自分のコントローラー
ボクは、自分を動かすコントローラーを自分で持っていたい。
他人に自分のコントローラーを渡したくない。
ボクを動かすのはボクだ。
子どもたちにも、自分のコントローラーを自分で持ってほしい。
他人に渡してほしくない。
だから、子どもたちのコントローラーをボクが持ってちゃいけない。
ちゃんと持ち主に渡さなくちゃ。
最初は慣れないのだから、
ぶつかったり、逆に進んだりしてもいいじゃないか。
そのうち、うまくなってくるさ。
周りの人が操作方法のお手本を見せてくれるかもしれないし。
マネしてるうちにうまくなることもあるよ。
自分で操作しなきゃ、うまく操作できるようにならない。
自分のコントローラーを自分で持つ。
これがまず当たり前になりますように。
なんでボクら先生は、子どもたちのコントローラ-を回収してまとめて操作しようとしてしまうんだろう。
「最初にAのボタン押して!次にBボタン。コントローラー前に倒して。ほら○○ちゃん、コントローラー前でしょ!」
なんて言ってしまうんだろう。
「いつかは自分で」との善意から、先生が張り切って子どものコントローラーを操作する。
そのうち子どもは「コントローラー置いておけば、誰かが操作してくれる」「このコントローラーは他の人が操作するものだ」ということを体験的に学び、
「この先生はコントローラーの操作がうまい!」と依存し、
最後にはそのコントローラーが自分のものであることを忘れる。
先生はずっと子どものコントローラーを操作し続けることになる。そして疲弊する。
でもそれが仕事だと思っている節があるし、
なにより人のコントローラーを動かすのは気持ちよかったりもする。
先生の「コントロール欲求」は、なかなかやっかいだ。
大丈夫。ちゃんと持ち主に返そう。
人は自分で自分のコントローラーを持つ力がある。
一人ひとりが自分のコントローラーを持って操作してみよう。
誰かとぶつかったら、何かとぶつかったら、そこで考えればいい。
先生だって、その方が結果としていい意味で「ラク」になる。
だって、みんなそれぞれが自分で動いているんだもの。
それが教室での小さな民主主義の第一歩だと思う。
写真はこの夏、北海道にて。
それぞれ自由に育っております。コントローラ-は自分でもっておるようだ。