いわせんの仕事部屋

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教室。

教室。

 

拙著『せんせいのつくり方』より。
ちょっと長いけれど、自分のために書き出してみます。
数年後、ボクの描いているビジョンは変化しているだろうか。
なんにせよ、一生懸命コトバにしてみることだ。

 

せんせいのつくり方 “これでいいのかな

せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ

  • 作者: 岩瀬直樹,寺中祥吾,プロジェクトアドベンチャージャパン(PAJ)
  • 出版社/メーカー: 旬報社
  • 発売日: 2014/09/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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簡単に実現はしないけれど、あきらめずに学習者とともに目指していきたい。

それは未来の社会を創ることにほかならない。

 

 

 

人間関係の流動性。
困ったときに「困った」と外に表明でき、それをクラスが、「関係の濃さ薄さ」を超えて受け止めてサポートする。
それ以外の時は緩やかにつながっている。

教室の中に複数のネットワークがある。そのときそのときに応じて関係が変わっていく。
複数の回路があれば、必然的にゆるやかな「つながり」となる。

いろんな人がいてもよい、ではなく、「いろんな人がいるほうがよい」ということを実感するためにクラスで様々な形の実践がある。

例えば。ブッククラブで「ああ、こんな考え方があるのかあ。社会には自分とは違う考えの人もいるんだなあ」と思うこと。

算数の時、 「ああ、この人の説明だとわからないのに、この人の説明だとよくわかるなあ。試してみないとわからないものだなあ」と実感すること。
様々な時間に、自分の強みが発揮できること。他者の強みを見て、

「へー、自分が苦手なことでも得意な人がいるんだなあ。逆に自分が得意なことでも人には苦手 のこともあるんだなあ」

「自分が役に立てたり、得意なのはここだなあ」

と思えること。

多様な中で、学校は人工的な空間ではあるけれど、 出来る限り自然で自分らしくいられること。 やりたいことがそこにあること。 科学だったり、読書だったり、裁縫だったり、作家だったり、人によっては掃除だったり。ダンスや歌もステキだ。

たとえば給食の時間にやっている算数寺子屋。
「やりたい人はやればいいし、そうじゃないひとは別にやらなくていい」
という緩やかな自己選択があること。
やら なても不利益にならない開放性。
やっているからえらいとか、やっていないからだめとか、そんなのはない。 どっちもあり。個人の自己選択・自己決定が保証されている。

寺子屋や算数の時みたいに、 「サポートして」と援助を求めることができる。 それが幅広く受け止められる。 受け止められて解決したり、進んだりできる。
その成功体験が、より「サポー トして」を言いやすくし、コ ミュニティの問題が早めに可視化されるようになり、健全性が保たれる。

起きている時間のほとんどを過ごす学校。

今は下校時刻が4;00で、外で遊んでいい時間が4:30まで。 実質かえって友達と遊ぶ時間はない。 子どもたちにとって、学校での時間が友 達と過ごす唯一の場なのだ。 その学校にとって、教室にとって、「居心地がいい」「やりたいことがある」「自 分らしくいられる」というのは以前にも 増して重要だ。

だた、それだけではやはり学びの場ではない。 自分の成長を実感できること。自分の変化、をちゃんと自分でわかっていること。 変わってきているから、これからも変わっていけるだろうという自分へのポジティブな期待。 ただ「居心地がよい」だけではなく、その中での成長実感。 やればできるようになる、というマインドセット。 周りの人や大人がモデルとなり、自分が「伸びようとする高さ」が見えてくること。
自分の位置が自分で測れること。

時間軸が長いこと。 すぐに成果が出たり、変わったりしないこともある。 いつでも長い時間軸を意識して焦らないこと。待つこと。 1年単位での実践ではここへの意識がよわくなる。 気をつけよう。
ボクがグッと伸びたのは、教員になってからだぞ。子ども時代は遊んでばかりだ。

他のクラスや学年との「バリア」ができるだけないこと。 そのためには。一緒にやれることを増やすこと。子どもが行き来するしかけをつくること。 例えば本を借りに行ったり。クラスを混ぜた授業をしたり。担任が授業を交換したり。 ここはまだあまりやれていないから、これから意識していこう。
ああ、そのバリアは、学校の中と外、にもあるんだよな。
そのバリアをなくしていきたい。

クラスというコミュニティを居心地よく、よりよいものにしていくのは、わたしの手の中、にあること。
わたしの一歩がそのきっかけになる、ということが実感できること。
違いを前提に、共創的な対話を重ねられること。
対話をあきらめないこと。

これからの学校教育を考える時に。

これからの学校教育を考える時に。

 学校は制度的な実践なので、制度の中で何ができるかという小さな改善はとてもとても重要。でもその限界が来ているのも確かだと思うのです。

今回のアクティブ・ラーニングへのフォーカスは、教授主義から学習主義へのパラダイム転換と考えたい。

小さな改善は「中からの視点」です。

パラダイムが変わるときは「外からの視点」が重要になってきます。

 

そもそもこれから目指すべき学校とは?

子どもは、子ども時代に何を体験し学んでおくべきなのか。

そのために社会は、学校は何を準備していくのか。

 

学校という場で「今まで学びから排除されてきたこと」から見直してみたい。高尾さん、中原さんの本は示唆に富みます。こんなすごい方が本学にいるとは。

学校教育は大きい視点でデザインし直す必要がありそうです。もちろん小さな改善を続けつつ、です。言うは易く行うは難しですが、少しずつ少しずつ。

 

「学びの限界を打ち破るためには、今まで学びから排除されていたさまざまなものを見つけ出し、その側からもう一度学びを検証し直す必要があるかもしれません。学びから排除されたものは、有利な立場に立っていた人が、これらのことが学びに入っていると自分たちを守っている既存のルールが脅かされ都合が悪い、と考えて排除した可能性があるからです。
 例えば、学校を考えてみると、多くのことが排除され、禁止されています。自分の好きな格好をすること、自分のペースで時間を過ごすこと、好きなときに友だちと話すこと、先生に言いたいことを言うこと、言いたくないときは黙っていること、遊ぶこと、歌うこと、食べたり飲んだりすることなどたくさんあります。しかし、これらの中には、時と場合によっては、変えるための学びを促進するものがあるのではないでしょうか?」

 

 

『インプロする組織』(高尾隆 中原淳 三省堂)より。

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる

 

 

 

「作家の時間」というアクティブ・ラーニング。

「作家の時間」という作文の学習があります。

 

作家の時間―「書く」ことが好きになる教え方・学び方(実践編) (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

作家の時間―「書く」ことが好きになる教え方・学び方(実践編) (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

 

裏表紙にボク、写ってます。若い!

 

ライティング・ワークショップ―「書く」ことが好きになる教え方・学び方 (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

ライティング・ワークショップ―「書く」ことが好きになる教え方・学び方 (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

  • 作者: ラルフ・フレッチャー,ジョアン・ポータルピ,小坂敦子,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本
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この時間では、子どもたち一人一人が「本物の作家」となります。

自分でかきたいことを決め、書きたいテーマを決め、書く場所(仕事場)や書き方も自分で選びます。自分のペースで作品を書いて出版します。下書きに時間をかける子もいれば、どんどん作品を仕上げる子もいる、本当にひとり一人の「作家」の仕事場になる時間です。(詳しくはぜひ本を!)大人がビックリするぐらい書くことに夢中になります。本当にそのような学びは公立校で可能なのでしょうか?それが可能なのです。

「あんなに人気のない作文を、意欲的に書くようになるなんてあるの?」子どもたちはそんな心配を余所に書き始めます。休み時間も、家でも書き続ける子どもたちまで現れます。まさに「主体的に」学び。自分の学習を自分で創っていくのです。自身の学習にオーナーシップを持ち、アクティブに学ぶパワフルさを子どもの姿から学ぶことができます。ひとり一人の学習者自身が、それぞれの仕方で学びに「アクティブ」になる。言葉にしてみれば当たり前ですが、いかにそういう時間が学校にないか、という何とも皮肉めいた現実があります。

アクティブ・ラーニングがもてはやされる昨今、何も身体的に「活動」しているから「アクティブ」なわけではないのです。他者と関わっているから「アクティブ」なわけではないのです。

ちなみに、作家の時間では子どもたちは、下書きを読み合ってアドバイスし合う等、必要に応じて学び合いはじめます。学習の中に結果として協同のアクティブ・ラーニングとなるのではないでしょうか。苫野さんのいう「学習の個別化と協同化の融合」です。  

 

ボクがかつて担任した「作家」の作品。今はもう高校生。サイトへの掲載許可を得ている作品なので紹介しますね。なお、今「作家の時間」で日本で屈指の実践者は、甲斐﨑博史です。今は小2で実践中。今月末、参観に行くのが楽しみです!

 

             *  *  *

 

その日は、友達のなっぺと一緒に私の家にで遊んでいた。はじめは楽しくDSなどをして遊んでいたが、やる遊びがなくなり、とうとうネタ切れした。私とななっぺは、
「何して遊ぶ?」
「例えば何がいい?」
と言葉のかけ合いをしていた。二人で暇にしていたときに、私のお母さんが、
「この紙切ってくれない?」と行った。私たち二人は暇だったので、「いいよー!」
と言い、早速切り始めた。その紙を切るはさみは2種類ある。一つはみんなが普段使う普通のはさみだった。もう一つはちょっと違う、刃が5枚刃のはさみだ。そのはさみはシュレッダーのように細かく切れるのでシュレッダーばさみという名だ。そのはさみは持つと重く、見ているだけで恐ろしいし、鳥肌が立ちそうなはさみだ。そのシュレッダーばさみは私が使い、普通のはさみはななっぺが使うことになった。ななっぺ自身は、自分がそのはさみ使ってもいいと気軽に行ってくれていたが、私は、
「危ないからいいよ。」
と一言言った。その一言にはいろんな意味があった。
 
 一、なっぺにけがを負わせてはいけない。
 二、泣かれてしまっては困る。
 三、けがを負わせてしまったら、責任がある。

 このようなことがあっては嫌だと思い、私はそう言った。初めは二人とも楽しく、そして慎重に切っていった。途中に五分ぐらいの休けいを入れながらやった。でもだんだんとはさみの扱いにも慣れてきた。そして、切り終わった後の紙の大きさや一回に切る量が増えてきたので、私はなっぺに確認した。
「なっぺ!やってて楽しい?」               

するとなっぺは、
「楽しいよ。大丈夫!」と言ってくれた。私は良かったと思った。つまらないと言われたらどんな遊びをすればいいかわからなかったからだ。
 ちなみに私の使っているシュレッダーばさみの音は、
「パチン、パチン。」
まるで爪を切っている音のようだった。その音は悪魔の音だと言える。ちなみに私の紙の持ち方はこうだ。紙の上に親指があり、残りの四本の指は紙の下にあった。その時、悲劇は起きた。シュレッダーばさみが小指に当たる。その瞬間、私の小指の先がほんの少しだけ切れた。皮だけでなく、肉も切れた。約一ミリぐらいだろうか。でもその一ミリが相当やばかった。血が出る。血の量も異常だ。大量出血で死んでしまうのではないか?と思ってしまったほどの血の量だった。以前にもななっぺの前で一回泣いたことがあったから、今回またななっぺの前で泣くのは屈辱的であり、私自身のプライドがゆるさなかった。私は姉と自分の部屋でワンワン泣いた。涙はどんどんあふれてきた。目が赤かった。その時の私には、不安とパニックが積み重なっていた。パニックと不安の原因は、その時通っていたスイミングスクールのことだった。指先を切ってしまったからといって、休むわけにはいかなかった。なぜかって?そう、私はこれまで一度もスイミングスクールを休んだことがなかった。たとえ運動会の日でも。皆勤賞をねらっていた。バンドエイドを五枚以上貼ってもすまなかったので、薬局に行き、テーピングの透明バージョンっていう感じの物を買ってきて、包帯のようにぐるぐる巻きにして、スイミングスクールへ行った。それでも血はにじんでいた。 しみたらどうしよう…。不安があった。でも実際泳いでみてもしみることはなかった。でもジンジンズキズキという痛みは強烈だった。その傷を見ていると、やる気がゼロ状態になり、何もしたくなくなった。
 当たり前のことだが、そのテーピングやバンドエイドを取り替えなければならない。傷口とバンドエイドのガーゼの部分が接触しているので、外すのには超勇気が必要だった。外す度に、ワンワンと大声で泣いた。約五ヶ月の間はそんなことが毎日続いた。  

しばらくするとバンドエイドを貼らなくてもいい状態になってきた。そこからの治りは早かったが、ジンジンズキズキという痛みはまだあった。また少したち、だんだんとジンジンズキズキという痛みもなくなってきた。不安とパニックもどこかへ飛んでいった。
 そして五ヶ月後、完全に治ったがきずあとがある。そのきずあとの形は何形だと思う?三角形のような形が残っているのだ。
 今でもその左手の小指にしょうげきがあると少し痛いが、その痛みにもだんだん慣れてきた。 今でもなっぺは、シュレッダーばさみと自分が使っていたはさみを交かんしていたら、と思ってくれているらしい。その気持ちはとてもうれしく思った。
 
 時々私は、左手小指と右手小指を比べてみる。
 明らかに左手小指の法が右手小指より小さかった。あれはきっと人生で一番痛かったと思う。私の知っている限り。
 あれ以来私ははさみ恐怖症になっている。はさみを持つと手がふるえてしまうのだ。

振り返りにフィードバックするときの「問い」とは?

 振り返りの大切が強調されて久しい(当社比)ですが、そうはいっても内省を深めるのってとても難しいです。自分の振り返りには、自身の経験から出来上がった無意識の信念や価値観「思考のクセ」のようなものがあり、そこを基点に自動的に判断したり解釈してしまうことが多々あります。「自動的」というのがこわい。よって、いつも「同じ落とし穴に落ちる」ことになりかねません。

 自動化=悪いことではありません。専門性が高まるというのは、ある意味「質の高い自動化」が増えることでもあります。しかし、ショーン(2007)が指摘するように、

(専門性の高まりは)マイナスの効果をもたらすことがある。 ひとりの人間の中で専門分化の程度が高度になると、視野が狭くなる可能性がある

 

わけで、自動になっているところを意識化して「ほんとうにそれでよいのか?」を検討する必要がありそうです。

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

 とは言っても無意識なので気づきにくい。ですから、「他者からフィードバックをもらう」ことが重要になるわけです。とはいえ、他者が「そこは違うと思う!」などとフィードバックすると、

「なにを!!!」と心のシャッターが閉店ガラガラ〜になりかねません。フィードバックが「フィードアタック!」になるわけです。ボク割と得意です(涙)。ではフィードバックする側はどうすればよいのでしょうか?

その時の1つのヒントとして、「質問」を活用する、がありそうですす。

 

★内省や気づきを促す問い

例えば、メリアム(1998/2004)の研究では、内省や気づきを促す有効な質問として以下の4つをあげています。

①仮定的質問:「もし〜だったら」ある自体を推測する

②故意の反対の立場からの質問:「〜という人がいるけれど」とあえて相手と異なった立場を提示してその反応から深めていく

③理想的質問:理想的な状況を想像してもらい語ってもらう

④解釈的質問:暫定的な解釈を示してその妥当性を確認する 

例えば振り返りに、子どもとのあるやりとりとその結果が書かれていたときに、「もしそこで叱らずに〜したら、どうなっただろう?」のように聴いてみる。褒めるのが大事だ-!を信じて疑わない場合、「ほめることが、かえってって先生への依存を生むっていう人もいるけれど、今回の場合それについてどう思う?」と聴いてみる。「最も理想的に進んだら、今日の出来事はどうなっていればよかったの?」「そのためにどんなことができただろう?」と聴いてみる。「今話していること(書かれたこと)って、〜っていうことでいいかな?(少し抽象化して整理)。それを改めて眺めてみると、あらためてどう考える?」とちょっとメタに見直してみる。どんな質問をするか、はかなり重要そうです。どれも、ちょっと引いて眺めてみる(メタに見直してみる)質問です。フィードバックする人の重要な役割と言えそうです。

 

★オープンクエスチョン

ちょんせいこさんと提案している「信頼ベースの学級ファシリテーション」の中にオープンクエスチョンがあります。振り返りは実は具体的に深まっていずに、表層的な事象で慌てて解釈している場合も少なくありません。そんな場合は、まずはオープンクエスチョンで階層を深めて具体的エピソードまでを言語化することが有効です。浅い階層での振り返りは浅い気づきになりかねません。オープンクエスチョンでまず深める。これが大事です(実感)。

よくわかる学級ファシリテーション?―子どもホワイトボード・ミーティング編― (信頼ベースのクラスをつくる)

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元気になる会議-ホワイトボード・ミーティングのすすめ方

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  ★コルトハーヘンの8つの窓 

コルトハーヘンのALACTモデルは、本を参照していただくとして、

教師教育学―理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ

教師教育学―理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ

  • 作者: フレットコルトハーヘン,Fred A.J. Korthagen,武田信子,今泉友里,鈴木悠太,山辺恵理子
  • 出版社/メーカー: 学文社
  • 発売日: 2010/03
  • メディア: 単行本
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この本の中で振り返りを促す8つの質問として以下をあげています。

自分は何をしていたのか?(DO)
自分は何を考えていたのか?(THINK)
自分はどんな感情をもっていたのか?(FEEL)
自分は何をしたいのか?(WANT)

相手は何をしていたのか?
相手は何を考えていたのか?
相手はどんな感情をもっていたのか?
相手は何をしたいのか?

 これまでの自身の振り返りや何人かの方の振り返りの伴走をさせていただく中で、意外と抜ける視点は「相手は」です。学校文脈で言えば「学習者」視点から振り返ってみること。例えば、

「その時、相手の子どもはどう感じていたんだろう」

「その時、子どもはどんなことを考えていただろう?」

と聞くことで、自身の振り返りに新たな視点がもたらされます。

 

以上、振り返りを深めるための「問い」について考えてみました。これらは、先日の横浜市立永田台小学校での校内研修の中でお話ししたこと、実演したことのバックボーンにあった内容を簡単に整理してみたものです。どんな質問が相手の内省を促すか、という視点は「自身の内省を深めるためにどんなセルフクエスチョンが有効か」という視点にもなりそうです。

学校現場(にかぎらず)において、これらを意識しつつ「振り返りに相互にフィードバックし合う関係」が作れると、相手の振り返りへの貢献ができると共に、自身の振り返りも深まりやすくなり一石二鳥!だと思っているのですが、どうでしょうか。ただここで考えなくてはならない問題は「宛名」問題です。誰かに読まれること前提の振り返りは潜在的に読者を抱えます、それが振り返りに与える影響は考えなくてはならないテーマですが、またそれは改めて。

なお、コルトハーヘンについては、中原さんのブログに要点が見事にまとまっています。

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: コルトハーヘン先生による「リフレクション学」スペシャルワークショップが終わった!:リフレクションという名の「詰問」「教え込み」「だらだらトーク」を超えて!

さあ、仕事に戻ろう。

 

 

 

よけいなお節介。

東京学芸大学、平野朝久先生の「子どもの見取り」の文章を読んで、もう7,8年前になる出来事を思い出した。(『学び手の視点から創る小学校の体育の授業』大学教育出版)

 

外で楽しそうにサッカーやSケンで遊んでいる子どもたち。その様子を2階の教室の窓から眺めているみさき。「外いって一緒に遊べばいいのに。一緒に行こう?」と言うボク。「こうやってみてるのが楽しいの」とみさき。

ふうん、そうなんだあと思いつつ、その時は正直よくわからかった。本当は入りたいのに「入れて」の勇気がでないだけじゃないかって。

そのみさき、教室でも一人で本を読んでいることが多い。休み時間はほとんど一人。ついボクは気になる。友だちと話せばいいのに。背中を押したくなる。

ある日の振り返りジャーナル、みさきはおおよそこんなことを書いていた。

本が大好きだと。そして本を読みながら、学級の人たちがおしゃべりしていたり、ふざけたりしてワイワイしているのが聞こえているのが好きだと。つい聴き入ってしまって、笑っちゃうこともあるんだけどね、と。

そのジャーナルを読んでから、あらためてみさきを見ていると、読書を楽しみつつ、教室のおしゃべりや空気を楽しんで、時々クスッと笑っていたりしていた。彼女は彼女なりの「心地よい、場への関わり」みたいなものがあるんだなあと。全然気づいていなかった。

ついついボクらは、ある種の期待や「こうあってほしい」という先入観メガネをかけて見てしまい、その見えたことで解釈、判断してしまう。でもこれって時と場合によっては、ひどいお節介になる。「学校的正しさ」が人を追いつめてしまう。

何でもわかった気になってはいけない。どんなに長い付き合いであっても、「本人にしかわからないことがある」ということを知っておかなくちゃいけない。本人の声を聴かなくちゃわからないことがあるという当たり前のことを、みさきのことを思い出す度に思う。勝手な解釈と過剰な判断。そんな失敗を何度してきただろうか。

 

 

「どの幼稚園でも、学校でも、先生の目からみると充実した活動をしていない子どもがきっといる。どんなに工夫し、試みても、おとなが期待するように活動せず、何もしていないように見える子どもがいる。

〜こういうときに、何かをさせようという考えを捨てて、子どもと一緒に何もしないで腰をおろしていると、その子どものまわりには、ひかえめで平和な空気がただよっているのを感じある。少なくとも、それまでのように、背を向けた関係ではない。
 子どもによっては、おとなが考えるのとは全く違った形での自己実現の仕方があるのではないか。保育者や学校の教師は、身体の労働をもって子どもの生活を支え、実生活で子どもに対して力をもつ人であるゆえに、何もしないこと、空想にふけること、目的のない役に立たない活動などに価値を認めない傾向がある。力を出し、努力をし、物を獲得し、充実する人には価値を認めても、物を手放して無欲に生きることによって満足する生き方には、関心を払わず、否定する傾向がある。前者を実とすれば、後者は虚の世界に生きる人といってもよい。しかしよく考えれば、だれでも、その両方の世界をもっているのではないか。

津守真『子どもの世界をどうみるかー行為とその意味−』NHKブックス 

 

子どもの世界をどうみるか―行為とその意味 (NHKブックス)

子どもの世界をどうみるか―行為とその意味 (NHKブックス)

 

 

 

学び手の視点から創る小学校の体育授業

学び手の視点から創る小学校の体育授業

 

 

 

 

 

シュタイナー学園へ。

今日は、大学院の授業で、学校法人シュタイナー学園に参観へ。高校生の頃『ミュンヘンの小学生』を読んで以来、一度は見たかったシュタイナー教育。ようやく願いが果たせた。小学校から高校までの12年間を一条校として設立を果たしたシュタイナー学園。「想い」が随所から伝わってくる学校だった。

www.steiner.ed.jp

 

学生の皆さんにとっては、教育の有り様には、実は様々あるのだということを実感した1日になったのではないかと思う。「こんなの普通の学校じゃ無理だよ」などという浅い感想に終わらず、そこで行われていることに関心を持って探求する姿に日本の教育の未来を感じる。

 

 

f:id:iwasen:20160531140222j:plain学校のある藤野の風景は風邪が美しかった。

晴れた日は。

今日のように晴れた日は、
仕事が貯まっていようと、
疲れがたまっていようと、
洗濯物がたまっていようと、
公園にいってブランコですよ。

そうに決まってます。

なぜボクたちは
こんなシンプルで大事なことを忘れ、
部屋にこもり、
仕事したり、イライラしたり、
不安になったりしながら
休日を過ごしちゃうんだろう。

晴れた日はブランコですよ。
とてつもなく気持ちよく、
空が近くなります。
我が子とブランブランゆれてきました。

部屋の中にいてもろくなことありませんぜ。
あーきもちよかった。