ヒドゥン・カリキュラム
アメリカの教育学者、P・W・ジャクソンは、学校には意図されたカリキュラムの他に、無意識に伝わる隠れたカリキュラム=ヒドゥン・カリキュラムがあることを明らかにしました。
その上で、葛上は「教室の権力性、すなわち、大人が子どもを支配する中での学びの危険性」を指摘しています。
葛上秀文(2010)「教師が子どもを『教える』ということ」『教育社会学への招待』大阪大学出版会
教室の中では必ずしも明示されていないが、教師に代表される管理者に服従したり、意図を先読みして行動することを結果として学んでいる、ということです。
学級制は、効率と規律の歴史であることは柳(2005)が指摘していますが、今もなお、ヒドゥン・カリキュラムとして「効率と規律」は綿々と受け継がれているのが現状です。
その視点で学級や学校をあらためて見直してみると、数々のヒドゥン・カリキュラムに気づきます。号令、朝の会、45分という授業時間、行進、机の並べ方の形態、年齢別の学び、等々。これらは結果として何を教えてしまっているのでしょうか。
ヒドゥン・カリキュラムの存在を知った私たちにはどんな選択肢があるでしょうか。
その一つは「潜在的に教えてしまっていること」を意識化、言語化して、前提を問い直してみること、です。
例えば、前向きに机を並べていることで、教えてしまっていることはなにか。
「対話的に学ぼう」と言いつつ、「先生に向かって発表する」という構造にある教室環境の矛盾が何を引き起こしているか。
例えば選挙への関心の低さも、明示的な「主権者教育」を実施する前に、ヒドゥン・カリキュラムが引き起こしていることの検討が必要ではないか。「黒染め強要問題」をみるにつけ、そもそもルールを作り合う体験、ルールを変える体験ができない学校時代を過ごした人が主権者意識を持つだろうか?選挙に関心を持つだろうか?そんな疑問も湧いてきます。
これからの学校・学級はいかにあるべきかを共有した上で、ヒドゥン・カリキュラムがそのビジョンの逆に作用していないかを、学習者も含めた関係者で丁寧に点検し続けていくこと。潜在を顕在化して再検討していくことを通して学校をリデザインしていくこと。新学習指導要領の実施に向けて、今こそ重要であると考えています。
情報時代の学校をデザインする: 学習者中心の教育に変える6つのアイデア
- 作者: C.M.ライゲルース,J.R.カノップ,Charles M. Reigeluth,Jennifer R. Karnopp,稲垣忠,中嶌康二,野田啓子,細井洋実,林向達
- 出版社/メーカー: 北大路書房
- 発売日: 2018/02/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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それを考える上でこの本は必読。徹底的に問い直す視点を提供してくれます。★★★★★
こんな危惧もあります。
ヒドゥン・カリキュラムを教師「だけ」が意識化し、さらに強化して使っていくという選択肢です。学習者が知らず知らずのうちに「学んでしまっている」状態を「意識的」に作っていくことができてしまうのではないか。これ、あぶない。隠された権力の暴力性については改めて書きたいと思います。
そういえば、「LINE利用禁止」等々、児童・生徒のスマホ利用への大人の慌てた対応ぶり。これらの方策から子どもたちは結果として何を学んでいるのか、も検討しなくては、です。だなあ。残念なことを学んでいるに違いない。
我が子で考えてもとても難しいところ。少なくとも禁止や罰、脅しは効果がないというのは身を持って感じています…
また自身の学級経営を思い返すと、自身が埋め込んでいたヒドゥン・カリキュラムにも思い当たります。そこも批判的に検討しなくちゃならない...
GW最終日。
今日は原稿に追われてます・・・・涙
家庭学習を考える。
今年も全国学力状況調査があり、新聞にも問題が載っていた。
国語に関しては近年、国語教育の潮流の変化を実感する問題群。それにしても悉皆の意味はあるのだろうか。悉皆の結果起きていることに目を向けたい。
さて。
教育社会学が明らかにしたことによれば(今更ながら)、子どもの社会経済文化的背景と学力には高い相関関係がある。学力だけではなく、学習の意欲の格差にもつながっている。苅谷は『階層化日本と教育危機ー不平等再生産から意欲格差社会へー』のなかで、子どもたちの学習に先立って既に「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」があるという。
インセンティヴへの反応において、社会階層による差異が拡大しているのである。インセンティヴへの反応の違いが教育における不平等、さらにはその帰結としての社会における不平等を拡大するしくみ-インセンティヴ・ディバイドの作動である。
階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ
- 作者: 苅谷剛彦
- 出版社/メーカー: 有信堂高文社
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子どもの学力(ここではテストで測っているもの)を、ぼくらはつい個人のがんばり、自己責任に帰してしまいがち。一人一人の子どもの努力次第なのだと。しかし、学校に来る前の時点で既に差があるのだ。
ではどうすればよいのだろうか?学校でできることはなんだろうか?
例えば、家庭学習(自主学習)を考えてみる。ただ「やってきなさい」では格差を再生産することになりかねない。「やりたくてもやれない」経済的文化的背景がある子たちは?そもそも意欲格差がある中、個人の意欲に還元される学習はさらなる格差を生む。教師がよかれと思ってやっている実践が、逆の結果を招くことになりかねないのだ。
この問題を考える時の補助線の一つに「一般福祉の原理」がある。苫野は『教育の力』の中で、「一般福祉の原理」についてこう述べる。
教育政策は、ある一部の人(子ども)たちだけの<自由>を促進し、そのことで他の人(子ども)たちの<自由>を侵害するものであってはならず、すべての人の<自由>を促進しているときにのみ「正当」といえる
↑
軽井沢風越学園設立準備財団の土台となる本。
この原理で考えた場合、家庭学習はどうすればよいか。
すべての子どもの<自由>を促進→すべての子どもに「学力」がつくためには?
一律一斉に「これをやってきなさい」では、格差を助長する可能性が高い。必要なことが人によって違うからだ。かといって「自由に選んでいいよ」も同様だ。意欲格差の前では適切に選べない子がいるだろう。「両極端は一致する」。
キーワードとしては、「多様な足場かけ」「学習の個別化」「学校での学習とのリンク(探究、学習方略、メタ認知)」。家庭学習のあり方って、実は教師、学校の教育観・学習観がにじみ出ている。
漢字の山のような書き取りとかほんと勘弁してほしい(遠い目)。
もっというと家庭学習を手放すところから議論をスタートするのがよいと考える。放課後学習も。すべては授業時間のリデザインからだ。
軽井沢風越学園設立準備財団のメルマガ最新号ができました!
メルマガ最新号ができました。
かぜのーと第12号(2018年4月19日発行) – 軽井沢風越学園設立準備財団
今号は、
・5月25,26日(金・土)学校づくり途中経過報告会 申込受付
・子どもと一緒に読みたい本 vol.7
・4月入社のスタッフ紹介
です。
本の紹介はぼくが書きました。
来月末、学校づくりの途中経過をご報告します。
既にたくさんの方に申し込んでいただいてます。
ぜひおいでくださいね。
あ、そうそう、ステキな本ができました。
財団理事長、本城慎之介のインタビューものっています。
うん、とてもいいです。多くの人に読んでもらいたい。
残りも今夜じっくり読もう。
校舎建設予定地、いよいよ造成工事が始まります。
いよいよだなあ。身が引き締まります。
教室情景の見える化
若くして学級担任を任されて、日々がんばってる方々へ。
【教室情景の見える化】
学級担任スタート。最初の懇談会も近く、保護者と良好な関係を作りたいと考える時期です。
そんな状況である4月はじめ。しかし、
保護者と直接会ったり話したりする機会も時間は極めて少ない。
その結果共有できている情報や情景は、我が子から漏れてくる断片のみ。ごくわずかになります。
この情報の共有の少なさが「不信」を招きやすい。
つまり、
・保護者にとっては学校での子どもや学級の様子がわからない(関心が高いにもかかわらず)。
・教員にとっては家庭での生活や、保護者の願いを知るチャンスが少ない。
・直接コミュニケーションをとる機会と時間が極端に限られている。
・連絡を取り合うのはトラブルが起きた時(マイナス状況)が多くなる。
「幸せになってほしい。そのための力を身につけてほしい。成長してほしい」。
実は保護者と教員の願いは大きな方向で一致しています。場所は違えど同じ子の成長に関わっているからです。にもかかわらず、保護者と教員はコミュニケーションをとる機会がほとんどありません。
お互いのことを知らないまま進んでいく学級。
保護者は、子どもからの断片的な話や噂(LINE等々・・)、かつての評判などの少ない情報から学級で起きていることを推測するほかありません。保護者も我が子のクラスへの関心は高い。少ない情報を何とか集めて全体像を想像しようとするのはある意味当たり前のことです。
一方教員にとっても保護者と関係を築く機会がほとんどなく、連絡を取り合うのはトラブルがあったときばかり・・・
これではいい関係を築けるはずもありません。
お互い違う情景をみながらの断片的なコミュニケーション。
同じ子を見ているのに、全く情景を共有していないのが現状です。
そこで、
【まずは学級でのポジティブな情報を保護者に伝えるチャンネルを複数持ちましょう。】
例えば、
・写真や学級通信で様子を伝える
・教室のエピソードを電話や手紙、連絡帳等で伝える
・会って話す機会を設ける
・参観や懇談会で子どもの普段のステキな姿を共有したり、保護者の願いや感想を知る機会を作ったりする。
・授業参加の機会をつくる、一緒に授業を創る 等々。
目的や状況、関心に応じて方法は山ほどあります。
.
教員は毎日子どもたちを見ていますから、一人一人の成長やかかわり、エピソードを見つけられる立場にいます。
それを様々な方法で保護者に伝えるチャンネルを持ちましょう。
例えば学級通信。授業の様子や子どもたちのエピソードを伝えることで、情景を共有でき「子どもを大切にしてくれている」ということが伝わります。
また個人的に電話や手紙、一筆箋などで、その子のポジティブな情報を伝える等々、方法はほんとうにいろいろ考えられます。
複数持つというのがポイント。一つのチャンネルだけでは共有できない可能性もあります。どのチャンネルが自分や保護者とマッチするかもわかりません。いくつかプロトタイプを試してみましょう。
その結果・・・
子どもや学級の様子が保護者に伝わり、一緒に成長を喜んだり、保護者と担任が子どものことで対話できるようになっていったりして、良好な関係が少しずつ築かれていくはずです。
保護者にとっては、他の誰でもない我が子のことを知りたい!!(親として切実)。
【教室情景の見える化】で保護者とコミュニケーションをとるよいきっかけができるかもしれません。
今の学校では保護者がやれることが少ない。動くならまず学校、教員がきっかけ作りをすることが必要です。
何もせずにいい関係が作れる、なんてことはないのです。
実践やエピソードの発信の先の優先順位圧倒的1位は外部やネットではなく、まずは最も身近で「知りたい!」と思っている保護者です。「保護者対応」なんて失礼な言葉を使ってる場合ではないとぼくは思います。
幼小のつながりをどう考えるか。
幼小のつながり(段差)がずっと気になっている。
年初めにも書いたけれど、「小1プロブレムとはなんだろう?
その内実は、小学校が、自分たちの文化に疑いを持たず、教員の「教えやすさ」を優先させて、「学校のお作法」を教えることの優先順位を上げてしまっているからではないか?」と考えている。
この段差は大人が作った段差で、子供の育ちの段差ではない。
ある日を境に、学びの場の文化がグッと変わってしまうことが問題なのだ。某自治体の残念なスタートカリキュラムを見るたびに悲しくなる。
グーピタピンとかお口にチャック等々の規律訓練ってなんなんだと批判的に捉え直したい。
この問題は、なにもぼくだけが感じていることではなく、新しい学習指導要領にもあらわれている。
小学校学習指導要領 第1章総則
第3 教育課程の役割と編成等 4 学校段階間の接続
⑴幼児期の終わりまでに育ってほしい姿を踏まえた指導を工夫することにより、幼稚園教育要領に基づく幼児期の教育を通して育まれた資質・能力を踏まえて教育活動を実施し、児童が主体的に自己を発揮しながら学びに向かうことが可能になるようにすること。また低学年における教育全体において、例えば生活科において育成する自立し生活を豊かにしていくための資質・能力が、他教科等の学習においても生かされるようにするなど、教科間の関連を積極的に図り、幼児期の教育及び中学年以降の教育との円滑な接続が図られるように工夫すること。特に、小学校入学当初においては、各教科等における学習に円滑に接続されるよう、生活科を中心に、合科的・関連的な指導や、弾力的な時間割の設定など、指導の工夫や指導計画の作成を行うこと。
上記の「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」とは、以下。
1. 健康な心と体
2. 自立心
3. 協同性
4. 道徳性・規範意識の芽生え
5. 社会生活との関わり
6. 思考力の芽生え
7. 自然との関わり・生命尊重
8. 数量・図形、文字等への関心・感覚
9. 言葉による伝え合い
10. 豊かな感性と表現
小学校特に低学年では、ゼロからのスタート、はっきり言えば赤ちゃん扱いのスタートをやめて、幼児期で身につけたこと・育まれたことを大切にしながら、その力が生かされるカリキュラムを作らなくてはならない。
新幼稚園教育要領のポイントにも「小学校教育においては,生活科を中心としたスタートカリキュラムを学習指導要領に明確に位置付け,その中で,合科的・関連的な指導や短時間での学習などを含む授業時間や指導の工夫,環境構成等の工夫も行いながら,幼児期に総合的に育まれた資質・能力や,子供たちの成長を,各教科等の特質に応じた学びにつなげていくことが求められる。」と書かれている。
幼児教育が小学校にあわせて準備教育をするのではなく、小学校のカリキュラムこそ、良質の幼児教育から学び、一からつくりかえる必要があるのではないか。
これは小学校のカリキュラムを問い直す大きなチャンスだ。先に引用した、指導要領に書かれている「生活科を中心とした合科的・関連的な指導」は、各教科等にも同様に明記されている。繰り返すけれど、これはチャンス。
幼児教育から学び、低学年教育のリデザインをしたい。「遊びの価値」から、今の学校教育を見直すと何が生まれるだろうか。環境構成やドキュメンテーションから学べることはなんだろう。読むこと・書くことへゆるやかにつないでいくとはどのようなことだろう。
低学年教育の専門性(幼児期からのつながりと、3年生以降への発展を見通す専門性)も検討したい。
幼・小で関心がある人が集まって一緒に作ったらどんなのができるだろう。
幼稚園・保育園が8歳(小2)まで続くとしたら、どんなデザインになるだろうか?
こんな気持ちで学校行きたいよね。
日々の振り返りって?(メモ)。
【メモ】日々の振り返り。
①継続できるか
②エピソードまで記述できるか。
③起きたことだけではなく自分の感情にも向き合えるか。
④そこからの気づきの質をあげられるか。
⑤「自分」に焦点があてられるか。
⑥視点を変えられるか。視野を広げられるか。視座を上げられるか。
●「いまここ」で振り返ることが重要。
先延ばしにした振り返りは、あっという間に経験が流れていってしまう。無意識のうちにゲシュタルトがその経験を流してしまい気づきが生まれにくい。
感情の機微が薄れてしまう。
●他者のせいにしている振り返りは学びが生まれにくい。結構ありがち。仕組みのせい、わかってくれないせい、組織のせい、あの人のせい。
●エピソードのない雑ぱくな振り返りは、記録としての価値が半減する。のちに読み返しての「メタリフレクション」がおきにくい。
●継続しない振り返りは成長につながらない。
たまの振り返りは、ただのイベント。
●気づきの質を上げるには、「他者の目」が必要。
自身に見えていないところにフォーカスするための「他者の目」。これは必ずしも人でなくともよい。視点を変える、ということ。
●書かされる振り返りは、鉛筆のムダ(パソコンの電源のムダ)。
●グチは振り返りではない。
●自己肯定ばかりを続けていては、同じところをグルグル回り続ける。
●フィードバックを自分の成長につなげられる者が、やがて自分を自分で育てられるようになる。自分の中に他者が生まれる。
●振り返りは自身との真摯な対話であり、「自分がどうなりたいか」の結晶。
優しくて楽しい先生ならそれでいいな。
ぼくの住んでいるところは明日始業式。
どんなスタートになるか、娘もドキドキしていることだろう。
2年前の始業式前の会話。
「いよいよ3年生だね−」
「うん、そうだねー」
「どんな感じ?」
「ふつー」
「どの先生になってほしいっていうのはあるの?」
「えー、先生の名前とか全然知らないからなあー」
「そうなんだあ。じゃあどんな先生がいいの?」
「ああ、優しくて楽しかったらそれでいいな」
「2年生の時の○○先生は?」
「ああ、優しかったよ。怒るとこわいけど」
「怒ると楽しい人なんていないでしょ」
「たしかにぃー(笑)。とにかくやさしくて楽しい先生がいいよ。だって楽しく毎日いきたくなるもん」
「まあ、そりゃそうだよねえ。」
黄金の3日間とか、はじめが肝心とか、ぼくらは先生目線でいろいろ語るけど、
子どもにとっては極めてシンプル。
先生がいつも笑顔でいること。
優しくて、自分(たち)を大切にしてくれること。
毎日が楽しいこと。
毎日いきたくなること。
自分と自分たちが、他者から大切にケアされる体験が積み重ねられること。
子どもはよくよく大人の本気がどこにあるかを見極めている。
子どもの目から、子どもの体験から学校を見直したい。
はじめが肝心とばかりに、統率しようとしたり、しめたりするのは、本当に本当に勘弁してもらいたい。
「鍛える」とか、「まずはしつけ!」とか言わないでもらいたい。
人と人との出会いでなにが大事かに戻りたいよなあ。