らすか、新しい実践を諦めるか、等々の選択をする。
結果、誰も幸せにならない。
学校の「横並び文化」はなかなかやっかいだ。
新しいチャレンジに対しての反応は「恐れ」なのだ。
自分がこれまで大切にしてきたことが否定されるんじゃないか。やれてないことが露呈するんじゃないか。比較され、評価されるんじゃないか。
未知のものに出会って恐れを感じるのは、ある意味正常な反応。
正しい言葉じゃない感じがするけれど、実践の良し悪しは事後にしかわからない。やってみたい!といくら力説しても、正当性を吠えても、説得できるわけがない。
それに対して「だからダメだ!」と吠えても仕方がない。
恐れを助長するだけだ。
できることは、管理職や同僚に変わることを求めるのではなく、私(たち)のアプローチを変えることなんだと思う。
例えば小金井三小のチャレンジはつまりそういうものだった。
一緒に新しいことにチャレンジしてみよう、試行錯誤してみよう、それを共有しようという文化を築く。
それぞれ恐る恐るでも新しいことにチャレンジし続けたら、子どもや自身の変化、ましてや職場もじわじわ変わってきて、小さな成功体験をたくさんの人で積み重ねあえた。
「やってみてよかった」「チャレンジしてみて良かった」を組織で積み重ねないと、新たらしいことにチャレンジする文化は生まれてこない。
いい実践しているなーって人は、結局のところ職場の関係性をとても大切にしている人で、その結果イノベーティブな実践ができるんだよな、と思う。
「わー、おもしろそうなことやってるね!見にいっていい?」
「それいいねー!ぜひ全校に広げてよ!」
という言葉が職場に増えていくためには、私のアプローチを変えることしかない。ぼくもそれに気づくのにずいぶんずいぶんかかったし、職場の先輩諸氏には死ぬほど怒られた末にようやくたどり着けたんだけども。
「うちの職場はほんとクソで」なんて話を聴くと、まあそうなんだろうけれど、あなたもその一部だものね、という気持ちにならなくもない。
変化のためのコントローラーは手元にある。
一つだけ付け足すと、管理職や教育行政の大切な仕事は、イノベーションが起きやすい文化、自由な試行錯誤が山ほど起きる文化をつくること。特に教育委員会がんばれーと言いたい。
* * *
ついでに備忘録的に冬休みに買った本。
ブロックチェーン、AIで先を行くエストニアで見つけた つまらなくない未来
- 作者: 小島健志,孫泰蔵
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2018/12/20
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- 作者: サイモン・シネック,栗木さつき
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なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか――すべての人が自己変革に取り組む「発達指向型組織」をつくる
- 作者: ロバートキーガン,リサラスコウレイヒー,中土井僚,池村千秋
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幼児教育へのいざないの増補分、レッジョ・エミリアの文章がものすごく良かったな−。
子どもに戻って、教室に座ってみる。
「自分が子どもだったらこの教室で学びたいか」
「自分はこの教室で幸せに過ごせるか」
「自分の子どもにはここで学んでほしいか」
ぼくは、自分が担任していた学級を見るとき、子どもを見るとき、勤めている学校を見るとき、いろいろな教室を参観するとき、あたかもそこに自分が子どもに戻って座っている、という視点で見ることが多い。
子どもに戻った自分がそこに座っていることを想像する。
そうすると理屈を超えて、なんというか身体の「感じ」で、居心地の良さや場をおおっている空気みたいなものが伝わってくる気がする。
「なんか気持ち悪い」にどれくらい敏感になれるか、がすごく大事だ、とぼくは思う。
教育実践の本を読むときも、気づくとその視点で読んでいることが多い。
授業を参観させていただいたとき、可能なときは席に座らせてもらって、一緒に授業に参加する。
そうすると「あー、話に飽きてきた」とか、「隣の子と話したいなー」とか、「先生ずっとしゃべってて疲れないのかなー」とか、いろんなことを感じたり、見えたりする。すごくおもしろい。
これってよく考えてみると、当事者の視点から場を眺め直してみる、ということをやっているんだな。
恩師、平野朝久先生は指導案をあらかじめ詳しく読まないとおっしゃっていた。読んでしまうと「その通りに進んでいるか」に意識が行ってしまう。子どもと同じ状態でその時間にいるようにしているそうだ。
「先生」を含む対人援助職の専門性の大きな一つは、「自分が子どもだったらこの教室で学びたいか」、この問いを持ち続け、感度を高め続けられるかだと思う。
これって、よく引用するんだけれど、出口治明さんの
「会社の偉い人で、『若手を鍛える』という人がいますよね。でもね、それは会社でやる前に家でできることなのかどうか、って思うんですよ。
パートナーにできないことは、会社でやっちゃいけません。」
という言葉にもつながる。(アエラ1487号)
今、子どもの宿題を手伝いながらこのブログを更新しているんだけれど、
ふと、たった今の自分の子どもと自分の関わりをながめてみる。
途中から、疲れてやる気が減少していく子を見て、
「おい、おまえの課題なんだから一生懸命やれよな」
という気持ちが芽生えて、言葉にちょっとトゲが入る。表情もそんな感じが出てたはず。
でもそれを子どもの側からみてみると、
「あ、不機嫌になっている。だから親に手伝ってもらうのはなあ・・・」なんて感じてるよな、絶対。おれも子どもの頃よくあったわ、そんな場面。
わかっているのに、ついこんな感じに反応してしまっているんだよなあ。
1時間を超えて集中力も切れてきているんだから、そうなって当たり前。
自分が子どもだったらどうしてほしいかな。
「疲れたからちょっと休憩するか」かもしれないし、「これ難しいなあ〜なかなか大変だよね」といってほしいかもしれないし、「続き明日にする?」かもしれないなあ。
少なくともイライラしている人にそばにいてほしくはない。
わかっていることとできていることって、すぐに乖離していく。
どこに立って、どこから見るか。
どこに立って、何を感じるか。
意識して繰り返していないと、ついつい自分の目から見える世界がすべてになってしまう。そうすると、例えば実践を記録するときに「子どもに振り返りを書かせる」とか「振り返りを書いてもらう」なんていう使役な書き方しちゃう。書かせるものではないし、書いてもらうものではないのにね。
子どもを操作対象にしない、は意識していないとやっちゃう。
手伝いながら、これを書いたことで、立ち位置を少し戻せた。
というわけで手伝いに戻りまーす。
学校はなんのためにあるのか。
学校ってあることが前提になっていて、タイトルのような問いを持つことって少ない。
「学校はなんのためにあるのか」。
吉田新一郎さんに紹介していただいた動画はこの問いからスタートします。
なかなか辛辣に学校教育を批判していますが、改めて学校の目的について考えるきっかけになる動画です。
目的を問わずして、手段を検討することはナンセンス。
ぼくらが軽井沢風越学園で実現しようとしている、学校の目的とは以下の通り。
私たちは、すべての子どもの<自由>に生きるための力を育むと同時に、<自由の相互承認>の感度を育む場所が学校だと考えています。より多くの人が「自由だ、幸せだ」という実感をもって生きられる社会が私たちの理想です。軽井沢風越学園では、このような社会の担い手を増やします。
昨日書いた、「異年齢・異学年の学び」もこの目的に戻ると妥当な選択だと考えています。
目的を描くことができたら、次は実装。
この実装に向けての1年。簡単そうで難しい。
でも本当に難しいのか?という疑問もある。実はとてもとてもシンプルなんじゃないかという直感もある。
やりながら考えていくほかないなあ。
異年齢・異学年の学び
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。今年は更新の頻度をあげたい(希望的観測)。
ぼくにとって、ブログは自分の思考のツールです。書きながら言葉になっていないことを整理していく感じ。というわけで今年もとっちらかった文章になるかも知れませんがよろしくお付き合いください。
さて。
去年、文部科学省、「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」から出された「Society 5.0 に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」という報告書では以下のような記述があります。
Society 5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~
平成30年6月5日Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf
〜学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。
また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。(8p)
また経済産業省から出された「『未来の教室』と EdTech 研究会」第1次提言(案)でも、学校教育に期待される具体的変化の例として
同質性の高い学校・学級空間ではなく、マルチ・エイジのグループ編成、学校種を超えたグループ編成、障碍の有無なく混じり合い、多様性ごちゃ混ぜの人間関係の流動性の高い空間が一般的になり、同質性がもたらす相互牽制や相互不安、同調圧力やいじめや空気の読み合い等の問題も払拭する空間になっている。
なんて書かれています。
異年齢・異学年のことは、このような一見"派手”な発信だけではなく、平成28年にでた「小中一貫した教育課程の編成・実施に関する手引」の中でも触れられています。
異学年交流のねらい
異学年交流の効果としては,例えば,以下のようなことが考えられます。
1 家庭や地域における子供の社会性育成機能が弱まっている中で,異学年交流に よって社会性(思いやりの心,コミュニケーション能力等)やリーダーシップを育成することができる
2 異学年で学ぶことが,新しい気づきや既習事項の振り返り,学習意欲の向上につながる
3 児童の中学校生活に対する不安感の軽減により,小学校から中学校への移行がスムーズに行われ,学校段階間のギャップの解消につながる
4 単独の小学校及び中学校では確保できない,十分な集団規模を確保して教育活動を行うことができる
5 人間関係が固定化してしまうことによる悪影響を抑え,多様な人間関係を構築できる
6 異校種の教員が必然的に連携し理解し合わなければならない場面が増え,協力関係が構築される
一斉の授業スタイルから学びの個別化(同じから違うへ)、異年齢・異学年への学び(分けるから混ぜるへ)が国レベルでも検討されていて、その価値は共有されていそうです。
ボストンカレッジ教授のピーター・グレイによると、私たちの社会は異年齢で構成されているにもかかわらず、学校では同年齢で過ごすことが多いのが現状です。社会の変化により、一家族当たりの人数が減少し、近所レベルでの異年齢の自由な遊びも減少しています。また学校で過ごす時間の増大、学校外の各種活動も年齢別の活動が普及しているなど、私たちが意図しなければ、異年齢の関わりや学びがおきにくくなっています。
また、異年齢混合の学びの効果として、年少者にとっては、
・今日誰かの助けがあってできることは、明日一人でできるようになる。
(発達の最近接領域と足場かけは、異年齢の中でこそ起きやすい)
・観察して学ぶ(あこがれる→まねる)
・ケア(気づかい)と精神的なサポートを受ける(ケアし合う原体験が育まれる)
年長者にとっては、
・育てたり、リードしたりすることを学ぶ
・他者に教えることを通して学ぶ
・年少の子たちの存在により創造性が喚起される
をあげ、異年齢混合での学びを推奨しています。
異年齢混合こそ教育機関が成功するための秘密兵器とまで書いているんですよね。
実は、現在の多くの学校でも異学年の交流は行われていますが、清掃や縦割り班遊び等、特別活動等、教科学習以外の場面がほとんどです。
このようなイベント的な異学年交流には、「年上=面倒を見る人」、「年下=劣っている人」のような役割や人の見方の固定化が起きてしまい、実は逆効果になることも考えられそう。「効率的」に学校教育を行うために異年齢を使っている、というと言い過ぎでしょうか。
そもそも社会は異年齢で構成されています。
社会人になって「同い年でチームを作って仕事をする」なんて設定はほとんどないですし、社会で暮らすこと自体が異年齢で暮らすこと。ぼくが子ども時代に地域にあったのは異年齢の遊び集団。多様なメンバーの中で折り合いをつけながら遊ぶなんて当たり前田のクラッカーでした。異年齢のなかにいるって本来は極めて自然な状態です。
そう考えると学校だけが特殊な構成です。教える側にとって、管理する側にとって「効率的であること」が制度として続くうちに、多くの人が学校教育の中で過ごすうちに、いつのまにか普通のこととして受け入れられてしまったことなのではないかと思うのです。
全国で学校の小規模化が進んでいます。
例えば長野県を例に取ると、小・中学生は、約 20 年後に現在の6割程度まで減少すると予測されています。平成25年度ではすでに小学校の3校に1校、中学校の5校に1校が単級以下です。「今後も児童・生徒の減少に伴い学級数が縮小するなど、学校の小規模化の進行が懸念 」されています。
学校の小規模化はますます進むでしょう。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/kensei/shisaku/sogokyoiku/documents/shiryo2.pdf
学校が小規模化するときに、日常的な異年齢・異学年の学びを実践するチャンス!しかし、学校が小規模化すればするほど「講義中心の一斉授業に向かう」という逆説的なことが起きがちです。
学級に4人しかいないクラスでは、「一人一人に目が届き」、「今までの授業スタイルが通用する」し、そもそも「荒れにくい」状況なので、学校での学びの有り様を変えようというベクトルが働きにくい。短期的には困っていないので、今の教育の「標準と思われているもの」に向かっていってしまう。4人しかいないのに、手を挙げて発表する、なんてことが誰の疑いもなく成立してしまう。
それほど同年齢・同学年の制度は、ぼくたちの身体に染みこんでしまっています。ぼくらの経験からできあがったマインドがそのチャレンジを阻みます。条件が揃っているからといって実践できるわけではない。
様々な学校改革のチャレンジをみても、ドラスティックに仕組みを変えても、教師自身のマインドがなかなか変わらず、講義中心の一斉授業が残り続ける、ということが往々にして起こります。教師のマインドが形骸化させる。手強し。
またこれまでのやり方を前提にすると、異年齢・異学年の学びはイメージしにくい。講義中心の一斉授業では、年齢も学んでいることも違うメンバーが同じ場で学ぶことは、実質不可能だからです。学びの個別化が不可欠になります。経験のないことへのチャレンジは不安になります。
また国内には、日常的な異年齢・異学年の学びは学校単位で踏み出すほかなく、実践事例も少ないのが現状。小さなチャレンジの積み重ねがしにくい。これまた変化を阻む要因です。
では、どうやって踏み出すと、その可能性が見えてくるのか。
どのような条件整備が必要か。
教師や保護者のマインドが変わるためには何が必要か。
その時の実践のポイントはどこか。
考えてみたい問いはいくつも浮かんできます。
これからブログでぐいっと深めていきたいと思います。
端的に言えば、ゆるやかな協同性に支えられた個の学びを実質化すること。
その時に戻るべき本はこれ。
人それぞれ、興味・関心や学びのペース等が異なっているということを大前提に、異年齢・異学年を前提に、大胆に日々の学びをリデザインすること。公教育を変えていく一歩目はここだと思います。とってもハードルが高い(ようにみえる)。でもこの一歩目に踏み出せるかどうかが、イノベーションを起こせるかどうかの分岐点。この一歩目は今当たり前になっている様々な仕組みを見直さざるを得ないからです。
そのチャレンジをしたいし、応援したい。
さて、正月なので今日はここまで。ビールを飲もう!
今年1年も大変お世話になりました。
2018年、大変お世話になりました。
年賀状を出すことをやめるようになって9年目になりました。
この個人的なつぶやきを持って今年1年お世話になったお礼とさせてください。
今年のハイライトはなんといっても、東京学芸大学教職大学院の職を辞し、一般財団法人軽井沢風越学園設立準備財団で開校準備に専念することにしたこと。
思い切ったようにも見えますが、自分の中では自然な流れの中のできごとでした。(中原淳さんには、対談の機会にお会いしたとき、「ドベンチャーに行きましたね!』と言われましたが 笑)
幸い、東京学芸大学教職大学院では非常勤で授業を持たせていただいていて、週1回の大学院の授業がとても楽しみ。2020年に開校して、ある程度落ち着いたら教師教育にも並行して関わっていきたい。
去年は2つの論文を書きましたが、今年度は実務に追われて書けなかったなあ。
・渡辺貴裕,岩瀬直樹「より深い省察の促進を目指す対話型模擬授業検討会を軸とした教師教育の取り組み」『日本教師教育学会年報』第26号。
・岩瀬直樹「教室内外の言説や経験を自分の力にしてきた教員の、学級経営における『実践知』とはなにか」『学校教育研究No32』,74-89頁。
修論をもとに、オートエスノグラフィー的ナラティブ探究を引き続き研究したいとは思いつつ時間が取れなかった…来年度も無理かなあ…2020年に無事開校したら、学校をフィールドとして実践研究を重ねていこうと思います。
本は共著の1冊のみでした。
インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)
- 作者: 青山新吾,岩瀬直樹
- 出版社/メーカー: 学事出版
- 発売日: 2019/01/17
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青山さん、編集者の加藤さんと2年かかってようやくできた本。ぜひ感想をお聞かせください。
来年は、2月頃に、吉田新一郎さんとの共著がでます。井庭崇さんとの対談が収録された本も1月頃出る予定。あと1冊は書きたいなあと思います。よい企画が思いつくとよいな。
個人的には「きくということ」が個人の探究テーマでした。
西村さんのインタビューのワークショップで5泊6日をすごしました。
いい場だったなあ。
青木将幸さんのミニカウンセリングのワークショップの2日間も味わい深かった。
ぼくは今、日頃何気なく行っている「きく」ということの再構築の最中です。
来年もひきつづき「きくということ」がぼくの研究テーマです。
さまざまな場にも立たせていただきました。静岡県教委は2年目。来年もお声がけいただいてありがたい限り。宮城県教委での研修も思い出深い。たくさんのご依頼をいただきましたが、なかなか時間が取れず心苦しい限りです。
小金井三小での2年間のプロジェクトもひとまずのゴールを迎えました。このチャレンジは何らかのカタチにまとめたいなあと思います。
徳島の入田小学校の3年のプロジェクトは11月に終わりました。その際に訪れた神山町、自然学校TOECには大きな刺激を受けたなあ。
何か新しいことが始まりそうで楽しみ。
あ、そうだ。サンディエゴのHigh Tech High、サンフランシスコの、The Nueva school,New school,millenium schoolの視察にも行ったのでした。
静かに確信を深めた時間だった。
こう振り返ってみるといろんなことがあった。
とはいえ、開校準備にほとんどすべての時間を使った1年でした。
現在地はこんな感じ。
2018年秋、本城と岩瀬の現在地 – 軽井沢風越学園(設立設置認可申請中)
次の1年はいよいよ開校を目指しての具体的な準備に入ります。
迷いながら、楽しみながら、大切な1年をつくっていきます。
来年はどんな1年になるのやら。
まずは軽井沢風越学園設立プロジェクトが佳境に入っていろんなことが起こるだろうなあ。あー楽しみ。
1月からはジムに通い始めたいと思っております(希望的観測)。
「きくということ」と「かくということ」の探究を引き続き深めていきます。
このブログは、ウェブダイアリー時代(懐かしい響き)から10年が過ぎました。総アクセスも200万を超え、今は1日1000アクセスぐらい。ありがとうございます。
来年度はもっと日常的に書いていきたいなあと思います(自分に期待)。
1年間本当にお世話になりました。
というわけで、皆さんよいお年を!
久々に新刊が出ます。
あっという間に年も暮れ。
ばたばたばたばたと過ごしております。バタバタバタバタ。
さて、久々に新刊が出ます。
インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)
- 作者: 青山新吾,岩瀬直樹
- 出版社/メーカー: 学事出版
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尊敬する研究者、青山新吾さんとの共著です。
ぼくの公立校時代の実践を、インクルーシブ発想の視点から対話を通して読み解いてくださいました。
主にこの本に書かれた実践をベースに読み解いていったのが今回でる本です。
なんと西原理恵子さんが表紙を書いてくださった本。
日々の実践の振り返りをベースにした本です。
個人的にこの本、とても好きです。本屋であまり見かけず(涙)、でもぜひよんでいただきたいなあと思っています。
2冊セットで1冊、です。
さて、新刊の目次です。
★目次★
第1章 インクルーシブ発想とは~岩瀬直樹実践が問いかけるもの~(青山新吾)
インクルーシブ発想とはつなぐ、つながることの弱さ
「集団の中の個」という考え方
関係性と合理的配慮
岩瀬実践は私たちに何を問うているのか
■岩瀬直樹実践の概要
教室リフォームプロジェクト/プロジェクトアドベンチャー/会社活動/作家の時間/振り返りジャーナル/ブッククラブ/単元内自由進度学習/自立チャレンジタイム
第2章 インクルーシブ教育をどう実践すればいいのか(対談)青山新吾×岩瀬直樹
4月の最初に「教室リフォームプロジェクト」を行う理由
「作家の時間」で子どもたちをみる、「PA」で人間関係を混ぜる
コンテンツだけ取り入れても意味がない
学校文化ではICFが不問にされている?
授業は同じように進むというのはフィクション
「表向きのストーリー」と「秘密のストーリー」をリンクさせる
教師の仕事は、徹底した個への関心がないと成立しない
先生は、一緒に生活する人
当事者である子どもと一緒に授業をつくる
子ども同士の関係性と合理的配慮
困っていることを表に出していい文化をつくる難しさ
関係性の中だけでやろうとすることの危うさ
トップダウンから協同探究、そしてパートナーへ
教室に畳スペースをつくる理由
学習を個別化すると、個人がみえてくる
学びのコントローラーは子どもたちの手にある!
「自立チャレンジタイム」の時数はどうやって取っていたのか
専門性があるほうが協同的な学びの質も高まる
学校教育の未来
どんな個にもフォーカスが当たる社会に
第3章 インクルーシブ教育の実践って?(岩瀬直樹)
方法の前提になること(対談を経て)
方法の目的化
子どもをどんな存在としてみるか
他者と共に伸びていく
学級を安心安全に、のその先に
インクルーシブ教育の実践って?
発刊まで少し時間がありますが、『みんなのきょうしつ』を読んでいただき、「その背景にはどんな考えや思い、アプローチがあったのだろう」と推測していただいてから本書を読んでいただくと、より立体的に立ちあがってくるものがあるのではないでしょうか。
対談でのぼくの語りがやや、いやかなり冗長ですが…青山さんがなんとか整理してくださいました。岩瀬実践を3つのキーワードでまとめてくださった第1章、特にお薦めの章です。
年明けには、井庭さんとの対談が収録された本が出ます。
『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育』(井庭崇 編著, 鈴木寛, 岩瀬直樹, 今井むつみ, 市川力) 慶應義塾大学出版会
いやあ、このメンバー気後れするわ…
さらには、『今すぐできる学校改革の提案(仮)』も3月までには出る予定。
さあ、年末はゲラチェックだー。
ではちょっと早い昼休みを終え、仕事に戻ります!
つけたし
なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか――すべての人が自己変革に取り組む「発達指向型組織」をつくる
- 作者: ロバートキーガン,リサラスコウレイヒー,中土井僚,池村千秋
- 出版社/メーカー: 英治出版
- 発売日: 2017/08/09
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