今年も全国学力状況調査があり、新聞にも問題が載っていた。
国語に関しては近年、国語教育の潮流の変化を実感する問題群。それにしても悉皆の意味はあるのだろうか。悉皆の結果起きていることに目を向けたい。
さて。
教育社会学が明らかにしたことによれば(今更ながら)、子どもの社会経済文化的背景と学力には高い相関関係がある。学力だけではなく、学習の意欲の格差にもつながっている。苅谷は『階層化日本と教育危機ー不平等再生産から意欲格差社会へー』のなかで、子どもたちの学習に先立って既に「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」があるという。
インセンティヴへの反応において、社会階層による差異が拡大しているのである。インセンティヴへの反応の違いが教育における不平等、さらにはその帰結としての社会における不平等を拡大するしくみ-インセンティヴ・ディバイドの作動である。
階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ
- 作者: 苅谷剛彦
- 出版社/メーカー: 有信堂高文社
- 発売日: 2001/07
- メディア: 単行本
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子どもの学力(ここではテストで測っているもの)を、ぼくらはつい個人のがんばり、自己責任に帰してしまいがち。一人一人の子どもの努力次第なのだと。しかし、学校に来る前の時点で既に差があるのだ。
ではどうすればよいのだろうか?学校でできることはなんだろうか?
例えば、家庭学習(自主学習)を考えてみる。ただ「やってきなさい」では格差を再生産することになりかねない。「やりたくてもやれない」経済的文化的背景がある子たちは?そもそも意欲格差がある中、個人の意欲に還元される学習はさらなる格差を生む。教師がよかれと思ってやっている実践が、逆の結果を招くことになりかねないのだ。
この問題を考える時の補助線の一つに「一般福祉の原理」がある。苫野は『教育の力』の中で、「一般福祉の原理」についてこう述べる。
教育政策は、ある一部の人(子ども)たちだけの<自由>を促進し、そのことで他の人(子ども)たちの<自由>を侵害するものであってはならず、すべての人の<自由>を促進しているときにのみ「正当」といえる
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軽井沢風越学園設立準備財団の土台となる本。
この原理で考えた場合、家庭学習はどうすればよいか。
すべての子どもの<自由>を促進→すべての子どもに「学力」がつくためには?
一律一斉に「これをやってきなさい」では、格差を助長する可能性が高い。必要なことが人によって違うからだ。かといって「自由に選んでいいよ」も同様だ。意欲格差の前では適切に選べない子がいるだろう。「両極端は一致する」。
キーワードとしては、「多様な足場かけ」「学習の個別化」「学校での学習とのリンク(探究、学習方略、メタ認知)」。家庭学習のあり方って、実は教師、学校の教育観・学習観がにじみ出ている。
漢字の山のような書き取りとかほんと勘弁してほしい(遠い目)。
もっというと家庭学習を手放すところから議論をスタートするのがよいと考える。放課後学習も。すべては授業時間のリデザインからだ。