いわせんの仕事部屋

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自動化と無能化

今日は横浜の「りんごの木」の参観。早く家を出たら、ずいぶん早くついちゃったので、カフェで朝ごはん食べながら、心に綴り行く由無し事を。


去年の秋にスバルのインプレッサに乗り換えました。中古です。

 

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 かっこいい。この車、「アイサイト」という機能が付いていてこれがなかなか便利。

前の車に一定の車間距離でついて行ってくれたり、線からはみ出すと「はみ出し注意!」という文字とともに警告音が鳴ったり、前に近づきすぎると「前方注意!」という文字とともに警告音が鳴り、自動ブレーキもついてる。運転者はハンドル操作だけしてればいいというわけです。安全安全。特に高速道路は本当に楽で、ちょっとした渋滞でも、前の車にゆるゆるついて行ってくれるので以前よりずっとストレスがなくなりました。

 


最近軽井沢に通う機会が多く、片道120キロぐらいあるんだけれど、距離ほど負担を感じなくなりました。運転アシスト機能万歳!この車にして本当によかった。

 


で。妻はステップワゴンに乗っているわけですが、先日、家族でちょっと遠くのイオンまで高速に乗って買い物に出かけたときのこと。

久々にステップワゴンを運転。

「あー、運転感覚随分違うなー。ふんふん♩」

なんて運転していたら助手席の妻から一言。

「あなた、車の運転下手になったんじゃない?」

曰く、ブレーキを踏むのが遅くなったし、なんかフラフラしている感じがすると。やたらよそ見をするようになったと。

むむむ。自覚は全くなかったのですが、しばらく運転していると「やっぱり下手になってる。乗ってて怖い!注意が散漫!」

どうやらこの半年で本当に下手になったようだ。

「自動運転に慣れすぎてるんじゃない?」と妻。

いや自動運転じゃないんだけど、という無意味なツッコミは飲み込んで、言われて見るとそうかもしれない。車が注意してくれているから、ちょっとずつそこへの信頼(という名の依存)が生まれて、ぼーっと運転しているのかも。言われてみれば以前ほど気をつけて運転していないなあ。時速も調整してくれるのでアクセルに注意しなくていいし、はみ出しそうになると教えてくれるし。やたら景色を見る余裕が出た気もする。

その機能がない車に乗ったときに、つまり自分の能力で運転しなくてはならなくなったときに、使わずに退化した能力を突きつけられたわけです。


いやあ、おそるべし運転アシスト機能。そういえばナビを使うようになってから、色々な場所での地理感覚や方向感覚もかなり鈍ってるな。

 


そういえば似たような心当たりはまだあるぞ。

我が家は共働きで、子育て3人をしながらのバタバタ生活を長らくしていたので、晩御飯は食材宅配サービスの「ヨシ◯イ」を愛用していました。仕事場を飛び出し、学童にお迎えに行って家に帰ると、今日の夕食分の食材が届いている。食材によってはもうすでに切ってある。

あとは付いてくるレシピ通りに作れば、30分〜40分で夕食が出来上がり。そこそこ美味しくて、栄養バランスにも配慮が行き届いている。

 


我が家はこのヨシ◯イのサービスにどれだけ助けられたか。買い物の時間も調理の時間も短縮できてほんとうに助けられました。ありがとうヨシ◯イ。

妻と交代交代しながら、10年近く晩御飯作りに勤しんできました。家に帰ってテキパキ料理してました。それを続けたらさぞかし料理上手になったと思われることでしょう。

それが全然できるようになってないのだ!!悲しいことに。

 


毎日ひたすらレシピに書いている通りに作っているだけで、何故ここでこの調味料を使うのかよくわからない。書いてある分量通りに「大さじ1と3分の1か」と機械的に入れるだけ。「味付けは大体これくらいだな」とか、「ちょっと味が薄い気がするから調整しよう」とか全然応用が利かないのです。なぜ今日、この調味料を使うのか、なんて考えないので、味付け力が身につかない。。

「食材も測られて、必要な分だけ送られてくる」ので、どの料理に何が必要なのかが全然学ばれていかない。時々一念発起して、今日は買い物してご飯を作ろう!と思っても、「八宝菜に必要な材料は◯◯だから、買い物してこよう」という知恵が身についていない。レシピが必要なのです、レシピが。

なんで中火なのかわからない。強火じゃだめなの?なんて疑う事もなく、書かれている通り中火にするだけ。でも美味しいのができるのです。だから10年間困ったことはありませんでした。

 


そして今、はたと気付くのです。10年も料理を続けてきて、何もできるようになっていない、と。手際だけはよくなりました。包丁使いも上手。

でもレシピがないとだめなのです。食材を選んでもらわないとだめなのです。10年も時間を割いてきたのに、自分のノーミソを使ってこなかったばかりに・・・・・・・応用できない。

そのサービスを手放した今、つまり自分の能力で料理しなくてはならなくなったときに、使わずに伸びなかった能力を突きつけられたわけです。


もっと積極的にこのサービスを活用していればこうはならなかったはず。美味しい料理を作れるようになったはず。意識して自分の「料理力」につなげる方法はあったはずです。勿体無いことしたなあ。

 


個別最適化してくれるサービス、痒いところに手が届き、自動でやってくれるサービスが、人の力を無能化する。

これって気をつけないと、これからの学校教育にも起きかねない。

例えば個別最適化された学習。

「個別最適な問題を自動で選んでくれてその問題を解いていったらできるようになっていく!という学び方」にも同じことが起きる可能性がありそう。自分で自分の学びをデザインしたり、振り返って改善したり、ができなくなる危険性がありそう。

口を開けて最適を待つ子を育てかねない。

このあたりは慎重に考えていく必要があるな、と妻からの叱責から思い至ったわけです。

 

とはいえ、今日は早朝から横浜まで長距離ドライブだったので、運転アシストに助けられてラクラクでしたー。一度知るとやめられません……

中年やベテランのぼくらは若手の先生とどう付き合っていくのか。

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6月に5泊6日のインタビューのワークショップにいってきました。

とても味わい深い時間だった。これからの足場になる時間でした。がんばって行ってよかった。

 

さて。

若い若いと思っていたぼくも,先日誕生日が来て48才。もう立派すぎるオジサンです。今までのように普通にフィードバックしていても、いつのまにか「ベテランに意見された・・・」と相手を萎縮させてしまうことも(涙)。自身の加齢と位置の変化を感じずにはいられません。

そんなぼくらは、若い方々とどう付き合っていけばよいのでしょうか。以前にある教育雑誌に書いた雑文をリライトして載せてみます。

 

若年化が進む学校現場

 団塊世代の大量定年退職によって、学校現場では若い先生が増えています。ある市ではなんと毎年1000人規模で初任者が増えているそうです。学校を支えるミドル層(30・40代)が極端に少なく、大量の20代と50代といういびつな年齢構成になっている学校も少なくありません。今は都市部が中心ですが、これから地方にも同じ波がやってくるでしょう。大都市ではすでに担任の半分が20代なんていうことも起きています。教員経験5年未満で学年主任、なんてこともあるのです。

 そんな中、ぼくたちはどのように若い先生の成長を支援すればよいのでしょうか。ここで考えたいことは「成長」は何も若い先生の問題だけではないということです。30〜40才の時期、つまり中堅(ミドル)の教員にとっても、まさに伸び盛りのとき。さまざまな経験を重ねてくる中で、さらに実践が変わっていくときです。僕も30代後半から実践にイノベーションが起きました。
「若手の育成よりも、自分の成長のほうが先だ!」
「まだまだ自分の成長で精いっぱいで、若手の成長の支援どころじゃない」
「自分だって、まだ若手(のつもり)!」
なんて声も聞こえてきます。
確かにまだまだ自分のことを一生懸命やりたい時期。そう思うのは当たり前ですよね。若手の成長を促しつつ、自身も成長していくという2つの両立は可能なのでしょうか。

 

「教師の成長」って?

 ここで「教師の成長」について考えてみたいと思います。教師の専門性は、かつて「技術的熟達者」として捉えられていました。簡単にいえば、いつでも適用できる教育技術や教育方法をたくさん身につけていくことで専門性を高めていくというモデルです。ぼくも若い頃ずっとそう思っていました。とてもわかりやすいモデルといえます、
 それに対して、ドナルド・A・ショーンという研究者は、たくさんの技術や方法を身につけるだけでは専門性は高まらないぞ!と指摘しました。そもそも教室はそこにいる子どもたちや環境によって千差万別。ひとつとして「同じ教室」はありません市、毎年毎年違います。
 ある教室で効果的だった方法がほかの教室でもまったく同じように効果的とは言えないのです。ですから、教師はその場や子どもに応じて工夫して実践し、その実践を振り返り、振り返りから気づいたことを活かして実践していくという「振り返り(省察)」を行うことで成長することが必要です。
 このように「振り返り」を繰り返しながら成長していく専門家を、ショーンは「反省的実践者」と定義しました。
 もちろん、「技術的熟達者」と「反省的実践者」は対立した関係ではありません。教師の成長には両方必要といえます。ただ、今まではあまりにも前者に焦点が当たり過ぎていた感があります。
 技術や方法を学ぶのはもちろん、日々の実践を振り返り、そこから気づきを得て学ぶことを通して教師は成長していく、ということをぼくたちは知っておく必要があります。
 言い換えると、「教師は経験を振り返り、次にいかしていくことによって成長する」ということです。このことを以降は「振り返り」ということにします。

 

先輩としての「私」はどんな存在か

若い先生の成長を支援するというのはどういうことでしょうか。ついついぼくたちはセンパイとして「技術や方法を教える」となりがちです。
それってとても大切。でもそこに課題はないでしょうか??

若い先生とぼくら中年は「非対称」な関係であるという自覚が必要です。「若手に教える」というスタンスは、一方的に指導するという上下の関係になりがちで、時には説教に聞こえるかもしれません。「教える側」にそのつもりがなくても,「教わる側」はそう捉えてしまうかも知れません。しかし先ほど考えてきたように、これだけでは「技術的熟達者」の面しか見ていない若手支援です。教師の成長には「振り返り」が重要であることは先ほど確認しました。ですから、若手の成長を促すには、「よりよい振り返りができるように支援する」ことが重要になりそうです。
 
 皆さんが若い頃、どんな先輩があなたの成長を促してくれたでしょうか?
 ぼくも思い出してみます。ぼくの若い頃は、自分のやりたいようにやってみたい!」という気持ちを強くもっていました。ですから、「こうしたほうがよい」という一方的な指導には、正直反発を感じていました。説教されている感じがしたのです。かといって放って置かれるのもとても困りました。ぼくは生意気だったので仕方がありませんが……。
 ぼくがしてほしかったこと、それは「話を聴いてほしい」でした。初任校にそんな先輩が1人いました。放課後、「岩瀬さん、今日クラスはどうだった?」とよく声をかけてくれました。うまくいったこと、困っていることをたくさん聴いてくれたうえで、うまくいった実践を意味づけてくれたり、困っていることには「明日はどうすればいいと思う?」と質問してくれたり、「こんな方法もあるよ」「この本読んでみたらどう?」とアドバイスしてくれる先輩。時には「私のクラスを見に来る?」と誘ってくれました。ぼくが大失敗して愚痴ったときには、「私も若い頃そうだったよー。保護者に怒鳴られたりして大変だったよー」なんて昔話をしてくれたり。そんな話を聴いたときは「なんだ、みんな若い頃はそうだったのか」とホッとしたものです。今思えば、その先輩はボクに「振り返り」を促してくれていたのだなあと思います。もちろんその先輩は、技術の指導、例えば学級通信の書き方、保護者への電話の仕方なども,その時その時のリアルな場面で教えてくれました。技術的熟達も支えてくれてたんですね。そんなふうにさり気なく寄り添ってくれる先輩に、ぼくは一切の押しつけがましさや一方的な指導という感じをもちませんでした。前回の記事の先輩はまさにそんな先輩でした。僕のモデルです。

 「自分の成長を支えてくれた先輩」はどんな先輩でしょうか? 僕は若手からどのような先輩に見えているでしょうか・・・・・。ちょっと自信がなくなります…言うは易く行うは難しです。昔の人はうまいこと言いました。

 

若い先生に対して振り返りを促す

 では、具体的に若い先生の「振り返りを促す」ためにはどうすればよいかを考えてみましょう。
 最終的な目標は「若手の先生自身が自分で振り返り、成長できるようになる」ことです。そのために最初は「伴走」して、徐々に任せていくイメージをもつことが必要です。ここでは具体例から考えてみましょう。経験から学ぶモデルに「経験学習サイクル」というものがあります(コルブの経験学習モデルをもとにしています)。

①具体的経験
 まずは「具体的な経験」があります。これは日々の実践の中に起きていますね。

 

②振り返る
 今日(あるいは今週)の実践の中で印象的なことを1つ挙げて振り返ってもらいましょう。
 まずは具体的な場面の想起です。

 

今日、みんなで総当たりじゃんけん大会を開いたんです。名簿をもって、どんどんじゃんけんをしていくっていうゲームです。みんなに仲良くなってほしくて。そうしたらAくん、じゃんけんしてないのに、どんどん名簿に○をつけていくんですよ。
 その行動がすごく気になっちゃって。しばらく様子を見ていると、「先生! オレこんなに○をつけたよ!」とうれしそうに報告に来たんです。私、つい「ズルしても楽しくないでしょ!」と注意したんです。そうしたら、「ズルしてねーし」と怒って、すねて出て行った。
 そんなAくん、担任してからずっと算数の時間になると、まったくやろうとしないんです。声をかけても「どうせオレバカだし」、「やってみようよ」と声をかけても「やーだね。ぜってーできない」と伏せってしまうんですよね。

 

 


情景が浮かぶよう(動画モードで脳内再生できるよう)、できるだけ具体的に想起してもらうように促します。例えば、「Aくんって、いつもそうなの?」「なぜそんなにAくんが気になるの?」のようにです。具体的な経験を改めて2人で眺めてみます。若手の先生はこんなふうに振り返り始めました。

 

 Aくんはいつも、ああいう感じなんですよね。前の学年でも、ああやってわがままを言うことがあったって聞きました。もう3年生で中学年だし、ズルは認めてはいけないって思うんです。もし認めると、ほかの子たちにも広がってしまうかもしれないですし。やっぱり公平性を大切にしなければ、マジメにやっている子がバカを見ると思うんです。

 

 
本人の振り返りはどうしても一面的になります。振り返りにはクセがあるのです(これは年齢や経験によりません。むしろ経験を積んだ方がクセが強くなりがちです。経験を絶対視してしまうのですよね。自省・・・猛省・・・)

似たような経験をしてきた先輩の先生は、Aくんを怒り続けても問題は解決しないことを知っています。Aくんにかかりきりになることで、ほかの子たちも落ち着かなくなっていくことも。

 

③(振り返りから)教訓を見つけ、選択肢を増やす
 ですから、先輩としての役割は、「もっと違う見方がないだろうか」と促すことです。ここで「指導モード」にならないことがポイント。目標は「1人で振り返りができるようになること」です。自分で気づくチャンスをつくりたい。例えば、こんな質問はどうでしょうか?
「Aくんは、なんでズルしたんだろう? 先生にどうしてほしかったのかなあ」

ついつい自分視点になってしまう振り返りを、相手側(学習者側)から見てみる(視点の転換)質問です。

 

 そうかあ、もしかしたらじゃんけんをしていないのに○をつけたのは、先に○をつけちゃえば、他の人に勝てると思ったのかもしれないな。他の人に勝ちたい、負けたくないという気持ちだったのかな。もしかしたら、ずっと怒られてきたAくんのしたかったことは「先生にほめられたい」。そういう意味ではモチベーションが高かったなあ。何で怒っちゃったのだろう……。


 先輩はここで、「算数のときのやる気のなさも同じ感じなのかもしれないね」などと共感的に受け止められるといいなあ。算数のときのやる気のなさも、ほめられたいのにできないから、自己否定になっている可能性がありそうです。


 このように気づきが生まれてきてから、自身の経験からアドバイスしてみてはどうでしょうか。

「できる・できない」が自分の価値を決めると思っている傾向があるのかもしれないね。私のクラスにも以前、できることには一生懸命だけれど、苦手なことには「それ嫌い!」と徹底してやろうとしない子がいたの。その子の根底にあるのは「認められたい」「承認されたい」だったんだよね。


ここで、「やらない子、ズルをしている子たちは、実は承認されたい」という教訓が共有でき始めました。では、これからどうすればよいでしょうか? 次に活かせる選択肢を検討します。


 

承認されたいということは、アプローチを変えなくちゃですね。まず何から実践したらいいでしょうか。Aくんにとって、やってみたらできたという小さな成功体験が必要ですね。いきなり算数では難しいし……、Aくんは生き物にとっても詳しいから、次の理科の単元で活躍できる場面をつくろうかな。教室の金魚の世話も手伝ってもらおうかな。

 

 
 ここでようやく、選択肢を増やすために先輩から実践のアドバイスをしたり、具体的なスキルを伝えたり、関連する書籍などを紹介したりすると、本人にとっても学びになるでしょう。自身の気づきから得た学びの機会だからこそ、切実感と必然性が生まれます。このように次の選択肢を増やし、自身で選ぶことを支援する、こんなふうになるといいなあと思います。

 


④新しい状況に適用する
 そして、実際に適用してみます。それを振り返り、そこから教訓を見つけ〜と振り返りのサイクルを回すことで,少しずつ対人援助職の専門家として成長していけるのです。
「やってみてどうだった?」とサイクルを回すきっかけづくりを続けます。

 

いかがだったでしょうか。この振り返りで学んだ教訓は、Aくんに限らず、他の子たちにも活かせる可能性も出てきました。振り返りから学ぶ、振り返りのサイクルを自分で回せるようになるために伴走しながら支援するのが先輩教師の役割です。その支援的なかかわりは、若い先生のモデルになり、彼らが年を重ねたときに若手を支援するときに役立つでしょう。

だがしかし、だがしかし(2回繰り返すのがミソ)。
これだけでは、ぼくら中年、ベテラン勢の「自分自身も成長したい」は満たせない感じがします。実はそんなことはないのです。振り返りの中での「教訓を引き出す」プロセスでは、共に考えることで、ぼくら自身が新たな気づきを得ることもあります。2人ではどうにも解決できないときや、新たな選択肢を増やしたいとき、ぼくら自身も本を読んだり、学んだりしなくてはなりません。また、自身の実践からアドバイスするときに、普段、無意識でやっている実践を言語化することができます(実践知の言語化)。そのことで自身の実践を見直すこともできるチャンスになるわけです。
 また、ぼくらも日々振り返りをし、若手の先生に共有し、意見をもらう、というのはいかがでしょうか。ぼくらもまだまだ道半ばです。

 繰り返しになりますが、振り返りには1人ひとりクセがあります。経験を重ね、専門性が高まったからこそ視野が狭くなり、「思い込み」が増えている可能性が高いのです。しかし自分のクセは、自身では気づきにくいものです。そこで、若手の先生に意見をもらったり、質問したりしてもらうことで、自分の思い込みが明らかになり、新たな視点が生まれるかもしれません(unlearn =学びほぐし)。
 過去の経験にしばられて成長していないのは、実はぼくら自身かもしれないのです。
自分自身の実践を見つめ直し、当たり前を問い直して、なお成長し続ける姿は、若手の先生にとって何よりの「学びのリソース」となるでしょう。
 

 また、ぼくらはよほど意識していないと、なかなかアドバイスや助言をもらう機会がありません。そこで若い先生に日常的に授業を見てもらい、一緒に振り返りをしてはいかがでしょうか? 放課後、自身の実践について一緒に対話してもらうことで、自身の実践を見直す契機にできます。このように「謙虚に学び続ける先輩」の姿は、「若手の成長」にいちばん役立つことでしょう。そして何より、このようなアプローチは、職員室を「学び合う組織」へと成長させる可能性に開かれます。職員室全体でお互いの実践を交流したり、振り返りを促進し合ったりできる関係性が築かれていけば、自身の成長、若手の成長はもちろん、学校全体が成長していく、まさに《共育》の場となるのです。

 

「一方的に教える」を超えて共に成長する《共育》へ

 若い先生の成長を支援することを通して、ぼくら中年、ベテランが成長していく《共育》について考えてきました。若い先生の「振り返り」の支援をすることで成長を促すことは、実はぼくら自身の「振り返り」の力を伸ばすことになります。どうすれば振り返りが深まるかを体験的に学ぶことができ、その学びから自身の振り返りも深まり、振り返りから学ぶ力が高まります。そしてそれは、教室で子どもたちが「振り返りから学ぶ」ことをデザインするときにも活かせる実践知です。
「一方的に若手に教える」を超えて、共に成長する《共育》へ。若い先生が増えていくからこそ大切にしていきたいものです。これは職員同士の学び合う文化の創造かもしれません。

 

人の成長に寄り添うって本当に本当に難しい。

自身を戒めるために、あらためて書いてみました。

一番大切なことは「私自身が学び続け、変わり続けること。自身の前提を問い直すこと」なのかもしれません。相手に望むよりまず自分。明日もがんばろう。

きょうしつ。

教室。

拙著『せんせいのつくり方』より。
ちょっと長いけれど、自分のために書き出してみます。
数年後、ぼくの描いているビジョンは変化しているだろうか。
なんにせよ、そのときそのときに一生懸命コトバにしてみることだ。
.
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人間関係の流動性。
困ったときに「困った」と外に表明でき、それをクラスが、「関係の濃さ薄さ」を超えて受け止めてサポートする。
それ以外の時は緩やかにつながっている。

教室の中に複数のネットワークがある。そのときそのときに応じて関係が変わっていく。
複数の回路があれば、必然的にゆるやかな「つながり」となる。

いろんな人がいてもよい、ではなく、「いろんな人がいるほうがよい」ということを実感するためにクラスで様々な形の実践がある。

例えば。ブッククラブで「ああ、こんな考え方があるのかあ。社会には自分とは違う考えの人もいるんだなあ」と思うこと。

算数の時、 「ああ、この人の説明だとわからないのに、この人の説明だとよくわかるなあ。試してみないとわからないものだなあ」と実感すること。
様々な時間に、自分の強みが発揮できること。他者の強みを見て、

「へー、自分が苦手なことでも得意な人がいるんだなあ。逆に自分が得意なことでも人には苦手 のこともあるんだなあ」

「自分が役に立てたり、得意なのはここだなあ」

と思えること。

 

多様な中で、学校は人工的な空間ではあるけれど、 出来る限り自然で自分らしくいられること。 やりたいことがそこにあること。 科学だったり、読書だったり、裁縫だったり、作家だったり、人によっては掃除だったり。ダンスや歌もステキだ。

 

たとえば給食の時間にやっている算数寺子屋。
「やりたい人はやればいいし、そうじゃないひとは別にやらなくていい」
という緩やかな自己選択があること。
やら なても不利益にならない開放性。
やっているからえらいとか、やっていないからだめとか、そんなのはない。 どっちもあり。個人の自己選択・自己決定が保証されている。

寺子屋や算数の時みたいに、 「サポートして」と援助を求めることができる。 それが幅広く受け止められる。 受け止められて解決したり、進んだりできる。
その成功体験が、より「サポー トして」を言いやすくし、コ ミュニティの問題が早めに可視化されるようになり、健全性が保たれる。

 

起きている時間のほとんどを過ごす学校。

今は下校時刻が4;00で、外で遊んでいい時間が4:30まで。 実質かえって友達と遊ぶ時間はない。 子どもたちにとって、学校での時間が友 達と過ごす唯一の場なのだ。 その学校にとって、教室にとって、「居心地がいい」「やりたいことがある」「自 分らしくいられる」というのは以前にも増して重要だ。

 

だた、それだけではやはり学びの場ではない。 自分の成長を実感できること。自分の変化、をちゃんと自分でわかっていること。 変わってきているから、これからも変わっていけるだろうという自分へのポジティブな期待。 ただ「居心地がよい」だけではなく、その中での成長実感。 やればできるようになる、というマインドセット。 周りの人や大人がモデルとなり、自分が「伸びようとする高さ」が見えてくること。
自分の位置が自分で測れること。

 

時間軸が長いこと。 すぐに成果が出たり、変わったりしないこともある。 いつでも長い時間軸を意識して焦らないこと。待つこと。 1年単位での実践ではここへの意識がよわくなる。 気をつけよう。

ボクがグッと伸びたのは、教員になってからだぞ。子ども時代は遊んでばかりだ。

他のクラスや学年との「バリア」ができるだけないこと。 そのためには。一緒にやれることを増やすこと。子どもが行き来するしかけをつくること。 例えば本を借りに行ったり。クラスを混ぜた授業をしたり。担任が授業を交換したり。 ここはまだあまりやれていないから、これから意識していこう。
ああ、そのバリアは、学校の中と外、にもあるんだよな。
そのバリアをなくしていきたい。

クラスというコミュニティを居心地よく、よりよいものにしていくのは、わたしの手の中、にあること。
わたしの一歩がそのきっかけになる、ということが実感できること。
違いを前提に、共創的な対話を重ねられること。
対話をあきらめないこと。

ぞくぞくよい本が出てきて困る。(メモ)

 続々、よい本があらわれてきて困る。

言葉を選ぶ、授業が変わる!

言葉を選ぶ、授業が変わる!

  • 作者: ピーター・H・ジョンストン,長田友紀,迎勝彦,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2018/03/31
  • メディア: 単行本
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★★★★★

まだ半分だが、なぜもっと早く読んでおかなかったのかと自分を恨む。

リーディング・ワークショップ/ライティング・ワークショップの実践者はもちろん、学習者へのカンファランスを重視している人は必読です。

 

 

キミヤーズの教材・教具

キミヤーズの教材・教具

  • 作者: 村上公也,赤木和重
  • 出版社/メーカー: クリエイツかもがわ
  • 発売日: 2011/01/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 ★★★★★

今までもパラパラと見ていたのだけれど、昨日の夜一気に再読。

村上さんの実践のすごさと共に、そこへの赤木さんの解説が秀逸。実践を読み解くとはこういうことだというお手本。特別支援教育の見え方が変わります。改めてすごい本だ…従来の教育書とは一線を画しますよ。「なめはち」実践の解説には震えました。

 

 

教科と総合学習のカリキュラム設計: パフォーマンス評価をどう活かすか

教科と総合学習のカリキュラム設計: パフォーマンス評価をどう活かすか

 

 立った今読み始めた本。

ぼくは読む前に10分くらいでパラパラと全体に目を通すのだけれど、逆向き設計を学ぶ決定版のような本の予感。

 

いやはや読むべき本が多くて困るわ・・・・

寝る前に読む本として,これも今購入。

パリでメシを食う。 (幻冬舎文庫)

パリでメシを食う。 (幻冬舎文庫)

 

 

では晩ご飯をつくろう。ダッシュで帰宅だ。

『深い学びを促進するファシリテーションを学校に』は必読。

すごい雨ですね。

明日、明後日と予定されていた、

岩瀬直樹 × 青木将幸「学び」と「ファシリテーション」の2日間
も中止となってしまいました。皆様に被害が出ませんように。

またどこかで必ず。

岩瀬直樹 × 青木将幸「学び」と「ファシリテーション」の2日間

 

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大学院の研究室にて。研究室が懐かしい。

 

さて、マーキーこと青木将幸さんの待望の新刊がでます。

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『深い学びを促進する ファシリテーションを学校に』

 

これまでもマーキーのファシリテーションの本は何冊もありどれもお薦めですが、今回は学校教育にフォーカスした本。教職員必読ですね(実は、学びの場に関わっている人すべてにおすすめ。学校教育に閉じた本ではないです)。

 

ぼくとマーキーの出会いは、15年ほど前。
学校にお呼びして、学校のリアルな会議をファシリテートしてもらいました。あのときの会議での確かな手応えが、「公立の学校も変わる!」という原体験になり、今の学校づくりに繋がっています。それくらい強烈な体験でした。実はある論文にそのことを少し書きました。読みにくい文章だけど、ちょっと引用してみます。

2003年、小学校現場に戻った私は2年生を担任した。実践の中にワークショップの要素を入れ始めていたが、なかなか手応えを感じられずにいた。ただ自身が体験したアクティビティを学級でやってみるぐらいしかできていなかったからだ。
 職員室もなかなか変わらなかった。いや変えられなかった。校内研修に前向きにならない同僚、旧態依然としたやり方を変えようとしない同僚に、私はいらだっていた。やはり制度としての学校はなかなか変わらない。学校とはかくあるものという「学校についてのストーリー」が、実は一人一人の「学校のストーリー」へと身体化してしまっている。この中にいる限りそれは変えられないのではないか。
 いや、自分が体験したように、職場の同僚も体験が必要なのではないかとも考えた。言葉で伝えてもわからない、私だって体験することから変化しはじめている。別の場の体験が人の信念を変えるきっかけになるのかもしれない。
 そこで「来年度の校内研究のテーマを何にするか」という職員の話し合いに青木将幸 さんというプロのファシリテーターを招く計画を立てた。学校外と学校内を直接つなごうとしたのだ。今思えば本当に大胆で、しかもよく管理職がOKしてくれたと思う。
 先輩と何とか管理職を説得して実現の運びとなった。講師料は先輩と折半し、管理職には「ただで来てくれる」とうそをついた。
 学校での会議、私が体験してきたほとんどすべては、机をロの字にならべる会議の形態。意見を言う人はいつも限られていた。内職をする人、いつも対立する人。生産的な場とはほど遠い場であった。 青木さんを招いた1時間半。同僚は「何をさせられるんだろう」という、引いている空気。外から人が来る事への抵抗感。私も正直心配でたまらなかった。

 

岩瀬:アイスブレイクから全員が口を開くみたいなことをやると、学校ではそれだけで当時、衝撃な文化。 いつもはお通夜より暗い話し合いをしているところを、やってみたいこと紙に書いて並べて、自分がこれだと思ったものをちょっとずつ動かしてみるみたいなことやり、でも2時間しかないから、このことについては誰提案してくれます?このことについては誰提案してくれます?って立候補を募って「では次回の研修で提案してくださいね」みたいなことが起きると、あれ?今までオレたちがやってきたことってなんだったんだろう?という揺らぎが起きる。 (20160307 桐田ー岩瀬の対話)
 
 全員が参加し、意見を表明し、役割分担した。青木さんは淡々と進めていくのだが、場のメンバーの力を引き出していき、いつも話さない人が意見を言い、自然に対話が生まれていく様子に、私は興奮した。
 終わった後誰からも文句は出なかった。むしろとても肯定的だった。「あっという間だったね」「おもしろかったね」という声が聞こえてきた。ああ、やっぱり職員室も変われるんだ。所与の集団、人間関係に関係なく、場はアプローチによって変わるんだと、そのときの私は感じていた。
 学校外の文化を学校に持ち込むことで、変わらないと思い込んでいた職員会議の「支配的なストーリー」が、一時的ながら変化が生まれた。学校外と学校内は対立ではなく、新たなものを生み出すことがある。学校内と学校外が混じり合ったたった1回のこの経験が私にあらたな期待を生んだ。学校外と学校内は二項対立ではないのかも知れない。対立が起こすのは「恐れ」だが、学校外の文化と学校内の文化が可能な範囲でふれあうところで生まれたのは「期待」だった。オルタナティブな学習スタイルを、オーソドックスな学校環境へ持ち込むことで起こる、学校についてのストーリーが変わることへの「期待」が生まれ始めていた。私はこれを原動力に、学校外の学びの場へ出かけ、ファシリテーションを学ぶことに没頭し始めた。

われながら読みにくい。

大きな転機となった出会いでした。 

それ以来、狭山にお呼びして2日間のワークショップを開催したり、自分たちの学習会のファシリテートをお願いしたり、大学院で授業をしてもらったり(お願いしてばかりだな…)。
最も尊敬するファシリテーターの1人です。今年2月の終わりの大学院での授業は、しびれました。師匠の仕事を間近で見て学ぶ弟子の気持ちになったものです。

 

前置きが長くなりました。そんな尊敬し,師匠でもあるマーキーの新刊です。

目次です。

 

プロローグ 学習者の興味・関心から学びをスタート

 

第1章 ファシリテーションの基本スキル
1 質問がたくさん出る状態をつくるには?
2 自分が答えられない質問が出たとき、どうするか?
3 「問い」を研ぎ澄ます
4 あいづちの研究 マンダラートを活用して
5 私たちは本当に聞けているのか?
6 後日談を歓迎する

 

第2章 〈対談〉ファシリテーションで学校教育をより豊かに!
岩瀬直樹&青木将幸

 

第3章 学校で活かすファシリテーション
1 こんなクラスになっていったらいいな
2 小学校でファシリテート 〈お困りごと解決会議〉
3 8分間読書法
4 積極性を生むもの
5 教員同士の学び合いの場をどうつくるか
6 将来、何になりたい?

 

第4章 ファシリテーターとしての成長のヒント
1 うまくいかなかったことから学ぶ 松木正さんの「火のワーク」
2 バランスをとろう
3 難から難へ
4 「書けません」にどう対応するか
5 〝無能な教師〟はよい教師?
6 師匠選びも芸の内

 

エピローグ よきファシリテーション、水の如し
おわりに

 

この本の魅力(その①)は,先ずなんと言っても読みやすい。文章のやわらかさと編集の見事さでスイスイ読めます。マーキーの話を聴いているみたいな気持ちになります。

第1章は、明日からチャレンジできる具体的なスキルの紹介です。

ワークがいくつか紹介されていますが,絶対の絶対にワークをやりながら読むことをおすすめします。ぼくは1人でワークをしながら読みましたが,これ、数人で一緒にやりながら読んでいくと、それ自体がファシリテータートレーニングになります。

読んでいくとわかりますが、この本の魅力(その②)は、「やり方」の中に、マーキーの「あり方」がにじみ出ていることです。人や場をどうとらえ、そこにどういるかが伝わってくるのです。

 

「何でも質問していいよ」という雰囲気をつくるときの安全弁は「答えたくないことは、答えなくてもよい」ということかもしれません。(28p)

 

私が人前に立つとき、特に注意しているのは「自分は、参加者の声を本当に聞けているだろうか?」という点です。「このことを伝えたい」「あのことも話しておきたい」というこちら側の都合が強いあまり、学習者自身の強い気持ちやニーズ、現状について聞けていないケースがときどきあり、よく反省しています。

少し逆説的な表現になりますが、こちら側の意図することがなかなか伝わらないと思うときは、たいていの場合、相手のことを「聞く」ことができていないことが多いのではないでしょうか。(45p)

 心あたりがありすぎて、胸が苦しくなる・・・・

相手への徹底した関心。場と人への信頼。これがマーキーの核だなあとぼくは感じています。

 

第3章は具体的なプログラムを通してファシリテーションを学びます。授業でのいかし方、教職員の研修のデザイン。参考になる人は多いでしょう。その具体的なプログラムの中にも,マーキーのあり方がにじみ出てきます。

私の場合、先ほどの【待つ】時間やこのようなグループワークをやっている時間は、なるべく「話を聞いているよ」というのとは違う態度をとるようにします。手元の文具を整えたり、次の資料を準備するなどして、「皆さんが話し合う時間なので、おまかせしていますよ」という態度を示すことが多いです。

 

多くの先生達にとって、なかなか刺激的なあり方ではないでしょうか。

読んでザワザワした方は、なぜザワザワするのか、マーキーと自分の学習者観の違いは何か,場の捉え方の違いは何か,を考えてみると気づきがありそうです。

 

第4章は,いわば「ファシリテーター、マーキーのつくり方」 。

マーキーがどんなことに影響を受け、どんなふうに変わりつつあるのか、に触れることができます(魅力③)。

この章を読んでぼくが感じたこと。それは、「マーキーのようなファシリテーターになるにはどうしたらよいのか」という問いは、そもそもの問いが間違っていて(いや、初期の頃はそれでもいい気もしてきた)、「私はどんなファシリテーターになりたいのか」を探究し続けたいということ。

私は絶対に誰かにはなれない。私は、自分とどう対話し,他者にどんな関心を持ち、どんな場を創りたいと思っているのか。経験を通してその問いの暫定的なこたえを更新し続けること。そんなことを考えました。

 

ちなみに第2章では、お師匠さんと対談の機会をいただきました。多謝。

「剛と柔」の話がなかなかおもしろいです(魅力④)。読んでみてくださいね。

 

誤解を恐れずに書きますが、学校教育を,実践を変えていくとき、学校教育内には手掛かりは極めて少ない、とぼくは思っています。学校教育外にそのヒントがたくさんある。この本は学校現場の外の人が書いた本だからこそおもしろいし、価値が高い。この本の一番の魅力(その⑤)かもしれません。

この本、必読です。

井上ひさしの言葉、

むずかしいことをやさしく

やさしいことをふかく

ふかいことをおもしろく

おもしろいことをまじめに

まじめなことをゆかいに

そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

それってこういう本なんじゃないかな。マーキー、ステキな本をありがとう。ぼくも次、こんな本を書きたいな。

 

成績をハックする: 評価を学びにいかす10の方法

成績をハックする: 評価を学びにいかす10の方法

  • 作者: スターサックシュタイン,Starr Sackstein,高瀬裕人,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 2018/06/28
  • メディア: 単行本
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 ★★★★★

今日読了。これ必読。軽井沢風越学園スタッフも必読だなあ。この本をもとに評価をリデザインするワークショップをしたいし、設立予定の学校の評価も再設計したい。ぼくが現場で実践してきたこともいくつか載っていますが,その先をいっているなあ。こういう本を読むと、現場に本気で戻りたくなる。まだまだまだまだ実践は変えられるなあと実践者の血がうずく。

 

 

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増補版 作家の時間: 「書く」ことが好きになる教え方・学び方【実践編】 (シリーズ・ワークショップで学ぶ) | プロジェクト・ワークショップ |本 | 通販 | Amazon

★★★★★

2008年の拙著(共著)が増補版となって発刊されました。今回は中高の実践が追加され,小中高すべての実践が読めるようになりました。

今日あらためて再読しましたが,よい本(自画自賛)。

国語はもちろん、さまざまな学び方につながる良本だと思います。じっくり読み込んでみてください。きっと実践が変わります。

 

「岩瀬さんはどれくらい本を読むのですか?」

と最近よく聞かれます。最近は週3冊ぐらいです。つまらないと思ったら途中で止めて他の本を読むのがポイント。一生は短い。いい本だけ読みたいので!

今よりも小学校現場にいるときの方がよく読んでいました。

ぼくの場合、常に読んでいないと自分の経験を絶対化しすぎてしまうのですよね。読むことはぼくにとって、自分の実戦や経験、考え方を常に相対化する「メガネ」でした。教師にとって読むことは専門性を高めるもっとも基本的なことの1つだ、というと言い過ぎかなあ・・・・

今日はもう疲れたのでマンガにしよーっと。

 

学級づくりのためのメモ。

「学級」はゆくゆくはなくなっていくとよい、と考えているけれど、現実的にはしばらくなくならないので、ではその場をどう考えていくかは一方で大切。
というわけで、学級を考えるためのメモ。

フェイスブックに載せていた記事の転載です。

いずれ一つ一つを詳しく書きたい。

正確には段階はこの順序を辿るとは限らないです。第3段階がスタートで、その中に第1、第2が内包されている可能性大。

 

そして。
これを軽やかに超えていきたいなあ。

 

学級づくり=学びのコミュニティ(あるいはラボ)づくり=学校づくり=20年後の社会のプロトタイプ

 

学級づくりのプロセス Ver3

 

第1段階 知り合う
・コミュニケーションの量(会話)
・流動性を生むための関係のつなぎ直し
・安心安全の場づくり
・場づくりへのコミット。場づくりのオーナーシップ(ソフト、ハード)
・小さな成功体験
・学びのコミュニティのビジョン共有

 

 

第2段階 良質のチーム体験
・協同のよさを体感
・自分の特徴を知る、知り合う。
・援助希求しあえる関係
・コミュニケーションの質(対話)
・学びのコミュニティのビジョン更新

 

 

第3段階 個別化とゆるやかな協同
・ことがら(プロジェクト)を通した流動的な関係
・自分の学習、成長へのオーナーシップ(自己選択・自己決定)
・学びのコミュニティのビジョン更新
・学級の緩やかな解消

 

 

全体を支えるOS
・自由の相互承認の感度
・「人には力がある」の確信。

・協同しない自由の担保(相馬靖明さん)
・絶え間ない試行錯誤。リフレクション。
・ミクロ民主主義
・流動性
・外とのつながり(社会、情報、人)
・成長実感
・安定的に場にいるファシリテーター(徐々に「消えて」いく)

着想×読書

ぼくは基本的に「着想」が強み。

ストレングスファインダーによると、着想ってこんな感じ。

・複雑に見える物事の裏側に存在する、的確で簡潔な表現方法を発見すると嬉しくなる。
・見た目には共通点の存在しない現象に、なんらかの共通点を見出すと創造力をかき立てられる。
・多くの人が中々解決出来ない日常的な問題に対し、新たな視点をもたらす人物である。
・世の中の既知の事実をひっくり返すことに無上の喜びを感じる。
・目新しい考えや、逆説的な考え、奇抜な考えを好む傾向にある。
・新しい着想が生まれるたびに、エネルギーが電流のように身体を駆け巡る体験をすることが多い。
・他の人たちからは、「創造的」「独創的」などと評される傾向にある。
着想のある人生にスリルを感じ、そんな生活を送れていると幸福を感じる。

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0

 

 

ひょんなことから新しいアイデアや着想を得るのが好きだし,楽しい。

「教室リフォームプロジェクト」は、育休中にテレビで「リビングのプチリフォーム」を見て思いついたし、「お掃除プロ制」はドラッガーを読んでいるときにつながった。

2002年に、学校教育外のワークショップに参加しているうちに学校教育を変える知恵は学校外にあると確信を得て、たくさんの本に出会い、チームビルディングやワールドカフェ、AI等から組織開発にチャレンジしたりした。

編集者が書いた仕事の本を読んで、ファシリテーションを言語化しようと思った。

高橋源一郎の本を読んで,国語の授業が変わった。

あるコミュニティの本を読んで,学級経営を見直した。

小説を読んでいるうちに新しいことにアンテナが立つ、ということもよくある。

尊敬する人が「岩波新書の新刊は目を通すようにしている』と言っていて(驚)、そこまではできないけれど、月に2冊は新書に目を通すようにしている。 

娘と散歩してるときに降ってくることもある。

 

着想ってかけ算だ。

今課題と思っていることや,やりたいと思っていることに、思いもかけないものを「かけてみる」ことで新たなものが生まれる。

ではどうやって思いもかけないものを「かけてみる」ことができるのか。

 

ぼくの場合は95%読書だ。

それも教育書以外。

 

大学院を退職し、学校づくりに専念しているうちに、

大学院を退職して、専念しているからこそ、

「明日必要な本」「明日必要な書類」ばかり読むようになって、

自分の中にブレークスルーが起きなくなった。

発想が小さくなっていた。貧相になっていた。

もっともっともっと幅広く読まなくちゃ。

 

久々に直接関係ない本、

『サピエンス全史』や、

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

 映画化されたワンダーや、

ワンダー Wonder

ワンダー Wonder

 

 

ティール組織、

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

 

を読んでいるうちに、いろいろなアイデアが浮かんできた。

 

豊かな読書生活が、着想を支えるんだなあ。

いろんな本を読もう。

かけるものが豊かにならないと、やりたいことのブレイクスルーが起きない。

かけるものは、自分の専門や関心外のものがよい。そうじゃないと思いがけないものが生まれてこない。 

できるだけ意外なものをかけてみる。

 

教育書を書いていてなんですが、

教育書ばかり読んでいると,発想が貧相になりますよ(実感)。

もちろん専門書も読まなくてはですが、それはいわゆる教育実践本ではないなあ。

 

軽井沢風越学園のチームのいいところは、そもそもの専門性や得意が違って着想が生まれやすいところ。生まれてないときは、なんらかの阻害要因が働いてるということ。