いわせんの仕事部屋

Mailは「naoki.iwase★gmail.com」です。(★を@に変えてください。スパム対策です)

【メモ】最近読んでおもしろかった本

 

読書と言語能力: 言葉の「用法」がもたらす学習効果 (プリミエ・コレクション)

読書と言語能力: 言葉の「用法」がもたらす学習効果 (プリミエ・コレクション)

 

★★★★

あすこまさんのブログに詳しいです。

askoma.info

読書教育に関心がある人必読ですよ。読書に関わる最新の知見が整理されています。

実践を経験知だけで語らずに済むようになります。

 

イギリス教育の未来を拓く小学校 「限界なき学びの創造」プロジェクト

イギリス教育の未来を拓く小学校 「限界なき学びの創造」プロジェクト

  • 作者: マンディスワン,アリソンピーコック,スーザンハート,メリージェーンドラモンド,藤森裕治,新井浅浩,藤森千尋
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2015/07/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

★★★★★!

この数年でナンバー1。今3周目。

学校づくり・学級づくりに関心がある人、学習者中心の学びに関心のある人、職員室の学びに関心がある人、必ず読みましょう。組織開発の好例です。

日本でこういう学校を創りたい。

なお、この本は質的研究の参考としても。

 

公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 

★★★★

リヒテルズさん、苫野さんの新刊。今までの総集編とも言える本。これまでのお二人の本を読んでいる人は復習を兼ねて。すぐ読めます。

 

 

質的心理学ハンドブック

質的心理学ハンドブック

  • 作者: やまだようこ,サトウタツヤ,能智正博,麻生武,矢守克也,秋田喜代美
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2013/09/05
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

★★★

読み応えありすぎ。難しすぎ。でも超えなきゃいけない本。これが辛い時は入門本として以下を先に読むことをオススメ。

 

質的心理学―創造的に活用するコツ (ワードマップ)

質的心理学―創造的に活用するコツ (ワードマップ)

  • 作者: 無藤隆,南博文,麻生武,やまだようこ,サトウタツヤ
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2004/09/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 1人 クリック: 1回
  • この商品を含むブログ (10件) を見る
 

 

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

 

 ★★★★

1時間ぐらいでさらっと読める。アクティブラーニングに関心がある人は目を通しておいて損なし。著者の学校、両国高校へ授業参観に行きたいなあ。

 

 

 ★★★★★

ブックレットながら、最新の知見がコンパクトにまとめられている。薄いのに濃密。お腹いっぱいになある。ブックレットなんて信じられない。著者は同僚、渡辺さんの同級生。怖い研究室だ(意味深)。

 

 

教員のためのリフレクション・ワークブック―往還する理論と実践

教員のためのリフレクション・ワークブック―往還する理論と実践

  • 作者: 武田信子,金井香里,横須賀聡子
  • 出版社/メーカー: 学事出版
  • 発売日: 2016/04/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 ★★★★★

リフレクションに興味のある方は手元に。

読みやすく、教員も学生も日常的に「使える」本です。

難しいことをわかりやすく、やさしく書いている好例。難しいことを難しく書くのは誰でもできる。しかしそれでは、伝えたい人に伝わらない。

背景の知見は重厚です。 知りたい方は『教師教育学』を。 

 

崩壊するアメリカの公教育――日本への警告

崩壊するアメリカの公教育――日本への警告

 

★★★★

今読んでいるところ。

今のアクティブ・ラーニングへの流れ、OECD主導の国際基準に警報を鳴らす。

ボクらが目指す教育を考え直す視座を得られる。アクティブラーニング祭りの今こそ読むべき。

 

学校建築ルネサンス

学校建築ルネサンス

 

 ★★★★★

学習環境としての学校建築。特徴的な学校建築の例が多数紹介されている。

個人的に、最近建築に興味あり。教室リフォームプロジェクトの価値を再検討しているからです。この本の例に比べると、教室に畳をおくなんて、まったくもってかわいいもんですよ、はい。

 

 

 

よつばと! コミック 1-13巻セット (電撃コミックス)

よつばと! コミック 1-13巻セット (電撃コミックス)

 

 寝る前のボクの癒しの本(笑)。

 

 

学校と社会 (岩波文庫)

学校と社会 (岩波文庫)

 

 まったくもってデューイには叶わない・・・・今の教育は一歩も超えられていない。

諦めて『経験と教育』も再読しよう。

 

 

自分のメモとして。

 

合意形成ってまわりくどい。だからこそ体験すべきこと。

 これからのプロジェクトにむけて、過去の記録を整理しています。合意形成って大変。時間がかかる。非効率的。だからこそ体験すべきだとも思うわけです。ではもうずいぶん前の記録。昔の名前ででています。

 

             *     *     *

 

ある日の朝のサークルでの子どもたちの話し合い、です。ボクはちょっと離れたところから記録していました。レクをやりたい子達からの、「週2回レクやりたい!」の声。ボクはここ最近、「全員でレク」ってあまり好んでいません。参加するしない、の自由がないから、です。

でも。子どもたちからは、今までの経験から、けっこう提案される年が多い。さあ、今年度はどんな結論になるか。ボクも楽しみに聞いていました。

 

クラスのレク会社の子達から
「月と金、週2回レクやりたい」と提案がありました。早速朝のサークルの議題です。

レク会社からの提案
「思い出つくりたいし、私たちはスライドショーをつくる計画でレクの写真も撮りたいんだよねー」

ファシリテーターはTくん。(以下 ※)

※何か質問ある?
「それは全員参加?」
「レクなんで全員参加です。」
「委員会とか仕事あるときはどうするの?」
「それも含めてみんなで話し合ってください」
「業間休み?昼休み?両方?」
「それもみんなで決めてほしい」


※他に質問ない?じゃあそれについて近くの人と話し合ってください。
(ここでボクはホワイトボードを用意して,「誰か書いておくといいんじゃない?」とアドバイス。)

「全員強制じゃなくて,委員会とか仕事もあるから自由参加がいいんじゃない?」
「2日じゃなくて1日でいいんじゃない?」
「長い休み時間は、好きなことしたい・・・」
「賛成でなぜかっていうと、小学校生活最後で,みんなで遊んだりしたいなあって思うから。
だからといって強制参加だと無理矢理って感じで、いい気がしないから,自由参加で賛成。」

この「いい気がしない」っていうことが言えるのっていいなって思う。

「今休み時間、いつも仲いい子とかといることが多いから、週に1回ぐらいはレクやってやればいいんじゃないかな。」
「この前鬼ごっこ、みんなでやって楽しかったから、みんなであつまってやることはいいことだからやりたい。」
「楽しいことで思い出づくりしたい。2日だとやる時間が多くなっちゃうから,用事と重なることもあるし、自由参加でいいと思う。」
「うん、こないだの鬼ごっこ楽しかった。みんなで遊んだ方が楽しいこともあるから、やりたい。」
「ただ強制参加、とか何回もやる、ってよりかは、少ない数だけど、あんまり強制的じゃなくて,やって楽しいって思えるぐらいがいい。
楽しいって人増えたらやる回数ふやしていいけばいいと思う。」


ここでOくん、ちょっと方向を変える意見を出しました。
「授業をテキパキやって、ういた時間でレクやればいいんじゃない?休み時間じゃなくて。」


※今のOの意見どう思いますか?近くの人と話し合ってください。
.

.

「とはいっても、やることはたくさんあるから。例えば算数は今の単元終わっても次の単元があるし、余裕があるのかわからない。学期の最後にそれはやったらいいと思う」
「レクだから、休み時間にやるものだから、授業を進めてその時間を使うよりかは、休み時間に自然に集まってやるのがいい」
「算数ゆっくりやりたい人もいるし、あわてて時間浮かすのもよくないなっておもう。レクは休み時間にできるんだから。」
「空いた時間そんなにとれるかわからないし、安定してできないから休み時間にやろうよ」
「じゃあ、授業でもし余裕出たらハロウィンとか,なんか大きなイベントやるといいよね」
「授業をテキパキで時間作る、っていうのもいい意見だから、月に1回でもいいからやりたいね。レクでもいいし、なんかの計画でもいいからやろうよ」

 

※じゃあ、時間作ってやる、っていうのは別でやるってことでいい?

Tくん、なかなかのファシリテーターぶりです。

※レクは休み時間にやるってことで他に意見ある?
.

.

「毎週2回は多いかなって気もする。」
「レクの日を月曜日にして、業間全員参加、昼自由参加、っていうのは?」
「週2という提案でやってみて、それで多かったり少なかったりしたらまたみんなで考えればいいんじゃないかな」
「じゃあ、この話したのはとっておいて、やってみるでいい?」
「やってみるにしても、いつやるかと自由参加かみんな参加かは決めないと試せないよ」

※今のことで近くの人と話し合ってください。

「業間は学校のルールででなきゃ行けないってあるから、業間でいいんじゃないかな。昼は自由で。」
「昼は委員会の仕事もおおいし」
「まずは、レクの人の提案通りにやってみては?」
「金は放送委員の人が仕事だから自由参加で、月の業間休みだけみんな参加で〜」

※レク会社の人どう?

「どっちかを自由参加にして,もう一つは全員参加で、もちろん仕事の人はしょうがないので、できるだけくる、でどうかな」

※じゃあ、まずそれはいい? それじゃ、後は曜日を決めよう。意見ある?じゃあ、これは試しにやってみるってことなので曜日は多数決でいい?(ここで月曜日と金曜日に決まりました)

 
※金と月どっち自由参加にしますか?
「月がみんなで、金が自由でいいんじゃない?金曜は放送委員が当番だから。」

※じゃあ、月がみんなで、金が自由参加でやってみましょう

「業間と昼はどうする?」
「業間でいいんじゃない? 昼は委員会の仕事も多いし」

※じゃあ、みんなこれでいい?反対とかない?じゃあ決定にしていいかな?

            *  *  *

というわけで、
①レクをまずは提案通りにやってみる。
②曜日は月と金。時間は業間。
③月はみんな参加。金は自由参加。
④やってみてまた考える。

ということに決まりました。この後、ボクから「話し合いどうだった?ちょっと振り返ってみよう」と話しました。

 

<話し合いの振り返り>

・近くの人と話し合ったのを、「○○が言っていたけど」、って代わりに伝えるのっていいなあって思う。
・発言する人も増えた。
・司会のTが上手だった。
・言いやすい人に「言って」って伝えるのいい方法だった。
・(司会のTくん)自分のテンションって大事だなーって思う。もっと明るく進めなきゃって。
・いい話し合いだったと思う。時間長かったけど。

 

かかった時間は35分。あっちへよたよた、こっちへよたよたしながら、貴重な時間だと思うし、こういう時間をちゃんと確保するのって本当に大事だと思う。
このように「自分たちのルールを自分たちで決めていく」プロセスは、じっくり時間をかけて,何回も何回も体験すること。ここに腹を決めて時間を取れるかどうか、なんだよなあって思います。
.

といいつつ、ボクも「ああ、1時間目つぶれる〜。どうしようかなあ。」と悩んだ。

途中で切って、
「じゃあ、まず試しでやってみて話すでいいよね?」なんて勝手にまとめて済ませちゃうこともできる。そうしてしまったときに失われるもの、そうしないことの価値、みたいなことは,じっくり考えていいテーマだと思う。

明日はその1回目のレクです。いきなり自由参加スタート。どうなるかなあ。全員参加してなかったら、なんだかステキだなあとも思うわけです。プレッシャーがかかっていない、ってことですから。

秋かな?

なんだか網戸から、
おもいっきり秋の気配が入ってくるんですけど、
信じていいのでしょうか。
もう一回暑くなる!
とかやだよ、おれ。
信じて、心身共に秋モードにしちゃうよ、
大丈夫なのね?
いいのね?

いや、個人的な話でごめんなさい。
季節と脳内対話してました。

秋の気配といや、オフコースですね。
秋、ウェルカムです。
一年首を長くして待ってましたよ。

あれこれと「方法」を試してみることで起きること。

新しい実践方法を講座で体験したり、本を読んだりしたとき。
「これだ!よしやってみよう!」
教室に持ち込んでみるわけです。

持ち込んだ本人はもちろん「やる気十分!」ですし、

子どもたちにとっても「目新しい」。
しかも先生の目がランランと輝いていて、なんだか影響受けちゃう。
そして盛り上がるわけです。両者のやる気が相互作用して。

持ち込んだ人も、「おお、これはいける!」と思う。

 

しかし、1週間経ち、2週間経ち・・・・と時間が経つと、なんだか最初の頃の盛り上がりがない。あれ?最初はあんなに盛り上がっていい感じだったのになあ。
誰より先生が焦るわけです。
「えーまたやるの?」
声をあげているのはほんの1人かもしれないのに、
それが全員の声に聞こえてしまう。
やり方が悪いのかなあ。
あんまり価値のある方法じゃなかったのかなあ。
いや、そもそもこれって自分に合ってなかったのかな・・・・

 

その頃、また新たなBという方法を講座で体験したり、本で読んだり。
「ああ、これだ!これだったんだ!」
こないだやり始めたAという方法。
子どもたちもなんだかやる気がなくなってきたみたいだし、力になってる気がしない。やっぱりAじゃなくてBだったんだ。
で、Bを教室に持ち込んでみるわけです。
持ち込んだ本人はもちろん「やる気十分!」ですし、
子どもたちにとっても「目新しい」。
しかも先生の目がランランと輝いていて、なんだか影響受けちゃう。
そして盛り上がるわけです。両者のやる気が相互作用して。
持ち込んだ人も、
「おお、これはいける!」
と思う。
しかし、1週間経ち、2週間経ち・・・・と時間が経つと、なんだか最初の頃の盛り上がりがない。
あれ?最初はあんなに盛り上がっていい感じだったのになあ。
誰より先生が焦るわけです。
あんまり力がついている気がしないしなあ・・・
やっぱり違ったのかなあ。

 

その頃、また新たなCという方法を・・・・また盛り上がり・・・・
(以下永遠に続く)

 

そうして実践は柄のバラバラなパッチワークのようになり。
全部ちょっとずつだから、子どもの力にも、先生の力にもあんまりなっていない。
それぞれの方法は共通の「教育観」というわけでもなく、同じ「目的」というわけでもなく、まさにパッチワーク。
同じ環境では両立しないかもしれない実践が、隣同士に並んでいたりする。

うまくいかなかった理由はどこにあるのだろう?
そもそも「うまくいかなかった」のだろうか?
そもそもなぜその「方法」を選んだのだろう?

そもそも「目的」はなんだったっけ?

 

そして。

変化はそんなすぐにはやってこない。
半年後に、じわー、かもしれないし。
もっと先かも。
続けることの価値を改めて見直したい。
次々にいろいろやってみることを「勉強熱心」と思っちゃいけないんだなあと思う。


信じたことを、丁寧に丁寧に続けよう。
すぐに結果がでることなんて、しょせんそれくらいなんだ。

 

環境が変わって、焦って、あれこれ手を出してしまう自分へ。

運動会だ リレーだ 自主練習だー。

もう10年も前の出来事。この頃担任していた方々はもうすっかり大人です。

この時期、多くの学校で運動会に向けて動き出していることでしょう。うちの娘も「あー、今日も体育だー!」とちょっと嬉しそう、でも行進の練習はかんべんかんべんという感じで出かけていました。

当時のボクが担任していた学級でも運動会に向けて動き出していました。その学校では、学年の種目で「全員リレー」というのがありました。クラスを4チームに分けてリレーチームを作り、各色対抗でリレーをするのです。その頃のボク、そういう行事に燃えていました。

当時の振り返りの記録からちょっとタイムスリップ。

                 *  *  *

練習は結構いい感じ。
チームの雰囲気もなかなかステキ。
ボクはこの取り組みをとても大切にしています。
結果よりもプロセス。チームで協力してリレーに取り組む過程で、たくさんのことを感じ、学んでほしい。
そう思っています。

しかし普段の体育の時間は、組み体操の練習に時間がとられてしまい、一番燃えているリレーの練習がなかなかできません。
そこで放課後、帰りの会を早めに終わりにして、自主的に練習ができる時間を確保しています。

 

必ずしも走るのが得意!!というわけではない子が、

「バトン練習しに行こう!」

と友達を誘って、ランドセルを背負って弾むように教室を飛び出していく姿や、
校庭から、3階のボクらの教室に向かって、

「いわせーん!来てタイム計って−!」

とニコニコ叫んでいる姿を見ると何だか嬉しくなります。

 

朝や20分休みに、密かに走り込みをしている子もいるみたい。
汗をふきふき、朝自習の時間に、
「今日も走ってきたんだ−」
なんて話しかけてくれると、じーんとします。
一生懸命っていいなあ、かっこいいなあって。

リレーの様子を見ても、本当にうまくなったし、いいチームワーク。

 

 

そして今日の放課後。
いよいよ運動会まで残り日数もわずかです。
大型連休があるので、放課後練習できるのはあと今日を入れて3回だけ。
そこで今日は、帰りの「振り返りジャーナル」を書く時間はなしにして、下校にしました。
それでリレーの練習ができるだろう、と思って。

いつものように、
「1回走って帰ろう!」
と声をかける子がいて、どやどやと校庭に向かっていきます。

 

でも中には、
「今日は家で自主練習っていうことで!」
といって、さっさと帰って行く子もいます。
早く帰って遊びたいのかな?

そういえば、一昨日も給食の時間に放課後遊ぶ約束をしていて、帰りになると、
「今日は自主練にしよう!」
と早々に帰っていった一群がいました。
今日も同じパターン??
逃げるように帰って行くようにも見えてきた。
なんだよ、せっかくわざわざリレーの練習ができるように早めの下校にしたのに。

 

正直に告白します。
一瞬、
「100%全力で運動会に向かうんじゃなかったのかよー」
「そもそもみんなで練習しないと意味がないだろう。長い時間やる訳じゃないんだから!」
「何でやろうという声を無視して帰るの?それでベストを尽くしているって言えるの?」

 

なんていう声が、自分の頭の中に浮かんできて口からついて出てきそうになりました。
帰ろうとしている人に嫌みを言ってしまいそう・・
もう少しで口にしそう・・・








とそのときに、Aさんが、

「イワセンも時間あったら来てね!」

と笑顔で声をかけてくれました。
そっか、やりたい人が集まってやっている練習なんだよね。
ふと我に返りました。
あぶないところでした。

 

校庭に出ると、抜けるような青空の下、残った10数人が楽しそうに、でも真剣にバトンの練習に取り組んでました。
「今うまくいった!!」
「もう一回やろう!」
「イワセン、見ててね!」

何だかとても楽しそうではじけてます。

 

帰ろうとしていた数人の男子が、
「○○〜、1回だけ一緒にやろうよ−」
と女子に声をかけられ、

ある人は、「じゃ、1回やっていくか!!」と急にやる気を出し、
またある人は、「捕まったぁ。。。」という感じで「わかったあ〜・・・」と元気なく加わり。

 

20分ぐらい、あーでもない、こーでもないと相談しながらバトンパスの練習をしたり、100mの走り込みをしたり。

「今のいい感じだよね」

「もう少し、距離を近づけてみようか」

「オッケー!決まったぁ!!」

「みんなそろそろ終わりにしない?」とボク。

「じゃ、ラスト1回だけ!」







その時に思ったのです。
やりたい人が集まって練習している。
それってとてもステキなことです。
もちろん、その日にはやりたくない人もいるだろうし、用事がある人もいるし、その気になれない人もいる。
放課後は遊びたい!っていう人もいる。
それってすごく当たり前のことなんじゃないか。

 

ボクが子どもでこのクラスにいてもきっとそう。
「今日は早く帰って遊びたいんだよ〜正直。その代わり体育のときチョー真剣にやるからさ」
なんて思うこともありそう。
「帰りぐらいは自由にしたっていいじゃん」
なんて思うだろうな。



改めて思い出してみると、クラスの子達、体育のときの練習、すごい真剣にやっているんです。
それも全力を尽くしている!って胸を張って自慢できること。
むしろ、
「やるときはやって、遊ぶときは遊ぶ!」
とメリハリがついている、なんて見方もできます。
帰るという選択肢も当然ありなわけです。



「○○帰っちゃったのかぁ。それじゃあバトンパスの練習できないなあ。じゃあ今日は走り込むか!」
そんな当たり前を、当たり前に受け止めて、楽しそうに練習している子ども達を見ていると、
何だか自分が恥ずかしくなってしまいました。



「全力を尽くす=全員が残って自主的に練習をする」

なんて勝手な思い込みのメガネで、クラスを見てしまっていた。
これって改めて考えるとすごいこわいことだし、ボクはやってしまいがちです。
それもよく考えたら全員残ったら自主練じゃないや。

 

「これはこうなんだから、子ども達はこう行動するはず(行動するべき)」
という価値のものさしで子ども達を見てしまう。
普段ボクがよくやってしまう悪い習慣です。

自分のチャレンジを自分で選べる。
それを当たり前にやっている子ども達に、大きな大きなことを学んだ20分間でした。

 

「じゃーまた明日ーー!!」
「バイバイイワセーン!」

元気に帰って行く子ども達。
みんなが帰った校庭を見たら、透き通った青空に向かって伸びるクスノキが、いつもよりもきれいで、そして偉大に見えました。

f:id:iwasen:20040103064957j:plain 

             *   *   *

 

今読むと、自分の未熟さに赤面ものですね・・

ああ、たぶん。

このころようやく「学級はチームか?」という問いにじんわり疑問を持ち始め、学級の凝集性の怖さに気付きはじめた頃なのだなあと今、改めて思います。

 

学校や学級を覆う「かくあるべし」というもの。

運動会で凝集性が高まるときだからこそ、ちょっと考えてみたいです。

校内研修で学校が変わるかも。

2006,7,8年度と、ボクは小学校で初めての研究主任をしていました。

研究テーマは2つ。「読書教育」と「月曜日に行きたくなる職員室」でした。今思うと斬新なテーマ。外部の力も借りながらの試行錯誤の日々でした。研究主任や推進委員がひっぱるのではなくて、「みんなでつくる」を徹底しました。ひとりひとりの「やりたいこと」から出発し、それをつなぎ合わせていきました。職員室から学校が変わる可能性を感じた3年間でした。9月に某所で行われる読書教育の講演の準備のためにいろいろ読み直していたら、当時の職員のみなさんの振り返り発見。

当時の研究の進め方をまとめつつ、今から振り返って、当時のことをどう考えているかインタビューしてみようかな。

人には力がある。それは子どもも大人もですね。子どもの学習どうこうの前に、先ずは職員室の学び方の変革から。そんなことを読み直していて感じました。これを「あのときのあの学校だけ」に終わらせちゃいけないな。

f:id:iwasen:20160831160930p:plain

 

 

               *  *  *

★研修の進め方についての固定概念が変化した。研究推進委員や研究主任がレールをひいておいて、そのレールに職員を乗せて進めていく研修から、自分自身、一人ひとりが他の職員と協力してレールをひいていく研修へと変化できた。今ではそのやり方が当たり前だと思うようになった。一人でできること考えることは限られたもので、推進委員とか主任の知恵は狭い。それを他の人との協同で、全員でアイデアを出し合うと、できることは無限大に広がっていくことを実感できた。職員室で変わったことは、やらされるのではなく自分達の意志でやっているという雰囲気になってきた。日々の実践が、日常的に全校でおこなわれている。一人ひとりが建設的にものを言ったり、考えたりするようになった。本校の研修のスタイルというのが確立するまでに3年かかった。今は当たり前のようにやっているけど、3年かかってようやく確立した。他のテーマになっても、この堀兼のスタイルでやっていけるんじゃないか。




★私は「研修」についてマイナスイメージを持っていました。それは今まで経験した多くが上からふってきたようなものであったり、押しつけられたものであったりしたからです。今回取り組んでいるのは自分たちで進めている感が強いです。その点でこんな研修もできる、おもしろいというイメージに変わりました、それが一番大きいです。職員室の仲間作りというのは「それを目指す」ことが必要だと痛感します。これは学級も同じです。
人が集まってもバラバラならそれは個人の足し算にしかならないでしょう。逆に足を引っ張り合ってマイナスになる職場も経験してきました。職員室の仲間作りができて、いろいろなことをみんなでやれるようになれば、その力は何倍にもなります。堀小は確実にチーム力をつけてきていると思います。
さらにステップアップするには、個々の自分がもっと強みを生かせる職員室にしていきたい。




★先生方の積極的な研修への取り組みから自分自身を振り返ることが多く、私も前向きに取り組もうとする気持ちが出てきたことが嬉しい。わからないこと、新しいこと、結果の見えないことだったにもかかわらず、みんなで一緒に活動することの楽しさを何度も感じることができた。答えは子ども達自身がみつけることができる。それが本当の力になるという確証のない自信のようなものが出てきた。確実に力がついてきているように思う。改善点は、もっと時間がほしい。



★最初正直「こんな研修でいいのか」「こんな遊びみたいなことやって何の役に立つの?」「2月6日発表できるの?」と思っていた。何か一つのことをみんなでやることでより、いろんな話をして他のことに波及して、あーでもないこーでもないと言い合える人間関係を作れ、変わっていった。自分の強みを知ることによって、それを生かしていこうという気になった。まわりの人の強みも活かして意見を聞こうと思ったりするし、相談したいと思うようになった。みんないいところがそれぞれあると思うことによって相手を認めたり、尊敬したりするので職員全体を高めていこうという気持ちになった。




★本の話や授業の話、お互いの授業を見たことなどを学年を超えて話をするようになった。
職員、クラスとも、目的に向かって進もうとするには、チームビルディングが大切でそのためには自分の考えていること、思っていることを相手に伝えながらチーム作りをしていかなくてはならない。目的に到達するにはより具体的に何をしたいか、どうしたいのか、全員がはっきり持って行かないと進めないことが大切。何十年やってきたのとは違う、こういうのもあるんだなあ、という体験ができた。




★先生方の積極的な研修への取り組みから自分自身を振り返ることが多く、私も前向きに取り組もうとする気持ちが出てきたことが嬉しい。わからないこと、新しいこと、結果の見えないことだったにもかかわらず、みんなで一緒に活動することの楽しさを何度も感じることができた。答えは子ども達自身がみつけることができる。それが本当の力になるという確証のない自信のようなものが出てきた。確実に力がついてきているように思う。改善点は、もっと時間がほしい。



★ 3 年間一緒にできて良かった。最後まで自分たちの研修として意識を持って取り組めているところが個人的に良かった。自分から関わっていきたいと思えたのが良かった。
この学校に来て良かった、いられて良かった。前の学校では職員室内外で不満を言って満足していたけど、今は「どうしたらいいだろう」と改善したい、変えたいと前向きにとらえるようになった。学校全体で子ども達を変えていこうという意識をもてるようになった。子どもの話題が出ると自然に職員室全体に広がる。本の話も広がっていく。みんなで関わっていくという雰囲気がいいなあって思いました。
改善点はもっともっと時間がほしい。もっともっと語り合いたい。




★研修で学んだことがクラスで生きている。今まで20 年やっていた研修よりも学ぶことがいっぱいあった。
「〜したい」という気持ちを一歩踏み出せるようになった。実行に移して、できることからやってみよう、という一歩踏み出す力がでてきた。
その話を職員室のみんなとするようになり、話すとアイデアをもらえ、刺激し合い、そしてまたやってみて、という「できることをせいいっぱいやる」という自分の誓いを実行して自分が高まっていくのが感じられた。自分自身が変われた。




★今まで校内で何かやろうと思っても、反対されたり、時間がかかったりでなかなか実現できない。朝読書をやりたいけど、それひとつでもなかなか実現できない。この学校ではできることをどんどんやってみよう!という空気がある。堀兼小って幸せだね、子どもって幸せだねって他の学校の先生に言われた。
今までも提案してもダメだろうな、って思っていたけど、提案してみようかな、みたいな安心感が出てきた。みんなの前に出せる、っていう気になれた。

 

【たまった計算ドリルや漢字を罰ゲーム的にやらされると何を学ぶか】

埼玉は今日終業式。いよいよ夏休みです!

大学はあと2週間だけど……

この時期になると思い出す、息子が小学生の時のエピソード。終業式2日前の我が家での出来事です。

 

.
.
.
「やべー!計算ドリル終わってね-」
と息子。
あといくつ残ってるの?
「32ページ」
32ページって、ほとんど全部じゃん・・・・・・
「いやー、去年とシステムが違ってさあ。去年は宿題で出てたからその通りやってれば終わったんだけど、今年は,自分でやるシステムだから,気づかなかったんだよねえ−。システムの問題だよ、これは。」
っていうか、どうするの?

「一気に終わらす!終わらないと終業式のあと学校でやるんだって。それだけは阻止!遊びたいし!」
と、頭にタオルを巻いて気合いを入れてやり出す息子。往年のビックダディみたいなスタイルだな。

「よし今日は10個終わったからあとは明日!」
見通しの計算できてないじゃん。明日22個もできるのかよ・・・
そして翌日、また頭にタオル巻いて、
「終わらすぞ-!」「よおし、2個終わった−!」
と妙にハイテンションで楽しそう。
「やるしかないんだよ!どうせなら楽しくやるんだよ」
まあ、そりゃそうか。なんとか夜には全部終わったようでした。だがしかし。終業式の朝には今度は、
「やったノートが見当たらない!」と一騒動。おい。マンガかおまえは・・・・・

 

 

 

「オレさあ、夏はこうならないように、初日に宿題一気に進めるよ」
お、ついに体験から学んだか。そして夏休み初日。
「遊びに行ってきまあーす!」
おーい、宿題終わらすという作戦は???
「あーーそっかあ。。。。まあ、一応持って行くか。。。。じゃあ遊びに行ってきまあす!!」もちろん何もやらずに帰ってきました。

結論。
罰ゲーム的にたまった宿題をやらされても,何の成長にもつながらず、むしろ、「まあ、なんとかなるさ!」ということを体験的に学ぶ(笑)。

というわけで今日も水鉄砲持って遊びに行っております。正しい子どもだ。

 

わかっていても、先生目線ではついついこうやってしまう……ボクもそうでした。なぜ教師はそうしがちなのかは、自分を題材に丁寧に振り返る必要がありそう。つい自分を正当化するストーリーを描いているんですよね。そもそもから考えなくちゃだよなあ……