いわせんの仕事部屋

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理想と妥協

「理想を掲げて妥協する」

 
とは、仮説実験授業の創始者、板倉聖宣のことば。
誠に奥が深い。
大事なのは「理想」。
「こんな学校を創りたい」というビジョンは毎年形を変えながら、20代からずーっと持ち続けている。
 
理想のない妥協だけはせぬよう。
理想だけで突っ走らぬよう。
この言葉に支えられて、ぼくはこの年までわりとおもしろがってやってこられたと思う。
 
理想があるからこそ折り合える。
理想があるから、そこから対話がうまれ、新しいものが生まれるやもしれぬ。
理想があるから、いろいろおもしろがれる。
 
しかし。
自分の理想だけになって、独善的になっていないか。
気付いたら妥協だらけになっていないか。
時々そう自分を振り返る。
 
 
いつか学校を創りたいなあ。
どんな形になるだろうか。
これからも「おもしろがる」を外さずにやっていこう。
そのためには、学ばなくちゃいけないことがまだまだ山積みだな。
 
 
理想を掲げて妥協する。
なんと深い言葉よ。

子どもからの痛烈なフィードバック

今から8年前。ボクが36歳の時。学級の子どもたちに「岩瀬の改善点」をフィードバックしてもらったことがあります。その時の痛烈なフィードバック。

 

・全員を見るってことかな。静かな人も、楽しい人も、悩んでる人も、うるさい人も、みんな平等に。たぶんまだ先生の力が必要な人がいると思うから。

これ、いちばんこたえました。ボクは公平に関われていなかったのだということを突きつけられた。このフィードバックがなければ、ボクの教師としての成長はずいぶん遅れていただろうなあと思うし、そもそも成長できていたかなあと不安になります。本当によく言葉にしてくれたなあ。生涯忘れられない言葉。

41歳の時。クラスのYさんに「イワセンってさ、ほんとみんなと仲いいよね」って休み時間の会話の中で言われたときに、ああようやく乗り越えはじめたって思えました。風景まで覚えてます、この瞬間。

 

・顔がいつも笑っていられるようになるとクラスのふんいきがよくなると思う。

真顔が怖い、とよく言われました。素に戻ると表情が怖いと。言われるまで自覚O。

意識しているときは大丈夫なのだけれど。お恥ずかしい話、笑顔になる練習をしました。下記の本を思わず買って、マジメに読んで通勤の車の中で割り箸を加えて口角を鍛えたり。これ、まじめに3ヶ月やりました。おかげで口角に力が入って笑顔でいる状態が自分で意識化できるように。数年後、「イワセンっていつも笑顔だよね-!」って学級の子が言ってくれたとき、ようやくここ乗り越えたなあって思えました。

「頭のいい人」より「感じのいい人」―人から好かれる「笑顔の技術」

「頭のいい人」より「感じのいい人」―人から好かれる「笑顔の技術」

 

 

・クラスの一員なんだから、話し合いとかに入った方が上目線じゃなくていいと思うよ。

本当に核心を突くフィードバックをくれるものです。子どもって、大人の本気を見抜いているなあと。任せるといいながら、どこかコントロールしたい「わたし」みたいなのがばれていたんですね。これ、最後まで課題だったなあ。自分も学級の一員であるということ。コミュニティを創る一員であること。

 

・言っていることは正しいけど、だから反論できなくなる。我慢できないときはダメなところをびしっと指摘するだけでいい。

正論ほど人を追いつめるものはない。これは実は我が子に言われたこともあります。反論できずに心臓にぐうーっとくると。ホントダメだなあ・・・・・・・・・・

 

8年経った今、これをクリアできたかと言われると正直心許ない。

ただ1つ確かに言えることは、学習者はシビアにボクらのことを見ているということ。ストレートにフィードバックしてくれた子どもたちに感謝。それがボクを成長させてくれました。その当時は心拍数がハンパなく上がっただろうけれど・・・・経験を積めば積むほど、今までの自分のある部分が否定されることは、西條さんのいう「埋没コスト」になるために難しさが増します。 

チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書)

チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書)

 

でもそれを乗り越えていくことが、ボクらの成長なんだろうな。

手前味噌ながら、このようなストレートなフィードバックをもらえる関係だったことにどこかホッとしています。あまりはっきり覚えていないけれど、「ボクはこのクラスでこうありたい。こんな先生になりたい」と言うことを話していたからこその、その理想とのギャップのフィードバックだったんじゃないかな。とはいえ、ズキンときたし、簡単には超えられなかったのだけれど・・・

自分の姿は自分で見えない。見えてる気になるけれど。だから、見えていないところを映し出す鏡が必要なんですよね。

退職の年まで。子ども達からこんなフィードバックをもらい、そして今もなおがんばっております。

 

おもしろがろう

せんせいになっていく
せんせいでいるということは
どういうことだろう?
本当はとってもシンプルで、
「おもしろがること」。
人をおもしろがり
自分をおもしろがり
世界をおもしろがり
ことがらをおもしろがり
一緒におもしろがる。
見えている世界は
ほんの一部だと知ること。
未知だからおもしろい。
この感度は
がっこうの中にいるだけでは
教育をながめているだけでは
決して育っていかないんだよな。
なぜなら教育は
どこか不自然な営みだから。
制度の中の営みとはいえ、
制度の中で眺めていてはみえない「おもしろさ」が
人には、世界にはある。
せんせいを目指している人こそ
せんせいこそ
ボクこそ
外に出よう。
おもしろがろう。
それが強みだったのに
いつのまにかつまらない人になってたな。
外に出てないからだな。
視野が狭くなると
人はつまらなくなる。

学校における「主体性」をちょっくら考えてみる。

前回は、アクティブ・ラーニングの土台としての「安心・安全な場」についてまとめてみました。アクティブラーニングの視点として①対話的②主体的で③深い学びがあげられています。今回は「主体性」について考えたことをメモしてみたいと思います。

ところで主体性ってなんでしょう?大辞林第三版によれば主体性とは、「自分の意志・判断によって,みずから責任をもって行動する態度や性質」。ここでは差し当たり、主体性を、

「能動的に、自己選択・自己決定をもって自己や他者、ものごとに関係する態度」

としておきます。先の文科省からのメッセージでは、

「将来の変化を予測することが困難な時代を前に、子供たちには、社会の変化に受け身で対処するのではなく、現在と未来に向けて、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、自らの人生を切り拓き、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが求められています。」


と、今回アクティブ・ラーニングが重視される背景を説明しています。「自ら」と2度も書いてある。アクティブ・ラーニングにとって学びに「主体的」であることは必須でしょう。ここまでは多くの人は納得できるのではないでしょうか。ボクもここまでは納得できます。だがしかしです。

「主体性」って授業の中でだけ突然発揮できるものなのでしょうか?

そもそも、学校の中で「主体性」は大事にされてきているのでしょうか。

学ぶ主体、生活する主体として子どもたちは学校生活を送れているのでしょうか。ボクははっきり言って「あやしい」と思っています。学校における規律訓練権力の中、学校の中の行動原理は「他律的・受動的」であることが多い。時間通りに動くことを余儀なくされ、教師の号令、指示に従って動き、学校内のルールは「既にあるもの」として守らなくてはいけない。一見アクティブに見えてもそれは、指示に従って主体的に「させられている」と言ったらいいすぎでしょうか。それがデフォルトの学校で、学びだけ「主体的」になることってありうるのか?先のメッセージに戻るならば、「社会の変化に受け身で対処するのではなく、現在と未来に向けて、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、自らの人生を切り拓き、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出してい」けるようになるには学校や教室でこそ、その体験が原体験としてあるべきではないかとボクは考えます。

つまりアクティブ・ラーニングの前提条件として、

「学校や学級において子どもの主体性がベースになっているか」が大事ではないか

と考えるわけです。では具体的にはどんなことが考えられるでしょう?

 

例えば、学級のルールを決めたり、イベント等の企画をしたり、トラブルや相談を日常的に相談できる場が教室にあること。それは「クラス会議」や「サークルタイム」のように日常的にあることが重要です。大事なことは、そこでの失敗や試行錯誤が保障されていること。時には「ホントにうまくいくの?」というルールを作ってしまったりするかもしれない。問題解決がなかなかうまくいかないかもしれない。でもそんなの当たり前、なのです。大人の世界だって同じ。ましてやこれからの時代は「答えの決まっていない問題」に向かっていくわけです。だからこそ子ども時代から試行錯誤や失敗は保障されているべきです。まさに「主体性」を大事にしていきたい。

iwasen.hatenablog.com

ダン ロスステイン、ルース サンタナが『たった1つを変えるだけ』の本の中で、「ミクロ民主主義」という概念を提示していましたが、 これからの学校教育は、教室や学校で、 小さな民主主義を実現していくことが未来につながっていくと考えています。

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

 

 子どもたちはボクたち大人の本気を見ています。覚悟を決めなくては「きっとこう決めてほしいのだろうなあ」と教師の価値観、学校の表向きのストーリーに迎合する場になっていきかねません(ああ、たびたびあったなあ・・・・海より深く反省。「口出さないで!」「任せるならちゃんと任せて」と怒られたことも数知れず・・・)。時には、学校的価値を揺るがすこともあるかもしれない。だがしかし。コミュニティ内の問題を自分たちで解決したり、ルール自体を創っていき改善していくプロセスそのものが、「①対話的②主体的で③深い学び」であると言えるでしょう。何も教科に限ったことではないのです。またこの体験そのものがアクティブ・ラーニングを支える主体性を育むことになるのではないでしょうか。

 

例えば学習環境。ボクたちは、「子どもたちのために、いろいろやってあげるのが先生の仕事」と思いがちです。できるだけ手をかけ、時間をかけることが「よい先生」と思っている。これはわりと根強いです。新学期。先生が、教室のロッカーに一人ひとりの「名前シール」を貼ります。下駄箱にも名前シールを。掲示物を貼るのも先生が丁寧に丁寧に。放課後教室を整頓するのも先生。教室に季節の飾り付けをするのも先生。掃除当番表も、給食当番表も先生が美しくつくります。そして教室は『先生が丁寧に創り上げた場所』になります。ここで学ばれていることはなんでしょうか。
「自分がやらなくても自分の周りの環境は自動的に整っていく。」
「自分の周りを居心地よくするのは先生の仕事。」
よかれと思っていることが子どもたちの自主性を阻害し、「やってもらうが当たり前」という受け身にさせている。

学習環境も学習者であり、その場の主体である子どもたちと一緒に創っていけばよいのではないでしょうか。「教室のロッカーに一人ひとりの名前シールを貼る」には他の方法はないでしょうか。「せんせー、ロッカーに名前シールが貼ってありません-」「ほんとだねー」「誰がどこに入れるかわかりません」「そっかー、それは困ったねー。で、どうしたい?」「名前シール貼りたい。」「お!いいアイデア。どうぞどうぞ。そこにシールもあるし、名前の印もあるよー。あっちのテプラもあるから使ってもいいよ-。説明書も入ってるから読んで使ってみてねー」これで何の問題もなくスタートです。

「せんせー、給食献立表ないと明日の給食が何かわからないよ」「そっかー。確かにそうだねえ」「貼っていいですか?」「いいも悪いも、みんなの教室なんだから、いいと思ったことは、ボクに断らずにやるといいよー」
イラストが得意な子が手伝ってくれたりして、美しい「給食献立表コーナー」ができます。美的センス0のボクがつくるよりずっといい(涙)。困ったら、不都合を感じたら、自分たちでなんとかしていく。そうして、自分たちで教室をつくっていく。自分たちでやれること、やりたいことは自分たちでやる。そのことで子どもたちは、「自分の周りは自分が行動することでよりよくなる」ことを体験するのではないでしょうか。信頼ベースの学級ファシリテーションでは、それを「教室リフォームプロジェクト」として提案していますが、それは学習者と教師が協同で「主体性」を発揮していくプロセス、共にアクションリサーチしていくことにほかなりません。それは学習における「主体性」と根っこのところでつながっているでしょう。そもそも子どもたちにとって「主体性」は1つ。学習の時だけ発揮されるものではないのです。

 

例えば学習。苫野一徳さんはこう述べています。

...いつ何を学ぶかがかなり決められてしまっている学びのあり方は、考えて見ればひどく非効率的なことです。
子どもたちの興味・関心はそれ ぞれ異なっているし、学ぶスピードも、また自分 に合った学び方も、本当は人それぞれ違っているはずだからです。にもかかわらず、いつ何をどのように学ぶのかが一律的に決められてしまうのは、少なくとも子どもたち一人ひとりの学びの観 点からすれば、やはり非効率的なことといわなければなりません。
(苫野一徳『教育の力』 講談社 現代新書、2014、73頁)

違いをないことにして進めるのでは、子どもは受け身にならざるを得ません。そこで学習計画を自分で立て、ゆるやかに他者と協同しながら自学自習していく「学習の個別化」。詳しくは以下の本に載せた拙文にゆずりますが、自分の学習をモニタリングし、「自己選択・自己決定→実践→自己評価→自己選択・自己決定→・・・」のサイクルを日常のプロセスで繰り返していくことで、「自分の学習のオーナーは自分である」という「主体性」の感覚が育っていくのではないでしょうか。

授業づくりネットワークNo.19―格差と授業。 (授業づくりネットワーク No. 19)

授業づくりネットワークNo.19―格差と授業。 (授業づくりネットワーク No. 19)

 

以下はある子の振り返りです。

「1年間の自立チャレンジタイム(注:学習の個別化の時間のこと)を振り返って」
1年間やっていて、しっかり最後は自分で予定を立てられるし、しっかり振り返れるようになったと思います。最初はけっこうこの時間が苦痛だったと思うし、予定表で予定を立てるのもすごくめんどくさかったけれど、やっているうちに上達したと思うし、今は予定を立てたりするのも普通だ。自立チャレンジは自分の好きなこと、やるべきことをできるのですごく楽しく、しかもすごく勉強になる時間だったと思います。 この自立チャレンジで成長できたのは、予定をしっかり立てる力かなあ。最初の頃の予定表と比べてみると、最初は予定も、やらなきゃいけないからやる、みたいな感じがあったけれど、今はけっこう自分のやるべきこと、やらなければいけないことを明確にしてしっかり予定を組み入れるようになったと思います。あとはしっかり予定を立てて終わらせられるようになったので、自分の好きな算数とか理科とかを今までよりもできるようになったと思うし、そういうところで知識をつけたり、まとめたりする力をつけられたと思いました。そして最近はすきなことだけではなくて、1年の復習をすることもできているので、中学に向けて準備できてきていると思います。 この1年の予定表を見てみると、振り返りに毎回「色をぬっていなかった」とか「おわらなかった」とか書いてあって全然改善できてなくて、そこがうまくいかなかったと思います。 これから中学だし、中学に行ったら勉強量も増えるから、しっかり予定を立てて勉強と部活も両立できるように自分のことも考えながら勉強にも力を入れられるようにしたいです。 来年やる人へのアドバイスは、やっぱり将来絶対役に立つことだから、しっかり自分のやるべきことを、しっかりわかるようにして、しっかり終わらせていけば次につなげられると思う。この時間を一言で表すと「自立」だと思います。

自己モニタリングして、自分のペースで主体的に学ぶ。アクティブさのスタートは「わたし」からのこともあるわけです。 ボクが「ライティング・ワークショップ」の実践を大切にしてきたのは、そして広がるといいなあと思っている理由は、学習の中に「自己選択・自己決定」そして、自身の学び方やペースが大切にされている、まさに学習者の「主体性」をベースにした学び方だからです。

 

以上3つの例を挙げました。他にもいろいろな視点が考えられるでしょうが、ようは、日常の学校生活の中に「主体性」が発揮される場があるか、という視点が大切だ、ということが言いたかったのです。ミクロに授業を見ているだけではわからない学校の持っている文化まで含めて考えたい。こんな大げさなことでなくとも、日常のちょっとした場面で子どもの「主体性」が大事にされているかは、表れます。休み時間の過ごし方を選べるか。外でサッカーをしている人もいれば、教室でのんびり本を読んでいる人もいる。学習する場所を選べるか、ペースを選べるか、違いを大切にされているか、等々。

日頃は他律的で受動的なことを結果として求めていて、授業の中でだけ「アクティブ」であることを要求する。この矛盾は遠くない将来に「アクティブ・ラーニングさせられる」という皮肉を生む気がしてなりません。
繰り返しになりますが、「対話的主体的で深い学び」であるアクティブ・ラーニングのために、学校・学級の日常を子どもたちの「主体性」が発揮される場所にしていきたい。それは学習者中心の民主的な学校を目指していくことだと考えています。言うのは簡単、でも制度的な実践である学校の中では難しいことも多いこと、ぶつかることも多いこと、もボク自身痛感しています。そして年々難しくなっていることも・・・・・

自分でメモを書いてきたのを読み直してみても、改めて、ことは簡単ではないと思います。

だがしかし。子どもたちに「主体性」を要求するボクたちが、学校を変えていく「主体性」を手放すわけにはいかないなあと。いきなり大きく変わることはないし、蒔けるのは小さな種かもしれません。小さな種は次の日に大木になることはない。でも丁寧に水をやり続けてじっくりじっくり育てていくほかないなあと思うわけです。

 

残りは「対話的」かあ。難しいなあ…だれか続きを書いてください!

安心・安全な場。:付け足しあり。

文科大臣から2016年5月10日に「教育の強靭(じん)化に向けて」というメッセージが出されました。

教育の強靭(じん)化に向けて(文部科学大臣メッセージ)について(平成28年5月10日):文部科学省

ニュースでは「脱ゆとり宣言」!のようにセンセーショナルに報道されているところもあります。はっきり言って「強靱化」という言葉にセンスがないから、そうなるのもわかります。

文科省のHPを見れば、

「『ゆとり教育』か『詰め込み教育』かといった、二項対立的な議論には戻らない。知識と思考力の双方をバランスよく、確実に育む」

と書かれていて、脱ゆとりとは書いてません。しっかりしろよ、マスコミ。発信にのって簡単にミスリードしないように。

新しい指導要領がでるまえに「アクティブ・ラーニング」という言葉が、絶賛一人歩き暴走しているわけですが、そのことについては以下のように書かれています。

「アクティブ・ラーニング」の視点は、知識が生きて働くものとして習得され、必要な力が身に付くことを目指すもの。知識の量を削減せず、質の高い理解を図るための学習過程の質的改善を行う。

 そして、①対話的②主体的で③深い学びの3つがアクティブ・ラーニングの視点だと書かれています。文科大臣のメッセージの妥当性はちょっとここでは置いておくとして、少なくとも「対話的、主体的で、深い学び」には「なるほどそうなるといいなあ」と思うわけで、そしてそれは言うはやすし行うは難し、横山はやすしです。

 

公教育においてそのような学びが実現されるためにはどうすればよいか?グループワークを増やせばいい?ジグソー法のような協同的な学びの手法を導入すればいい?ことはそう簡単ではない、とボクは思っています。

そもそも学級が(学年が)「対話」が成立するような関係性になっているのか?

そもそも子どもたちの「主体性」が発揮されるような学校になっているのか?

この2つが成立していないかぎり、「深い学び」にはたどり着けないでしょう。この2つなくして、アクティブ・ラーニングしよう!なんていうのは、OSがウインドウズ3.1なのに、最新のソフトをインストールしようとするようなものです。すぐれた教材、素晴らしい学習テーマも、学級が学びに向かうコミュニティになっていない限り、むなしく空回りしかねません。(もちろん優れた教材、テーマが、学びに向かうコミュニティを創っていくということもあります。)

ずいぶん以前、とある研究校で参観した授業。授業前の休み時間から教室を覗いていましたが、子どもたちのやりとりのきつさが気になっていました。明らかにいじめすれすれの「いじり」が起きている。学級に子ども同士の権力関係が散見される。見ていて苦しくなる感じでした。しかし先生がやって来て授業がはじまると、それなりに動き始めます。現象としては「アクティブ」に学んでいる。とても活動的。それだけみるといい授業に見えます。よくよく子どもたちのやりとりを聴いていると、ほとんど雑談だったり、こたえを教え合っているだけだったり、わからないままほおって置かれている子もいるし、本人も聴かない(聴けない)だったりして、ちっともカシコクなっていない。これなら一斉授業で一人一人問題を解いた方がいいよな-、というのが正直なところでした。でもそのアクティブさが煙幕となっていて、みんなが学んでいるように見える。子どもはその自由度に、先生はその活動的な姿にお互いが満足している。これからこんな事例は増えていくのではないか、とちょっと危惧してます。

話を戻します。「深い学び」が成立する前提として、学級の中に「対話」と個々の「主体性」がベースになっている必要がある、とボクは考えています。学級がどのような場であるかを抜きにして、そこでの学びの成立は語れないのではないか。これは大人である自分たちに置き換えて想像してみればわかりやすい。殺伐とした、関係性の薄い職員室の中で、豊かな「対話」が起き、ここの教員が「主体的」に学んで、「深い学び」の研修が起きるでしょうか?起きるはずもない。まずは職員室でしょ、って。

では、学級はどのような場であればいいでしょうか?まず前提条件として、教室が「安心の場(コンフォートゾーン)」になっていることです。まずはこれがスタート。教室が安全であり、安心できる場であること。自分らしくいられること。安心がなくして対話は起きないし、主体性が発揮されることもなさそう。それはそうですよね。安心できる職員室じゃないと、職員同士の対話は起きにくいし(グチやカゲ口は起きるでしょうが・・)、主体的に何かしようとなんて思えない。だって何言われるかわからないですものね。

教育心理学者の鹿毛さんは学級の「空気」について、

教室や学校が持つ「空気」は、それぞれに固有の文化や風土を背景として、その場に存在するメンバーの振る舞いを規定し彼らの状態レベルの動機づけに影響を及ぼすことになる。もちろん場に特有な文化や雰囲気は固定的なものではない。それらは、場とメンバーによる現在進行形の相互作用を通してダイナミックに創出されていく。 (鹿毛 2013)

と述べています。ではどうすればよいでしょうか?

日常的なコミュニケーションと相互に関わりあう心地よい体験の積み重ねによって相互理解が深まるとともに信頼感が互いに構築されることによって、自分の存在が受け入れられているという感覚が促され、その場が当人にとっての「居場所」となる。     (鹿毛 2013)

学習意欲の理論: 動機づけの教育心理学

学習意欲の理論: 動機づけの教育心理学

 

 

ここで大切なのは、日常的なコミュニケーションと相互に関わりあう心地よい体験の積み重ね」です。先生が説教したから、語ったから、信頼感が育まれるわけではなく、そこにいるメンバー同士が、心地よいコミュニケーションの積み重ねをすることが重要です。とはいってもこれは残念ながら自然発生はしません。

教室を眺めていると、実は子どもたちはごく少数の相手としかコミュニケーションをとっていないことがわかります。授業中はもし一斉授業ならほとんどコミュニケーション場面はありません。休み時間は仲のよい数人と。給食のときにグループの人とちょこっとしゃべるだけで、あとは基本的に仲のよい子とコミュニケーションをとっているに過ぎないのです。うちの娘(小3)に聴いても、1人の友だちの名前しか出てきません。ずーっとその子といるみたい(涙)。学童では、たまにからんでくる男子を蹴っ飛ばしているみたいですが(笑)。

話がそれました。その場が居心地がよくなるには、そこにいるメンバーのできるだけ多くの人と心地よいコミュニケーションをとる機会が必要になります。あまり話したことのない相手とコミュニケーションをとる、子ども自身にこれを任せるのは最初は難しい。リスクがあるからです。大人でもそうですよね。大学院の授業ですら、皆さん最初は「コミュニケーションをとったことのある安全な相手」と固まって座ります。だからこそ「より多くの人と心地よいコミュニケーションをとる機会のデザイン」が重要になります。ボクはそのことを「教室のコミュニケーションを混ぜ混ぜする」と表現していますが、関係のつなぎ直しが必要なのです。

その方法の1つとして、ボクはちょんせいこさんと「信頼ベースの学級ファシリテーション」を提案しています。メソッドですから、必ずしもこれじゃなくてもできることです。状況と目的に応じてメソッドは選べばいい。とはいえボクは、信頼ベースの学級ファシリテーションや、詳しい解説は省きますがプロジェクトアドベンチャーは優れたメソッドの1つだと考えています。ボクの中では「学級ファシリテーション」はどちらかというと言葉を介した関係づくり、プロジェクトアドベンチャーはどちらかというと身体を介した関係づくりと整理しています。

よくわかる学級ファシリテーション3―授業編― (信頼ベースのクラスをつくる)

よくわかる学級ファシリテーション3―授業編― (信頼ベースのクラスをつくる)

 

 

アドベンチャーグループカウンセリングの実践

アドベンチャーグループカウンセリングの実践

  • 作者: ディックプラウティ,ポールラドクリフ,ジムショーエル,伊藤稔,プロジェクトアドベンチャージャパン
  • 出版社/メーカー: C.S.L.学習評価研究所
  • 発売日: 1997/08
  • メディア: 単行本
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 まずは教室が安全・安心な場になること。これが第1段階です。子どもたちが「こんなにいろんな人と話したことなかったなあ」「話してみると意外といい人だった」「誰とでもそこそこうまくやれそう」こんな体感が持てたら、まずはベースができた感じ。誤解がないように書いておきますが、「みんなとなかよしになろう」ということではありません。ほとんどのメンバーと一緒に話したり学べたりする関係、困った時はサポートし合える関係、せめてお互いを傷つけ合わない(自由を侵害し合わない)関係をつくること、です。そのときに鹿毛さんも書かれていますが、大事なのは「積み重ね」です。

余談ですが、ボクのファシリテーターとしての師匠で、友人である長尾彰は、ボクが勤務していた学校の校内研修に関わってくれていたとき、「職員室をよくしたいなら、まずはコミュニケーションの量だよ」とボクにしつこくしつこく話してくれました。ボクはピンと来ていなかったのだけれど、半信半疑ながら研究主任として、まず1学期間、職員室の中でひたすらコミュニケションの量を増やすようなデザインにしました。研修でも職員室でもとにかくいろんな人同士がコミュニケーションをとる機会をとったのです(こんなことに意味があるの?とさんざん言われながら 苦笑)。すると9月ぐらいになって、コミュニケーションの質が変わってきたことに気づいたのでした。雑談のようなコミュニケーションが多かったのが、授業のことや子どものこと、研修のこと、生産的な対話が増えていったのです。数ヶ月の積み重ねで明らかにいい方向に変化しました。そう思うと、大人も子どもも組織のありようや変化には差がないのだなとあらためて気づかされます。

 多様なメンバーと、最初は浅いコミュニケーションでいいから量を積み重ねていく。ゆるやかに安心・安全な場になることを通して「自身がコミュニケーションをとっていくことで、居心地は変わっていく」という感度をもってほしい。繰り返しになりますが、自分が行動したことによって居心地が変わったという確信は、学級で体験しておくべきことの優先順位としては極めて高いとボクは考えます。これから世界はますます多様化していきます。いや実は教室の中だって多様で異質なのです。ボクらはこれまでそこをなかったことにし「同質だ」と勝手に決めつけて学級や授業を運営してきた。でもそれはフィクションです。考え方も価値観も学びのスタイルもペースも実は違う多様なメンバーが集まっている異質な場なのです。そこから出発したい。お互いの違いを知る上でも、違っていても関係を切り結べるのだということを体感するためにも、多様なコミュニケーションの機会が必要です。そのきっかけを作るのが先生の役割ではないかと考えるわけです。

 ここで強調したいのは先生の役割は「きっかけ」づくりで、あくまでも創っていくのはそこにいるメンバー自身であること。先生を媒介としたコミュニケーションではなく、学習者同士のコミュニケーションを、あくまで学習者自身が進めていく。お恥ずかしい話ですが、30前半まで、ボクの学級は常に「ボクを媒介とした」コミュニケーションの集団でした。いや最後までぽろぽろとそういう要素は垣間見えていたかもしれません。ついつい距離を縮めすぎて「中心」にたってしまう・・・

この距離感を表現するのは難しいのですが、考える補助線としては「ファシリテーション」になるでしょう。またこれは別の機会に。

 

安心安全な場を出発点として、次の段階は「対話」と「主体性」について考えてみたいと思います。

 

つづく(かも)。

 

 

 

カードゲームで遊ぶだけじゃもったいない。つくっちゃおう。

いよいよゴールデンウイークも最終日。悲しい。今日は仕事していて疲れました・・・ちょっと休憩。
こんな日はオリジナルカードゲームでも作ろう。

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黒板の字が汚いのはともかくとして。

 まずは、100円ショップ等に売っている「白いカード」をたくさん買います。無地です。オリジナルカードゲームを作るわけですから真っ新のカードです。市販のカードゲームじゃないわけです。

今回の紹介は、学級で4人グループごとに作ったときの紹介です。もちろん家族や友だちと「オリジナルカードゲーム」を作るのもステキ。というか、その方がたのしそう。

それぞれのグループにたくさんのカードを配り、こんな感じの説明をしました。

①これからオリジナルカードゲームを作ります!
②でもまだカードは白紙・・・これではゲームにならない!
③というわけでまずは、これで一人5枚以上、オリジナルカードを作ってほしいんだよね。
④例えば、「犬の物まねできたら100ポイント」とか、「これ引くと1回休み」とか、「これを引くと点数が倍になる」とか。
⑤なんでもいいから、笑えて、楽しくて、逆転できる!みたいなカードをオリジナルでどんどんつくろう。
⑥それをまとめてカードゲームにします!ゲームのルールは例えばだいたいこんな感じです。(板書等で可視化)
 1,白カードも入れて、カードを山にして切る。
 2,1枚手札から出して、机に出して「プレイ」。
 3,それをやったらポイントが入ったり引かれたり。
 4,1枚山からとる。
 5,次の人へ。
 6,カードがなくなったら終了。
 7,得点が多い人が勝ち。
 8,白カードは、仮に10ポイント
⑦もちろんゲームのルールも、グループで自由に決めてね−!

 

なんだかよくわからないけれど、まずはやってみましょう。学級でやったときは、既に何ともやりたそう!!

「イワセン、カードはどんなのでもいいの?」

「いいよー。やってみてうまくいかなかったら抜けばいいんだし。とにかくグループで最高に楽しいカードゲームを作ってください。何度も遊んでみて試せばいいよね」

「こんなカードはやめとこう!みたいなアイデアある?」
「ふむふむ、人を傷つけたり、バカにしたり、みたいなカードはやめとこうね。みんなが楽しめるカードゲームにしようね。もしうっかりそういうカード作っちゃったら、グループで試しあそびしながら『これはダメだよ-』みたいに相談してください。ゲームは誰でも楽しめるの大事だからね」
 
で、カードを書き始めました。こういう場面になると、子どもたちのクリエイティビティ、遊び心、悪ふざけが爆発します。

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こんなカードがざくざくできてくるわけです。あとはあそびながら調整。この試し遊びゲームが何ともたのしく笑いが絶えません。
「このカードを引いた人はもう勝利です!」なんてカードが入っていたチームはひとしきりゲラゲラ笑った後、「あはははははは・・・・・・・でも、これ入ってるとつまんなくない?」と削除(笑)。こんなふうに遊びながらゲームのクオリティを上げていきます。
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プロトタイプを何度も何度も検討してゲームに仕上げていく。この「検討」じたいが遊びでまたたのしい。いつのまにか4人グループは、「自分たちが遊んでたのしいゲームづくりのチーム」に成長していきます。目標を共有するからですね。ルールもどんどんオリジナルになっていきます。
大人が作ったゲームで「遊ばされる」から、自分たちで遊びを創っちゃう体験へ。本来遊びってこういうものなはず。ぜひご家庭やお友達で試してみてくださいね。
 
ちなみにこのゲームづくりのアイデアは、以下の本に載っていました。f:id:iwasen:20140502133957j:plain
ギークマム ―21世紀のママと家族のための実験、工作、冒険アイデア (Make: Japan Books)

ギークマム ―21世紀のママと家族のための実験、工作、冒険アイデア (Make: Japan Books)

  • 作者: Natania Barron,Kathy Ceceri,Corrina Lawson,Jenny Wiliams,堀越英美,星野靖子
  • 出版社/メーカー: オライリージャパン
  • 発売日: 2013/10/26
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読んだときは「ほんとに子どもたち創れるかなあ−」って思ったんですが、人の力を侮ってはいけませんね。そもそも人は「遊びの力」を持っている。普段それが抑圧されているだけなのかもしれませんね。「創ることで学ぶ」ってボクらはもっともっと大事にしていかなくちゃです。だってたのしいものね、その方が。

 

というわけで、仕事から逃避のブログ記事でした−。さ、仕事に戻るか・・・

 
 【追伸】
もし「学級でやろうかな」って思うときは、学級の状態をよくよくアセスメントしてください。人を傷つけたり、バカにしたり、いじったりするようなカードが出てきそうな場合は、違うアプローチを考えたり、最初の設定の工夫(例えば、個人名を出さない、王様ゲームのように「〜する」みたいなのはボツ 等)をする必要があるかもしれません。老婆心ながら。
 

学級を考える3冊。

学級経営とは何か?

学級とは?

を考える補助線として3冊紹介。

 

1冊は、これ。

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

 

 教職大学院の学級経営の授業で扱いました。

学級成立の歴史を知っておくこと。

端的に言えば「効率と規律の歴史」だったわけです。

日本はここを乗り越えるために、自己準拠活動を通した「生活共同体」、「感情共同体」の学級をつくりあげてきました。

これもまた歴史の必然だったのかもしれません。

ではこれからの学級は?

 

2冊目はこれ。

 

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

 もう何度も取り上げているので繰り返しません。必読です。

公教育の原理を共通了解するところからはじめたい。

学級経営の授業でも取り上げます。皆さん買って読みましたか?

 

最後はこれ。

 

チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書)

チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書)

 

 

これについては以前に書評を書きました。

合わせてお読みください。ボクも再読しよう。

 

iwasen.hatenablog.com

 

というわけで今日はさらっと本紹介でした〜。

みなさん、よいゴールデンウイークを!