いわせんの仕事部屋

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お詫びとお願い

次年度の講演、研修、ワークショップ、執筆依頼を多数いただいております。ありがとうございます。開校準備に専念するため、2019年4月〜2020年3月までは、原則これ以上お引き受けできません。誠に申し訳ございません。ご理解くださると幸いです。

開校後落ち着いた頃に、お役に立てることがありましたらお声がけいただけるとうれしいです。よろしくお願いいたします。

「プロジェクト」と「もどき」を分かつ条件は?

プロジェクトって、つまりはなんでしょう?
今日、事務所でスタッフのうまっちと話題になりました。その場でもちょこっと話したのですが、帰りの車の中でぼやーっと考えたことがあったので、帰ってきてエイヤとまとめました(なんせ1時間40分もかかるので、考える時間が無限に・・・・)

探究の学び、プロジェクトの学び、PBL、言い方はいろいろありますが、ここではプロジェクトとしておきます(正確にはプロジェクトは探究の方法概念)。

プロジェクトってなんでしょう?
藤原さとさんがブログの中で引用していますが、『理解をもたらすカリキュラム設計』ではこんな事例を載せています。

理解をもたらすカリキュラム設計―「逆向き設計」の理論と方法

理解をもたらすカリキュラム設計―「逆向き設計」の理論と方法

 

(この本はプロジェクトをデザインするには必読。必要なインプットなしにプロジェクトをつくるのはかなり困難。)


秋になると毎年2週間、第3学年の児童全員が、リンゴについての単元に参加する。3年生は、このトピックに関連する様々な活動に取り組む。言語化では、ジョニー・アップルシードについて読み、その話を描いた短編映画を見る。彼らはそれぞれリンゴに関わる創作物語を書き、テンペラ絵の具を使って挿絵を入れる。美術では自動は近くの野生リンゴの木から葉っぱを集めてきて、巨大な葉っぱ模様のコラージュを作り、3年生の教室に隣接する廊下の掲示板に掛ける。音楽の教師は、子供たちにリンゴについての歌を教える。科学では、違うタイプのりんごの特徴を、五感を使って注意深く観察して描く。数学の時間、教師は3年生全員に十分な量のリンゴソースをつくるために、レシピの材料を定率で倍にする方法を説明する。・・この単元のハイライトは、近所のリンゴ農園への見学旅行である。そこで児童は、リンゴジュースが作られるのを見てから、荷馬車での遠乗りに出かける。単元における山場の活動は、3年生リンゴ祭りという祝典である。そこでは、保護者はリンゴの衣装を着て、子どもたちはそれぞれのステーションを順に回って、様々な活動を行うーリンゴソースを作り、リンゴの言葉探しコンテストで競い合い、リンゴ採り競争をし、リンゴに関する文章題を内容とする数学のスキル・シートを完成させる。その祝典の締めくくりには、カフェテリアの職員が準備したリンゴあめをみんなが楽しんでいるところで、選ばれた児童が自分の書いたリンゴの物語を読む。

 

これはプロジェクトではありません。活動主義のテーマ学習です。活動的であるかどうかではないんですね。
「では子どもが問いを立てたら探究になるのではないか?」
という声が聞こえてきますが、それも違うと私は考えています。
例えば「昆虫」とテーマが設定され、
「自分の探究してみたいことを探究しよう!」
などと投げ掛けられ、
「まず自分の調べたいことで問いを作ろう」

「えっと…昆虫は何種類いるの?」
「クモは昆虫なの?」
と調べたいことを設定し、調べて、模造紙に書いて発表。これではプロジェクトとしては不十分だと私は考えます。プロジェクトという名の調べ学習、テーマ学習に過ぎません。これが「天気」でも「たいよう」でもおなじこと。

ただ「これで知りたいことを問いにしましょう」ではダメなんですね。

学習者が探究したいものを!といいつつ、その構造は丸投げになってます。

 

PBLばやりで、ネコも杓子もプロジェクト!となりかねない状況。でも、気付いたら「自分で」立てた問いの「調べ学習」に終始してしまいかねません。


ではプロジェクトとプロジェクトじゃないものを分かつ条件とは?
さとさんは、ブログの中で端的に

「『探究』とは何等かのサイクルを回すということ、起点から何らかの経験を経て、変化が起き(Transform)、新しい状況へ到達するということ」

とまとめています。探究でこれ以上わかりやすいまとめはない!必読。

kotaenonai.org

 

さとさんに刺激を受けて、『学習科学ハンドブック』を参考に、私も独断と偏見でまとめてみたいと思います。

学習科学ハンドブック 第二版 第2巻: 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ

学習科学ハンドブック 第二版 第2巻: 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ

 

このシリーズも必読ですよー。 


□探究を駆動させる力強い問いがある。
→これは学習者が立てた問いか、教師が立てた問いか、ではなく、学習者自身が自分ごとに感じる問い、解決したい!〜したい!と情熱が生まれる問いであること。

 

□自分にとっても、社会にとっても重要で意味のある問いであること
→これ重要。意外と「自分にとって重要な問い」でないことが多く、「無理やり捻り出した問い」である例がよくみられる。

 

□自身の周りの現実社会とつながっていること。
→学校内の「ごっこ」にならないこと。「小さな設計」にしないこと。そのためには外の専門家とつくるのがいいよね。

 

□現実社会の文脈で行為を通して学ぶこと。
→行為を通して知識や理解を構成していく学び、というのがミソ。学習は常に状況的。「知ること」と「すること」をわけない!

 

□本物の実践であること(何らかの共同体に参加することを通して学ぶこと)。
→その意味ではライティング・ワークショップも、学習者に「〜たい」が生まれていて、作家のコミュニティの中で学んでいれば、プロジェクト的な学びと言えるのでは?知らんけど(関西弁)。

 

□学習に参加することを通して、全人的な意味で「なってよかった自分になる」こと。
→佐伯胖先生の講演がヒントに。結局、なんらかの変化が自分(たち)の中に起き、新しいわたしになるということなんだ。調べ学習程度ではそうならない。

 

□結果として指導要領に示された学習目標や内容に焦点があたること
→が、気にしすぎるとしょぼくなる。学びは学習者自身のためのもの。

 

□具体的な成果物があること
→これは意見分かれるかもね。成果物をどう定義するか。

 

□学習者も伴走する大人も、意味を感じワクワクすること。
→没頭できていない時点で、プロセスが苦しくても意義を感じていない時点でそれはプロジェクトとは言えない。よい学びは年齢を問わない。

 

□コミュニティのメンバーで協同的に学ぶこと。その学びに関わる人同士が協同探究者になること。
→相互作用ぬきにはよりよい探究にはならない!ぐらいに思うわけ。

 

□「何のためにやっているか」を学習者が明確に説明できること
→自分ごとになっているかどうかが、これで明確になる。もっと言えば、「説明したくなる」。学びは学習者自身のもの(2回目)。

 

□プロセスを丸投げしないこと、 

→特に初期は丁寧なプロセスのサポートが必要。時には構成的に手厚く。これが意外とわかっていないで、任せるという名の丸投げほど無責任なことはない。

 

□学習者により、プロセスに分岐があること

 →一本道に行くわけない。

 

(おまけ □ICTの文具的利用。→年齢によるが、もうこれは当たり前にしなくては。)

 

と、思いつくままに。

まだ続く予定。(ご意見も募集中!)

今回は自分のノーミソの中を整理するために、精査はしていません。これから軽井沢風越学園の実践のプロセスで検証していこう。

そうそう。

以前、私が6年生を担任していた頃、近くの幼稚園の年長さんが学校に来ることになりました。その1日、「学校体験」を6年生が担当することになりました。
これだけではプロジェクトたりえません。

事前に幼稚園児に「6年生に聞いてみたいことはありますか」と私から幼稚園の先生に聞いてみることをお願いしました。

その中で届いた問い。
「なんで学校に行くの?」
「何で勉強するの?」。

この問いが、探究を駆動させる質問となりました。
これに応えるとはどういうことか?

6年生は燃えました。これに応えるのは難しい!
質問への回答を探究する中で、「学校体験をどうデザインすれば良いのか?」という次の問も生まれました。次々に問いが生まれるのですよね。
さて、これはプロジェクトと言えるでしょうか?

少なくとも、この問いに対して本気になっていたのは間違いありません。ちなみにその時の幼稚園児は小6になりました。1人はうちの娘っす。


以下は、そのプロセスで生まれた一旦の回答です。
この回答を書いた人、今は大学生。
先日、私がファシリテーターとして行った「学級経営講座」に参加してくれてました。
卒業以来の再会。なんともうれしかったなあ。
今ならこの問いに何と応えるだろう?

 


★「なんで学校にいくの」「なんで勉強するの?」
みんなの質問に答えるね。 まず、1つめの質問! 『なんで学校に行くの?』は,学校ではみんなと同じくらいの子が集まって学校に行くんだ〜。教室には30人くらいのお友達が集まって算数とか国語とかいろいろお勉強するんだ!!
学校にどうしていくの?って思った? うちもそう思った事あるよ!!
でも、家でさあ、自分が一人で勉強してわからないところがあって、お父さんもお母さんもいなくておねえちゃんやおにいちゃんもいなくて、一人だったらどうする?? そうそう、こまっちゃうよね。だから学校に来るんだ!
学校には自分以外にだいたい30人くらいいるから、誰かは自分にぴったりの教え方ができる人がいるはずだし、先生もいるよ! だから分からないことがあったらお友達や先生に聞くとわかりやすくできるよね! 自分にも聞かれて知っていることだったら教えてあげられるよね。 そんなことを難しくいくと、
「学び合う」っていうんだ!! 学び合いをすると分からないことでもちゃんと聞けるし、 自分も教えられるんだ。 私は算数があまり得意じゃなかったんだけど、 5年生の時からその学び合いをして今は苦手ではなくなっているよ! それに教えられると先生になったつもりで少し楽しい!! それに教えてみると自分も分からないところが見つかったり、 分かってもらえるように考えると自分もカシコクなれるよ!

人にはそれぞれ得意なものと苦手なものがあるんだ。 例えば、みんなが知っている人に,こんな人と似ている人はいないかな? 外で遊ぶのが大好きで、劇とかでもいつも目立ちたい人っている?? そうそう、いるよね。じゃあこんな人は? 折り紙とかが好きで,いつもおとなしい子っている? おーいるんだ!! そう、人って得意なものと苦手なものが違うよね。

外で遊ぶのが好きなAくんはみんなの前でおどるのとか得意そうだよね。 折り紙とか好きなCさんは折り紙が得意そうだね。 外で遊ぶのが好きなAくんは折り紙は苦手そうだね。うんうん。 人にはこんな風に得意なものと苦手なものがあるんだ。 もちろんみんな1人1人にあるよ。全員が持っていることなんだ。 自分が得意なことってなに?へえ〜すごいな〜。

じゃあ反対にみんなが苦手なことは? あ〜私はおばけと英語〜。そうそう私たち一人ひとりにあったよね。 でもみんなバラバラじゃなかった? 得意なものは同じでも苦手なことはちがうとか・・・。うん!!

バラバラでいいんだよ!おたがい“サポート”しあえばいいんだよ。 おりがみをするのが好きなCさんは、 外で遊ぶのが好きなAくんに折り紙のつくりかたとか教えてあげればいいでしょ? そういって一人ひとりサポートしあうんだ〜! 今みんなが得意で出したものの中に, 他のお友達が苦手っていうのがあるかもしれないね。 そんなときは教えてあげよう! そうしたら、自分が苦手って思うことを助けてくれるよ!!

学び合うのも同じ! 算数が得意な人は苦手な人に教えてあげられればいいよね。 そうやってみんなで協力していくために学校にくるんだ。 もちろん、休み時間とかお友達と仲良く遊ぶのも大事だよ! どう?楽しみになってきた? そっかー!ありがとう(^_^)v


じゃあ2つめの質問! 「何で勉強するの?」勉強好きな人〜?キライな人〜? そっかーキライな人もいるよね。 そんな人にとっては勉強なんてめんどくさーい!みたいな感じ? うんうん・・・私も4年生のころそうだったな〜。 一応宿題とかはやっていたけど−。
じゃ・・もう1問聞いてもい? 学校に行くと毎日宿題がある先生もいるんだけど 宿題はその日やったことを先生が決めて必ずやらないといけないんだ。
やらないと怒られるぞ〜。 そんな宿題が楽しみな人?やだな〜って思っている人? うんうん、私もちょーやだったよ! 宿題が「ない!!」っていうとヤッターって行って友達と必ず遊んでいたぐらい。 でも・・・・そんなときにいいのは「自主学習」です。
まあ、『自立学習』ってみんなは呼んでね。(私もそう呼んでまーす!) 自立学習っていうのは毎日やることを自分で決めてやる学習のことなんだ!

え?無理って?? そんなことないよ! 自分が算数苦手だなーって思ったら算数の予習とか復習をやればOK! 1年生は10分程度が目安かな? 学年×10分だから私は60分なんだけどね。

自分の好きなことだから勉強系のバッチリメニューが入っていればOK!! あとは自分の好きなことについて調べたりするワクワクメニューを入れると 楽しく続けられるよ。どう?

少し楽しみに宿題がなった? 宿題と自主学習をやれるといいね! あと習い事とか急にお腹が痛くなったーっていう時はお休みOKなんだ! でも目安は週2回まで。 自分のための学習が『自立学習』 だからね。 自分にキビシクやるのがポイント!

でも1番のポイントは楽しくやること!だな! 宿題も勉強なんだけど勉強する理由は みんなが大人になって困らないためにだからだよ。

じゃ、例えばお菓子を買いにスーパーに来ています。 グミとチョコとポテトチップスを買いたいときにいくらかかるかとか、 お金はどう出せばいいだろうとかで、困るよね。
それに今私が書いているようにひらがなと漢字も書けないとこまるよね。 だから学校でで勉強して将来みんなが大人になって困らないようにするためなんだ。

だから大切なんだよ。 学び合いとか自立学習とか、 ちょっと工夫するだけで勉強がすごく楽しくて自分がカシコクなれることがたくさんあるからみんなもやってみてね。 学校は新しいお友達もできるし、 先生もやさしいし、 困ったことがあったらお兄さんお姉さんに聞けば大丈夫だし。

運動会とか行事もすごく楽しいよ! なにからなにまですっごい楽しいのが小学校! つらいこともあるかもしれないけど自分を成長させるチャンスだと思って乗り越えてね! 大丈夫。みんななら。 困ったらとなりの中学校に私がいるからいつでも言ってね。 絶対に助けるからね。じゃあ、約束しよっか。 せーの。ゆびきりげんまんうそついたらはり千本のーます!指切った! 約束!

これで質問に答えられたかな?みんなが小学校楽しみ! っていってくれたら質問に答えられたんだなー。って思っています。 最後に1年生になるみんな! 自分の夢を信じて進んで下さい。 じゃーまったねー!ばいばーい!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


校舎、もう直ぐ完成!

 

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「ああ、この感じかあ」の力

例えば、ステキな作品に出会ったとき。ステキな実践に出会ったとき。
「どうやってつくったんだろう?」
「どうやればいいんだろう?」
という方法の問いを立ててしまいがち。
そのときに作品や実践はコピーの対象になるのだろうか。

例えば、
「何が起きているんだろう」
「何を大切にしているんだろう」
「どこからきたんだろう」
「どこへいくんだろう」
「なぜこうなったのだろう」
「なぜわたしの心は動いたんだろう」
という問いを立ててみると何が見えてくるのだろう。

作品や実践を言葉で説明しようとすることで
言葉で理解しようとすることで
失われることはなんだろうか。

ぼくは「ああ、この感じかぁ」と
空気感が感じられる、
五感が大事にされる、
質感が大事にされる、
そんな場をつくっていきたい。
人の持っている
「ああ、この感じかぁ」の力をぼくは信じている。

言葉を大切にしつつ、
言葉を手放していきたい。
ぼくのしたいことはつまりそういうことです。

おやすみなさい。

早く目が覚めてしまったので、幼小のつながりのメモを整理してみる。

昨日は、準備財団が運営している認可外保育「かぜあそび」にいってきました。楽しかった−。遊び浸っている子どもたち。豊かな時間だ。

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半日だったのにヘトヘトになった。保育士ってすごい・・・・こんなところです↓

kazakoshi.jp

疲れているはずのに、明け方4時半くらいに目が覚める。そして二度寝ができない(老化?・・涙)。

眠れないので、これまで書いたきたことを再編集し、明け方うつらうつらと考えたことを加筆し,一気にメモしてみました。


幼小のつながりを考えるとき、小学校側が

「いかに学校文化にスムーズに移行させるか」

という問いを立てると、たいていつまらないことになってしまいます。
「グーピタピン」とか、「筆箱の置く位置は」とか、「1の声、2の声」とかいう話になってしまうわけです。

何度か書いてきましたが、
「良質の幼児教育を継続する形で小学校教育をリデザインしたら?」
という問いを立てて考えたい。

学校文化への移行を目指してしまうと、「いかに45分間座らせるか」ということが「課題」として立ちあがってしまいます。大きな声で返事、指名されるまでしゃべらないという「スキルをいかに身につけるか」に一生懸命になってしまうのです。
子どもにとっては,ある日突然、自分が暮らす世界のルールが変わってしまう。これは子どもの育ちの問題ではなく大人の側の問題、制度の問題です。

小1プロブレムに内実は、小学校が自分たちの文化に疑いを持たず、教員の「教えやすさ」を優先させて、「学校のお作法」を教えることの優先順位を上げてしまっているからではないでしょうか?
我が家の次女は、遊ぶことを大切にする保育園を卒園し、小学校に入学したとき、
「学校ってずっと座ってるんだよ」
「手は膝の上に置かなくちゃいけないんだって」
「どんなに晴れていても、教室の中にいるんだよ」
「遊ぶ時間は20分しかないんだよ」
と不思議そうに報告してくれました。
ある日を境に、文化が180度変わる。
ある日を境に、「動き回る」から「座り続ける」に。
ある日を境に、「あそぶ」から「勉強する」に。
ギャップを感じる方が自然です。

どうすれば一貫した環境をつくれるか。
この問題は、新学習指導要領でもしっかり書かれています。画期的。

小学校学習指導要領 第1章総則
第3 教育課程の役割と編成等  4 学校段階間の接続
 ⑴幼児期の終わりまでに育ってほしい姿を踏まえた指導を工夫することにより、幼稚園教育要領に基づく幼児期の教育を通して育まれた資質・能力を踏まえて教育活動を実施し、児童が主体的に自己を発揮しながら学びに向かうことが可能になるようにすること。また低学年における教育全体において、例えば生活科において育成する自立し生活を豊かにしていくための資質・能力が、他教科等の学習においても生かされるようにするなど、教科間の関連を積極的に図り、幼児期の教育及び中学年以降の教育との円滑な接続が図られるように工夫すること。特に、小学校入学当初においては、各教科等における学習に円滑に接続されるよう、生活科を中心に、合科的・関連的な指導や、弾力的な時間割の設定など、指導の工夫や指導計画の作成を行うこと。

ちなみに上記の「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」とは、これです。

1. 健康な心と体
2. 自立心
3. 協同性
4. 道徳性・規範意識の芽生え
5. 社会生活との関わり
6. 思考力の芽生え
7. 自然との関わり・生命尊重
8. 数量・図形、文字等への関心・感覚
9. 言葉による伝え合い
10. 豊かな感性と表現

小学校特に低学年では、ゼロからのスタート、はっきり言えば赤ちゃん扱いのスタートをやめて、幼児期で身につけたこと・育まれたことを大切にしながら、その力が生かされる毎日を構想したい。

新幼稚園教育要領のポイントにも「小学校教育においては,生活科を中心としたスタートカリキュラムを学習指導要領に明確に位置付け,その中で,合科的・関連的な指導や短時間での学習などを含む授業時間や指導の工夫,環境構成等の工夫も行いながら,幼児期に総合的に育まれた資質・能力や,子供たちの成長を,各教科等の特質に応じた学びにつなげていくことが求められる。」と書かれています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shisetu/044/001/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2017/08/28/1394385_003.pdf

リザインする根拠として学習指導要領を指し示せる状況なのです。

では具体的にはどうするか?

まずは幼児期における「あそび」の重要性は改めて指摘したいところです。とはいえ、今話題の非認知能力。これを直接的に「教えよう!」というのはアプローチとしてやはり筋が悪いわけで、それは結果として育まれるもの。そのための芳醇な原体験は「遊び」の中にあります。それを保証せずして、なにが非認知能力だ、と思います。

ピーター・グレイは遊びの特徴を5つに要約しています。

1、遊びは、自己選択的で、自主的である
2、遊びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。
3、遊びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。
4、遊びは、想像的で、文字通りにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。
5、遊びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである

  

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

 

 

あそびの中で「幼児期・学童期はまずは直根を自分自身にしっかりと深く根ざすような体験の積み重ね」を大切にする。主は子ども自身です。そのためにお環境づくりが圧倒的に大切です。物理的な環境も大人の関わりも。

kazakoshi.jp

これが学びにつながっていくってどういうことでしょう?
先ほどの5つの特徴の「遊び」を「学び」に置き換えてみるとこんな感じになります。

1、学びは、自己選択的で、自主的である
2、学びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。
3、学びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。
4、学びは、想像的で、文字通りにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。
5、学びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである

うん、ぼくはしっくりきます。

このような視点で幼小のつながりを考え直してみたいとぼくは思うのです。

ピンポイントには,低学年教育をいかに変えていくかになるでしょう。
幼児期に大切に育まれてきた「〜したい」からあそびに没頭する経験の積み重ねは、ひとり一人の「学びに向かう力」につながっていくでしょう。

そのためには生活科を中心としたプロジェクトとしての活動の充実が鍵だと考えています。子どもの「〜したい」からはじまるあそびをつなぎ、プロジェクトとして発展させていく。その中で結果として教科の学びも起きるでしょう。そこで起きる結果としての教科の学びは、もしかしたら現状よりもレベルが上がるのではないかとさえ予想します(ここ大事)。

 

それも事前に目標として明示されるものではない。子どもにとってはあそびと学びの境目はないのです。没頭しているうちに、結果として成長していた!と後追い的に気づくものではないでしょうか。

本城が先ほどの記事で書いていますが、

子どもが育つにつれ、僕たちは何かができるようになってほしい、こんな力をつけてほしいと望むこともあります。でもそれよりも、自分はどんなことに幸せを感じるのかを自分自身で感じとれるようになってほしい。自分自身だけでなく、一緒に生活する仲間や、まだ出会ったことのない人々、目の前にはいない同じ地球に暮らしている生き物、いろいろな生命とともに幸せになるってどういうことだろう?と考えながら、育ってほしいなと感じています。そしてその時に、その「幸せ」は、誰かと比較して幸せかどうかではなく、そして時代や社会に飲み込まれることなく、自分自身のものさしで「幸せだな」と感じられるようになってほしいと思っています。

に共感します。そのような没頭する時間の積み重ねの中で、気づいたら「なってよかった自分(アイデンティティを確立する)」になっていた、という経験を積み重ねていくのだと思います(佐伯胖先生のお話より岩瀬解釈)。

 

生活だって自分たちでつくりますよ、幼児だって低学年だって。幼稚園や保育園では番を張っているわけです、年長児は。それがある日を境に、急に「なにもできない、かわいらしい1年生」となりま。入学式の入場も6年生と手をつないで。ちょっと前まで年少さんの手を引いていたというのに。6年生から逆算した存在として「面倒を見られる」存在となるのです。昨日まで「面倒を見る」頼れる存在だったかもしれないのに。

ぼくが初めて1年生を担任したとき、やはり「なにもできないんじゃないか」と正直不安になり、友人の幼稚園の先生に相談しました。もう遙か昔ですが・・・
「あのねー、年長さんとして園で『番を張っていた』んだから、何でも自分たちでできるの。朝の会だって司会も自分たちでやるし、給食の配膳だって、ケンカの仲裁だって、下の子の世話だってやってきてるの。なんでも任せてみてよ。失敗したっていいじゃない。そこから学ぶ力だってあるんだよ」
本当にありがたい助言でした。

実際1年生はまことに頼もしい存在でした。
給食の食缶を運ぶとき、Mくんが倒してしまって廊下がカレーだらけに・・・廊下中に広がったカレーから湯気が上がっているのを見て目眩がしたぼくはつい「なんで倒したの!」と言ってしまいました。するとKちゃんが、「先生、そんなことより片付けることが先でしょ」とぼくを諭しました。本当にその通り。みんなでカレーを拭く作業は、不謹慎だけれど、なんだかお祭りのようで楽しかった。その間に給食当番の子は食缶を持って他のクラスに、
「カレーこぼしちゃったんで少し分けてくださーい」と集めて歩いてくれてました。

 子どもをどんな存在として見るかで、アプローチは変わっていきます。

「子どもは自分のつくり手である」を根っこにおきたい。

 

ここまで書いてきたことは、まっすぐ小学3年生以降につながっていきます。

ライフロングキンダーガーデン。

ライフロング・キンダーガーテン 創造的思考力を育む4つの原則

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さらには「教科の見方・考え方といわれる本質へもつながっていくはずです。ここは大人のの腕の見せ所でもありますね。がむばろう。

 

最後に、改めて「あそび」について。昨日、同僚の甲斐﨑(KAI)と話していたのですが、彼の一言。「子どもにとってはさ、本を読むことも、書くことも,算数もあそびなんだよなー。思いっきりあそんでるんだよ。あそびを狭く捉えちゃダメなんだよ」うん、同意です。ライブラリーでたっぷりあそぶ、書くことをあそぶ。あそびを限定的に捉えないことが大事だなあ。さすがKAI。

さて、二度寝しようと思ったのに目がさらにさえてしまった・・・・

 

 

視点と視野と視座のお話。

過去のメモを整理していたら、3年前に大学院を退職すると決めたときに、院生の皆さんに授業で話したことが出てきた。

ブログの下書きにメモしたまま放置してあったのを発見。

今とは考えも違ってきているけど、せっかく見つけたので載せておきます。

 

           *  *  *

 

ぼくは小学校の教員を22年間務めた後、東京学芸大学教職大学院で実務家教員として働くことになりました。3年間,教員養成にどっぷり関わり、教員養成で起きていることがずいぶんわかってきました。中に入ってみなくてはわからないことばかりでした。

 

「せんせいになっていくこと」。

簡単なようで本当に難しい。日本ではようやく教師教育学に関心が集まってきているところ。まだまだ発展途上なのが現状です。

 

先日、6人の教員で担当している「カリキュラムデザイン・授業研究演習」の授業で、学卒1年生の皆さんに、一人ずつお話ししたこと。それは「視点・視野・視座を意識して残り1年を過ごしてほしい」ということでした。

 

まずは視点。ついぼくたちは授業参観に行くと先生にフォーカスしてしまいます。
どんな授業展開を準備したのか、どんな教材なのか、先生が何を話すのか,どんな発問か、どんな振る舞いか,どう子どもの意見をつなぐのか,板書は・・・等々。
教室の後ろに貼り付いて、学習者の後頭部を見ながら,つい先生にフォーカスする。この参観の仕方に表れています。

 これまでの日本の授業は、京都大学の石井英真さんのいう、教師に導かれた創造的な一斉授業(練り上げ型授業)による知識発見学習、に価値が置かれてきたので、ついぼくたちはその授業の主たる先生に視点を置いてしまいがちです。
その場合、30人の学習者を「この学級」「子どもたち」「みんな」とあたかも1つの固まりとしてみてしまいがちでもあります。一人の発表を板書して「みんなが言ってくれたように」と先生が受けて授業を続けていくのはその典型です(本当によく出合います)。

 

本来学習者は多様です。
「子どもたち」ではなく、ひとり一人全く違うのです。
前時までのことが全員わかっているという前提で本時が組み立てられますが、これは多くの人が気づいているようにフィクションにすぎません。

前時までのことがとっくにわかっている人、今日の内容がピッタリの人、とっくにわかっていて「またかよ」と思っている人、30人30様なのです。さらにいえば、先生に説明されるとわかりやすい人、一人でウンウン考えたい人、他の人と話したり学び合うことで理解が進む人、何度も説明を聞きたい人、読んだ方がわかりやすい人、手を動かして考えたい人等々、自分にピッタリな学び方も多様です。
さらにさらにいえば、わかるペースも人によって違う。
考えて見れば当たり前のことばかりです。

学習者ひとり一人を見る「視点」を磨きましょう。

その授業の中でひとり一人の中に何が起こっているでしょうか。その子は何を感じ、何を考えているでしょうか。その子のニーズ、したいことはなんでしょうか。
一人にグッとよっていく視点を持ちたい、磨いていきたい、そう思います。
学習者理解こそが、この仕事の第一歩だと思うのです。それなくして,発問も板書もヘチマもないと思うのです。対話型模擬授業検討会でトレーニングしてきたことの中の大きな一つは、個の「学習者視点を磨く」に他なりません。

ci.nii.ac.jp

さらに言えば、「学習者になってみる」ことで、この視点は磨かれていくと思います。

大学院の授業で,新しい学習理論や学び方に出合ったと思いますが、頭ではわかってもなかなか腹落ちしにくい。これは現場の教員も同様です。なぜか。

それは、ぼくらには、1万数千時間に及ぶ「被学習者体験」があるからです。多くの人は、「座って聞く」「ノートに写す」という一斉授業を受け続けてきています。言わば徒弟として個の学び方に弟子入りし続けてきているのです。自分でも気づかないほど、この授業観が身体化している可能性が高い。

ですから、「せんせい」として前に立つと、学んできたことが吹っ飛んで「自分が受けてきた授業」を再現しがちです。

「頭ではわかっているけれどハラオチしてない」というのはなかなかやっかいです。

どうすればよいか。

学習者として体験し直すことです。状況に学び手として飛び込んでみることです。自身がプロジェクトベースで学んでみる。学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合で学んでみる。さまざまな学びの場(学校外の学びの場を強くお薦めします)に足を運び、学び手としての自分の変化を味わってみる(省察)。

学び手としての自分の変化に敏感になることで、学習者を理解する視点が少しずつ磨かれていくのではないでしょうか。

ぼくもまだ途上。たくさんの学びの場に足を運びたいと思います。

 

 

次に視座。

これは理論です。

これは端的に中原淳さんがまとめてくださっています。

 

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 実務家が必要としている「理論」とは何か?: 「実践」と「理論」のあいだの「死の谷」を超えて!?

「理論にインスパイアされた眼鏡」は、実務家の方々が、おかけになると、Real Worldにある現象A、現象Bが、さらによく見えるのです。

 

理論を学ぶと,自分の中にメガネができます。

中にいるだけでは見えなかったこと、理解できなかった現象がよくみえるようになってきます。視座があがるわけです。

そのために理論を学ぶこと、これは必須です。

iwasen.hatenablog.com

 ぼくはコルトハーヘンの『教師教育学』に出合って、見え方がずいぶん変わりました。3年かかってようやくですし、まだわかってないことも多々ありますが…

 

「経験オールオッケー!」

「現場はそんなにあまかねーんだよ!」

などとならないために、自己強化にはまらないために、視座をあげるために理論を学びましょう。今ならじっくり本が読めるでしょう。他の院生と議論、対話ができます。

これ以上ない貴重な時間です。

徹底的に歯ごたえのある本に挑んでほしいと思います。経験だけでやれるほど,実は現場はあまかねーわけです。

このメガネを獲得して、現場に戻ってぐわーーっと実践を進化させていく現職院生の方々がいるのは本当に心強い限りです。今でも繋がって自主ゼミが続いていたり、校内研究のお手伝いをさせていただいたり,学びの場でご一緒したりと嬉しいつながりが続いています。視座をあげる体験。実務家ほど大事。

 

とはいえ、理論ファースト、エビデンスファーストになりすぎないように。理論から,エビデンスから実践を組み立てるを繰り返していくと,いつの間にか実践は,学習者から乖離したしょうもないものになります。

新しい理論やエビデンスは,新しい実践から生まれてきます。実践者を目指すならその志を持ち続けましょう。

 

 

最後に視野。

たくさんの場に足を運びましょう。見てみなくてはわかりません。そこに行かなくては感じられないことが確かにあります。ぼくは学生時代に恩師、平野朝久先生が主催してくださっていたバスツアーで、長野県伊那市立伊那小学校、長野県諏訪市立高島小学校、奈良女子大学附属小学校、神戸大学附属明石小学校等々、当時の先進的な実践に触れることができました。「学校でこんなことができるのか!」という驚きは,今も自分を支えてくれている体験です。

愛知県東浦町立緒川小学校の当時の実践は衝撃的でした。1980年代に学習の個別化に挑んでいたのですから!子どもが好きな場所で自分のペースで学んでいました。

31才の時に長期研修で東京学芸大に戻って来たときには、学校外の大人の学びの場に足を運び続けました。中野民夫さんの『ワークショップ』が発刊され,ワークショップ黎明期で熱を帯びていた時代です(2002年頃)。中野さんのワークに出たり、演劇のワークショップ、まちづくりのワークショップ、国際理解のワークショップ、紛争解決のワークショップ等々、ほんとうにいろいろなワークショップに参加しました。PAにであったのもその頃。

そこでのぼくの学習者体験で、

「学校教育のことを考える時に,学校教育のことだけ見ていては見えなくなる。広く社会で行われている学びを視野に入れよう」

という核心にいたりました。

「よい学びは年齢を問わない」というコンセプトが自分の中に立ったのもこの頃です。

さまざまな場にいき、視野を広げて、あらためて学校教育を眺めてみると、いろんなものが見えてくるはずです。ぼくらが「知っている」学校教育は、ほんのほんの一部です。視野が狭いと、自身の体験や実践を絶対視しすぎてしまいます。

 

今、院生の皆さんが、全国あちこちに参観に行ったり、ワークショップに参加したり、参観先で「対話型授業検討会」で授業者と対話を深めたり、読書会をしたり、放課後(?)に長々と議論をしたり、研究室に押しかけてくれて対話したりしていることは、視野が広がり,視座があがり、視点ができているからこそ起きている学びの姿だと感じています。

実践コミュニティが立ちあがってきているのですよね。

この姿が,この現象が、あちこちの小学校、中学校、高校の学習者の中に、職員室の中に起きてきたら、この国の教育はぐぐっと前に進むのではないか、そんな気がします。

よい学びは年齢を問わないと思うんです。

 

今、学校教育は変化の時です。

「視点×視座×視野」になることを目指したいなあとおもいます。かけ算だから、どれか一つが0だと答えも0。

なぜこの3つが大切なのか。

それは、これから先生になるにあたって、最も重要なことの一つは、「今の学校教育における前提の問い直し」だからです。現状の縮小再生産にならないためにも、前提にとらわれることなく、これからの教育を描いていく人になってほしい。心から願っています。

そのためにも学びましょう。本を嫌になるくらい読みましょう。たくさん場に出ましょう。人に出会いましょう。多様な人と対話を重ねましょう。

 

 そして最後に。

なにより、ぼくら自身が学ぶこと,変化することを楽しむこと。

これにつきます。

これからも、ともにおもしろがっていきましょう!

楽しくない学びなんて学びじゃないもの。

 

よく考えたら、ぼく自身がこの3年間、教員養成・教師教育学という場に立つことで視野が広がり、視座が上がり、視点が磨かれたのだなあ。現場の感覚はものすごく鈍ったたなあと思いますが・・・・・・さて、新たな現場で新たな実践を紡いでいきます。

「先生はねー」と自分を先生と呼んじゃう問題。

「先生の方を向いてください。」
「先生はね、」
学校の先生の多くはなぜ自分のことを「私」とは言わずに「先生」と呼ぶのでしょうか。
さらには、大人同士でお互いのことを「◯◯先生!」と呼ぶのも普通だったりする。

かつて企業に勤めている友人にも、
「お互いを先生と呼び合ったり、自分のことを先生っていうのって変だなって思わないの?」と突っ込まれたことがあります。

うん、本当に変だよね。

そもそも日本語の特性として、役割を一人称に使うということはあります。特に家族は多い。「お母さんはね〜」とか、「じいちゃんはな〜」とか。
でも今回はそれは置いておきます。

 

自分のことを先生と呼ぶこと、お互いを先生と呼び合うことで何が起きているか。
おそらく「役割スイッチ」が入るのではないでしょうか。
自分は先生なんだ!と自分に言い聞かせることで、「先生モード」に切り替わる。
先生という役割を演じ始める。

これはプラス面面もあるかもしれません。シャキッと仕事モードに切り替わるという意味では。
でも実はマイナス面が大きいのではないか。
学校の先生になるまでに1万数千時間の被教育体験、つまり生徒として先生と接し続ける体験を積み重ねています。その中で無意識に出来上がっていく先生という役割像。
膨大な経験から出来上がっている像なのでなかなか強力です。

意識としては「こんな先生になりたい!」という想いがあっても、自らを「先生」と呼ぶことで、お互いを「先生」と呼び合うことで、生徒に「先生」と呼ばれることで、この「無意識の先生像」を演じてしまうスイッチが入ってしまうのではないか、という仮説をたてています。
普段はすごいオモロイ人で、魅力的で、多趣味で、という友人も、一度教室に入ると、先生モードになって、マジメになって、話すトーンまで変わってしまうというのに驚いたことがあります。それでなかなかクラスが上手くいかなくなったりして、
「いつも通りの自然な感じでいれば、子どもとの関係も保護者との関係もうまくいくのに」と思わずアドバイスしちゃったりもしました。
でもそれがなかなか難しい。

つい真面目な先生という「役割スイッチ」が入ってしまう。無意識の中に眠っている「先生像」が顔を出して、それを目指して演じてしまう。
そういう側面もあるのではないかな。

自分のことを「わたしは」と呼ぶことから始めてみたらどうだろう?
まずは「わたし」として場にいること。役割は役割に過ぎないのだから。

お互いのことを「先生」と呼ぶのをやめてみる。
「〜さん」と呼ぶことから始めてみる。

ちなみにぼくは初任の頃から同僚を「〜さん」と呼ぶようにしていました。生意気にうつっていただろうなあと思ったりもしますが、続けてよかった。
廊下で「〜さん」と呼ぶと、子どもから「えー、先生って呼ばないんだ!」と囃されましたが、「だってぼくの先生じゃないしね」とサラリと。
(管理職には日和って「校長先生!」と呼んでましたが・・・・どんまい!)

もっと自由に、おもしろがって、自然な自分で、自分なりの先生像を試行錯誤してみてはどうでしょう?そのための小さな一歩は「わたし」からスタートすることではないかとやや強引に考えています。

 

そもそも自分やお互いのことを先生と呼ぶの、普通に考えて変だからね。

 

ちなみに、軽井沢風越学園設立準備財団では、お互いを「呼ばれたい名前」で呼び合っています。ニックネームの人もいれば、「◯◯さん」と名字の人も。
ぼくは「ゴリさん」です。無事開校した暁にはどうしようかなー

 

最近朝起きると、こんな感じで「なでて〜」と待っているうちの犬。。なんか猫みたい。

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校内研修を進めるのに一番大切なことって?

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秋が近づいてきたなあ。

 

先日、ある人に、
「(研究主任として)校内研修を進めるのに一番大切なことはなんですか?」
と聞かれました。

一番大切なことかあ、なんだろう。
大切なことはわからないけれど、一番覚えていることはこんなできごとでした。

 

それは研究主任になって2年目。
外部のワークショップやファシリテーションのトレーニングに積極的に出かけて行って、「学んだことを校内に活かすぞ!」と張り切っていました。2006年あたりでしょうか。研修の進め方をワークショップやファシリテーションで学んだことをもとにデザインし、われながら「先進的なことをやっている!」と自信満々でした。

実際の研修はどうだったかというと、興味を持ってくれる人と、抵抗を感じる人と半々といった感じ。一生懸命準備をしているのにノッてくれない人にいらだちを感じていました。熱烈に応援してくれる先輩いたものの、露骨に口を聞いてくれない人もいました。

なんだよ、こんなに一生懸命やってるのに。いつまで古いことにしがみついてんだよ。

 

ある日の飲み会のこと。
応援してくれていた先輩、Kさんと飲みながら研修の話になりました。
「これだけ準備してやってるんだから、もっと研修加速していいはずなんですけど、抵抗している人まだいるんですよね」
とグチを言った次の瞬間、それまでウンウンと聞いてくれたKさんは激怒しました。

 

「おまえなあ!おまえは自分が正解持ってると思ってるんだろう!自分が正しいことをやっている、自分は勉強している、自分は知ってる、とおもってるんだろう。確かに勉強してる。でもそうやって同僚を下に見てるんだろう!」

 

「そういうの出てるんだよ!」

 

「お前は人のために汗をかいているんじゃない。自分が可愛くて、自分のために汗かいているんだ!そんな奴に誰もついていかない。

お前が口を聞いてくれないといった◯さん見てみろよ!あの人は自分の仕事じゃないのに毎朝早く来て、校庭にライン引いてるんだよ。おまえ知らないだろう! みんな人のために汗かいている人がいて、そうやって学校は成り立ってんだよ。

お前みたいな自分のためにしか汗かけない奴に誰もついていかないんだよ!

人は、何を言っているかではなく、誰が言っているか、で動くんだよ!」

 

おおよそこんな話でした。
それまで賑やかだった居酒屋の和室はシーンと静まりかえりました。
もう15年も前の話ですが、今もこのシーン、そのときの空気を鮮明に残っています。

ぼくはKさんにあれこれ言い訳を重ねました。

その後先輩たちが慰めに来てくれました。

 

でも自分が一番わかっていました。その通りだと。
Kさんの言った通りだった。それが毛穴から出ていた。

学校のために、全校の子どものために、なんてお題目であって、そこまで考えていなかった。

自分のために研究主任をやっていた。

恥ずかしいぐらいその通りだった。

 

このあと狭山市の駅前で、明け方まで泣きながらKさんと話しました。
いや、説教されてました。
途中、酔っ払った指導主事が通りかかって「おまえらなんで駅前で泣きながら話してんだ」と言われたなあ、そういえば。

 

この後紆余曲折あり校内研修は進んでいきました。ぼくも少しずつではあったけれど変化できたはず。

教室でのあり方も少しずつ変わったはず。

他者と真剣に向き合うってどういうことか。

遅きに失しましたが、その試行錯誤と探究が始まりました。

きっとそれが怖かったのだと、今振り返ると思います。

 

この出来事が、ぼくのその後の根っこになってます。
人の根っこって、常に美しい、輝かしいものではない。
でも、ぼく自身に自分を発見させてくれた出来事。
思い出して嬉しい「根っこ」ではなく、思い出すたびに胸の奥がググッと苦しくなる。
この出来事でちょっとだけ進んだ自己理解が、今もぼくを支えてくれています。

今自分はどういるか、を思い出すアンカーのような役割を果たしてくれている。

情けないことに今もなお克服できていないけど・・・

 

 

「(研究主任として)校内研修を進めるのに一番大切なことはなんですか?」
の解なんてないんだよな。
どう進めるか?(方法)とか、どんな研修を?(内容)とか、その目的は?の前に、そこにいるわたしはどういるのか?を繰り返し繰り返し振り返ることしかできないのかもしれない。

劇的にうまくいく方法!なんてないんだよな。

ごめんなさい、なんのヒントにもならない話しかその方にはできなかった。

 

Kさん、今近くの学校で校長先生をされているそう。
ひさびさに説教されに行こう。

 

とはいえ、自身の「やりたい!」もとても大切で、それを手放そうという話ではないんだよな、と蛇足的に。

自分モードは圧倒的な原動力なので。

異質な人と船をこぐ。

幾多の失敗を経験して確信した大切なこと。

 

考え方を共有する同僚だけではなく、そうではない(と思われる)同僚と話し、一緒に仕事をし、時にはサポートや助言を求めること。

 

同じ考え方だから信頼する、のではなくて、
同じ船に乗っているけれど異質である他者と、
一緒に船をこいでみること。そして一緒に変化すること。

それが自分と組織の変化に大切なこと。

 

言うはやすし、横山はやすし。
何度も悩み、苦しみ、怒られ、ケンカし、
そしてようやく肚落ちしたなあ。

 

そう思うと、「月曜日に行きたくなる職員室」をテーマに研究した堀兼小での6年、うち研究主任4年は、ぼくが大きく変化した時間だった。


過日、その堀兼小の時に、それこそ一緒に船をこいだ先輩と駅でばったり出会って、いつものように「おお、いわせさーん!!」とハグしあったときに、いつものように思い出したんだ。

今はすげー仲良しだけど、最初1年は口聞いてくれず、次の年半年はずっと「そんな研究主任じゃダメだよ岩瀬さん!!」と怒られ続けていたっけ。厳しい先輩だった。

でもきっとそれがあったから、
それでもあきらめなかったから、
お互いちゃんとぶつかったから、
共に成長できたんだなあと思う。

変わるべきはぼくだったということに気づけた。

 

自分のいる場を諦めたらそこで試合終了。
諦めなくてよかった。

 

その後、一緒に外の研修会にも行くようになったもんなあ。今も毎年ぼくが地元でやっているパパママ講座のお手伝いもしてくれる。定年されて何年もたつけれど、あのとき以上にパワフルでやさしい。

 

彼女もぼくも変わった。

人には力がある。
変化の種は、常に自分の手元にある。

 

わかっているけど、くじけそうになるときもあるよね。
人間だもの。

 

でも、このような「異質な人と船を漕いで同志になる体験」は残りの人生を支えてくれる。

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