去年から、ぼくの個人的な探究テーマは「きく」。
教師という「きくこと」がとても大切な仕事をしていながら、果たしてぼくはなにをどのようにきいているのだろうか。
ぼくは、人の話をきいているとき、相手が話したことを自分の思考の材料にしてしまう。
例えば「結局、学校教育はもう限界なんだよ」と相手が言ったとする。
するとぼくのノーミソは
「新しい思考の材料が増えた!」
とばかりに喜び出す。餌に飛びつく感じ。
ほどなく自分の中で脳内対話が始まる。
そうなるともう相手はぼくの前にはいない。
「そもそも限界と考えた時点で限界なんだよ」
「学校って守られているじゃん。その中でやれることって山のようにある。縛りがあるから自由になれるっていう面もあるんだよ」
「縛りがある分、検討すべき範囲が狭まるから、それは実はイノベーションを起こしやすいのかもしれないよ。そもそもゼロから考えるってすごく大変なことなのだから」
「ああ、でもぼくもそう考えた時期があったなあ。あれはいつだっただろう」
「異動して同僚となかなかうまくいかなくなった時だ。なるほど個人的に行き詰まると、一般化して制度のこととかにしたくなるんだな」
例えばこんな調子だ。
脳内対話に喜んでしまい、内省に突入してしまう。自分に潜っていくのが楽しい。
これ、読書している時と同じだ。
読みながらあれこれ考えるのが好き。それを日常のコミュニケーションにも適用してしまっている。相手を本のように扱っているのか。うむむ。
講演会や、そもそも議論している時などは、まあこれでいいんだと思う。
問題は日常のコミュニケーションにおいても、うっかり同じようにしてしまいがちなところ。
相手が話したことを思考の材料にして脳内対話がスタートする。(そう書くとなんだか素敵な感じだけど、ようは自分の思考のエサにしているという、とても失礼な構えだな‥)
「今日カレーにしようと思うんだけど」
「えー!」
(三が日明けてすぐカレーか・・・・せっかく時間があるんだから、もっと普段作れないもの食べたいなあ。そもそもカレー先週も食べたし。まてよ、これは俺に作れということか?週末はご飯当番だし。さらに家事最近サボり気味だし。だからといってこんな風に遠回しにやれはないよな。以下続く)
もはや妄想に近い。
「今日カレーにしようと思うんだけど」
「今日カレーにね」
「そう、明日天気良さそうだし、御岳神社の方にハイキングでも行きたいなーって。帰りにのんびり温泉入ってきて、新学期に備えようよ。カレーにしておけば、晩御飯ギリギリまでのんびりできるし」
「あー、それすごくいいねー。御岳神社ってハイキングできるの?」
という展開も充分に考えられるわけだ。
実際そんな感じだった。
「宿題やってきてないんだー」
「ああ、宿題やってきてないんだー」
と、そのままきければ、
「うん、実はさ〜」
とその先に相手が話したかったことにすすめるかもしれない。
「宿題やってきてないんだー」
「昨日もそうだったでしょ。休み時間にやりなね」
では、関係性すら遠のいてしまう。
人をどういう存在としてみているのかと、きくは地続きなのだろう。
相手の話したことを思考のエサにしないで、
判断の材料にしないで、
思考をスローダウンして、そのまま「きく」。
相手のことばについてゆくききかた。相手を追い越さない。相手の案内で旅に出る。
意識しているんだけど、なかなかできるようにならない。
数回、いつもと違う風景が見えた瞬間があったんだけれど。
今年も引き続きうろうろしてみよう。
御岳神社はきれいでした。