『宿題をハックする』
宿題の記事、けっこう反応が大きかったです。
フェイスブックに書いた、
気づいちゃったんだけど、学校教育って、家庭での宿題や課題を前提でカリキュラム考えているんだよね。なぜだろう。考えてみると不思議。そもそも履修の量が多すぎるのか。その前提を疑ってみるとどうだろう?最初から「家庭ではやらない」を大前提でつくっていったらどんなかたちになるだろう?思考実験として興味深い。
にもいろいろなコメントをいただき、せっかくだからさらに思考を深めようとこれを読み始めています。
まえがきから熱い。
毎日の宿題に効果があることを示すだけの研究結果がほとんどないにもかかわらず、生徒の学びの可能性を破壊するようなことを、教師に(そして、結果的に生徒に)対して私たちが期待し続けるのはなぜでしょうか。
生徒は、すでに十分な努力をしているのです。それゆえ、彼らには大人が介入しない主体的な遊びに費やすだけの時間が必要なのです。遊びをとして、ワークシートを埋めることからは得られない大切な車騎的スキルを身に付けることだってできるのです。
かなり強めに批判していますね。
さらにはこんなふうに書いています。
宿題(家庭学習)は、教育においてもっとも誤用されているツールです。あまりにもたくさんの矛盾する考えが、宿題という枠組みの中に組み込まれています。顕著なものとしては、学校で学ぶことのほかに出される課題と、より自然な状況で行われる遊びや学びとの間に矛盾があります。生活と直接関係しない宿題を出した時は、生徒の時間に対する価値をおとしめているだけではなく、学ぶことの価値も軽んじていることになります。
「もっとも誤用されているツール」とはさらにぐいっと踏み込みますね。大切なポイントは「誤用」といっているところ。いらないといっているんじゃないんですよね。
まえがきはこんな文章で締められています。
結論を言えば、読者の皆さんに、すべての生徒が学ぶことを好きになり、授業時間以外においても学ぶことを促すといった、従来の宿題に代わる理にかなった方法を検討していただきたいのです。
単に批判するのではなく、前提を疑って、よりよいものに変えていこう!という姿勢がぼく好みです。
では実際にどんなハックがあるのでしょうか?目次は以下の通りです。
目次
1 宿題を毎日やらせない―悪い習慣の方向転換を図る
2 教室で計画実行の仕方と責任の取り方を教える―アカウンタビリティーと時間の管理能力を高める
3 信頼関係を築く―学習を促進する建設的な関係を構築する
4 生徒のニーズにあわせた特別仕様にする―課題や時間を柔軟に
5 生徒に学びを奨励する―イノベーションと創造性を促進するために
6 授業の前に好奇心を刺激する―学びへの興味関心を生み出すつながりをつくる
7 デジタルでやり取りする場を活用する―学びのためにソーシャルメディアを利用する
8 生徒の発言を拡張する―宿題の内容と方法を生徒が選択できるようにする
9 家庭と協力する―保護者に教え方のモデルを示す
10 成長の過程を見えるようにする―生徒が自分で成長を記録し、確認できるようにサポートする
目次から想像できることあるかもしれませんが、この本、実は宿題を変えよう!という提案にとどまっていないんですよね。学習者が自立して学び手、ぼくの言い方では、学びのコントローラーを自分で操作する学び手になるための方法と、大人の役割をまとめてある本なのです。つまり、日々の学校の学びのあり方自体を学習者中心に変えようよ、という大胆な提案書です。
あたりまえですが、宿題単体で語れることなんてないわけです。日々の授業、学校のあり方と地続きなんですよね。
大人がどのように生徒に伴走すれば良いかも具体例(ストーリー)で描かれていてわかりやすい。2学期前に一読をお勧めしますし、保護者として子どもとどう関わるかのヒントも満載です。
ちなみにこのハックシリーズ、どれもおもしろいですよ。是非一読を。単純に反対!するわけではなく、それをおもしろく工夫しちゃおうという姿勢が素敵。そしてその中に本質的な提案が隠されている名シリーズです。
それにしても、
「宿題を出すことで、家庭や社会にどんなメッセージを出していることになるのか?」
は深めるべき問いだな。
家庭や社会の学校化の一翼を担っているのかもしれない仮説。
では。
私たちは宿題に何を望んでいるのだろうか。
この夏、軽井沢風越学園の説明会(風越づくりミーティング)でも話題にしたが、「宿題」のことについて最近よく考えています。
宿題については本当にいろいろな意見があります。
ぼくも公立の教員時代は毎年試行錯誤でした。基本的には「家に帰ったら思いっきり遊べー!」と思っていたので、宿題を出さなかった年もあります。そのときは保護者から「宿題がないと家で勉強しないのでだしてほしい」「他のクラスが出ているのにこのクラスだけ出てないと差が出る」という意見をたくさんもらいました(管理職にも電話が…)。ちなみにこの年は学級通信で「宿題はサービスである」と公言、つまり出してほしいという家庭があるのでそこへのサービスとして出すが、やるかどうかは各家庭で相談してほしい、やらないからといって注意したりもしないし、出したからと言ってほめもしない、としたわけです。
あの頃ぼくは若かった。
その後、宿題(10−15分程度で終わるもの)を出してあとはそれぞれで!とした年もあれば(これはこれで「少ない!」という声が出たりする)、思いっきり宿題を出していた年もあります。自主学習として、ちょこっとの宿題と、あとは自分で計画して「自主的に」やる、みたいなことも長く試してきました。 これは伊垣の実践に詳しいです。基本的にはこのやり方を追試してきました。歴史的には「自学ノート」という実践の積み重ねがあります。
その時の実践はこんな感じ。
せっかく取り組むなら、自身の「〜したい」からやってほしい、でも「ねばならぬ」ことや継続する方がよさそうなもの(読書や漢字や計算練習など)はちょこっと出していたり、ようは折衷案的にやってきたわけです。
でもよく考えると「ねばならぬなら、家でやるのではなく学校でこそやるべきなんじゃないの?」「継続が必要ならそれこそ学校でやるべきなんじゃない?家庭でやることにすると、各家庭環境に左右されるから格差が開く一方でしょ」と当然な考えが浮かんでくるわけ、わけがわからなくなってきます。
「自主学習を通して自分で学んでいく子になってほしい」とかなり真剣に思っていたわけですが、「それこそ日々の授業の中で達成すべきことでしょ。なぜそれを家庭で?」と誠にもっともな反論が自分の頭の中に浮かぶわけです。
さて、軽井沢風越学園では、現状あまり宿題はないんじゃないかな。保護者からは、宿題を出してほしいという声があります。宿題がないことで親子のバトルが減って穏やかに過ごせているという声もあったりします。スタッフの間でも、「宿題は効果があるのだから、最低限出す方がよい」という声と、「基本的に家庭の時間なのだから学校が口を出すべきではない」という声と、「自分で学びのコントローラーを操作できるようになれば、必要なことを自分自身で考えてやるようになるだろう。それを待とう」という声などがあります。
子どもの中にも「出してほしい」「いやいらない」「出されないと死んでもやらない」「少しはあるとうれしい」なんて様々な声があり、子ども×保護者×スタッフで一度じっくり話したいなと思うぐらいバラバラです。宿題への考えの背景にはその人の学習観があるはずで、「そもそも学ぶとは何か」を考えるよい切り口だと思っています。
話がそれました。そもそも宿題って効果があるのでしょうか。ジョン・ハッティの『教育の効果』に宿題についてのメタ分析の結果が載っているので参照してみます。
(p248-250)。
この本では、大きくはクーパーのメタ分析の結果に寄っているわけですが、箇条書きでまとめるとこんな感じです。
・宿題の効果は高校生では中学生の2倍、中学生では小学生の2倍である
(ということは小学生の宿題の効果は、高校生の4分の1。年齢によって随分違うな)
・最も効果が小さいのが数学、最も効果が大きいのが理科と社会。英語(日本語でいう国語)は中程度。
(日本では算数・数学の宿題が多いイメージ。なぜ数学が一番小さいのだろう)
・宿題の効果と宿題に費やした時間の間には負の相関。費やす時間は少ない方がよいが、小学生の場合には宿題に費やした時間と学習成果の相関はほぼ0。
(たくさんやっている方がよい、と感じる場合は、「勉強している姿」に大人が安心するからか。)
・タスク指向の宿題の方が深い学習や問題解決をさせる宿題より効果が高い。
(大人からのフィードバックなしにできる、基本スキルや浅い知識を身につけるための繰り返しに有効)
・高次の概念的思考を必要とする宿題やプロジェクト・ベースの効果は低い
(大人からの支援やフィードバック、学習者同士の学び合いが起きにくいからだろうと推測)
・宿題の効果は、能力の低い学習者より高い学習の方が、また年齢の低い学習者より高い学習者の方が高い。
(高校生に一番効果的なのはここか)
・宿題を与えることは、学習者の時間管理能力を高めることにはつながらない。
(意外。たしかに嫌々だらだらやってた我が子を思い出すと妙に納得)
以上をまとめると、年齢が上がるにつれて宿題は効果がある、タスク志向の基本スキルや浅い知識(暗記、練習、繰り返し)に効果が高い、ということでしょうか。小学校の宿題で漢字や計算練習が多いのは、実践的にこのことを現場の教師が感じ取っていたからかもしれません(出し方にはいろいろ文句を言いたくなるところもあるけど)。
ハッティの研究では「効果量」をだしている。d=0.40を基準(目標値)としているのだが、小学生ではd=0.15、高校生ではd=0.64と顕著な差があります。小学生には宿題はあまり効果がなさそう、と(この研究にかぎっていえば)いえそうです。
メタ分析は個別の学習者には適用できないし(全体の傾向を掴むのが目的)、あくまでも「従来の宿題ではこうである」ということです。ここはとても大事なところで、安易に「では高校生になったらドリル的なものを出せばよいということね」ということではないということです。
長々と引用してきました。宿題のことを考えるときに、経験や直感から「必要だ!」「無駄だ!」とやりあうよりも、少なくともこのような研究結果を参照しつつ、あらためて同じ土俵に乗って考えたいところです。
ここで「宿題を出すべきか否か」という問いだてで考えてしまうと、二項対立の問い方のマジックにハマってしまいます。問い立てを変えたい。
例えば「私たちは宿題に何を望んでいるのか」という問いを立ててみると、宿題にこだわる背景にはもしかしたら「家で勉強をしている姿を見ると安心(=みないと不安)」という要素があるかもしれません。そういう仮説を立ててみると、大人であるぼくたちが自身の不安を分析してみることができそうですし、「そもそも学校での学びの様子が伝わっていないからでは?」という学校側の情報発信や情報共有の問題も浮かび上がってくるかもしれません。
他にも、
・「学習者自身が意味と価値を感じられる『宿題』(もはやそう呼ばないと思うが)はどんなものか」。
・「家庭と学校の役割はどう重なり、どう違うのか」。
・「学校で学ぶことと、家庭で学ぶことはどうつながっているのか」。
・「そもそも学ぶとはなにか。そこでの大人の役割は何か」
・「効果のある宿題をみんなで発明しよう」
などなどいろいろな角度で考えられそうです。
宿題は昔からあるし、やるの当たり前だよね、みたいな地点にたったままだと、コロナ禍の中で授業時間の20%程度を補修や家庭学習で補うことが可能、なんて通知が文科省から出てきている今、「家庭でやってこいー!」と素直に現場が呼応してしまうことに「本当にそれでいいんだっけ?」と立ち止まれなくなってしまいます。
それにしても、ここまで網羅にこだわると負の側面しかないと思うけれど、またそれは別の機会に。
ハッティはこんな指摘もしています。
宿題によってかえって自力で学べなかったり学校の学習についていけなかったりということが助長されてしまう学習者はあまりにも多い。自力で学べなかったり学校の勉強についていけなかったりする学習者にとっては、宿題は動機付けを軽減させ、誤った学習行動を定着させ、効果的でない学習習慣を身につけてしまうことにつながりうる。このことは、特に小学生にとって当てはまる。
宿題を考える前にぼくたちが向き合うべきこと。それは一人ひとりの学習者に日々伴走できているだろうか、自主性という名の放置になっていないか、そこにつきます。
さらに言えば、日々の学校での学びが「自分の学びのコントローラーを自分で操作する」経験になっているか、子どもが「〜したい」と情熱を燃やす経験の中で学習者としてのアイデンティティを築きはじめているか、自身の変化や成長を感じられているか、です。まずそこに向き合いたい。そこを飛ばして「家でやってこいー!」はあまりにも乱暴。
日々の学びに没頭して、思わず家でも続きをやりたくなる。読み始めた本がおもしろくて思わず続きを持ち帰ってしまう。進みたい道が見えて、そのために自身で計画して、学習を進め始める(中学生はこうなっていくといいな)。
そんな姿を理想を思い描きつつ、「いやでもやっぱり家に帰ったら、子ども時代を思いっきり謳歌して遊びひたればいいんじゃない?」とも思ったりもします。子ども時代に経験したいことって「学校の勉強」ばかりではないからです。このことは最近考えていて、あらためて「あそぶ」ということを軸にまとめてみたいと思います。
一方で「読書ぐらいは毎日家でやるといいよなー」とも強く思いつつ、2学期もあれこれ葛藤し対話しながら進んでいきたいと思います。
(ちなみに直感的には「宿題」という概念が消えていく。子どもの遊びや学び、つまり経験が地続きになっていくイメージ。メモ程度に残しておく)
つくり手であり続けるということ
ぼくの夏休みは明日でおしまい。怒涛の1学期は遥か昔のような気がする。もう少しだけのんびりしようと思いつつ、そろそろ再始動だな。
1学期、コロナ禍で全国的にオンラインへの対応を迫られ、そのスピード感に「学校教育を根本から問い直すチャンスである」という機運もあったけれど、通常登校に徐々に切り替えられるにつれて、その機運もしぼみつつあり、なんだか全速力で「元に戻ろう」としているようにも見える。
授業時数確保のための夏休みの短縮、行事削減、土曜授業実施、7時間授業、教科書の内容を授業と家庭学習に分けて家に持ち帰らせるなど、「通常」に戻るための知恵を絞っているようにも見える。(ぼくがかつて教員をやっていた某市は夏休み10日間だそうだ・・・)そこには学習の当事者たる子どもの声は聞こえてこない。3密を避けるという号令のもと、コミュニケーションを分断され、決められた防護策を守らされる。子どものための余白の時間は「時数確保のため」にカットされていく。
いったい私たちは何をしているのか。
今こそ子どもを真ん中に置いて、学校を再設計するチャンスなのに。学校は本来、人が成長していく、どんな子も幸せな子ども時代を過ごす場、自分(たち)の成長を実感する場。そんな場が楽しくないわけがない。世の中で一番希望を持って語られるべき場なのはずだ。
ぼくは公立学校の可能性を信じている。しかし、同時に公立学校は変わっていく必要があるとも考えている。これからの社会を創っていく子どもたちとって、教室での経験は「20年後の社会」のありようにつながっている。主体的に学校や自身の学びをつくる経験は、主体的に社会に参画しようというマインドを育て、「言われた通りにする」経験を積み重ねれば、受動的で消費的なマインドを育てるだろう。
自分の人生をデザインしつくっていく主体性・創造力は前者でこそより育つ。では、誰がそんな学校をつくるのか。教員だけが頑張ってもそんな学校はできない。「子どもこそがつくり手である」とぼくは考えている。
ぼくは今、私立学校にいる。「それは風越だからできるんですよね」という声を本当にたくさんきく。もちろんその側面はある。
でも本当に全てがそうだろうか?
共通する「大切なこと」があるのではないか?私たちの試行錯誤を触媒として、それぞれの現場にいる多くの子どもの日常が少しでも変わっていくことを共に探究できないだろうか?
公教育が変わっていく触媒。公立にいる時も、大学にいる時も、今も、その思いは変わらない。変化の種は手元にあるということを手放したことはない。
軽井沢風越学園は、子どもも大人も「つくる」経験を、じっくり、ゆったり、たっぷり、まざって積み重ねていきます。
本気で手間をかけて「つくる」ことに没頭し、ときには不安や不安定さを味わいながら「つくる」ことに挑戦していきます。
私たちは子どもこそがつくり手であることを信じています。
ここでいう「つくる」は物理的なものや学習の成果物だけにとどまりません。安全・安心な場を自分たちでつくる、学びをつくる、自分たちの学校をつくる、コミュニティをつくる、仕組みをつくる、ルールをつくる、自分をつくる。つまり、「わたし(たち)の未来をわたし(たち)でつくる」冒険をするのです。
子どもたち、スタッフ、保護者、地域の方々など、軽井沢風越学園では誰もがつくり手です。
「つくる」ことを通じて、「自由に生きる」ということと「自由を相互に承認する」ということを繰り返し試していきます。そうすることで、1人ひとりが幸せになり、幸せな社会をつくっていくのです。
これはなにも軽井沢風越学園だけのことではなく、多くの学校で大切にしてみてはどうだろうかとぼくは思う。
よりよい学校は自分たちでつくっていくもの。つくっていくためのコントローラーはぼくたちの手元にある。「よりよい学校とはどのような学校か」を探究し続け、自分たちでつくっていく。そのプロセスで「自分が行動すれば自分を取り囲む環境は変わるのだ」と実感する。その経験は、ひいては社会に対する効力感につながり、主体的に社会をつくっていく市民になっていく。つまり子どもも大人も共に「なっていく」プロセスの只中にいるということだ。
学校が変わっていける鍵はここにあると思う。
とはいえどこから始めたらいいんだ・・・と日々の営みの中にいるととっかかりを見つけにくいかもしれない。小さくて手元からできることもある。明日からできることもある。その具体的な小さな第一歩はどこだろうか。まずは自分たちの学習環境を自分たちでつくる、からスタートしてみてはどうだろうか。急ぎたくなる今だからこそ、ゆっくり共につくることから始めたい。
学習環境をとらえなおす
日本の学校建築の多くは、同じ形の教室が廊下に沿って一直線に並んでいる、いわゆる片廊下型校舎である。そのような教室の形式は「他に対して閉鎖的であり、この中では1人の教師によってクラスメンバー全員が「一斉進度学習」によって主導されることが学校教育の基調となる」といわれるように、現在の一般的な教室環境が、教師主導の一斉授業を強化してしまっているとも考えられる。
全国的には、70年代からオープンプラン・スクールをはじめとした子どもたちの学びやすさに焦点を当てた学校建築は増えたが、先進的な学習環境も当事者にとって「与えられた環境」になってしまい十分に機能していない所が多いときく。渡辺(2017)は、
「その空間に込められた思想を教師たちが活かそうとしなければ、新たな学校建築上の試みは役に立たなかったり、かえって「他と違っていて不便な施設」と認識される可能性がある。実際、教室の横に配置された、子どもが数名中に入ってくつろいだりできることを意図された「アルコーブ」と呼ばれる小さな空間が、教師たちに単なる物置として使われ、子どもが寄りつかなくなってしまっているといった例が、学校建築の「先進校」とされる学校においてさえ見られることもある。設備があっても、教師たちにその空間を活かそうとする構えがなければ、その設備は活かされない。」
と指摘しているが、残念ながら、ハードとしての学校建築を変えたからといって、ただちに子どもたちの学びに変化が起きるわけではない。大切なことは、空間の意味と価値を踏まえ実践を変えていこうとする意識や継続的な取り組みだ。ただ学校建築を一から検討できるチャンスはそうあるものではない。でもそこで諦める必要もない。
澤本(1996)が、
教室といえばようかん型の校舎に同じ長方形の教室が長廊下の片側に並ぶ現行方式しか思い浮かべられない教師は、その枠の中でしか授業を考えれない。木陰の読書、屋上での合唱や詩の暗唱、廊下に机を出したひとり学び、廊下コーナーのパソコンコーナーやミニ美術館等々、頭を切りかえれば、いろいろなアイデアがわいてくる」
というように、従来の学校建築の枠中でもその空間の活用の仕方次第で様々な可能性が広がっていくはずだ。
教室リフォームプロジェクト
見方・考え方を変えれば、実は一般的な教室にも多くの利点がある。自由に移動できる机と椅子、余計な壁や柱がないすっきりした部屋……見方を変えれば、自由度の高いフレキシブルな学習空間と見ることもできる。
ぼくが小学校で担任をしていたころ「教室リフォームプロジェクト」を行ってきた。
学習の当事者である子どもたちが主体的に参画して、「どうすれば居心地のよい空間になるか」「どうすれば学びやすい環境になるか」のアイデアを出し合い、協働で教室環境をつくっていくのである。先に澤本が指摘していることを学習者と共に試行錯誤する営みだ。
このプロジェクトで重要なのは、
①学習者自身が「こうしたい」というアイデアを出すこと。大人である「わたし」も共に考えること。
②子どもたちが実際に空間をデザインしてみること、
③まずプロトタイプ(試作品)を試し、不都合があれば改善を図ること。
この3点を大切にしながら、継続的に実践を重ねることによって、子どもたちは学びやすさや居心地のよさに敏感になり、「毎日過ごす教室の環境を、自分たちの手でつくり続けたい」というオーナーシップ(物事を自分事と捉え、主体的に取り組む姿勢)が育まれていく。子どもこそがつくり手であることを実感する時間だ。
教室だって変えられる。
学習環境を教師が準備して「あげる」のではなく、学びの主体であり教室のオーナーである子どもたちと一緒につくる。
机をアイランド(グループ)に固定することで、協同的な学びをクラスの中心とする。座り方ひとつで学び方が変わっていく。私は30歳の時に、アイランドで固定することで、自身の授業スタイルを変える縛りとなった。
共同を促しやすいので、異学年合同の学び、自律した個の学びに合った環境といえる。
例えば畳を置いて図書コーナーを作る。畳は人が集う場を促す。本を読んだり、少人数で話し合ったり。教室を学習コーナーにわけることで、様々な学び方が同時に起きやすくなる。
キャンプ用の椅子は「クールダウンチェア」。感情が揺れた時はここに座ってクールダウンする。誰が使っても良い。ぬいぐるみを抱きながら座っている人は、みんなで気にしつつそっと見守る、をお互いが居心地良く過ごすためのマナーにしていた。
子どもたちが自分たちで試行錯誤することが大事である。図書・畳コーナーを窓際に寄せてみたこともあった。手が届くところに本があると、読書をする子は飛躍的に増える。この経験が風越でのライブラリーセンターの校舎につながっている。
kazakoshi.ed.jpぼくの中では地続きでこうなることは必然だった。
人が集うベンチを置いたことも。子どもたちと一緒にベンチを作り、朝の会や帰りの会、授業で全員で集まって話す際のコーナーとして活用した。集まる場所をつくると人は集まる。畳コーナーも同様だ。風越の各ホームベース(荷物を置いたりミーティングをしたりする小さな部屋)にもベンチは置かれているし、2階のROOM(汎用教室)には畳の小上がりがある。そこにいる子を見るとちょっと嬉しくなる。
2020年6月 校舎紹介 on Vimeo (4分01秒あたり)
こんな小さな工夫も大切。環境をより良くすることは自分たちの手元にあることを実感できる。
子どもたちの現状に応じて、やりたいこと、やれるところから小さく出発していくことが大切だ。
「やってあげる」から「自分でやってみる」へ。
教師が手を尽くすことで、子どもの主体性を奪っているかもしれないことに自覚的になりたい。
この教室リフォームプロジェクトは、教室という手元からスタートできる。
この学校版が「風越づくり」だ。
「だれもがつくり手である」という大切にしたいことが根底にあれば、それぞれの現場でそれぞれのサイズでできることがある。
風越の校舎、手前味噌ながら考え抜いてつくった。今のところ校舎という環境が生み出すことがプラスに働いているようにぼくには見えているが、それはあっという間に日常になり、先に渡辺が指摘していたことも起きかねないし、その兆候がみえなくもない。例えば7月に入って校舎内が散らかりはじめたが、それが当たり前になっていたり、気づいている大人が声を上げていなかったり、みたいなことが大人でも起き始めている。常に大切にしたいことに戻る。言葉では簡単だが日常にするのは大変だ。
共同修正
教室リフォームプロジェクトにおいて身につけてほしいものは、ハウツーではなく考え方である。現状の空間をどうリデザインするかを、すべての当事者がともに考え試してみる。教室いう小さな空間の改善から目覚めたオーナーシップは、やがてその他の環境、ひいては社会への当事者性と、自らの行動による改善可能性への確信へとつながっていくのではないだろうか。
それは、OECDが「OECD education 2030」の中で、これからの教育で重要なのはエージェンシー(社会参画を通じて人々や物事,環境がより良いものとなるように影響を与えるという責任感を持っていく姿勢・態度)だと言っているが、それは手元で子どもと共に学習環境を試行錯誤する、こんな一歩から地続きだとぼくは信じている。
教室環境をどうしたら子どもたちは使いやすいか、学びやすいかなあと考える時、エンドユーザーである子どもたちに、「ねえ、どうすると使いやすくなる?」と相談して一緒に教室環境をつくっていく。意見が割れたら、「じゃあ、1週間ずつ試してみて、よかった方でいこう。」と一緒に実践研究する。教室環境を「共同修正」する。
共同修正=そのコミュニティのメンバーでよりよくし続けるプロセス。
学校のあらゆることで、子どもたちと共同でよりよくしていく。本気で子どもや大人がが参画する場をつくる。「共同修正」を学級の、学校の核に据えると腹を決める。それが民主主義の第一歩ではないかと思う。
例えば自立した個の学びのための学習計画表や学習進度、振り返りを記入するワークシートも、「試しにこんな形式にしてみたんだけど、使ってみていろいろ意見ください」と問う。使っている本人ならではの建設的な修正案がたくさんもらえるはずだ。このようにワークシートも「共同修正」すると、圧倒的によくなっていくし、なにより子どもたちが消費者から「つくり手」に変化していく。
極端なことを言えば、研究授業においても、子どもたちに授業案を示して、「どう思う?」と相談したっていい。「導入はもう少し時間とった方がいいんじゃない?ペアでの対話で3分は短い。1人しか話せない。」
「振り返りはノートよりジャーナルの方が書きやすい」
「全体での対話は、10分じゃ足りないよ」
「ホワイトボードに話し合いのテーマ書いて出しておけば?」
「途中、見に来ている人にに『〜って私は思うんですけど、どう思いますか?』って聞いてみよう」
「そもそも、課題が簡単すぎるんじゃない?」
「参観者が見やすいように、教室のレイアウト変えた方が良いかも」
ぼくが担任していた子たちは教員の指導案検討さながらの真剣さで授業案を共同修正した。
人には力がある。
その力は普段は見えにくかもしれない。大人も子どももそう見えないかもしれない。
しかし「つくり手」になったときに、力みたいなものがぶわっと湧き出てきて、呼応し合うんだよなと思う。
《引用・参考文献》
①上野淳『学校建築ルネサンス』鹿島出版会、2008年。②田中耕治他 『教育方法と授業の計画 (教職教養講座)』協同出版 2017年
③澤本和子『学びをひらくレトリック』金子書房、1996年。
④岩瀬直樹ほか『子どもとつくる教室リフォーム』学陽書房、2017年。⑤岩瀬直樹・吉田新一郎『シンプルな方法で学校は変わる 自分たちに合ったやり方を見つけて学校に変化を起こそう 』みくに出版
リフレッシュのために積読を片付ける。
軽井沢風越学園、開校からオンライン、分散登校を経て6月から通常登校。怒涛の1学期を終えてようやく夏休みを迎えた。
4月の開校「はじまりの日」が1年前に感じられるほど濃密な4ヶ月だった。大変だったけれど、この想定外のことが起きたからこそグッと前に進めたこともあるし、組織としても速いスピードで変化したのではないかとおもう(それは自身の変化と相似なのだが、またそれはあらためて。ぼくにとっても大きな気づきを変化を感じつつある4ヶ月だった)。
只中にいるとどうしても近視眼的になったり、「目の前の」問題解決に夢中になってしまいやすい。そこで長期休みに入ると一度ノーミソのリセットをするようにしている。こう書くとかっこいいけど、要は「キャンプでリフレッシュ→読書でノーミソリフレッシュ」。
すぐにキャンプに出発。穴場なので人が近くに少なくて安心。
まずは積読だった娯楽系の小説でノーミソリラックス。
信頼する同僚に薦められた2冊。どちらもよかったなー。クスノキの番人の終盤は流石の東野圭吾。この2冊でなんと言うか気持ちがリセットされた。
続いて、こちら。
長らく積読しているうちに行方不明になり、図書館で借りて読んだ。風刺の効いた近未来SF。文章の感じはあまり好きではないし、風刺も真っ直ぐで娯楽にまで高め切れていないなと思いつつ、でも面白くて数時間で一気に読了。間違いなくこの国はこうなりつつある。娘に薦めよう。
次は、
朝日新聞の書評を読んで購入。軽くて1時間もあれば読めちゃうけど、リフレッシュにはもってこいだったな。どうしてどうしてなかなか問いかけてきます。
ここらで気持ちが元気になってきたので、すこしずつ仕事関連を。
めちゃめちゃ刺激的。続いてこちらも。
こちらはKindleで一気に。この2冊、方向性が違うようで共通点が多い本。どちらも必読だった。
勢いでこれも再再読。
この夏最大のヒット。学校のサイトもみてあるいてます。
この3冊で、ちょっと思考が現実的により過ぎた。まだ戻ってくるの早いぞ俺!と言うことでもう少し世界を大きく眺めるために、こちらを読みはじめました。
うん、面白い。
4日で8冊なら順調かな。だいぶ気持ちがリフレッシュされました。
さて、ビール飲んでもうひと読みみします。キャンプ×beer×読書は、最強の組み合わせだな。
これに読書会をプラスして、誰かと話をしてみたい気持ちも少し。
では引き続き良い夏休みを。
ぼくは明日から、これの再々サイサイ読に入って、緩やかに日常に思考を戻していきます。
学び系の読書に戻していこうー
学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する
- 作者:ピーター M センゲ,ネルダ キャンブロン=マッケイブ,ティモシー ルカス,ブライアン スミス,ジャニス ダットン,アート クライナー
- 発売日: 2014/01/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
この夏のインプット予定メモ。
この夏はとにかくインプットを刺激にして、着想を広げる。
その着想をかたちにする。
再読も含む読書予定メモ。
学習者中心の教育を実現する インストラクショナルデザイン理論とモデル
- 作者:C.M.ライゲルース,B.J.ビーティ,R.D.マイヤーズ
- 発売日: 2020/07/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
★★★★★
2周目。具体例はないので読む人にある程度経験が必要か。この本からの着想限りなし。おすすめすぎます。
これまた★★★★★。以前から注目していたSummit public schoolの本。題名が自己啓発な感じなので、気づかなかった。刺激を受ける本。まだまだやれることあるなー。
ちなみにこの本は、竹村さんの本から知った。
今の教育の潮流を外観できる良書。
再読。1冊目の具体として。
ミンスキーの新訳本がでていたとは。エッセイ集ですね。目次からして刺激的。
自分の関心の方向がハッキリしているなあ。
Essay1 無限の組み立てキット
Essay2 まえがき ―ハル・エーベルソン
Essay2 数学を学ぶのはなぜ難しいのか
Essay3 まえがき ―ゲイリー・ステーガー
Essay3 年齢別クラスの弊害
Essay4 まえがき ―ブライアン・シルバーマン
Essay4 ロール・モデル、メンター、インプリマから学ぶ
Essay5 まえがき ―ウォルター・ベンダー
Essay5 一般教育を問う
Essay6 まえがき ―パトリック・ヘンリー・ウィンストン
Essay6 教育と心理学
★★★★★
本から受けた刺激や妄想をどう形にしていくかの具体として。
★★★★
再読。経営ってことを0から見直さなくちゃな。
★★★★★
再読しよう。一度うかがいたい。
★★★★★
6月下旬から7月上旬のしんどいときに支えてくれた本。
再読のタイミング。
積読から引っ張り出してきた。 今がタイミングの気がして。
★★★
必要な部分だけ再読しよう。
これも再読しなきゃ。教師教育に再度関心が高まっている。
学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する
- 作者:ピーター M センゲ,ネルダ キャンブロン=マッケイブ,ティモシー ルカス,ブライアン スミス,ジャニス ダットン,アート クライナー
- 発売日: 2014/01/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
もうボロボロになるまで読んでる。
この2冊も読み直そう。
以下はお楽しみ用。めちゃ楽しみ!
では良い夏を。
Whatever it takes.
学校を超えた学校
軽井沢風越学園がスタートしてもうすぐ4ヶ月が経つ。
通常登校が始まってからは2ヶ月。4年の歳月をかけてきた学校がいよいよ開校、となってもっと感慨深いものかと思っていたら、それは一瞬で、すぐに「よりよくするには」でノーミソが止まらなくなる。
満足するタイミングなんてないのだろう。
で。
今起きていることを毎日じっくり観察しつつ、それを思考の取っ掛かりに、3年後、5年後、10年後を構想すしたい。そのためには圧倒的にインプットが足りていない。というわけでがんがん読んでいます(再読を含む)。ぼくは読むことで思考が刺激されてr着想が生まれるタイプなので、インプットなくして思考がジャンプしない。
最近再読したのがこれ。
最初に読んだのは20代前半。その頃に引いた線が今もなお残っている。改めて読み直すと、当時全然わかっていなかったことに気づく。実践を通して経験したことがあることで読めることが変わる。
びっくりしたのが200ページの「学校を超えた学校」。
長いが引用してみる。
急進的な開放教室では、教科の時間割がなくなり、同時に学級と学級との間の壁、さらに学校と(日常生活の場である)地域社会との間の壁も大幅に低められている。とり去られるところ まではいかないにしても、である。
普通の学校のように、二時間目は算数、三時間目は国語と いうふうに授業が行なわれるのではない。それぞれの子どもが、いわば自分なりの時間割をっ くるのである。いくつかの基礎教科については年間の最低ノルマが決められているものの、それ以外に何をするかは、子どもによって違う。小学校の高学年ぐらいになると通常は、一週間 ごとに子どもがたてる計画に教師が助言を与え、合意したところで一人一人別々の時間割がきまる。
助言を与えるといっても、なかにはかなり強引な教師もいるが、これに対しては頑強に 抵抗する子どももいて、この時間割をつくるということ自体が、ある意味では興味深い社会的 相互交渉の場になっている。時間割をどうこなすかも、子どもの自由にまかされている。
だから一つの教室のなかに、国語をやっている子どもたちと算数をやっている子どもたちが同時に存在するということがおこりうるわけである。国語といっても、本を読んでいる子どももいれば、一生けんめい作文を書いている子どももいる。大体、開放教室は他の教室よりもさわがしい。
それで、とくに集中し て何かをしたいというので、ダンボール箱のなかに頭をつっこんでやっている子どもも出てくる。教室間の壁も低くなっているから、子どもたちは必要と思うときには図書室にいったり、 あるいは理科の実験室にいったりしてもよい。
教科に含まれない活動もいろいろあることに注目したい。たとえばその地域の彫金の上手な人をよんできて、実演してもらうといったことも行なわれるし、大学のフットボール選手がたまたま町に帰ってきていると、その人にコーチしてもらうといったようなこともありうる。
小学校の高学年になると、付属の幼稚園にいって先生の手伝いをする、といった活動も取り入れ 避られている。このことが学ぶ側の自己選択の可能性を大きくするだけでなく、自分が獲得した知的有能さが現実の生活のなかで役に立つという実感を与えるのにも寄与していると思われる。代行主義と身分段階制を軽減したことの効果は、学校での経験や学習一般への子どもたちの肯定的な態度―学校へ行くのが楽しい、勉強がおもしろい、など―に反映されているように思える。
1984年にすでにここまで書いている。先人はここまで具体的に進んできている。その巨人の肩にのりつつ、やはりその先の未来を描きたい。
今ハマっている本はこれ。
学習者中心の教育を実現する インストラクショナルデザイン理論とモデル
- 作者:C.M.ライゲルース,B.J.ビーティ,R.D.マイヤーズ
- 発売日: 2020/07/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
これは必読ですね。これ読まずして学習者中心の教育は語れなくなるでしょう。ただ章によって訳のクオリティがバラバラで読みにくさもあります。
この本は全部の章読む必要はなく、読みたいところから。僕の関心では、
第1章 学習者中心の教育パラダイム
第5章 カリキュラムの新しいパラダイム
第9章 自己調整学習のためのインストラクションのデザイン
第10章 教育的コーチングのデザイン
の4つが思考を進めてくれました、
27ページには、
学習者中心の教育パラダイムは、指導者中心のパラダイムとは根本的に異なる。達成度基盤型の教育の普遍的原理が意味することは、私たちが知っている学年、成績、そして教室でさえも、学習者の成功には不適切で有害であるとの指摘である。その結果、指導者中心のパラダイムの成功事例と、学習者中心のパラダイムの成功事例とでは似ているところがほとんどないのが普通である。
と挑戦的です。
この数日刺激をうけまくっています。歯応えがあるので万人にはお勧めできませんが、これからのカリキュラム、評価を考える上では欠かせない本ですね。
並行して、これ読んでます。
行間の密度が高すぎて、お腹いっぱいになります。石井さんの(現時点での)教員向けの集大成の本。大学院に残っていたら教科書にしたろうな。
この本が次は再読の順番待ち。
新たな情景をえがく。
すっかり滞っております。
言い訳のようですが、軽井沢風越学園のホームページにはちょくちょく書いてるのです。
通常登校が始まって1ヶ月。ようやく落ち着いてきたのと、僕にも心境の変化もあったので、こちらもちょこちょこ書いてみようと思います。こちらは自分へのハードル下げて、気楽バージョンでお送りします。
学校づくりをはじめて、本城とぼくが最初にやったことは、「未来の学校の情景」を描くこと。学校の具体的なイメージを文章で表してみる、ということです。
これを読み合い、修正しあい、対話することで、未来の情景を描いていきました。
個人的には、KAIが描いたこの情景が好き。https://kazakoshi.ed.jp/kazenote/scene/3182/
さて。
久々に事務所に寄ったら、荻上由紀子さんが描いてくれた、学校の情景を読んでイメージの絵を見つけました。2017年。もう3年前だ。
改めて眺めてみると、こんな感じに今なってきているなあと。絵を見て、ああ開校したんだなと、ちょっとグッとなった。
この情景が引っ張っていってくれたことがあるのかもしれない。
何かをはじめるとき、何かを変えるとき、「どう変えるか」「どうつくるか」から入ると大抵残念な感じになる(当社比)。未来の情景を描きあい、対話するところからはじめたい。
そしてここからが大事なところなんだけど、これからの情景は子ども、スタッフ、保護者の手によって、新たに描かれていくんだなあと。どんどん変化し、色鮮やかになっていくんだなあと。
新たに描かれていく。そうすれば「正解」に向かっていくのではなく、末広がりな未知へと広がっていけるから。
これまでの情景はそろそろ手放すときなのかもな。
「軽井沢風越学園の2030年の情景を新たに描く」とか、みんなでやっても楽しそうだな。うん、いつかやってみよう。
ちなみに、荻上さん、大好きなイラストレーターで友人。ぼくが関わった本では4冊も描いてくれています。
以上「つくり方3部作」(勝手に命名)。
『最高のクラスのつくり方』はクラスの子どもたちとの共著。『せんせいのつくり方』はアンディとの共著です。
あ、あとは振り返りジャーナルの本。
このブログのトップページのイラストも荻上さん。ぼくの教室に遊びにきたときの情景を描いてくれました。特に『きょうしつのつくり方』のイラスト、本当に好きなんです。教室に通って、教室の空気を描いてくれたのでした。是非手に取ってみてください。
おぎー(荻上さん)、そろそろまた学校に描きにきてください!