いわせんの仕事部屋

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パートナーにできないことは、学校でやっちゃいけません。

「会社の偉い人で、『若手を鍛える』という人がいますよね。
でもね、それは会社でやる前に家でできることなのかどうか、って思うんですよ。
パートナーにできないことは、会社でやっちゃいけません。」
ライフネット生命CEO、出口治明さんの言葉。(アエラ1487号より)
ボクはこの感覚が好きだし、共感する。自分と同じようなことを考えている人がいるんだなあと、時々戻ってくる言葉だ。
学校や教室も同じだと思うわけだ。 だから、例えば
「おはよーございます!!!!」

みたいな必要以上に大きな声の挨拶ってボクはしない。やりたい人はやればいいけれど、人に強制するものではないと思う。「自主的」にやらざるを得ない場というのもまた強制だ。
朝の挨拶、「おはよー!」でも、「風邪なおった?」でも、「おっす!」でも、「今日寒いねー」ってことだってある。それは関係性の上に立ち上がってくることだからだ。
あなたとここで今日も出会ったことを確認しあう柔らかい言葉を交わしあいたい。
そんな小さなところから、お互いを承認しあう感度が育まれていくのだと思う。

ボクが子どもの頃には、「椅子に座るときに椅子の後ろで腕を組む(手悪さ(?)をしないように)」ルールがあるクラスがあった。家でそんな座り方してたんだろうか、あの先生。
 
今でも、全員「さん付け」で呼び合うことが学校のルールになっているところもあるみたい。
ナンセンスだと思う。呼び名もお互いの関係性の中で立ちあがってくることだからだ。
もちろんそれは、相手をどう呼んでもいい、ということではない。どう呼ばれたいか、を丁寧に確認することからはじめる。それが「承認しあう」第一歩だ。

形式化することで、違うことが学ばれていることに敏感でありたい。
表(先生の前)では「〜さん」と呼び、裏では、「ぶた」と呼んでいる可能性だってあるのだ。
よかれと思ってやっていることが結果として何を学ぶ契機になってしまっているか。
隠れたカリキュラムに敏感でありたい。

 みんなで大切にするルールやマナーは、「降ってくるもの」ではなくて、その意味や価値を丁寧に確認しあうことからはじめたいと思う。それが民主主義に出会う学校、学級の大きな役目の一つだと思う。


熊本地震では、芸能人が励ましのコメントをしたり、寄付した金額を公表したこと等に対して、ネットで猛烈なバッシングが行われている。正直なんだかなあと思う。
それ、身近な人にもやるのだろうか。近所の人にやるだろうか?自分が大切にしている相手にもやるのだろうか?
過剰に誰かを責めるのが多くなっているのって、リアルな関係性の中で承認し合う感度が鈍っていることと、どこかでつながっているのではないかな。

とは言いつつ、かなり若い頃、人権教育のかなり大きな研修会で手を挙げて、「さんづけを全員に強要するのは人権侵害だ。みなさんは家庭でも、自分のパートナーや子供にさんづけで呼んでいるのか?」と吠えて、大ひんしゅくを買ったことを思いだした・・・・
同じようなことやっていたんだな、自分の24年前を思い出して恥ずかしくなる・・・・
こういうことを書くと、
「朝のあいさつをちゃんとしなくていいと発信してる!クラスを壊す気か!」という批判がくるかもだけれど、ボクが書きたいことはそういうことじゃないんだよな。
みんなで「おはよーございます!」と気持ちよく言葉を交わし合えてるならそれでいい。

みんなで大切にするルールやマナーは、「降ってくるもの」ではなくて、その意味や価値を丁寧に確認しあうことからはじめたい。当たり前を問い直すことを大切にしたい、ということなんだけどな。