「見える」ようになって見えなくなること。
ぼくは教員になってから、いい先輩に恵まれた。
なんといってもSさん。本当によく叱られた。
でも愛があった。こわかったけと。喧嘩もよくした。
当時ぼくは、Sさんがみている世界が見えていなかった。自分の見えている世界だけでいきがっていた。
自分の見えている世界が全てと思っているところで、視座が上がると違う世界が見えるんだよ、と教えてくれた。解ったのはずいぶん先だが、諦めずにずっと説いてくれた。
研究主任になったときには、先輩のkさんにしこたま怒られた。
KさんはSさんのお弟子さん。
視座が高い人には、ぼくのように視座が低いのに全てが見えているように行動している人は目に余ったんだろうな。
Kさんもまた、諦めずにずっと説いてくれた。
ぼくもずいぶん歳をとり、50歳の足音がもうすぐそこに。ひえー。
ようやくSさんやKさんのみていた視座はこの辺だったのかーと、おぼろげながらわかってきた。
なのに、そうなるとずっと自分は見えていたような気になってしまって、コミュニケーションが雑になってしまう。
今こそきくこと、なのにね。
お互いの見えている世界が違うということ。
違うからこそ、新たな可能性が開けるにちがいないということ。
だからきくこと。
視座が上がると見える世界が広がるって思っていたけど、それで見えなくなることってたくさんあるんだな。
「見える」ようになって見えなくなること。
最近はそんなことばかりに直面している。
視点と視野と視座はこちら。iwasen.hatenablog.com
なんでもないことの幸せ
首と右肩が痛くて、動けなくなった。毎日の長距離運転がたたったか。
鍼灸に行き、今日は仕事を断念し、安静の1日。
そうなると、一昨日の首も右肩も痛くなかった時が懐かしい。
あのころは幸せだった。そのときは少しも思わなかったけど、よくやってたよ首と右肩。
ぼくの両親は15年以上前に他界している。
いないことにはもう慣れたけれど、話したいな、とか近況を報告したいなと無性に感じる時がある。
そういうときにいないことを再確認する。
もし生きていたら、そんな風に思っただろうか。
高校時代、三重の田舎に住んでいたぼくは片道16キロを自転車で通っていた。
8キロ地点くらいで、猛烈な腹痛におそわれ、進むも地獄戻るも地獄みたいなことが時々あった。
冷や汗が止まらない。今のようにそこかしこにコンビニがない時代。朝からトイレなんて見当たらない。
「ああお腹が痛くないときはなんて幸せだったんだろう。なぜオレはその幸せを噛みしめていなかったんだろう」
と高校生のぼくはよく悔やんだ。
なんでもないときって、そのよさはわからない。
公務員を辞めてから、公務員っていかに恵まれていたかを知った。
中にいるとわからないけど、びっくりするぐらい手厚く守られているんですよ。
手元にあるときにはわからない。なくなってからわかることって、その前にはわからないからどう触っていたらよいかわからない。もっともっと丁寧に触っておいたらよかった、と思わないようにしたいのに。
なんでもないことの幸せ。
そんなこと考えながらぼーっとしてます。
写真は氷川神社に初詣行った時のおみくじ。
誘われて、あーめんどくさいなーとごねたりしたけど、取り立てて楽しくもなかったけど、過ぎてみるとそのなんでもない時間が幸せだったりするんだよね。
おみくじは吉だったけど。
個別化すればよい、という話ではなさそう。
Facebookにこんな投稿をしたら、いろいろコメントがあったので、もう少しここで書いてみます。下書きなし一本勝負です。
若い方々から、個別化にチャレンジしている、なかなかうまくいかない、という相談もよくメールでいただくので、その応答を兼ねて。
↓Facebookの書き込み
自由進度の学びやイエナのブロックアワーのような「自分で学習計画を立てて学ぶ学び方」は、ややもすると進むこと、早く終わることがモチベーションの中心になりやすい。
そうなると学びが陳腐化する。そうなっている例がとてもとても多い。AIによる個別最適化も同様。
個別化すればよい、という話ではないんだよね。教師の力量の底が抜けることにもつながる危険性がある。
どうすればその壁を越えられるか。
いくつか道筋がある。
うまくいっていないところに共通していることの仮説は以下の通りです
①コンテンツの貧困
なぜ陳腐化しやすいか?それは「やらなければならないことリスト」から学習計画を立てているに過ぎない例が多いからです。それでは宿題をやるのと大差ありません。宿題は、明日までにやらなくてはならないことですが、個別化の学びも、いくら学習計画を立てる自由があったとしても、今週中にやらなくてはならない宿題に過ぎなくなります。それでは「早く終わらせよう」がモチベーションになるのは必至。つまりはコンテンツが貧困で「やらなくてはならないこと」に覆われていると陳腐化するのです。学びに気持ちが向かっていない子ほど、「やりがいのないコンテンツ」に終始させられている例もみられます。これが最も大きな要因ではないでしょうか。
②その結果「立ち止まらない」
①から「早く進むこと」がモチベーションになってしまうと、「わからなくて立ち止まる」はマイナスなこととして認知してしまいかねません。そうなると、立ち止まり考えること、わからなさのなかで試行錯誤すること、協同で考えて「わかった!」の喜びを感じる機会が少なくなってしまいます。早く進めたいのだから協同も起きにくい。自分にフォーカスします。
またネットコンテンツによってはすぐに解説や補助問題が出るので、立ち止まる間も無く「進む」ことが前提となります。
③孤立化
②に関連しますが、
「わからない」が「わかる」に移行する際に、自分の力以外になくなってしまいます。行き詰まってしまったときどうしようもなくなってしまう。その学びの環境は必ずしも安心・安全とはいえません。実践の方法によっては格差の拡大につながります。「個人の責任で個人で進め個人で責任をとるモデル」になりかねません。
さて、ではどうするか?
『教育の力』にはこんな一節があります。
...いつ何を学ぶかがかなり決められてしまっている学びのあり方は、考えて見ればひどく非効率的なことです。
子どもたちの興味・関心はそれぞれ異なっているし、学ぶスピードも、また自分に合った学び方も、本当は人それぞれ違っているはずだからです。にもかかわらず、いつ何をどのように学ぶのかが一律的に決められてしまうのは、少なくとも子どもたち一人ひとりの学びの観点からすれば、やはり非効率的なことといわなければなりません。
(苫野一徳『教育の力』 講談社 現代新書、2014、73頁)
「そうそう!だから一斉授業よりも学びの個別化を!」と、ブロックアワー的なアプローチに一足飛びに行きたくなりますが、個別化を目的化しないことです。
この一節の肝は「子どもたちの興味・関心はそれぞれ異なっているし」のところ。
学びの個別化がうまくいくかどうかの鍵は、
そこにその子の「〜したい」があるかです。
昨日の続きがしたい!
あの探究の続きをしたい!
あの本もっと読みたい!
まだつくっている途中だった!
今日はいま書いている作品の下書きを先生やクラスメイトに読んでもらって修正してもらって、文章に磨きをかけたい!
「〜したい」があるからこそ、「その時間を生み出すために時間をどう使おうか」という欲求が生まれる。「今週はこう学ぼう」と計画したくなる。学びに没頭している経験があるからこそ、算数の自由進度においても、立ち止まって考えるおもしろさに留まれる。
日々の学びが充実しているからこそ、たとえ「ねばならない」コンテンツですら豊かに学ぼう、効率的に学ぼう!というモチベーションが生まれてくる。
つまり、遠回りなようですが、学びの個別化の質を上げる一番の近道は、「日々の学びの質を上げる」ということです。プロジェクト、総合的な学習の時間、リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップ、ワールドオリエンテーション、科学者の時間、なんでもいいのですが、良質な学習者中心の学びのなかで、子どもたちの探究が個別の時間に発揮されていくのです。「やめられない!」「続きをせずにはいられない!」からです。
自律的な学習者に成長していくには、その人にとって自分ごとになった「具体的な何か」が不可欠です。逆を言えば、日々の学びが貧困なのに、個別化の時間が豊かで学びがいのある時間になるなんてことはあまりないということです(わからなくなった学習者を置いていく型の、単線の一斉授業よりはずっとよいですが)。
学びへの情熱が、個別の時間に生かされていくのではないか。ですから、個別化の時間、自由進度の時間だけ眺めていても見えてこないことがあるというのがぼくの考えです。
学習者側から考えてみると、
「今日なにするの?」と学習をスタートするのと、
「今日はなにからしよう」あるいは「今日は○○からやろう」とスタートするのでは、大きな違いがあります、その際、自分で学習計画を立てるという、自己選択・自己決定があるからやる気が出る(自律性への欲求)はもちろん、その先の学びへの情熱があって初めて学びの個別化は意味のある時間になるのではないでしょうか。
その根っこになるのは「あそび」。
たっぷり自分で決めてあそび、楽しさをじぶんでつくる経験、没頭をじぶんでつくる経験の積み重ねこそが、「学びの個別化」の土台になります。学びのコントローラーを自分で操作する、というのは自分のコントローラーを自分で操作するということ。その原体験は「〜したい」から出発する日々のあそびです。ですから軽井沢風越学園では「あそび」を大切に大切にします。
話が脇道にそれました。
もう一つの道筋は、ゆるやかな協同文化をそのコミュニティ(学校や学級)に育んでいくということ。小学校の教員はこのアプローチの方がなじみがあるでしょう。関係性が良好だから学び合い、助け合う。だから孤立化が起きにくい。
中高の先生にはなじみの少ないアプローチですし、その場づくりの専門性を低くみる人にもよく出会いますが、ものすごく大事ですよ。それがないところに専門性の刀を振り回しても、その専門的な知識は宙を舞うだけです。
でも、例えば自由進度の学びの「コンテンツ」自体も大事。
それ自体が「やりがいのあるものか」「没頭してしまうものか」どうかは大きい。
NHK「プロフェッショナル」に出ていたイモニイは、まさにそうですね。なんか顔が似ているとよく言われます。大阪にいる妹からもお兄ちゃんそっくりとラインがきました。
さて、では今回書いた道筋。どれがいいんでしょう?そう問うてしまうのは、「問い方のマジック」。
どれも大事だと思います。
「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」はこれからの教育を具体的に変えていく道筋です。
つまりは、「融合」が大事で、どれかひとつじゃないんだということです。
融合して初めて子どもにとって意味のあるものになります。
軽井沢風越学園のカリキュラムづくりも大詰め。さあがんばろう。
「プロジェクト」と「もどき」を分かつ条件は?
プロジェクトって、つまりはなんでしょう?
今日、事務所でスタッフのうまっちと話題になりました。その場でもちょこっと話したのですが、帰りの車の中でぼやーっと考えたことがあったので、帰ってきてエイヤとまとめました(なんせ1時間40分もかかるので、考える時間が無限に・・・・)
探究の学び、プロジェクトの学び、PBL、言い方はいろいろありますが、ここではプロジェクトとしておきます(正確にはプロジェクトは探究の方法概念)。
プロジェクトってなんでしょう?
藤原さとさんがブログの中で引用していますが、『理解をもたらすカリキュラム設計』ではこんな事例を載せています。
(この本はプロジェクトをデザインするには必読。必要なインプットなしにプロジェクトをつくるのはかなり困難。)
秋になると毎年2週間、第3学年の児童全員が、リンゴについての単元に参加する。3年生は、このトピックに関連する様々な活動に取り組む。言語化では、ジョニー・アップルシードについて読み、その話を描いた短編映画を見る。彼らはそれぞれリンゴに関わる創作物語を書き、テンペラ絵の具を使って挿絵を入れる。美術では自動は近くの野生リンゴの木から葉っぱを集めてきて、巨大な葉っぱ模様のコラージュを作り、3年生の教室に隣接する廊下の掲示板に掛ける。音楽の教師は、子供たちにリンゴについての歌を教える。科学では、違うタイプのりんごの特徴を、五感を使って注意深く観察して描く。数学の時間、教師は3年生全員に十分な量のリンゴソースをつくるために、レシピの材料を定率で倍にする方法を説明する。・・この単元のハイライトは、近所のリンゴ農園への見学旅行である。そこで児童は、リンゴジュースが作られるのを見てから、荷馬車での遠乗りに出かける。単元における山場の活動は、3年生リンゴ祭りという祝典である。そこでは、保護者はリンゴの衣装を着て、子どもたちはそれぞれのステーションを順に回って、様々な活動を行うーリンゴソースを作り、リンゴの言葉探しコンテストで競い合い、リンゴ採り競争をし、リンゴに関する文章題を内容とする数学のスキル・シートを完成させる。その祝典の締めくくりには、カフェテリアの職員が準備したリンゴあめをみんなが楽しんでいるところで、選ばれた児童が自分の書いたリンゴの物語を読む。
これはプロジェクトではありません。活動主義のテーマ学習です。活動的であるかどうかではないんですね。
「では子どもが問いを立てたら探究になるのではないか?」
という声が聞こえてきますが、それも違うと私は考えています。
例えば「昆虫」とテーマが設定され、
「自分の探究してみたいことを探究しよう!」
などと投げ掛けられ、
「まず自分の調べたいことで問いを作ろう」
「えっと…昆虫は何種類いるの?」
「クモは昆虫なの?」
と調べたいことを設定し、調べて、模造紙に書いて発表。これではプロジェクトとしては不十分だと私は考えます。プロジェクトという名の調べ学習、テーマ学習に過ぎません。これが「天気」でも「たいよう」でもおなじこと。
ただ「これで知りたいことを問いにしましょう」ではダメなんですね。
学習者が探究したいものを!といいつつ、その構造は丸投げになってます。
PBLばやりで、ネコも杓子もプロジェクト!となりかねない状況。でも、気付いたら「自分で」立てた問いの「調べ学習」に終始してしまいかねません。
ではプロジェクトとプロジェクトじゃないものを分かつ条件とは?
さとさんは、ブログの中で端的に
「『探究』とは何等かのサイクルを回すということ、起点から何らかの経験を経て、変化が起き(Transform)、新しい状況へ到達するということ」
とまとめています。探究でこれ以上わかりやすいまとめはない!必読。
さとさんに刺激を受けて、『学習科学ハンドブック』を参考に、私も独断と偏見でまとめてみたいと思います。
学習科学ハンドブック 第二版 第2巻: 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ
- 作者:R.K.ソーヤー,R. Keith Sawyer
- 出版社/メーカー: 北大路書房
- 発売日: 2016/10/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
このシリーズも必読ですよー。
□探究を駆動させる力強い問いがある。
→これは学習者が立てた問いか、教師が立てた問いか、ではなく、学習者自身が自分ごとに感じる問い、解決したい!〜したい!と情熱が生まれる問いであること。
□自分にとっても、社会にとっても重要で意味のある問いであること
→これ重要。意外と「自分にとって重要な問い」でないことが多く、「無理やり捻り出した問い」である例がよくみられる。
□自身の周りの現実社会とつながっていること。
→学校内の「ごっこ」にならないこと。「小さな設計」にしないこと。そのためには外の専門家とつくるのがいいよね。
□現実社会の文脈で行為を通して学ぶこと。
→行為を通して知識や理解を構成していく学び、というのがミソ。学習は常に状況的。「知ること」と「すること」をわけない!
□本物の実践であること(何らかの共同体に参加することを通して学ぶこと)。
→その意味ではライティング・ワークショップも、学習者に「〜たい」が生まれていて、作家のコミュニティの中で学んでいれば、プロジェクト的な学びと言えるのでは?知らんけど(関西弁)。
□学習に参加することを通して、全人的な意味で「なってよかった自分になる」こと。
→佐伯胖先生の講演がヒントに。結局、なんらかの変化が自分(たち)の中に起き、新しいわたしになるということなんだ。調べ学習程度ではそうならない。
□結果として指導要領に示された学習目標や内容に焦点があたること
→が、気にしすぎるとしょぼくなる。学びは学習者自身のためのもの。
□具体的な成果物があること
→これは意見分かれるかもね。成果物をどう定義するか。
□学習者も伴走する大人も、意味を感じワクワクすること。
→没頭できていない時点で、プロセスが苦しくても意義を感じていない時点でそれはプロジェクトとは言えない。よい学びは年齢を問わない。
□コミュニティのメンバーで協同的に学ぶこと。その学びに関わる人同士が協同探究者になること。
→相互作用ぬきにはよりよい探究にはならない!ぐらいに思うわけ。
□「何のためにやっているか」を学習者が明確に説明できること
→自分ごとになっているかどうかが、これで明確になる。もっと言えば、「説明したくなる」。学びは学習者自身のもの(2回目)。
□プロセスを丸投げしないこと、
→特に初期は丁寧なプロセスのサポートが必要。時には構成的に手厚く。これが意外とわかっていないで、任せるという名の丸投げほど無責任なことはない。
□学習者により、プロセスに分岐があること
→一本道に行くわけない。
(おまけ □ICTの文具的利用。→年齢によるが、もうこれは当たり前にしなくては。)
と、思いつくままに。
まだ続く予定。(ご意見も募集中!)
今回は自分のノーミソの中を整理するために、精査はしていません。これから軽井沢風越学園の実践のプロセスで検証していこう。
そうそう。
以前、私が6年生を担任していた頃、近くの幼稚園の年長さんが学校に来ることになりました。その1日、「学校体験」を6年生が担当することになりました。
これだけではプロジェクトたりえません。
事前に幼稚園児に「6年生に聞いてみたいことはありますか」と私から幼稚園の先生に聞いてみることをお願いしました。
その中で届いた問い。
「なんで学校に行くの?」
「何で勉強するの?」。
この問いが、探究を駆動させる質問となりました。
これに応えるとはどういうことか?
6年生は燃えました。これに応えるのは難しい!
質問への回答を探究する中で、「学校体験をどうデザインすれば良いのか?」という次の問も生まれました。次々に問いが生まれるのですよね。
さて、これはプロジェクトと言えるでしょうか?
少なくとも、この問いに対して本気になっていたのは間違いありません。ちなみにその時の幼稚園児は小6になりました。1人はうちの娘っす。
以下は、そのプロセスで生まれた一旦の回答です。
この回答を書いた人、今は大学生。
先日、私がファシリテーターとして行った「学級経営講座」に参加してくれてました。
卒業以来の再会。なんともうれしかったなあ。
今ならこの問いに何と応えるだろう?
★「なんで学校にいくの」「なんで勉強するの?」
みんなの質問に答えるね。 まず、1つめの質問! 『なんで学校に行くの?』は,学校ではみんなと同じくらいの子が集まって学校に行くんだ〜。教室には30人くらいのお友達が集まって算数とか国語とかいろいろお勉強するんだ!!
学校にどうしていくの?って思った? うちもそう思った事あるよ!!
でも、家でさあ、自分が一人で勉強してわからないところがあって、お父さんもお母さんもいなくておねえちゃんやおにいちゃんもいなくて、一人だったらどうする?? そうそう、こまっちゃうよね。だから学校に来るんだ!
学校には自分以外にだいたい30人くらいいるから、誰かは自分にぴったりの教え方ができる人がいるはずだし、先生もいるよ! だから分からないことがあったらお友達や先生に聞くとわかりやすくできるよね! 自分にも聞かれて知っていることだったら教えてあげられるよね。 そんなことを難しくいくと、
「学び合う」っていうんだ!! 学び合いをすると分からないことでもちゃんと聞けるし、 自分も教えられるんだ。 私は算数があまり得意じゃなかったんだけど、 5年生の時からその学び合いをして今は苦手ではなくなっているよ! それに教えられると先生になったつもりで少し楽しい!! それに教えてみると自分も分からないところが見つかったり、 分かってもらえるように考えると自分もカシコクなれるよ!
人にはそれぞれ得意なものと苦手なものがあるんだ。 例えば、みんなが知っている人に,こんな人と似ている人はいないかな? 外で遊ぶのが大好きで、劇とかでもいつも目立ちたい人っている?? そうそう、いるよね。じゃあこんな人は? 折り紙とかが好きで,いつもおとなしい子っている? おーいるんだ!! そう、人って得意なものと苦手なものが違うよね。
外で遊ぶのが好きなAくんはみんなの前でおどるのとか得意そうだよね。 折り紙とか好きなCさんは折り紙が得意そうだね。 外で遊ぶのが好きなAくんは折り紙は苦手そうだね。うんうん。 人にはこんな風に得意なものと苦手なものがあるんだ。 もちろんみんな1人1人にあるよ。全員が持っていることなんだ。 自分が得意なことってなに?へえ〜すごいな〜。
じゃあ反対にみんなが苦手なことは? あ〜私はおばけと英語〜。そうそう私たち一人ひとりにあったよね。 でもみんなバラバラじゃなかった? 得意なものは同じでも苦手なことはちがうとか・・・。うん!!
バラバラでいいんだよ!おたがい“サポート”しあえばいいんだよ。 おりがみをするのが好きなCさんは、 外で遊ぶのが好きなAくんに折り紙のつくりかたとか教えてあげればいいでしょ? そういって一人ひとりサポートしあうんだ〜! 今みんなが得意で出したものの中に, 他のお友達が苦手っていうのがあるかもしれないね。 そんなときは教えてあげよう! そうしたら、自分が苦手って思うことを助けてくれるよ!!
学び合うのも同じ! 算数が得意な人は苦手な人に教えてあげられればいいよね。 そうやってみんなで協力していくために学校にくるんだ。 もちろん、休み時間とかお友達と仲良く遊ぶのも大事だよ! どう?楽しみになってきた? そっかー!ありがとう(^_^)v
じゃあ2つめの質問! 「何で勉強するの?」勉強好きな人〜?キライな人〜? そっかーキライな人もいるよね。 そんな人にとっては勉強なんてめんどくさーい!みたいな感じ? うんうん・・・私も4年生のころそうだったな〜。 一応宿題とかはやっていたけど−。
じゃ・・もう1問聞いてもい? 学校に行くと毎日宿題がある先生もいるんだけど 宿題はその日やったことを先生が決めて必ずやらないといけないんだ。
やらないと怒られるぞ〜。 そんな宿題が楽しみな人?やだな〜って思っている人? うんうん、私もちょーやだったよ! 宿題が「ない!!」っていうとヤッターって行って友達と必ず遊んでいたぐらい。 でも・・・・そんなときにいいのは「自主学習」です。
まあ、『自立学習』ってみんなは呼んでね。(私もそう呼んでまーす!) 自立学習っていうのは毎日やることを自分で決めてやる学習のことなんだ!
え?無理って?? そんなことないよ! 自分が算数苦手だなーって思ったら算数の予習とか復習をやればOK! 1年生は10分程度が目安かな? 学年×10分だから私は60分なんだけどね。
自分の好きなことだから勉強系のバッチリメニューが入っていればOK!! あとは自分の好きなことについて調べたりするワクワクメニューを入れると 楽しく続けられるよ。どう?
少し楽しみに宿題がなった? 宿題と自主学習をやれるといいね! あと習い事とか急にお腹が痛くなったーっていう時はお休みOKなんだ! でも目安は週2回まで。 自分のための学習が『自立学習』 だからね。 自分にキビシクやるのがポイント!
でも1番のポイントは楽しくやること!だな! 宿題も勉強なんだけど勉強する理由は みんなが大人になって困らないためにだからだよ。
じゃ、例えばお菓子を買いにスーパーに来ています。 グミとチョコとポテトチップスを買いたいときにいくらかかるかとか、 お金はどう出せばいいだろうとかで、困るよね。
それに今私が書いているようにひらがなと漢字も書けないとこまるよね。 だから学校でで勉強して将来みんなが大人になって困らないようにするためなんだ。
だから大切なんだよ。 学び合いとか自立学習とか、 ちょっと工夫するだけで勉強がすごく楽しくて自分がカシコクなれることがたくさんあるからみんなもやってみてね。 学校は新しいお友達もできるし、 先生もやさしいし、 困ったことがあったらお兄さんお姉さんに聞けば大丈夫だし。
運動会とか行事もすごく楽しいよ! なにからなにまですっごい楽しいのが小学校! つらいこともあるかもしれないけど自分を成長させるチャンスだと思って乗り越えてね! 大丈夫。みんななら。 困ったらとなりの中学校に私がいるからいつでも言ってね。 絶対に助けるからね。じゃあ、約束しよっか。 せーの。ゆびきりげんまんうそついたらはり千本のーます!指切った! 約束!
これで質問に答えられたかな?みんなが小学校楽しみ! っていってくれたら質問に答えられたんだなー。って思っています。 最後に1年生になるみんな! 自分の夢を信じて進んで下さい。 じゃーまったねー!ばいばーい!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
校舎、もう直ぐ完成!
「ああ、この感じかあ」の力
例えば、ステキな作品に出会ったとき。ステキな実践に出会ったとき。
「どうやってつくったんだろう?」
「どうやればいいんだろう?」
という方法の問いを立ててしまいがち。
そのときに作品や実践はコピーの対象になるのだろうか。
例えば、
「何が起きているんだろう」
「何を大切にしているんだろう」
「どこからきたんだろう」
「どこへいくんだろう」
「なぜこうなったのだろう」
「なぜわたしの心は動いたんだろう」
という問いを立ててみると何が見えてくるのだろう。
作品や実践を言葉で説明しようとすることで
言葉で理解しようとすることで
失われることはなんだろうか。
ぼくは「ああ、この感じかぁ」と
空気感が感じられる、
五感が大事にされる、
質感が大事にされる、
そんな場をつくっていきたい。
人の持っている
「ああ、この感じかぁ」の力をぼくは信じている。
言葉を大切にしつつ、
言葉を手放していきたい。
ぼくのしたいことはつまりそういうことです。
おやすみなさい。
早く目が覚めてしまったので、幼小のつながりのメモを整理してみる。
昨日は、準備財団が運営している認可外保育「かぜあそび」にいってきました。楽しかった−。遊び浸っている子どもたち。豊かな時間だ。
半日だったのにヘトヘトになった。保育士ってすごい・・・・こんなところです↓
疲れているはずのに、明け方4時半くらいに目が覚める。そして二度寝ができない(老化?・・涙)。
眠れないので、これまで書いたきたことを再編集し、明け方うつらうつらと考えたことを加筆し,一気にメモしてみました。
幼小のつながりを考えるとき、小学校側が
「いかに学校文化にスムーズに移行させるか」
という問いを立てると、たいていつまらないことになってしまいます。
「グーピタピン」とか、「筆箱の置く位置は」とか、「1の声、2の声」とかいう話になってしまうわけです。
何度か書いてきましたが、
「良質の幼児教育を継続する形で小学校教育をリデザインしたら?」
という問いを立てて考えたい。
学校文化への移行を目指してしまうと、「いかに45分間座らせるか」ということが「課題」として立ちあがってしまいます。大きな声で返事、指名されるまでしゃべらないという「スキルをいかに身につけるか」に一生懸命になってしまうのです。
子どもにとっては,ある日突然、自分が暮らす世界のルールが変わってしまう。これは子どもの育ちの問題ではなく大人の側の問題、制度の問題です。
小1プロブレムに内実は、小学校が自分たちの文化に疑いを持たず、教員の「教えやすさ」を優先させて、「学校のお作法」を教えることの優先順位を上げてしまっているからではないでしょうか?
我が家の次女は、遊ぶことを大切にする保育園を卒園し、小学校に入学したとき、
「学校ってずっと座ってるんだよ」
「手は膝の上に置かなくちゃいけないんだって」
「どんなに晴れていても、教室の中にいるんだよ」
「遊ぶ時間は20分しかないんだよ」
と不思議そうに報告してくれました。
ある日を境に、文化が180度変わる。
ある日を境に、「動き回る」から「座り続ける」に。
ある日を境に、「あそぶ」から「勉強する」に。
ギャップを感じる方が自然です。
どうすれば一貫した環境をつくれるか。
この問題は、新学習指導要領でもしっかり書かれています。画期的。
小学校学習指導要領 第1章総則
第3 教育課程の役割と編成等 4 学校段階間の接続
⑴幼児期の終わりまでに育ってほしい姿を踏まえた指導を工夫することにより、幼稚園教育要領に基づく幼児期の教育を通して育まれた資質・能力を踏まえて教育活動を実施し、児童が主体的に自己を発揮しながら学びに向かうことが可能になるようにすること。また低学年における教育全体において、例えば生活科において育成する自立し生活を豊かにしていくための資質・能力が、他教科等の学習においても生かされるようにするなど、教科間の関連を積極的に図り、幼児期の教育及び中学年以降の教育との円滑な接続が図られるように工夫すること。特に、小学校入学当初においては、各教科等における学習に円滑に接続されるよう、生活科を中心に、合科的・関連的な指導や、弾力的な時間割の設定など、指導の工夫や指導計画の作成を行うこと。
ちなみに上記の「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」とは、これです。
1. 健康な心と体
2. 自立心
3. 協同性
4. 道徳性・規範意識の芽生え
5. 社会生活との関わり
6. 思考力の芽生え
7. 自然との関わり・生命尊重
8. 数量・図形、文字等への関心・感覚
9. 言葉による伝え合い
10. 豊かな感性と表現
小学校特に低学年では、ゼロからのスタート、はっきり言えば赤ちゃん扱いのスタートをやめて、幼児期で身につけたこと・育まれたことを大切にしながら、その力が生かされる毎日を構想したい。
新幼稚園教育要領のポイントにも「小学校教育においては,生活科を中心としたスタートカリキュラムを学習指導要領に明確に位置付け,その中で,合科的・関連的な指導や短時間での学習などを含む授業時間や指導の工夫,環境構成等の工夫も行いながら,幼児期に総合的に育まれた資質・能力や,子供たちの成長を,各教科等の特質に応じた学びにつなげていくことが求められる。」と書かれています。
(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shisetu/044/001/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2017/08/28/1394385_003.pdf)
リザインする根拠として学習指導要領を指し示せる状況なのです。
では具体的にはどうするか?
まずは幼児期における「あそび」の重要性は改めて指摘したいところです。とはいえ、今話題の非認知能力。これを直接的に「教えよう!」というのはアプローチとしてやはり筋が悪いわけで、それは結果として育まれるもの。そのための芳醇な原体験は「遊び」の中にあります。それを保証せずして、なにが非認知能力だ、と思います。
ピーター・グレイは遊びの特徴を5つに要約しています。
1、遊びは、自己選択的で、自主的である
2、遊びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。
3、遊びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。
4、遊びは、想像的で、文字通りにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。
5、遊びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである
あそびの中で「幼児期・学童期はまずは直根を自分自身にしっかりと深く根ざすような体験の積み重ね」を大切にする。主は子ども自身です。そのためにお環境づくりが圧倒的に大切です。物理的な環境も大人の関わりも。
これが学びにつながっていくってどういうことでしょう?
先ほどの5つの特徴の「遊び」を「学び」に置き換えてみるとこんな感じになります。
1、学びは、自己選択的で、自主的である
2、学びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。
3、学びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。
4、学びは、想像的で、文字通りにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。
5、学びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである
うん、ぼくはしっくりきます。
このような視点で幼小のつながりを考え直してみたいとぼくは思うのです。
ピンポイントには,低学年教育をいかに変えていくかになるでしょう。
幼児期に大切に育まれてきた「〜したい」からあそびに没頭する経験の積み重ねは、ひとり一人の「学びに向かう力」につながっていくでしょう。
そのためには生活科を中心としたプロジェクトとしての活動の充実が鍵だと考えています。子どもの「〜したい」からはじまるあそびをつなぎ、プロジェクトとして発展させていく。その中で結果として教科の学びも起きるでしょう。そこで起きる結果としての教科の学びは、もしかしたら現状よりもレベルが上がるのではないかとさえ予想します(ここ大事)。
それも事前に目標として明示されるものではない。子どもにとってはあそびと学びの境目はないのです。没頭しているうちに、結果として成長していた!と後追い的に気づくものではないでしょうか。
本城が先ほどの記事で書いていますが、
子どもが育つにつれ、僕たちは何かができるようになってほしい、こんな力をつけてほしいと望むこともあります。でもそれよりも、自分はどんなことに幸せを感じるのかを自分自身で感じとれるようになってほしい。自分自身だけでなく、一緒に生活する仲間や、まだ出会ったことのない人々、目の前にはいない同じ地球に暮らしている生き物、いろいろな生命とともに幸せになるってどういうことだろう?と考えながら、育ってほしいなと感じています。そしてその時に、その「幸せ」は、誰かと比較して幸せかどうかではなく、そして時代や社会に飲み込まれることなく、自分自身のものさしで「幸せだな」と感じられるようになってほしいと思っています。
に共感します。そのような没頭する時間の積み重ねの中で、気づいたら「なってよかった自分(アイデンティティを確立する)」になっていた、という経験を積み重ねていくのだと思います(佐伯胖先生のお話より岩瀬解釈)。
生活だって自分たちでつくりますよ、幼児だって低学年だって。幼稚園や保育園では番を張っているわけです、年長児は。それがある日を境に、急に「なにもできない、かわいらしい1年生」となりま。入学式の入場も6年生と手をつないで。ちょっと前まで年少さんの手を引いていたというのに。6年生から逆算した存在として「面倒を見られる」存在となるのです。昨日まで「面倒を見る」頼れる存在だったかもしれないのに。
ぼくが初めて1年生を担任したとき、やはり「なにもできないんじゃないか」と正直不安になり、友人の幼稚園の先生に相談しました。もう遙か昔ですが・・・
「あのねー、年長さんとして園で『番を張っていた』んだから、何でも自分たちでできるの。朝の会だって司会も自分たちでやるし、給食の配膳だって、ケンカの仲裁だって、下の子の世話だってやってきてるの。なんでも任せてみてよ。失敗したっていいじゃない。そこから学ぶ力だってあるんだよ」
本当にありがたい助言でした。
実際1年生はまことに頼もしい存在でした。
給食の食缶を運ぶとき、Mくんが倒してしまって廊下がカレーだらけに・・・廊下中に広がったカレーから湯気が上がっているのを見て目眩がしたぼくはつい「なんで倒したの!」と言ってしまいました。するとKちゃんが、「先生、そんなことより片付けることが先でしょ」とぼくを諭しました。本当にその通り。みんなでカレーを拭く作業は、不謹慎だけれど、なんだかお祭りのようで楽しかった。その間に給食当番の子は食缶を持って他のクラスに、
「カレーこぼしちゃったんで少し分けてくださーい」と集めて歩いてくれてました。
子どもをどんな存在として見るかで、アプローチは変わっていきます。
「子どもは自分のつくり手である」を根っこにおきたい。
ここまで書いてきたことは、まっすぐ小学3年生以降につながっていきます。
ライフロングキンダーガーデン。
ライフロング・キンダーガーテン 創造的思考力を育む4つの原則
- 作者: ミッチェル・レズニック,村井裕実子,阿部和広,伊藤穰一,ケン・ロビンソン,酒匂寛
- 出版社/メーカー: 日経BP
- 発売日: 2018/04/12
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
さらには「教科の見方・考え方といわれる本質へもつながっていくはずです。ここは大人のの腕の見せ所でもありますね。がむばろう。
最後に、改めて「あそび」について。昨日、同僚の甲斐﨑(KAI)と話していたのですが、彼の一言。「子どもにとってはさ、本を読むことも、書くことも,算数もあそびなんだよなー。思いっきりあそんでるんだよ。あそびを狭く捉えちゃダメなんだよ」うん、同意です。ライブラリーでたっぷりあそぶ、書くことをあそぶ。あそびを限定的に捉えないことが大事だなあ。さすがKAI。
さて、二度寝しようと思ったのに目がさらにさえてしまった・・・・
視点と視野と視座のお話。
過去のメモを整理していたら、3年前に大学院を退職すると決めたときに、院生の皆さんに授業で話したことが出てきた。
ブログの下書きにメモしたまま放置してあったのを発見。
今とは考えも違ってきているけど、せっかく見つけたので載せておきます。
* * *
ぼくは小学校の教員を22年間務めた後、東京学芸大学教職大学院で実務家教員として働くことになりました。3年間,教員養成にどっぷり関わり、教員養成で起きていることがずいぶんわかってきました。中に入ってみなくてはわからないことばかりでした。
「せんせいになっていくこと」。
簡単なようで本当に難しい。日本ではようやく教師教育学に関心が集まってきているところ。まだまだ発展途上なのが現状です。
先日、6人の教員で担当している「カリキュラムデザイン・授業研究演習」の授業で、学卒1年生の皆さんに、一人ずつお話ししたこと。それは「視点・視野・視座を意識して残り1年を過ごしてほしい」ということでした。
まずは視点。ついぼくたちは授業参観に行くと先生にフォーカスしてしまいます。
どんな授業展開を準備したのか、どんな教材なのか、先生が何を話すのか,どんな発問か、どんな振る舞いか,どう子どもの意見をつなぐのか,板書は・・・等々。
教室の後ろに貼り付いて、学習者の後頭部を見ながら,つい先生にフォーカスする。この参観の仕方に表れています。
これまでの日本の授業は、京都大学の石井英真さんのいう、教師に導かれた創造的な一斉授業(練り上げ型授業)による知識発見学習、に価値が置かれてきたので、ついぼくたちはその授業の主たる先生に視点を置いてしまいがちです。
その場合、30人の学習者を「この学級」「子どもたち」「みんな」とあたかも1つの固まりとしてみてしまいがちでもあります。一人の発表を板書して「みんなが言ってくれたように」と先生が受けて授業を続けていくのはその典型です(本当によく出合います)。
本来学習者は多様です。
「子どもたち」ではなく、ひとり一人全く違うのです。
前時までのことが全員わかっているという前提で本時が組み立てられますが、これは多くの人が気づいているようにフィクションにすぎません。
前時までのことがとっくにわかっている人、今日の内容がピッタリの人、とっくにわかっていて「またかよ」と思っている人、30人30様なのです。さらにいえば、先生に説明されるとわかりやすい人、一人でウンウン考えたい人、他の人と話したり学び合うことで理解が進む人、何度も説明を聞きたい人、読んだ方がわかりやすい人、手を動かして考えたい人等々、自分にピッタリな学び方も多様です。
さらにさらにいえば、わかるペースも人によって違う。
考えて見れば当たり前のことばかりです。
学習者ひとり一人を見る「視点」を磨きましょう。
その授業の中でひとり一人の中に何が起こっているでしょうか。その子は何を感じ、何を考えているでしょうか。その子のニーズ、したいことはなんでしょうか。
一人にグッとよっていく視点を持ちたい、磨いていきたい、そう思います。
学習者理解こそが、この仕事の第一歩だと思うのです。それなくして,発問も板書もヘチマもないと思うのです。対話型模擬授業検討会でトレーニングしてきたことの中の大きな一つは、個の「学習者視点を磨く」に他なりません。
さらに言えば、「学習者になってみる」ことで、この視点は磨かれていくと思います。
大学院の授業で,新しい学習理論や学び方に出合ったと思いますが、頭ではわかってもなかなか腹落ちしにくい。これは現場の教員も同様です。なぜか。
それは、ぼくらには、1万数千時間に及ぶ「被学習者体験」があるからです。多くの人は、「座って聞く」「ノートに写す」という一斉授業を受け続けてきています。言わば徒弟として個の学び方に弟子入りし続けてきているのです。自分でも気づかないほど、この授業観が身体化している可能性が高い。
ですから、「せんせい」として前に立つと、学んできたことが吹っ飛んで「自分が受けてきた授業」を再現しがちです。
「頭ではわかっているけれどハラオチしてない」というのはなかなかやっかいです。
どうすればよいか。
学習者として体験し直すことです。状況に学び手として飛び込んでみることです。自身がプロジェクトベースで学んでみる。学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合で学んでみる。さまざまな学びの場(学校外の学びの場を強くお薦めします)に足を運び、学び手としての自分の変化を味わってみる(省察)。
学び手としての自分の変化に敏感になることで、学習者を理解する視点が少しずつ磨かれていくのではないでしょうか。
ぼくもまだ途上。たくさんの学びの場に足を運びたいと思います。
次に視座。
これは理論です。
これは端的に中原淳さんがまとめてくださっています。
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 実務家が必要としている「理論」とは何か?: 「実践」と「理論」のあいだの「死の谷」を超えて!?
「理論にインスパイアされた眼鏡」は、実務家の方々が、おかけになると、Real Worldにある現象A、現象Bが、さらによく見えるのです。
理論を学ぶと,自分の中にメガネができます。
中にいるだけでは見えなかったこと、理解できなかった現象がよくみえるようになってきます。視座があがるわけです。
そのために理論を学ぶこと、これは必須です。
ぼくはコルトハーヘンの『教師教育学』に出合って、見え方がずいぶん変わりました。3年かかってようやくですし、まだわかってないことも多々ありますが…
「経験オールオッケー!」
「現場はそんなにあまかねーんだよ!」
などとならないために、自己強化にはまらないために、視座をあげるために理論を学びましょう。今ならじっくり本が読めるでしょう。他の院生と議論、対話ができます。
これ以上ない貴重な時間です。
徹底的に歯ごたえのある本に挑んでほしいと思います。経験だけでやれるほど,実は現場はあまかねーわけです。
このメガネを獲得して、現場に戻ってぐわーーっと実践を進化させていく現職院生の方々がいるのは本当に心強い限りです。今でも繋がって自主ゼミが続いていたり、校内研究のお手伝いをさせていただいたり,学びの場でご一緒したりと嬉しいつながりが続いています。視座をあげる体験。実務家ほど大事。
とはいえ、理論ファースト、エビデンスファーストになりすぎないように。理論から,エビデンスから実践を組み立てるを繰り返していくと,いつの間にか実践は,学習者から乖離したしょうもないものになります。
新しい理論やエビデンスは,新しい実践から生まれてきます。実践者を目指すならその志を持ち続けましょう。
最後に視野。
たくさんの場に足を運びましょう。見てみなくてはわかりません。そこに行かなくては感じられないことが確かにあります。ぼくは学生時代に恩師、平野朝久先生が主催してくださっていたバスツアーで、長野県伊那市立伊那小学校、長野県諏訪市立高島小学校、奈良女子大学附属小学校、神戸大学附属明石小学校等々、当時の先進的な実践に触れることができました。「学校でこんなことができるのか!」という驚きは,今も自分を支えてくれている体験です。
愛知県東浦町立緒川小学校の当時の実践は衝撃的でした。1980年代に学習の個別化に挑んでいたのですから!子どもが好きな場所で自分のペースで学んでいました。
31才の時に長期研修で東京学芸大に戻って来たときには、学校外の大人の学びの場に足を運び続けました。中野民夫さんの『ワークショップ』が発刊され,ワークショップ黎明期で熱を帯びていた時代です(2002年頃)。中野さんのワークに出たり、演劇のワークショップ、まちづくりのワークショップ、国際理解のワークショップ、紛争解決のワークショップ等々、ほんとうにいろいろなワークショップに参加しました。PAにであったのもその頃。
そこでのぼくの学習者体験で、
「学校教育のことを考える時に,学校教育のことだけ見ていては見えなくなる。広く社会で行われている学びを視野に入れよう」
という核心にいたりました。
「よい学びは年齢を問わない」というコンセプトが自分の中に立ったのもこの頃です。
さまざまな場にいき、視野を広げて、あらためて学校教育を眺めてみると、いろんなものが見えてくるはずです。ぼくらが「知っている」学校教育は、ほんのほんの一部です。視野が狭いと、自身の体験や実践を絶対視しすぎてしまいます。
今、院生の皆さんが、全国あちこちに参観に行ったり、ワークショップに参加したり、参観先で「対話型授業検討会」で授業者と対話を深めたり、読書会をしたり、放課後(?)に長々と議論をしたり、研究室に押しかけてくれて対話したりしていることは、視野が広がり,視座があがり、視点ができているからこそ起きている学びの姿だと感じています。
実践コミュニティが立ちあがってきているのですよね。
この姿が,この現象が、あちこちの小学校、中学校、高校の学習者の中に、職員室の中に起きてきたら、この国の教育はぐぐっと前に進むのではないか、そんな気がします。
よい学びは年齢を問わないと思うんです。
今、学校教育は変化の時です。
「視点×視座×視野」になることを目指したいなあとおもいます。かけ算だから、どれか一つが0だと答えも0。
なぜこの3つが大切なのか。
それは、これから先生になるにあたって、最も重要なことの一つは、「今の学校教育における前提の問い直し」だからです。現状の縮小再生産にならないためにも、前提にとらわれることなく、これからの教育を描いていく人になってほしい。心から願っています。
そのためにも学びましょう。本を嫌になるくらい読みましょう。たくさん場に出ましょう。人に出会いましょう。多様な人と対話を重ねましょう。
そして最後に。
なにより、ぼくら自身が学ぶこと,変化することを楽しむこと。
これにつきます。
これからも、ともにおもしろがっていきましょう!
楽しくない学びなんて学びじゃないもの。
よく考えたら、ぼく自身がこの3年間、教員養成・教師教育学という場に立つことで視野が広がり、視座が上がり、視点が磨かれたのだなあ。現場の感覚はものすごく鈍ったたなあと思いますが・・・・・・さて、新たな現場で新たな実践を紡いでいきます。