いわせんの仕事部屋

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「学級経営」を学ぶということの難しさ。実践知をどう共有するか②

①はこちら。

iwasen.hatenablog.com

さらに小難しく進みます。こんなの読んでくれる人いるのかな・・・・・

(このブログ、振れ幅が大きくてすみません・・・・。自分のポートフォリオとして活用しているのでご容赦を)

 

そもそも教師の実践知とは何でしょうか。

学校現場では教師の専門性は技術的合理性で語られることが多いのが現状です。

プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方 (ショーン2007)

 

というわけです。

教育界の新しい動きは新しい方法や技術として提案され、教師はそれを現場に適用すれば解決するというわけですね(導管としての教師)。ここにおいて実践知とは目的に対する手段の関係となり、転移可能で脱文脈的なものとして捉えられています。


 しかし、佐藤(1997) が指摘するように、教師の仕事は「不確実性」を特徴としています。いつでもどこでも適用できる確実な方法はないことは、現場の教師は日々実感している当たり前のことです。だから日々大変なのですよね。AすればBになるなら、みんな苦労していないはず。

つまり文脈から切り離された理論や教育技術として蓄積されていく現状では、どうしても実践者と乖離が引き起こされてしまいがちです。そもそも教師の実践知とは、普遍的に確立された客観的なものではなく、個人的な文脈とは切り離すことができません。

 

文脈(学校なら教室の様子)を無視して、いつでもどこでもだれでも通用する方法はないと考えた方がいい。

 

日々の実践や、他者との関係、社会との関係の中で省察する(振り返る)ことを通して専門知として学ばれていくものだからでです。ショーンはこのような専門職像を「省察的実践者としての教師」と定義しました。



またクランディニンら(2011)は教師の実践知を、「個人的実践知」(personal practical knowledge)という概念で説明しました。

個人的実践知とは

意識的であれ無意識的であれ、信念と意味の本体であり(私的、社会的あるいは伝統的な)経験から生じたものであり、その人の実践において表現されるもの

 

であり、それは

イメージ、実践的原理、個人的哲学、隠喩、ナラティブ的統一性、リズム、そしてサイクル

についての言葉として表現されます。なんだかよくわかりませんね・・・

つまり李(2004) の説明を借りるなら、教師自身の個人的な経験や人生の歴史、その他のことに影響を受けながら、ジレンマやストーリーを生き、その過程での思考や行動が「個人的実践知」として表れているといえます。

この指摘は、学級経営を学ぶ上で、教育技術だけではなくその精錬されていく過程や、その背景にある思想や理念がどのような経験から生じたのか、その生成プロセスを明らかにする上でとても重要です。


ではそのような実践知はどのように記述されるのであろうか。これを考える上で、二宮 が2種類の知の様式ついて、野口の 「ナラティヴ・モード/セオリー・モード」を使って説明しています。この2つのモードの違いについて二宮は以下の2つの例文を挙げています。

ナラティヴ ・モード: 鈴木さんは、毎日、部活の早朝ジョギングに参加したため、マラソン大会で優勝した。
セオリー・モード : 毎日ジョギングをすれば、運動能力が向上する。

 実践の場においてはナラティブモードで実践知が語られることが多いのにも関わらず、実践を対象とする研究ではセオリーモードの〈知〉の方が尊重されている現状です 。ここが問題です。


つまり、二宮が指摘するように、

これまでの実践研究の多くでは、研究方法としてセオリーモードの〈知〉を用いてきたため、研究対象として個人の経験を扱っていても、研究プロセスのなかで、その個人の経験にまつわる固有の意味は削ぎ落とさざるを得なかった

のです。


 しかし桐田が指摘するように実践知は、

自然科学の法則のようにいつでもどこでも誰でも論理的に実証できる(=知覚的現実と一致する)ユニバーサルな『知』として存在しているのではなく、個々の具体的な他者・文化・制度とのかかわりのなかでその都度構築されていく、社会的に構成されたローカルな(=文脈依存的な)知であると捉えることができ

、実践研究において個人的実践知を明らかにするためには、セオリーモードの〈知〉だけではなく、ナラティブモードでしか表し得ない〈知〉がありそうです。


では、そのような暗黙知的な知識の文脈を解明していくにはどうすればよいのでしょうか。

それを考えていく上で,改めてショーンが描いた従来の「技術的合理性」(technical rationality)に基づいた「技術的熟達者」(technical expert)としての教師から、状況と対話し、行為の中で省察をする「省察的実践者」(reflective practitioner)という専門家の捉え直しを見ていきましょう。

これまで教師の専門性は「技術的合理性」で語られることが多かった野が現状です。いや今もなおそうですね。「プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する,道具的な問題解決という考え方」 です。しかし「複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値観の衝突」 がある現実世界では、技術的合理性に基づいた技術的熟達者では対応できないとショーンは指摘しています。

専門的知識を厳密に定義づけようとすると、実践者が実践の中核にあると見なした諸現象は排除されてしまう 。

とはいえ、目の前の固有の状況ばかりを優先しようとすれば、理論にそむくことになってしまいます。厳密性か適切性(rigor or relevance)をめぐるジレンマ に陥るのです。
 そこでショーンは、実践の中の知の生成を重視する「省察的実践者」という専門職像に転換しようと提起しています実践者の知は行為の外にあるのではなく、行為や行為の中の知につ いて 、行為の中で省察したり(reflection-in-action)、行為の後に省察したり(reflection-on-action)する中で生成し続けるのです。


 ここで確認しておきたいのは技術的熟達と省察的実践は対立概念ではないということです。

実践の認識論を発展させることにより、問題の解決は、省察的な探究というより広い文脈の中でおこなわれるようになり、行為の中の省察はそれ自体として厳密なものになり、実践の<わざ>は、不確実さと独自性という点において、科学者的な研究技法と結びつくようになる

 

とショーンが指摘するように両方大事なのです。

さて、ここまで書いてきたことをまとめると、省察を通して得られた専門知(実践知)を記述するためには、

①その省察を生み出した教師自身の個性的な信念と、
②その信念が培われた個別具体の経験、
③そしてその経験を取り巻く状況や文脈を解明する必要がある

とまとめることができそうです。

 

この解明にとって、セオリーモードの知(技術的問題解決を促す理論知)は本来脱文脈的であるため扱い得ないが、ナラティブモードの知(省察的実践を促す専門知)は文脈の明示化によって、上記①~③を扱うことができそうです。つまり、教師が教室内での教育実践と教室外での体験をナラティブモードで記述し、いかに自身のコンピテンスにしてきたかを考察することで、学級経営における個人的実践知、その生成プロセスの一端を明らかにし、共有できるのではないかと思うわけです。

キモは「ナラティブ」です。

そのアプローチを援用してアウトプットした書籍が以下です。

せんせいのつくり方 “これでいいのかな

せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ

  • 作者: 岩瀬直樹,寺中祥吾,プロジェクトアドベンチャージャパン(PAJ)
  • 出版社/メーカー: 旬報社
  • 発売日: 2014/09/25
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 自分でも好きな本です。

 

では、ナラティブを探究するとはどういうことか?

ナラティブで実践を記述するとはどういうことか?

ここでクランディニンの「ナラティブ探究」という研究方法にいきつくわけです。

 

いつかに続く。

 

参考・引用文献

・ドナルド・A・ショーン,『省察的実践とは何か』,鳳書房,2007ドナルド・A・ショーン,『省察的実践とは何か』,鳳書房,2007。

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

・D.ジーン・クランディニン他,『子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ』,明石書店,2011,21頁。 

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

  • 作者: D ジーンクランディニン,ジャニスヒューバー,アン・マリーオア,マリリンヒューバー,マーニピアス,ショーンマーフィー,パムスティーブス,田中昌弥
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2011/04/15
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 ↑必読中の必読。


・李暁博「日本語教師の専門知についてのナラティブ的理解」『阪大日本語研究』16,83-113、2004。
・二宮祐子「教育実践へのナラティブ・アプローチ:クランディニンらの『ナラティブ探求』を手がかりとして」『学校教育学研究論集』東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科、第22 号,2010,38頁−39頁。
・野口裕二「ナラティヴ・アプローチの展開」野口裕二編『ナラティヴ・アプローチ』勁草書房,2009.5-8頁。

・野口裕二『物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチ の世界へ』医学書院,2002.27-31頁
・桐田敬介「高学年造形遊びにおける授業者の専門知に関するナラティブ的探求」上智大学総合人間科学研究科教育学専攻 博士前期課程学位論文,2011,10-11頁。

・佐藤学,『教師というアポリア』,世織書房,1997,94頁。

子どもで居続けること。

先生であることの専門性。

それは「ワクワクする学び手」であり続けること。

探究者のモデルであること。

いや違うな。結果として、周りにいる人が感染しちゃうような探究者でありつづけること。

 

きみはいつおとなになったんだろう。
きみはいまおとなで、
子どもじゃない。
子どもじゃないけれども、
きみだって、
もとは一人のこどもだったのだ。


子どものころのことを、
きみはよくおぼえている。
水溜まり。
川の光り。
カゲロウの道。
なわとび。
老いたサクランボの木。
学校の白いチョーク。
はじめて乗った自転車。
はじめての海。
きみはみんなおぼえている。
しかし、そのとき汗つぶをとばして走っていた子どものきみが、
いったいいつおとなになったのか、
きみはどうしてもうまくおもいだせない。

深呼吸の必要 (ハルキ文庫)

深呼吸の必要 (ハルキ文庫)

 

 

世界への驚きを忘れてしまった瞬間に、子どもたちとの協同探究者でいられないのだろうな。「おとな」にならず、「こども」で居続けること。

それなくしてファシリテーションなんて、ちゃんちゃらおかしいよね。

 

あ、ちなみにぼくは今、ボルダリングに夢中です。

自分のからだっておもしろい。

 

仕事の面では大人になるの大事だけどね。

ダブルバインド

教室では、ルールを守ったり、先生の指示を素直に聞いたりといった「受け身」の要求と同時に、創造性を発揮してアクティブに学ばなければならないという相反した要求が同居していて、子どもたちにとってダブルバインド のような状態になっていることがよくある。

主体性を発揮して!といいながら、言うことを聞いて動くことを要求したり。

怒らないから言ってごらんといいながら怒ったり…

ダブルバインドとは2つの矛盾するメッセージ(直接的なメッセージとメタ・メッセージ)の状況におかれてしまうこと。

 

この概念に触れるたっびに「ああ、自分にもよくあるなあ・・」
と情けない気持ちになる。

自身の日々のリフレクションに残っていないか探してみたら、5年以上前だけれどどんぴしゃなのがあった。
メモ書き程度のリフレクションだけど。
同じようなリフレクションが何回も。何度も何度もことばにして、何度も痛みを感じて、それでもなかなか超えられなかったんだよな。今も超えたか、と言われると道半ばだ。我が子にやっちゃうものな・・

教師のコントロール欲求は根深い。

 

(年齢、時期、エピソードの詳細は、本筋が変わらない程度に改変しています)

     

               *  *  *

 

今日の朝のサークル。
昨日教室で暴れて教室から飛び出していったAさんが

「私が今日はファシリテーターやる」と立候補して司会進行。


そこで出てきた課題をみんなの意見を拾いながら、いい感じでファシリテートしていた。

1時間目が始まる時間が来てしまい、

「じゃあ、続きは明日やろう」と声をかけ、1時間目の算数を始めようとしたら、

Aさんは怒った。
「あと少し時間があったら決められたのに!」

 

ここでつい感情的に反応してしまう。

「でも授業時間始まっているでしょう。朝のサークルはそういうルールだったよね。」

「あと少しで決まるもん!続きやる!」

「やるなら一人でやりなさい」

Aさんは椅子をバーンと蹴った。
結局算数に参加せず。

ぼくも「わがままだなあ」と放っておいた。

 

今これを書いていて、感情が落ち着いて改めて見直してみると、本当に相変わらずだな。情けない限り。
Aの中で何が起きていたのか、何を感じていたのか、ではなくて、自分がやりたいことで進めてしまう。
逃げ道のない選択の余地のない選択肢を示して追い込む。
このアプローチをなんとかしなくちゃいけないのに、つい出てしまう。超えられない。

「こう動いてほしい」
が事前にあり。
「そうできるはずなのにしていない!」とイライラして、
「じゃあもういいよ」
的な言動で動きを誘発させようとする。

思えば新任時代からそのクセがある。
係活動で似たようなことがあった。

あることで注意し、後に子どもたちが「ごめんなさい!」と謝りに来たのを「いいぞいいぞ」と喜び勇んで学級通信に書いたりしていた。その通信はいまでも残っていて、見直して見たらかなり勇ましく「子どもが成長したエピソード」として描いていた…

 

話し合いの時もつい言ってしまうときがある。
「もっと意見言ってもいいんじゃない?」
「もっとしんけんでもいいんじゃない?」

それらはたいてい自分が環境設定をしくじっているのに、
参加者のせいにしているのだ。
大人の場ではありえないのに、子どもにやってしまう残念さと横暴さ。

最近の授業での「イライラ」もそれに起因する。
欲張って「ここまでいける」を設定し、それにいかないとイライラする。

子どもの側からそこで起きてることを見直してみよう。体験してみよう。その場で何が起きて何を感じているのか。
ぼくがしたいことではなく、子どもたちはどうしたいと思っているのか。
ぼくが不安定だから、子どもたちは、仲良しに固まっていくのだ。不安だから。

 

せっかくのチャレンジの場面だったのになあ…

 

丁寧に丁寧に。
自分のコントロール欲求をもう一度眺めてみよう。

「本はさ、人が死んでも受け継がれていくんだよね。」

『モリス・エスモアと空とぶ本』。

モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本

モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本

 

 

この本は、担任時代に学校の図書室で見つけた。

アニメの絵本化なので、この絵本自体は評価が分かれているけれど、ぼくは好き。

これはディズニーがアニメーションにしていて、 それもすごく好き。

担任時代、学級で共有したいと思える本だったので読み聞かせしていた本。

 

5年生担任の時のエピソード。

読んでいるときの反応がすごくよかった。

「あ、色が変わった」

「たぶんルイス絶望してるんじゃない?」

「春夏秋冬になってるよ」

「さっきも似たような絵なかった?ちょっとめくってみて」

聴き手がいろいろなことをつぶやく。

読書を日常的に続けていると、読み聞かせでも自然と本に問いかけるようになっていく。

 

読み終えたとき、

「本、すきなんだね」

「本を大事に大事にしてきたんだね」

「本は読まれるために生まれたんだもんね。」なんて子どもたちは話していた。

せっかくなのでアニメも視聴。


The Fantastic Flying Books of Mr. Morris Lessmore

 

終わったあと小グループで対話。普段実践していたブッククラブのような時間。

 

Aさん、Bくん、Cくんの対話を録画して起こしてみた。

書字が苦手なAさん、読書が好きじゃないBくんと読書家のCくん。

 

A「本もいいけど、アニメもいいね」

B「どこが印象に残った?」

A「最後らへんでしょ」

C「やっぱさいごだね」

A「あの女の子も書くのかな」

C「書く人ばかり、読む人ばかりが導かれていくんじゃない?」
A「本はさ、人が死んでも受け継がれていくんだよね。」

C「たくさん人がいたら、そのかずお話があるんだよね」

うんうん。

「はずかしいことだけ、文字は飛んで行けばいいのに」 とAさん。

 

「1度書いた本は次の世代に受け継がれていってまた受け継がれて・・・・とつづく。本って100 年後、1000年後の子どもにも読んでもらえる。本は読まなきゃ死んじゃう」

と最後にCくん。


すごいよね。話したいことがあれば、人は対話する。
こういう様子を見ると、テクニックじゃないんだよなあとつくづく思う。

読むのがあまり得意ではない人にとっては、読み聞かせや映像は力強い。 オーディオブックとかあれば、読みが苦手な人の手助けになる。
ブッククラブもそうだけど、読めているけど書字が苦手な子がいる。 Aさんは苦手だけど、映像から読めていて、対話の中で深めていく。

学校教育って「書くこと」で評価していること、理解度を測っている側面があまりにも大きすぎる。これが少なからず子どもたちを苦しめている、 という当たり前のことに気づいた時間だった。

「本を読む」「手で書く」に囚われすぎていると、学びにくさを生んでしまう。それぞれの学習者にあうものを用意すること。個別化の重要な側面。

 

この絵本、ぼくにとってとても大切です。

保護者と学校。

保護者を「お客さん化」してしまっているのは、実は学校。学校や授業にコミットするチャンネルをつくっていないからだ(今の多くのPTAは形骸化しているし)。

 

長男が小さい頃、ぼくは1年間育児休暇をとった。ちょうど長女が小学1年だったので、「よし!学校に関わるチャンスだ!」と張り切っていたけれど、学期に2回の読み聞かせボランティアと、お通夜のような懇談会、家庭訪問しかチャンネルがなくて愕然。
保護者から眺めてみると、難攻不落の閉じた空間だ。担任と密に連絡を取ったのは、娘の友だちとのトラブルの時だけだった。そんな時に信頼関係をつくるのは難しい。

 

関われないのなら、「預ける」しかない。お客さんマインドになるのは当たり前だ。そうなる他ない。

閉じた学校は学校の論理で動いてしまい、保護者をシャットアウトする。「口を出してほしくない」とチャンネルを閉ざし、学校独自の慣例が残り続ける。そこに違和を唱える保護者をクレーマー扱いしかねない。

実は保護者の側にも「預けてしまおう」感が多い。
コミットして当事者になるのはなかなかしんどいことだし、それならば「お客さん」である方が楽。時間を割かなくていいからだ。

文句を言っているだけの方が楽だ。Lineで学校や担任の悪口が回るなんてこともあるだろう。

実は両者の思いは一致しているので、ありたい姿になかなか向かわない。

対話を続けながら一緒に子どもの学ぶ場をつくるのは、手間がかかる。だから「預ける−預かる」関係性を維持してしまうほうが短期的に楽であり、結果、両者の本来持っている力、想いがまったく発揮されない。

 

「幸せになってほしい。そのための力を身につけてほしい。成長してほしい」。
実は保護者と教員の願いは大きな方向で一致している。場所は違えど同じ子の成長に関わっているからだ。にもかかわらず、保護者と教員が日常的にコミュニケーションをとる機会がほとんどない。お互いのことを知らないまま進んでいく学校。
両者とも断片的な話や噂、かつての評判などの少ない情報から推測するほかなくなる。
不信が不信を招く。
同じ子を見ているのに情景を共有していない。

 

まずは小さな一歩からはじめてみてはどうか。
学校からできること。

まずは、「学級でのポジティブな情報を保護者に伝えるチャンネルを複数持つ」こと。
例えば、
・写真や学級通信で様子を伝える
・ポジティブな情報を電話や手紙、連絡帳、一筆箋等で伝える
・会って話す機会を増やす。
・参観や懇談会で子どものポジティブな姿を共有したり、保護者の願いや感想を知る機会を作ったりする。
・授業参加の機会をつくる、一緒に授業を創る    等々。

目的や状況、関心に応じて方法は山ほどある。
複数持つというのがポイント。一つのチャンネルだけでは共有できない可能性もあるし、どのチャンネルが自分や保護者とマッチするかもわからない。いくつかプロトタイプを試してみるのがミソ。
この小さな一歩から、子どもや学級の様子が保護者に伝わり、一緒に成長を喜んだり、保護者と担任が子どものことで対話できるようになっていったりして、良好な関係が少しずつ築かれていくきっかけになるはず。
ちょっと関わってみようかな、という気持ちにつながるかも知れないし、関わってみたら思ったより手間ではなく楽しかった!ということもおこるかもしれない。
小さくでも動いてみることで、何か生まれる。

写真は保護者と行っていた交換ノート。
ここからいろんなことが生まれたなあ。

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今ならICT使えばカンタンにできること。

そもそもICTの得意はこういうコミュニケーション機能。

どんどんチャレンジしてみるといいと思うなあ。

 

では、保護者や地域からできることってなんだろう?

一緒にできることってなんだろう?

 

子どもたちが育つ場は、実は大人も共に育つ場。

毎日行く場所だからこそ「ああ、今日も楽しみだ−!」とまるで放課後、原っぱにあそびにとびだしていくように、軽やかに向かう場にしたいなあ(原っぱというのが古いけど)。

あそびだって手間をかけて創った方が楽しい。

学校もきっとそうなんだと思う。

 

Facebbookの記事の転載です。タイムラインに流れていかないように。

 

 

 

「学級経営」を学ぶということの難しさ。実践知をどう共有するか①

今日はちょっと小難しく。

 

日本における学校教育では、近代以降、主に学級を基盤として教育活動が行われてきました。(学級制の歴史はまた別にまとめます。意外と日が浅く、近代の学校のためにつくられた”制度”なんですよね。決して自然な単位じゃありません)

 

 平成20年6月に告示された「小学校学習指導要領解説総則編」の「3 学級経営と生徒指導の充実」においても、以下のように学級経営の重要性が示されています。

日ごろから学級経営の充実を図り,教師と児童の信頼関係及び児童相互の好ましい人間関係を育てるとともに児童理解を深め,生徒指導の充実を図ること。
学校は,児童にとって伸び伸びと過ごせる楽しい場でなければならない。児童一人一人は興味や関心などが異なることを前提に,児童が自分の特徴に気付き,よい所を伸ばし,存在感を実感することが求められており,そのために,生徒指導の一層の充実を図ることが必要である。生徒指導は,児童一人一人の人格を尊重しながら,規範意識をはぐくむなど社会的資質や行動力を高めるように指導,援助することである。
生徒指導を着実に進める上での基盤は学級であり,学級担任の教師の営みは重要である。学級担任の教師は,学校・学年経営を踏まえて,調和のとれた学級経営の目標を設定し,指導の方向及び内容を学級経営案として整えるなど,学級経営の全体的な構想を立てるようにする必要がある。学級経営を行う上で最も重要なことは学級の児童一人一人の実態を把握すること,すなわち確かな児童理解である。一人一人の児童はそれぞれ違った能力・適性,興味・関心等をもっている。学級担任の教師の,日ごろのきめ細かい観察を基本に,面接など適切な方法を用いて,一人一人の児童を客観的かつ総合的に認識することが児童理解の第一歩である。日ごろから,児童の気持ちを理解しようとする学級担任の教師の姿勢は,児童との信頼関係を築く上で極めて重要であり,愛情をもって接していくことが大切である 。

 なかなかいいことが書いてあるなあ、指導要領。新指導要領ではさらに学級について書き込まれています。

 子どもとの日々の営みである学級経営は現場の教員はもちろん、教員を目指す学生や院生にとっても重要な関心事です。熊井の指摘しているように、学級経営は何を教えるかという教科以前に、「学級で教える」という特有の問題に向き合わなければならない重要な課題だからです。
 だがしかし!「学級経営学」という体系化された研究領域は存在していると言いがたいこの国。こんなに大事なのに。学級経営はその要素が複雑で学際的であるため、「学級経営という言葉は、存在しているものの、複雑でつかみどころのないものというイメージ」 のままであるといえます。

 大学の授業でも、学級経営を学べる機会ってほとんどないのが現状です。これは問題。教科教育ばかりやって現場に放り込まれる。どちらが大事という話ではなくどちらも大事。

(だからこそ、つい最近、学級経営学会が立ちあがりました。とても大事な動き。)

www.classroom.gifts

 

 では、学問領域もなく、大学で学ぶ機会がない中で、学級経営は実際にはどのように学ばれているのでしょうか。
 例えば、若手教師は学生時代に教育実習の機会はあるものの、実質は現場に出てから自身の経験や、OJTとして先輩教師から学んでいくということが多いのが現状です。経験から学ぶというやつです。

しかし脇本は、「これまで若手教師であれば、同僚性を基盤とした授業研究の文化に参入することで、教師として成長することができた」 とした上で、若手教師は同僚との関係の中で学ぶことができていたとし、ベテランの大量退職という年齢構造の大きな変化で、若手教師を育成するミドル層が少なくなっている現状を危惧しています。実際都市部では既に起きている危機的な状況です。


 また、山口が述べているように「教員構成が若年化すれば、若手教師が、日常的にベテラン教師から指導・育成される機会の減少に繋がるだろうし、このような機会が減少すれば、指導・育成する側、される側を問わず、教師の力量形成の機会が減少することになる」 ことが危惧されていて、現状山口の指摘は、そのまま現場の大きな課題となっています。


 このままでは、これまで培われてきた実践知が伝承されていかず、今後の若手教師の質に影響を及ぼす可能性があります。

 しかし、先のような現状では、学級経営は、現場に出てからの経験から学ぶか、実践から提案された様々な学級経営論の書籍から学ぶというアプローチが多くなることが考えられます。実際、書店にいくと実践者によって提案された学級経営論の書籍が多数並んでいますし、ぼくも書いてきました。
 

 でも書籍から学ぶのって難しい。

 実に様々な学級経営論が林立している状態であるとも言え、どの学級経営論から学ぶとよいのか、どう学ぶと良いのかがわかりにくい状態であると言えます。ぼくもそれに荷担しているなあと自覚しています。
 

 安藤は学級経営論の変遷を概観すると大きく2つの構成要素があると重要な指摘をしてうぃます。一つは「学級経営の思想・理念」であり、もう一つは「学級経営の技術」です。この2つの要素が組み合わされて整理されると、それは学級経営論として広がっていきます。

しかし学級経営論が生み出されるベクトルと、生み出された学級経営論を手掛かりに実践しようとするベクトルにはズレや変質があるとも指摘しています。

初発段階での学級経営論は、より良い実践の探究から出発し、それを吟味精選するなかから他者と共有できる言葉で実践を表現する『論』を形成していくベクトルを持っている。そのため、具体的な教育技術が精錬されていく過程も、その背景にある思想や理念と切り離しては考えられないものである」 。

 

本来は、この2つの構成要素を一体として学ぶことが重要なのですが、安藤が同書で指摘しているように、理念や精錬の過程では実践に直結しないので、多くの教師は明日の学級経営に直結するような気がする教育技術(方法)としての援用を優先しがちです。(方法のパッチワークとしての学級経営) 

iwasen.hatenablog.com


 現場での実践知の継承が難しくなっている現状の中、学級経営論の書籍等から学ぶというのは、先の指摘のようにどうしても教育技術の援用となってしまいがちです。朝倉も、学級経営はノウハウが流通することによって教育技術として学ばれている側面があると指摘しています。

具体的で役に立つノウハウの流通には、それを処方箋(くすり)のように教師に与えることができ、なおかつ学級経営に役立てることができる、という素朴な前提

があるというのです。
 しかし、この技術志向には問題があるといいます。それは第一に「学級にかかわる問題と原因の矮小化」です。学級における問題は様々な要因が複雑に絡まり合って起きていることがあるが、それに対してある処方箋をあてれば解決する、という学び方は、その問題の原因を問うことなく解決に向かってしまうので「本質的な問題解決への道は閉ざされてしまう」というのです。

これはとても重要な指摘です。
第二には「学級経営をになう教師の実践改善と成長機会を奪うこと」です。省察を通じた専門性の向上の機会が失われてしまう可能性があるからですね。


 このように

教師の知識や技術をそのように(ノウハウとして:筆者注)捉える視点は、教師の実践が状況によって異なることと、教師は実践の中で主体的に知識を形成していることへの着目によって1970年代から批判されてきた

にもかかわらず、日本の現状としては、ノウハウ(教育技術・方法)として学級経営を学ぶしか選択肢がない状況。
学級経営へのニーズは高まる一方、個人的な実践知が埋め込まれている学級経営の様々な提案は、ノウハウとして切り出してしまうと文脈から切り離されてしまうため、共有しにくいものになってしまうという悩ましい問題。

 

では実践知をどう共有していけばいいのでしょう?

そもそも実践知って?

いつかに続く。

 

 

参考・引用文献

・熊井将太 「学級経営論の教育方法学的検討 一学級経営の再評価をめぐる国際的動向」『山口大学教育学部研究論叢(第3部)』,2013,55-68,55頁。
・天笠茂「学級の経営技術」下村哲夫・天笠茂・成田國英 『学級経営の基礎・基本(学級経営実践講座1)』,ぎょうせい,1994,13頁。
・脇本他 『教師の学びを科学する: データから見える若手の育成と熟達のモデル』北大路書房 2015,

教師の学びを科学する: データから見える若手の育成と熟達のモデル

教師の学びを科学する: データから見える若手の育成と熟達のモデル

 

 ↑オススメ本。

山口裕也「構造構成的ー教育指導案構成法の提唱ー実践知の継承・伝承・学び合いの方法論」『構造構成主義研究』第3号,2009,北大路書房,183-211頁。

桐田敬介,「美術教育における専門知のナラティヴ探求について」『美術教育』2012(296),2012,8-14.

・安藤知子「学級を対象とする研究の領域とアプローチ」蓮尾直美、安藤知子『学級の社会学一これからの組織経営のために一』ナカニシヤ出版、 2013, 123頁。

学級の社会学―これからの組織経営のために

学級の社会学―これからの組織経営のために

 

朝倉雅史「教師がよい学級を問う意味とは」末松裕基、林寛平『未来をつかむ学級経営 学級のリアル・ロマン・キボウ』,2016,学文社,65-68頁。

未来をつかむ学級経営:学級のリアル・ロマン・キボウ

未来をつかむ学級経営:学級のリアル・ロマン・キボウ

  • 作者: 末松裕基,林寛平,赤坂真二,中村映子,橋本定男,鈴木瞬,朝倉雅史,生澤繁樹,内山絵美子,内田沙希,荻巣崇世
  • 出版社/メーカー: 学文社
  • 発売日: 2016/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 ※学級経営のことを研究しようと思ったら必読の本二冊。 

 

 

きく

去年から、ぼくの個人的な探究テーマは「きく」。

教師という「きくこと」がとても大切な仕事をしていながら、果たしてぼくはなにをどのようにきいているのだろうか。

 

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ぼくは、人の話をきいているとき、相手が話したことを自分の思考の材料にしてしまう。

例えば「結局、学校教育はもう限界なんだよ」と相手が言ったとする。

 

するとぼくのノーミソは

「新しい思考の材料が増えた!」

とばかりに喜び出す。餌に飛びつく感じ。

ほどなく自分の中で脳内対話が始まる。

そうなるともう相手はぼくの前にはいない。

 

「そもそも限界と考えた時点で限界なんだよ」

「学校って守られているじゃん。その中でやれることって山のようにある。縛りがあるから自由になれるっていう面もあるんだよ」

「縛りがある分、検討すべき範囲が狭まるから、それは実はイノベーションを起こしやすいのかもしれないよ。そもそもゼロから考えるってすごく大変なことなのだから」

「ああ、でもぼくもそう考えた時期があったなあ。あれはいつだっただろう」

「異動して同僚となかなかうまくいかなくなった時だ。なるほど個人的に行き詰まると、一般化して制度のこととかにしたくなるんだな」

 

例えばこんな調子だ。

脳内対話に喜んでしまい、内省に突入してしまう。自分に潜っていくのが楽しい。

 


これ、読書している時と同じだ。

読みながらあれこれ考えるのが好き。それを日常のコミュニケーションにも適用してしまっている。相手を本のように扱っているのか。うむむ。

講演会や、そもそも議論している時などは、まあこれでいいんだと思う。

 


問題は日常のコミュニケーションにおいても、うっかり同じようにしてしまいがちなところ。

相手が話したことを思考の材料にして脳内対話がスタートする。(そう書くとなんだか素敵な感じだけど、ようは自分の思考のエサにしているという、とても失礼な構えだな‥)

 


「今日カレーにしようと思うんだけど」

「えー!」

(三が日明けてすぐカレーか・・・・せっかく時間があるんだから、もっと普段作れないもの食べたいなあ。そもそもカレー先週も食べたし。まてよ、これは俺に作れということか?週末はご飯当番だし。さらに家事最近サボり気味だし。だからといってこんな風に遠回しにやれはないよな。以下続く)

 


もはや妄想に近い。

「今日カレーにしようと思うんだけど」

「今日カレーにね」

「そう、明日天気良さそうだし、御岳神社の方にハイキングでも行きたいなーって。帰りにのんびり温泉入ってきて、新学期に備えようよ。カレーにしておけば、晩御飯ギリギリまでのんびりできるし」

「あー、それすごくいいねー。御岳神社ってハイキングできるの?」

 


という展開も充分に考えられるわけだ。

実際そんな感じだった。

 


「宿題やってきてないんだー」

「ああ、宿題やってきてないんだー」

と、そのままきければ、

「うん、実はさ〜」

とその先に相手が話したかったことにすすめるかもしれない。


「宿題やってきてないんだー」

「昨日もそうだったでしょ。休み時間にやりなね」

では、関係性すら遠のいてしまう。

人をどういう存在としてみているのかと、きくは地続きなのだろう。

 

 

相手の話したことを思考のエサにしないで、

判断の材料にしないで、

思考をスローダウンして、そのまま「きく」。

相手のことばについてゆくききかた。相手を追い越さない。相手の案内で旅に出る。

意識しているんだけど、なかなかできるようにならない。

数回、いつもと違う風景が見えた瞬間があったんだけれど。


今年も引き続きうろうろしてみよう。

 

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御岳神社はきれいでした。