学校を超えた学校
軽井沢風越学園がスタートしてもうすぐ4ヶ月が経つ。
通常登校が始まってからは2ヶ月。4年の歳月をかけてきた学校がいよいよ開校、となってもっと感慨深いものかと思っていたら、それは一瞬で、すぐに「よりよくするには」でノーミソが止まらなくなる。
満足するタイミングなんてないのだろう。
で。
今起きていることを毎日じっくり観察しつつ、それを思考の取っ掛かりに、3年後、5年後、10年後を構想すしたい。そのためには圧倒的にインプットが足りていない。というわけでがんがん読んでいます(再読を含む)。ぼくは読むことで思考が刺激されてr着想が生まれるタイプなので、インプットなくして思考がジャンプしない。
最近再読したのがこれ。
最初に読んだのは20代前半。その頃に引いた線が今もなお残っている。改めて読み直すと、当時全然わかっていなかったことに気づく。実践を通して経験したことがあることで読めることが変わる。
びっくりしたのが200ページの「学校を超えた学校」。
長いが引用してみる。
急進的な開放教室では、教科の時間割がなくなり、同時に学級と学級との間の壁、さらに学校と(日常生活の場である)地域社会との間の壁も大幅に低められている。とり去られるところ まではいかないにしても、である。
普通の学校のように、二時間目は算数、三時間目は国語と いうふうに授業が行なわれるのではない。それぞれの子どもが、いわば自分なりの時間割をっ くるのである。いくつかの基礎教科については年間の最低ノルマが決められているものの、それ以外に何をするかは、子どもによって違う。小学校の高学年ぐらいになると通常は、一週間 ごとに子どもがたてる計画に教師が助言を与え、合意したところで一人一人別々の時間割がきまる。
助言を与えるといっても、なかにはかなり強引な教師もいるが、これに対しては頑強に 抵抗する子どももいて、この時間割をつくるということ自体が、ある意味では興味深い社会的 相互交渉の場になっている。時間割をどうこなすかも、子どもの自由にまかされている。
だから一つの教室のなかに、国語をやっている子どもたちと算数をやっている子どもたちが同時に存在するということがおこりうるわけである。国語といっても、本を読んでいる子どももいれば、一生けんめい作文を書いている子どももいる。大体、開放教室は他の教室よりもさわがしい。
それで、とくに集中し て何かをしたいというので、ダンボール箱のなかに頭をつっこんでやっている子どもも出てくる。教室間の壁も低くなっているから、子どもたちは必要と思うときには図書室にいったり、 あるいは理科の実験室にいったりしてもよい。
教科に含まれない活動もいろいろあることに注目したい。たとえばその地域の彫金の上手な人をよんできて、実演してもらうといったことも行なわれるし、大学のフットボール選手がたまたま町に帰ってきていると、その人にコーチしてもらうといったようなこともありうる。
小学校の高学年になると、付属の幼稚園にいって先生の手伝いをする、といった活動も取り入れ 避られている。このことが学ぶ側の自己選択の可能性を大きくするだけでなく、自分が獲得した知的有能さが現実の生活のなかで役に立つという実感を与えるのにも寄与していると思われる。代行主義と身分段階制を軽減したことの効果は、学校での経験や学習一般への子どもたちの肯定的な態度―学校へ行くのが楽しい、勉強がおもしろい、など―に反映されているように思える。
1984年にすでにここまで書いている。先人はここまで具体的に進んできている。その巨人の肩にのりつつ、やはりその先の未来を描きたい。
今ハマっている本はこれ。
学習者中心の教育を実現する インストラクショナルデザイン理論とモデル
- 作者:C.M.ライゲルース,B.J.ビーティ,R.D.マイヤーズ
- 発売日: 2020/07/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
これは必読ですね。これ読まずして学習者中心の教育は語れなくなるでしょう。ただ章によって訳のクオリティがバラバラで読みにくさもあります。
この本は全部の章読む必要はなく、読みたいところから。僕の関心では、
第1章 学習者中心の教育パラダイム
第5章 カリキュラムの新しいパラダイム
第9章 自己調整学習のためのインストラクションのデザイン
第10章 教育的コーチングのデザイン
の4つが思考を進めてくれました、
27ページには、
学習者中心の教育パラダイムは、指導者中心のパラダイムとは根本的に異なる。達成度基盤型の教育の普遍的原理が意味することは、私たちが知っている学年、成績、そして教室でさえも、学習者の成功には不適切で有害であるとの指摘である。その結果、指導者中心のパラダイムの成功事例と、学習者中心のパラダイムの成功事例とでは似ているところがほとんどないのが普通である。
と挑戦的です。
この数日刺激をうけまくっています。歯応えがあるので万人にはお勧めできませんが、これからのカリキュラム、評価を考える上では欠かせない本ですね。
並行して、これ読んでます。
行間の密度が高すぎて、お腹いっぱいになります。石井さんの(現時点での)教員向けの集大成の本。大学院に残っていたら教科書にしたろうな。
この本が次は再読の順番待ち。
新たな情景をえがく。
すっかり滞っております。
言い訳のようですが、軽井沢風越学園のホームページにはちょくちょく書いてるのです。
通常登校が始まって1ヶ月。ようやく落ち着いてきたのと、僕にも心境の変化もあったので、こちらもちょこちょこ書いてみようと思います。こちらは自分へのハードル下げて、気楽バージョンでお送りします。
学校づくりをはじめて、本城とぼくが最初にやったことは、「未来の学校の情景」を描くこと。学校の具体的なイメージを文章で表してみる、ということです。
これを読み合い、修正しあい、対話することで、未来の情景を描いていきました。
個人的には、KAIが描いたこの情景が好き。https://kazakoshi.ed.jp/kazenote/scene/3182/
さて。
久々に事務所に寄ったら、荻上由紀子さんが描いてくれた、学校の情景を読んでイメージの絵を見つけました。2017年。もう3年前だ。
改めて眺めてみると、こんな感じに今なってきているなあと。絵を見て、ああ開校したんだなと、ちょっとグッとなった。
この情景が引っ張っていってくれたことがあるのかもしれない。
何かをはじめるとき、何かを変えるとき、「どう変えるか」「どうつくるか」から入ると大抵残念な感じになる(当社比)。未来の情景を描きあい、対話するところからはじめたい。
そしてここからが大事なところなんだけど、これからの情景は子ども、スタッフ、保護者の手によって、新たに描かれていくんだなあと。どんどん変化し、色鮮やかになっていくんだなあと。
新たに描かれていく。そうすれば「正解」に向かっていくのではなく、末広がりな未知へと広がっていけるから。
これまでの情景はそろそろ手放すときなのかもな。
「軽井沢風越学園の2030年の情景を新たに描く」とか、みんなでやっても楽しそうだな。うん、いつかやってみよう。
ちなみに、荻上さん、大好きなイラストレーターで友人。ぼくが関わった本では4冊も描いてくれています。
以上「つくり方3部作」(勝手に命名)。
『最高のクラスのつくり方』はクラスの子どもたちとの共著。『せんせいのつくり方』はアンディとの共著です。
あ、あとは振り返りジャーナルの本。
このブログのトップページのイラストも荻上さん。ぼくの教室に遊びにきたときの情景を描いてくれました。特に『きょうしつのつくり方』のイラスト、本当に好きなんです。教室に通って、教室の空気を描いてくれたのでした。是非手に取ってみてください。
おぎー(荻上さん)、そろそろまた学校に描きにきてください!
すっかりブログが滞っていますが・・・
すっかりブログが滞っていますが・・・
実は、学校のホームページに連載を始めたからなんです。
しばらくは、そちらでの更新になりますが、よければ読みに来てくださいね。
今日はこんな記事です。
今、「職員室の組織開発」のチャンスなんじゃないだろうか。
未曾有の状況。
毎日にように状況が変わり、首都圏との行き来が多い軽井沢町では、安全・安心を確保した上でみんなが校舎にあつまってスタートするのにはもう少し時間がかかりそう。
早く集まりたい気持ちをぐっと抑えつつ、今できることを試行錯誤しています。
一般書店ではもう棚に並んでいるのですが(書評を書いてくださっている皆さん、ありがとうございます!)明日いよいよアマゾンでも、『「校内研究・研修」で職員室が変わった!2年間で学び続ける組織に変わった小金井三小の軌跡』(学事出版)が発売になります。
さっそく一般社団法人、こたえのない学校の藤原さとさんから書評をいただきました。kotaenonai.org
この本を手にとってくださるか否かはともかく、ぜひこのブログはお読みください、今この状況だからこそ大事なことが書かれている、と考えています。
学校は新年度を迎えました。政府の対応は一貫しているとはいえないため、自治体も学校も混乱しているかと思います。ただ、それを責めてもしょうがない。こうした時こそ「こたえのない課題」に立ち向かうマインドセットが非常に重要だと感じています。だれもが疲弊する中で、どうしたら一歩でも前に足を踏み出せるのか。こんな時に一番いけないのが「指示待ち」です。政府が正しいとは限りません。一部正しいかもしれないけど、一部間違っているかもしれません。そんな時に「指示を待ち」「指示に従っている」と、命を奪われるし、だれかの命を奪ってしまうかもしれない。怖いかもしれないけど、声をあげなくてはいけない、指示を待っている間に多くの命が奪われた東日本大震災の教訓を忘れてはいけない、それが今なのだと感じています。
今この状況からこそ、一人ひとりのリーダーシップが大切。一人一人の手の中に、変化のきっかけはあるはずです。
多くの学校は今、立ち止まりを余儀なくされています。
だからこそ「こたえのない課題」に向き合いつつ、しっかりと立ち止まれる組織開発に注力すべきときではないか、そうも考えてます。今なら対話する時間がある。向き合う時間がある。共に課題解決に向けて行動する必要がある。
この状況だからこそ、この本は、そんなことを考えるきっかけになるのではないかと思っています。学校関係の本ですが、学校関係以外の組織に関わる多くの人にお役に立てるんじゃないかなと思っています。
出版にあたって、著者の村上さんと僕のインタビューも記事にしてくださいました。さとさんありがとうございます。
今の状況をじっと見据え、起きていることから目を逸らさず、でもできることを共に積み重ねていきましょう。
今ぼくらが考えるべき問いは、既存の学校の授業や仕組みをいかにオンラインに載せるか?ではありません。問いを間違えると回答も間違える。
たとえば、
「子ども自身が、自分自身のコントローラーを自分で操作して、わたしらしい充実した1日をつくれるようになるためにできることはなにか?」。
皆さんは、この状況でどんな問いを設定するでしょうか。
速報!新しい本がでます!
今から15年前ぐらい。
ぼくは小学校で研究主任をしていました。
研究テーマは、「月曜日に行きたくなる職員室」。職員室を学び合う場、学び続ける組織にすることに関心が高かった頃だったので、校内研究・研修を通じて、そんな職員室づくりにチャレンジしたのでした。
15年前では斬新なテーマだ!
外部の力も借りながらの試行錯誤の日々。研究主任や推進委員がひっぱるのではなくて、「みんなでつくる」を徹底しました。ひとりひとりの「やりたいこと」から出発し、それをつなぎ合わせていきました。職員室から学校が変わる可能性を感じた3年間。
もちろんなかなかうまくいかなかったし、あっちへ行ったりこっちへ行ったりの大変だったし、正直たくさん悔し泣きもしたし、諦めそうにもなった。
しかし「月曜日に来たくなる職員室」をテーマに進んだ組織開発の3年間は、「なんだ、公立の学校だって変わるじゃん!」という、今思えば当たり前の確信を自分の根っこに据えることのできる体験になりました。
当時の職員は例えばこんな振り返りを書いてくれていました。
研修の進め方についての固定概念が変化した。研究推進委員や研究主任がレールをひいておいて、そのレールに職員を乗せて進めていく研修から、自分自身、一人ひとりが他の職員と協力してレールをひいていく研修へと変化できた。今ではそのやり方が当たり前だと思うようになった。一人でできること考えることは限られたもので、推進委員とか主任の知恵は狭い。それを他の人との協同で、全員でアイデアを出し合うと、できることは無限大に広がっていくことを実感できた。職員室で変わったことは、やらされるのではなく自分達の意志でやっているという雰囲気になってきた。日々の実践が、日常的に全校でおこなわれている。一人ひとりが建設的にものを言ったり、考えたりするようになった。本校の研修のスタイルというのが確立するまでに3年かかった。今は当たり前のようにやっているけど、3年かかってようやく確立した。他のテーマになっても、この堀兼のスタイルでやっていけるんじゃないか。
人には力がある。それは子どもも大人も同じ。子どもの学習どうこうの前に、先ずは職員室の学び方の変革からだという実感をこの経験から得ました。今も変わらないぼくの軸になっています。
その学校を異動するとき、先輩に、これはこの学校だからできたんじゃないと思う。どこでもできるはず。だから岩瀬にはもう一度どこかで再現してほしい、と言われたのを思い出します。
と、ここまでは過去の物語。
その後、ぼくは大学に転身し、教員養成の道に進みます。
そこで出会った、現職院生の村上敏恵さん。
彼女が現場に戻ったのを機に、公立小学校での「職員室が変わる校内研究・研修」に一緒にチャレンジすることになったのです。
彼女は研究主任。ぼくは伴走者。
3年間の歩みで、その学校は、ぼくが15年前に経験したことの遥か先へと進みました。職員室が学び続ける組織に変化したのです。
人には力がある。自分たちで自分たちの組織を変えていく力がある。それはぼくが思っていた以上だったようです。ぼくが経験したことの遥か先の情景がこの学校で出現しました。
その歩みを赤裸々に綴った、新しい本が出ます。
予約が始まりました。
学校版組織開発の記録です。
帯はなんと中原淳さん。
巻頭言は、小金井市教育長の大熊さんが書いてくださいました。
類書のない価値の高い本になったと自画自賛したいです。
校内研修をなんとかしたい、組織づくりに悩んでいる、学校改革をしたい、職員室を学び合う関係に変えたい、自身のこれまでの歩みを振り返りたい、組織づくりの伴走者をしてみたい、そんなニーズに応えられるんじゃないかな。そんなチャレンジしている方々の振り返りに寄り添い、歩んでいる背中をそっと押せる本になったと思います。
研究主任としての村上さんの3年間の奮闘、三小のみなさんの3年間の試行錯誤、大学教員としてのぼくの3年間の伴走の記録。そこから導き出される実践知の記録。
従来の校内研究・研修本や、研究結果をまとめた本は、綺麗なところばかり、良いところばかりを綴ったものが多かったように思います。
しかしこの本は、葛藤や苦労、悩みも含めたナラティブ(物語)が描かれています。なにより村上さんの自己開示が詰まっています。本人が「赤裸々すぎて恥ずかしい」とおっしゃるほど誠実な本です。職場の人がゲラを読んで泣いてくれたと聞きました。本当、が描かれていたからこそだと思います。
だからこそ、そのプロセスを追体験し、「自分ならどうするだろうか」「どんな一歩を踏み出そうか」と問いを手元に引き寄せることができるはずです。
この本は村上さんの本です。ぼくはこの本ではささやかな伴走者です。
ぜひぜひ手に取ってください。公教育の可能性と未来が描かれています。
厚い!でも読みやすくて最後まで一気に行けるはず!
15年来の先輩との約束をようやく果たすことができました。しかもぼくはささやかな伴走者に過ぎず、その学校の先生方自身がが自分たちで「学び続ける組織」をつくったことがなにより嬉しい。
学級でサークルタイムをするということ
1、サークルタイムの価値
さまざまな教室を参観させていただく中で、サークルになって話し合ったり、対話したりしている場面をよく見るようになりました。アドラー心理学に基づくクラス会議、イエナプランのサークル対話、てつがく対話など、サークルになるという場のつくり方が一定の認知を得てきたようです。朝の会や帰りの会をサークルで行っている、という話もちらほら聞こえてきますし、ぼく自身も現場にいるころ、サークルという場をとても大切にしていました。
ダン ロスステイン、ルース サンタナが本の中で、
「ミクロ民主主義」
という概念を提示していましたが、教室や学校で、小さな民主主義を実現していくことが未来につながっていくとぼくは考えています。言い換えれば、「教室の中に参画の仕組みと文化があるか」。その小さな出発点がサークルタイム(仮称)です。
例えば 、そろそろ12月も近いしクリスマスパーティーをしたいなあと思った子がいたとします。
その時に、声を上げて実現へ向かう仕組みがあるか、つまりは「〜たい」ということが実現できる文化と仕組みがあるかということです。
「先生、パーティーしようよー!」ではなく。
例えばこんな感じです。
サークルタイムで、
「何か相談したいことある?」と今日のファシリテーター役の子が問いかけます。ある子が「12月が近いしクリスマスパーティーがしたいんだけど」と切り出しました。
「もう少し詳しく聞いていい?」
「うん、12月、みんなでクリスマスパーティーがしたいんだよね。卒業も近いし、今何人かで練習しているダンスも披露したいし」
「じゃあプロジェクトチームに入りたい人を募集して企画してもらおう。やりたい人−」
「はーい!」
「12人もいる!まーいいか。ではお願いします!」
ぐらいの軽やかさでまずはok。
やるかやらないかを話し合うなどコンセンサスを得ようとするより、やりたい人が言い出しっぺになり、必要な人に相談しながら企画して進めていく。この試行錯誤が大事だなとぼくは考えて実践していました。
そのうち、プロジェクトチームからサークルタイムで提案があるはずです。
プロジェクトチームの人は時間確保のために、担任と交渉したり、どんなことをしたいかアンケートをとったりとステークホルダーと必要な相談をしながら進めていく。必要な人に助言を求める。
何か問題が起きたとき、企画したいこと、やってみたいこと、改善したいこと等、「〜たい」という欲求が生まれたとき、すぐに提案して動き出すことができる、そんな仕組みや文化が教室の中にあるか。
まずやってみること(試行)が大事にされているか。それがサークルタイムの価値だと考えています。
教師を介さずに動き出せる仕組みと文化、教師に許可を得るということなく動き出せる仕組みと文化、簡単に言えば、「自由を使ってみること(試行錯誤してみること)が大事にされているか」です。
言い換えると、生成的アイデアで組織が創られていく、自己組織化していく、ということでしょうか。 正解や目的、目標に向かっていくのではなく、弁証法的に意味を形成していくわけですね。
2、でも難しい!
とはいえ丸くなって話せばオールOKというわけではない。
サークルタイムはそう簡単にステキな場所になりません。沈黙が続いたり、がちゃがちゃしたり、なんだか重い時間になったり。丸くなることが目的化すると、その中での経験がマイナスにもなりかねません。
例えばこんなことはないでしょうか?
①プレッシャーがかかる
まず30人近くが丸くなって座ると、当然ですがサークルがでかい。正面の人ははるか先です。自分以外の29人の顔が見える。それは良さでもあるのですが、この中で発言するなんて実はプレッシャーがかかります。全員の反応が見えるわけですから。他者を意識しすぎた結果、言いたいことがいえないということが容易に起こります。
②参加度が下がりやすい
どうしても沈黙しやすくなるし、基本的に「1人が話し手で29人は聴き手」という状況になるので、「だまってきく」ことがメインになります。よっぽどそこで取り扱われているテーマに関心がないかぎり、ずっと聞きっぱなしになって参加度はグッと下がります。その内に隣とつつきあったり、意識がサークルの外にふわーっと飛び立っていったり。そうなるのは必然です。
③一斉講義と変わらない状況
というわけで、初期の頃は学習者同士のやりとりになりにくく、先生を介したコミュニケーションになりがちです。
先生→子どもA→先生→子どもB・・・というように。
なかなか対話が生まれず、焦って先生の発話が増える。先生がつながないとコミュニケーションにならない。これでは一斉講義と何ら変わらない状況です。そもそもなんでサークルなんだっけ?という問いが生まれてきます。
④声の大きさで決まる
進行を工夫しないと、聞き手が多数になりやすい構造なので、話し手にパワーがある場合、グッとそっちに引っ張られる可能性があります。
いつもあの子の意見で決まる。いつもあの子の反対で止まる、みたいになってしまうと残念。
⑤発表モードになってしまう
みんなの前で話す=ですます調での発表モードというのは、学校教育では身体化されていることが多いです。
「〜だと思います。その理由は〜」
のような話型表と言われるものが教室に貼られていることもあります。
○○さんに反対です。その訳は〜
○○さんにつけたします。〜
のような。
ぼくはこれを「発表モード」と読んでいましたが、話型の不自然さから対話を阻害しているのではないかと思います。
これは不思議なもので、小学校に限らず幼稚園や保育園でも起きがちです。
サークルタイムで必要なことは自由に話せるカフェのような雰囲気です。
数人でおしゃべりするような「おしゃべりモード」(仮)で自然に話せるようになるのがまず大切だなと思います(そしてこれが結構難しい)。
学校の中でもっとインフォーマルな「普通の話し方」を大事にしたいと思います。子ども同士でいる時間のほとんどを学校で過ごします。そこでどのようなコミュニケーションが行われているのか、あるいはその機会がほとんどないのか、ぼくらはもっと真剣に考える必要があります。話し方は関係性と密接なつながりがある。そのことにもっと自覚的でありたいです。
石井英真さんが著書の中で、
「〜話し合い活動も書き言葉的な「発表」をメインに遂行されてきた、書き言葉優勢の教室のコミュニケーションに対し、即興性や相互に触発し合う偶発性を特徴とする話し言葉の意味を復権する」ことを「ことばの革命」と呼び、これからの授業で重要になると指摘しています。
「アクティブ・ラーニング」を生かしたあたらしい「読み」の授業:「学習集団」「探究型」を重視して質の高い国語力を身につける (国語授業の改革)
- 発売日: 2016/08/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
もちろん話し方だけの問題ではありませんが、サークルを大切にするコミュニティは対話を大切にしようとするコミュニティのはず。子どもたちがサークルで「どのように話しているか」にもっと注意を払いたいです。
話型が、対話や学びの深まりを阻害していることは十分に考えられるわけです。
と、サークルタイムを例えば学級のようなコミュニティの真ん中におこうとすると、そう簡単にはうまくいかない問題にぶつかります。他にも合意形成に時間がかかりすぎて決まらない、そもそも話し合いたいというテーマではない(学級会とかでありがち)など様々な難しさがあり、そう簡単にはステキな感じにはならないのです。
ぼくも5年近く実践してようやくわかってきたことです。
3、サークルタイム具体的にどうやる?
導入で必要なこと
「サークルタイムを実践したい!」と思ったときに最初に大切なことってなんでしょう。それは、「この場は楽しい」という経験を積み重ねていくことだとぼくは考えています(ぼくはけっこう構成的に場を作る派です。もっともっと自然につくれる人もいるはず)。例えばまずは「きくことの楽しさ」を実感する。
毎日読み聞かせをたっぷりすること。その中で対話を促すこと(「対話型読み聞かせ」で調べてみて下さい)。
ペアで対話する経験、小グループで対話する経験を積み重ねること(以下の本を参照)。
オープン・クエスチョンのように「やりかた」として練習していく道もありますし、マーキーの本に書かれているように、非構成的に経験していく道もあります。そのあたりは好みと価値観とやりやすさで。
ともあれ「きくことの価値」を実感できると感じが変わってきます。これは大人でも難しいのですが・・・・・
サークルタイムはそれだけで完結するわけではありません。
授業の中で例えばブッククラブをするとか、てつがく対話をするとか、協同学習がベースになっているとか、そんな日々の経験とも地続きです。サークルタイムだけで、素晴らしく対話的になる、ということは残念ながらありません。地続きの経験の総体、つまりはどんな価値観で日々の学びが営まれているか、なのです。
サークルタイムの例
進行のプログラムはいろいろ考えられます。
サンプル数1で恐縮ですが、ぼくはこんなプログラムで実践していました。
最初はファシリテーター役はぼくが行っていました。場が安定してきたら子どもに譲渡していきます(並行して、子どもたちとはファシリテーターのお稽古を授業の中で行い、一人一人がファシリテーターを目指します)
①サークルになる。
「毎日隣の人を変えて座ろうね」と提案していました。その理由は以下に。
ちゃんとまとめたいんだけど。
②チェックイン
ファシリテーターはこう切り出します。
「おはようー。向こう三軒両隣と健康観察してしてください」
子どもたち、両隣とその先の何人かと「おはよー元気?」「ちょっと寝不足なんだよねー」「なにやってたの?」みたいにやりとりして体調を知り合います。
「みんなで共有しておいた方がいいことがあったら教えてー」
「○○が風邪気味で頭痛いんだってー。熱はないらしい」「じゃあみんなで気をくばっておこうねー」とやりとりします。
ぼくが勤めていた学校には「朝必ず健康観察を行うこと」というルールがありました。それをチェックインがわりにコミュニケーションのきっかけにしていました。
その後は、
「昨日どんな1日だった?近くの人とどうぞー」
と気楽なおしゃべりでチェックイン。時には「みんなに共有したい話ある?」と共有しても楽しいです。
例えばこんな感じ。
そこで月曜朝は決まって「おはよー!」とあいさつをした後、
「土日どんな風に過ごしていた?」
というテーマで、2,3人で対話する。
まずは少人数でたっぷりチェックイン。全員の前で話すのはプレッシャーもかかる。数人ならたくさんの人が話せる。
いろいろあった人もなかった人も、ワイワイと楽しそう。
「野球大会だったんだけどさあ・・負けちゃった−」
「雨降ってたからずっと家にいたよー」
「父の日の準備始めた?」
漏れ聞こえてくる声をききながら、元気かな−、つかれてないかなーと子どもたちひとり一人の様子を見る。
3分くらい話した後、数人の人が全体にシェアする。
「だれかみんなに話してくれる?」
「じゃあ、おれが」と、Kくん。
「土曜は朝は10時頃起きて、お母さんに怒られながらパンを食べたんだよね」
起きるのおっそー!
子どもたちからつぶやきがもれる。
(日頃から「幸せなら態度で示そうよ」なんて呟いてる。坂本九。ウナウナと頷いたり、小さな声で反応したりすると話し手は「ああ聞いてくれているんだなあうれしいなあ」って伝わるよ、と。)
「昼ご飯は食べなくて−、で。部屋の片付けしろって母さんに怒られたから、いやいややって〜」 あはは
「夜ご飯食べて、1日終わった−。」
わはははは!なんにもしてないじゃん!
さまざなつぶやきがもれる。
「日曜はなにしたっけなー、午前中部屋の片付けして」どんだけ汚いんだ!
「午後は部屋の片付けしてるっていいながらゲームして、夜ご飯食べて終わった−。
雨降っちゃうと野球がないから急にやることなくなるんだよねえ〜 」
ああ、わかるー。
外のスポーツをやっている子達から共感の声。
つまりは、たわいもないこんなことを、みんなで笑ったり、うなずいたりしながら、クラスの波長をゆっくり合わせていくチェッックインの時間です。
③ホワイトボードの議題
教室にはサークルタイム用のホワイトボードを常設していました。3等分して自由に書き込めるようにしてあります。
それはこんな構成です。
・いいねありがとう
・連絡・報告
・相談したい、提案したい、いいクラスにしたい
「いいねありがとう」。
子どもたちは、思い立った時にどんどん書き込んでおきます。ここに書かれていることの共有で1日のサークルがスタートするのです。
「いいねありがとうからいくねー。『○○が昨日チームつくるときに、一緒にやろうよと声かけてくれた』と田中っち。田中っち詳しく教えてー」
「昨日さー〜」
と、グッドニュースの共有からスタート。これは健康観察や昨日どうだった?のおしゃべりで代替してもいいかもしれません。ぼくはわりとこの時間が好きで毎日やっていました。たくさん書かれているときはさーっと読み上げるだけでもok。時間にしたら2、3分です。この時間もチェックインの要素が強いですね。書いていて、今ならこの時間取らないなーとも思ったり。
「連絡報告」。
特に話し合うわけではなく、お知らせしたいことを書いておきます。
例えば、「○○は明日締め切りです」とか「出し物の準備進んでますか?いよいよ来週クリスマスパーティーです」などなど。
「相談したい、提案したい、いいクラスにしたい」。
ここがメインです。
ここにはさまざまな「〜たい」が書かれます。
「クリスマスパーティーをしたい」
「ハムスター買いたい」
「ちょっと隣のクラスの○○と揉めていて・・」
「プロジェクトの時間もう2時間延長してほしい」
「掃除で困ってる」
などなど。これをひとつずつ扱っていきます。
基本的な流れは、
1、そのお題について書いた人に詳しくきく。
2、プロジェクトチームで動けそうなことはその場で募って決定。
3、みんなで相談した方が良いことは以下の手順で。
・詳しく状況を知るために質問する(発散)
・それはホワイトボードに書いていって可視化する。
・質問が終わって状況がわかったら、一番困っていること、解決したいことを決める(収束)
・解決策をブレスト(2、3人の小グループで出し合う)
・全体で共有
・相談を出した人が解決策を上位3つを選ぶ(活用)。
・1位のものから1週間試してみる。うまくいったらそれでok。いかなかったら2位の解決策を試す。
・結果を後のサークルで報告。
大きくはこんな感じです。
ここメインで、一番詳しく書かなくちゃいけないんだけど、またいつかの機会に。
課題解決、お困りごと解決のミーティングのファシリテーションですね。
ぼくはホワイトボード・ミーチングを実践していたので、<発散ー収束ー活用>の進行の枠組みは基本的にその流れをもとにやっていました。
経験すればするほどいい感じになる。リアルな課題であればあるほど次に生きる。そんな時間です。
子どもたち自身もホワイトボード・ミーティングのファシリレータートレーニングをしていたので、やがてこんな「相談したい」があらわれます。
「登校班(近所で異年齢で登校する制度)で揉め事が起きているのでファシリテーター募集」。
みんなで話し合うのではなく、ファシリテーターを募集してその人に入ってもらい、小さな単位で問題解決するようになっていくわけです。
つまりやがては日常の中にとけてゆくことになります。
進める上でのポイントは、時間を決めておくということ。
例えば朝のサークルタイムが20分だとすると、チェックインと「いいねありがとう」で4分、連絡報告1分、③相談したい、提案したい、いいクラスにしたい15分のように。③をやっているうちに時間が来てしまいますが、時間が来たら「では続きはまた明日ー」とサクッと中断。無理なく続けられるのが大事だし、時間感覚も大事。
どうしても長くなりそうなテーマ、コミュニティにとって重要なテーマは別途時間をとってたっぷりやるといいですね。
ちなみに軽井沢風越学園では毎日30分とります。週に1回は全校で。
どんな感じの時間になるのか楽しみ楽しみ。
さて、サークルタイムがが意味ある時間になるかどうかは、そのコミュニティの成熟度と入れ子ですし、なによりかかわる大人の本気が試されます。本当に「子どもといっしょにつくる」に腹を決められているか。子どもの参画を本当に望んでいるか。サークルタイムをコミュニティの真ん中に据えようとしているか。
子どもはよく見てますよ(ああ苦い思い出がたくさん・・・)。
さらには先生がファシリテーターであるかどうか。
とくに「相談したい、提案したい、いいクラスにしたい」では、ファシリテーションが大事大事。
冗長にすすめると、かなりざんねんなことになる・・・・
ここものすごーく大事だけど、ここはまたあらためて。
サークルの感じはこの本から伝わるかな。
とここまで書いて力尽きました。
サークルタイムを運営する上で大切なこと、をまとめたいのですが、またの機会に。少なくともこの2つは共有しておきたいです。
言いたくないことは言わなくていい。
共同修正
と、ここまでは、あくまでかたち。
もっともっと、子どもと共につくることもできるし、非構成的につくれると思う。
型には功罪があるし、ぼくはつい構成的にアプローチしちゃう悪い癖がある。
いずれにせよ、子どもを中心において、子どもがこの時間からなにを経験しているのかを振り返りつつ、いっしょに修正し続けるのがいい。
帰りはサークルタイムをしていたり、振り返りジャーナルを書いたりしていました。
帰りのサークルのことはちらっとけんじが書いてくれていた。
https://iwasen.hatenablog.com/entry/2015/10/20/191606
そして何より大事なことは、一人ひとりの人と信頼関係をつくること。
せんせいにとっては「学級というまとまり」にみえるかもしれないけれど、子どもからはやはり「先生」は気になる人。
それぞれが、この場をつくっている大人に大切にされている、信頼されている、自分のことが好きだ、と思っているかどうか。
そのためには、サークルの場以前に勝負が決まっているんですよね。
朝始まる前の時間のおしゃべり、休み時間のおしゃべり、全員と毎日フラットな関係でコミュニケーションを積み重ねているか。シンプルにいい関係をつくれているか。
これに尽きると思います。
これなくして「サークルでなんとかしよう」は、基本的に筋が悪いわけです。
ではでは。
先生、学校にチョコ持ってきていいですか?
バレンタインデーが近づくと、毎年教室で行われていた会話。
「ねえ、明日バレンタインデーだねえ。誰かにあげるの?」
とぼく。
「だって学校に持って来ちゃいけないんでしょ」
「○○の家は遠いから、学校じゃないと無理なんだよね」
「ねえ。。。こっそり持ってきていい?」
「聞いている時点でこっそりじゃないでしょ」
「いいの?」
「いいか?って聞かれたら、持って来ちゃいけないルールだって答えるしかないでしょうよ」
「じゃあだめなの?」
「だから。聞かれたら持って来ちゃいけないルールだって答えるしかないでしょ」
「じゃあ、聞かなきゃいいのか」
「もう言っちゃってるんだから、こっそりじゃないでしょ」
「いいの?」
「いいかって聞かれたら~ 」
以下続く。
あれこれこっそりやりとりしてたようです。
「いわせんには放課後持ってきてあげるよ」
「口止め料じゃん!」
明日は、1年に1度の華やぐ日ですね。
ドキドキする1日になりますように。
学校の表向きのストーリーと対立するときはユーモアで切り抜けるのがいいなと思うな。