今年もよろしくお願いします。
ジョギング再開。
さて。
幼稚園・保育園から小学校へ入学するときその文化の違いに戸惑う、
いわゆる「小1プロブレム」がある。
昨日まで、園で頼れる存在だった年長さん。
年下の子のケアも、園の仕事も自分たちでこなしてきた。
ほとんどなんでも自分たちでやれる、ちょっとかっこいい存在だったりする。
それがある日を境に、急に「なにもできない、かわいらしい1年生」となる。入学式の入場も6年生と手をつないで。ちょっと前まで年少さんの手を引いていたというのに。6年生から逆算した存在として「面倒を見られる」存在となる。
昨日まで「面倒を見る」頼れる存在だったかもしれないのに。
ぼくが初めて1年生を担任したとき、やはり「なにもできないんじゃないか」と正直不安になり、友人の幼稚園の先生に相談した。
「あのねー、年長さんとして園で『番を張っていた』んだから、何でも自分たちでできるの。朝の会だって司会も自分たちでやるし、給食の配膳だって、ケンカの仲裁だって、下の子の世話だってやってきてるの。なんでも任せてみてよ。失敗したっていいじゃない。そこから学ぶ力だってあるんだよ」
本当にありがたい助言だった。
そして1年生はまことに頼もしい存在だった。
給食の食缶を運ぶとき、Mくんが倒してしまって廊下がカレーだらけになった。廊下中に広がったカレーから湯気が上がっているのを見て目眩がしたぼくはつい「なんで倒したの!」と言ってしまった。するとKちゃんが、「先生、そんなことより片付けることが先でしょ」とぼくを諭した。本当にその通り。みんなでカレーを拭く作業は、不謹慎だけれど、なんだかお祭りのようで楽しかった。その間に給食当番の子は食缶を持って他のクラスに、
「カレーこぼしちゃったんで少し分けてくださーい」と集めて歩いてくれた。
どんな存在としてみるかで、アプローチはかわる。
小1プロブレムとはなんだろう?
その内実は、小学校が、自分たちの文化に疑いを持たず、教員の「教えやすさ」を優先させて、「学校のお作法」を教えることの優先順位を上げてしまっているからではないか?
我が家の次女は、遊ぶことを大切にする保育園を卒園し、小学校に入学したとき、
「学校ってずっと座ってるんだよ」
「手は膝の上に置かなくちゃいけないんだって」
「どんなに晴れていても、教室の中にいるんだよ」
「遊ぶ時間は20分しかないんだよ」
と不思議そうに報告してくれた。
ある日を境に、文化が180度変わる。
ある日を境に、「動き回る」から「座り続ける」に。
ある日を境に、「あそぶ」から「勉強する」に。
ギャップを感じる方が自然だ。
小1プロブレムとは、子どもの問題ではなく大人の問題。
この段差は大人が作った段差で、子どもの育ちの段差ではない。
子どもの育ちから、低学年期のあり方を1から考えてみよう。
幼小のつながりを1からデザインしてみよう。
遊びと学びに本当に境目はあるのか?
学ぶということは座るということと同義なのか?
幼と小の文化が「まざる」ことでどんなことが起こるのか?
当事者である子どもがワクワクするような「幼小のつながり」があるはず。
特に小学校低学年期は、もっともっとあり方を変えていっていいはず。
小中一貫、中高一貫が盛んだが、これからは幼小一貫のデザインが重要になる。
小学校は、幼稚園・保育園の実践から学ぶべきことが山のようにある。
というわけで、今年はたくさんの幼稚園・保育園に参観に行きたいと思います。
今年もよろしくお願いいたします。