子どもに戻って、教室に座ってみる。
「自分が子どもだったらこの教室で学びたいか」
「自分はこの教室で幸せに過ごせるか」
「自分の子どもにはここで学んでほしいか」
ぼくは、自分が担任していた学級を見るとき、子どもを見るとき、勤めている学校を見るとき、いろいろな教室を参観するとき、あたかもそこに自分が子どもに戻って座っている、という視点で見ることが多い。
子どもに戻った自分がそこに座っていることを想像する。
そうすると理屈を超えて、なんというか身体の「感じ」で、居心地の良さや場をおおっている空気みたいなものが伝わってくる気がする。
「なんか気持ち悪い」にどれくらい敏感になれるか、がすごく大事だ、とぼくは思う。
教育実践の本を読むときも、気づくとその視点で読んでいることが多い。
授業を参観させていただいたとき、可能なときは席に座らせてもらって、一緒に授業に参加する。
そうすると「あー、話に飽きてきた」とか、「隣の子と話したいなー」とか、「先生ずっとしゃべってて疲れないのかなー」とか、いろんなことを感じたり、見えたりする。すごくおもしろい。
これってよく考えてみると、当事者の視点から場を眺め直してみる、ということをやっているんだな。
恩師、平野朝久先生は指導案をあらかじめ詳しく読まないとおっしゃっていた。読んでしまうと「その通りに進んでいるか」に意識が行ってしまう。子どもと同じ状態でその時間にいるようにしているそうだ。
「先生」を含む対人援助職の専門性の大きな一つは、「自分が子どもだったらこの教室で学びたいか」、この問いを持ち続け、感度を高め続けられるかだと思う。
これって、よく引用するんだけれど、出口治明さんの
「会社の偉い人で、『若手を鍛える』という人がいますよね。でもね、それは会社でやる前に家でできることなのかどうか、って思うんですよ。
パートナーにできないことは、会社でやっちゃいけません。」
という言葉にもつながる。(アエラ1487号)
今、子どもの宿題を手伝いながらこのブログを更新しているんだけれど、
ふと、たった今の自分の子どもと自分の関わりをながめてみる。
途中から、疲れてやる気が減少していく子を見て、
「おい、おまえの課題なんだから一生懸命やれよな」
という気持ちが芽生えて、言葉にちょっとトゲが入る。表情もそんな感じが出てたはず。
でもそれを子どもの側からみてみると、
「あ、不機嫌になっている。だから親に手伝ってもらうのはなあ・・・」なんて感じてるよな、絶対。おれも子どもの頃よくあったわ、そんな場面。
わかっているのに、ついこんな感じに反応してしまっているんだよなあ。
1時間を超えて集中力も切れてきているんだから、そうなって当たり前。
自分が子どもだったらどうしてほしいかな。
「疲れたからちょっと休憩するか」かもしれないし、「これ難しいなあ〜なかなか大変だよね」といってほしいかもしれないし、「続き明日にする?」かもしれないなあ。
少なくともイライラしている人にそばにいてほしくはない。
わかっていることとできていることって、すぐに乖離していく。
どこに立って、どこから見るか。
どこに立って、何を感じるか。
意識して繰り返していないと、ついつい自分の目から見える世界がすべてになってしまう。そうすると、例えば実践を記録するときに「子どもに振り返りを書かせる」とか「振り返りを書いてもらう」なんていう使役な書き方しちゃう。書かせるものではないし、書いてもらうものではないのにね。
子どもを操作対象にしない、は意識していないとやっちゃう。
手伝いながら、これを書いたことで、立ち位置を少し戻せた。
というわけで手伝いに戻りまーす。