いわせんの仕事部屋

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学期末、テストに追われたりするのもったいない。

今年の梅雨は長い。

しっかりと雨が続きますね。

軽井沢なんて、ダウンを着る日があるんだよ,寒くて・・・

 

小学生の娘の様子を見ていると、プールになかなか入れなくて残念そうです。

プールの時間って、なんだかんだで開放的で好きな人が多いんですよね。それだけ普段の授業が開放的ではないという・・・以下自粛。

 

さて、1学期も終わります。

終わっていない漢字ドリルや計算ドリルやテストに時間を使って,子どもも大人もヒイヒイ言うのは本当にもったいない。

夏が近いのだからこそ遊びましょう。

 

学年を組んでいた同僚に教わって以来、毎年やっていた「水鉄砲大会」。

 

持ち物
・着替え一式。
・水を飛ばせるものならなんでも。
・タオル。
・着替えを入れるビニール袋。

 

パンツまでぐっしょりになるので、全て着替えられるように、靴も含めて一式持ってくることをオススメします。

水鉄砲はもちろん、プラコップやペットボトル、バケツを持ってくる人まで。

濡れたくない人、参加したくない人は、遠巻きに眺めているのももちろんOK。

カメラマンをやってくれる人がいたり,教室の窓から半ば呆れながら眺めつつ本を読んでいる人がいたりもします。

 

あそぶ
特に目的もなく、ただただ思いっきり水をかけ合うだけ、です。
ルールなんてありませぬ。
ひたすらかけあう。
最初の頃は水鉄砲でかけ合っていた人たちも,
途中からバケツでかけ合いはじめます。 笑
自分で水をかぶる人も。バケツ最強説。

大人であるぼくは,財力を生かして大きな水鉄砲を購入して,いざ鎌倉。

「ずるすぎる!」と非難囂々です。

始まった後は、起きることに委ねて一緒に遊んじゃいましょう。

 

何回か水鉄砲大会を実施すると、その内自分たちで企画しはじめ、盾をつくってくる人がいたり、ペットボトルを使って背中に背負える水のタンクをつくる猛者まであらわれて、いや何とも遊びの想像力ってすごい。
最初のきっかけだけつくれば、あとはどんどん広がっていきます。

 

「レクは子どもが考えることに価値があるのでは?」という声も聞こえてきます。

しかし、仮にそれを学級会で扱うとしても、子どもの中には,これまでの学校での経験(隠れたカリキュラム)から、「学校のレクでやっていいことってこれくらいのことだな、たぶん」と自制を働かせてしまいがち。結果、いつかどこかでやったような「ドッチボール」とかになりがちです。

「自由な企画が許される!」なんて経験、していない人が多いんじゃないかな。

先ずはその「学校についてのストーリー」を問い直す場面が必要そうです。そこは担任の出番だったりします。提案することをためらわなくてよい、とぼくは思っています。なによりぼくがやってみたかったし!

 

「とはいえ、来週1週間は雨模様だしな」

という声が聞こえてきますが、雨降っているからこそ楽しいですよ。

どうせ濡れるとわかっているなら,より大胆になれます。

せっかくの夏前ですよ。遊びましょう遊びましょう。

 

写真は、なんだかんだで一番楽しんでいた人。

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「本を読む」ことと、「自分で考える」ことはつながっていると思います。

体調がすぐれず、ベッドでグズグズ。

目がさめるとちょこっと読書。今日は安野光雅『かんがえる子ども』を再読しました。

 

本を読まないでも、生きていけます。でも、本を読んで生きた人は、同じ十年生きていても、二十年も三十年も生きたことになります。

「本を読む」ことと、「自分で考える」ことはつながっていると思います。「本を読むことは、自分の考えかたを育てること」です。とにかく、子どもたちには、自分で考えるくせをつけてほしいと思います。だれか偉い人がいっていたからとか、テレビでいっていたからとか、判断を他人に任せるようではつまらないではありませんか。でも、自分で考えるためには、日頃の訓練が必要です。頭がやわらかいうちに、たくさん本を読んで、世の中にはいろんな考えかたがあることを知りたいものです。

 

かんがえる子ども (福音館の単行本)

かんがえる子ども (福音館の単行本)

 


軽井沢風越学園の真ん中にライブラリーを置いた理由の一つのは、ぼく自身、学ぶこと、世界を知ることの大きな核の一つは「読むこと」であると思っているから。

公立小にいたときも教室に大量の本を置いていた。本が身近にあること、これは家庭環境に左右される。だからこそ学校こそが本を身近な存在に感じる環境であるべきだと思う。

 

せっかく本があっても、本の世界とつなぐ大人の存在はとても大切。

そのためにはぼくら自身が、子どもの本をどれくらい読んでいるかが決定的に大事で、それなくして子どもと本をつなぐことはできない。

たくさん読んで、知っている本が増えると、ある子に出会った時に、

「ああ、○○には、あの本が今ぴったりだな」とわかるようになってくる。

他ならぬあなたのために選んだ本を手渡すと、けっこうな割合で大切に読んでくれる。

「他ならぬ私のために選んでくれた」が実は大切。そのためには、その子のことと、本のこと、両方にアンテナを張り続けて、マッチングの試行錯誤を積み重ねるしかない。

 

学校や幼稚園、保育園の先生にとって、たくさんの子どもの本を読んでいること、知っていることは、「先生としての大切な土台」だとぼくは考えている。子どもの本を読んでいないのに、国語の授業ができるわけがない。

 

児童書やヤングアダルトをたくさん読んで、100冊を超えたあたりから見える世界が変わってくる(当社比)。

騙されたと思って読んでみてください。
ちなみにぼくや、盟友のKAIは、かなりおじさんになってから児童書やヤングアダルトに目覚め、それから何百冊と競うようによんできました(ちょっと盛ってるかなww)。大事な経験だった。


「何を読むか」も決定的に大事なので、例えばこちらも参考程度に。http://iwasen.hatenablog.com/entry/2015/11/05/193414

日本休み時間三大芸能

日本休み時間三大芸能と言えば、

フルーツバスケット
ハンカチ落とし
ドッチボール

です。昭和から面々と続くこれらの伝統芸能。

 

外に行ってはドッチボール。
雨が降ったと言えばクラスレクでハンカチ落とし。
お楽しみ会と言えばフルーツバスケット。
ぼくの子どもの頃もそうだったなあ(遠い目)。


で。
これらの伝統芸能は、教師にとっては「レクをやって子どもたちの関係性がよくなるといいなー!」なんて思ってやるわけですが、子どもたちのモチベーションや関係性をめちゃめちゃ冷やす三大レクとも言えます(当社比)。
なぜか。

 

○活躍できる人が決まっている。

ドッチボールは顕著です。うまい子がボールを取る、投げる、あてる。他の人はひゃーとか言いながら逃げ回るほかない。運悪く当てられて外野に行くともうおしまい。
ボールが回ってくることはほとんどなく、ぼーっと経っているか、グラウンドにお絵かきをするしかない。
うまい子が外野に来ると全てのボールを奪って投げる。
力関係がもろに出るスポーツです。ほとんどの人は全然おもしろくないんだよね。
ハンカチ落としもそうなりやすい。「力」のある人、仲良し同士でハンカチを回しあう。一部の人だけで盛り上がり、後の人はただ座っているだけ。

 

○罰ゲームや負け、ボールがこわい。
フルーツバスケットは典型。鬼になるのが嫌で必死で席を探すことも。負けにならないように必死で動くゲーム。下手したら罰ゲームがあったりすることも。ドッチボールは当てられること自体がこわい人もいます。そりゃそうだ、痛いもの。

 

かかわりが限定的。
三大レクを通じて子どもたちの関係性が広がったり豊かになったりすることはまずありません。ほとんどコミュニケーションもなく、相談することも、協力することもほとんどない。みんなで遊んでいるようで、実はバラバラしてます。


○待ち時間が長い。
ドッチボールは外野にいったらぼーっと時間が過ぎるのを待つ。あー早くチャイムならないかなあ。
ハンカチ落としは時間の中で一度もハンカチが回ってこないことも多々。ぼーっと時間が過ぎるのを待つ。あー早くチャイムならないかなあ。
フルーツバスケットもなかなか自分の該当が回ってこないとぼーっと・・・(以下略)。

待ち時間が長くなると端的につまらない。
なので「何とか楽しもう」とする人たちは新たな技を発動します。ふざけはじめるのです。
わざと鬼になったり、転んでみたり、イスを取り合ってみたり。
遊びを楽しくしたい!と思うのはとても自然な行為。三大レクの構造がこのような行動を促していると言えます。

しかし・・・教師の「保安官バッチ」が作動します。

ふざけるならもうレクしません!
シーン。
あれ、なんのために遊んでるんだっけ?

 

○にもかかわらず参加が強制される

つまらないのに参加が強制される、これが一番問題です。「ぬーけた!」と辞める自由があればいいのに。

 

せっかくなら楽しいことがいい。

せっかくなら関係性が広がったりワクワクしたりするのがいい。

 

iwasen.hatenablog.com

 

そもそも遊びとは子どもの「~したい」から出発する自己主導なもの。

そもそもは「あそばせる」ものではないですよね。

ぼくが担任の頃はSけんが一番人気でしたが、その中でも教室の畳みコーナーでのんびり本を読んでいる人もいる時は、いい感じ。

自己選択・自己決定のないことは遊びとはいえないのでしょうね。

 

三大芸能はそろそろ博物館に飾ってはどうだろう。

 

 

サークルになって話す。

最近教室で、サークルになって話し合ったり、対話したりしている場面をよく見るようになりました。アドラー心理学に基づくクラス会議、イエナプランのサークル対話、てつがく対話など、サークルになるという場のつくり方が一定の認知を得てきたように見えます。朝の会や帰りの会をサークルで行っている、という話もちらほら聞こえてきますし、ぼく自身も現場にいるころ、サークルという場をとても大切にしていました。

 

一方、サークルになることが目的化しているようにも感じています。
「何か民主的でいい感じじゃない?」的な。

 

サークルの場って簡単そうで難しいというのがサンプル数1ながらの経験知です。

 

プレッシャーがかかる
まず30人近くが丸くなって座ると、当然ですがサークルがでかい。正面の人ははるか先です。自分以外の29人の顔が見える。それは良さでもあるのですが、この中で発言するなんて実はプレッシャーがかかります。全員の反応が見えるわけだから。

 

参加度が下がりやすい
どうしても沈黙しやすくなるし、基本的に「1人が話し手で29人は聴き手」という状況になるので、「だまってきく」ことがメインになります。よっぽどそこで取り扱われているテーマに関心がないかぎり、ずっと聞きっぱなしになって参加度はグッと下がります。その内に隣とつつきあったり、意識がサークルの外にふわーっと飛び立っていったり。そうなるのは必然です。

 

一斉講義と変わらない状況
というわけで、初期の頃は学習者同士のやりとりになりにくく、先生を介したコミュニケーションになりがちです。
先生→子どもA→先生→子どもB・・・というように。
なかなか対話が生まれず、焦って先生の発話が増える。先生がつながないとコミュニケーションにならない。これでは一斉講義と何ら変わらない状況です。そもそもなんでサークルなんだっけ?という問いが生まれてきます。

 

何のためにサークルになるの? サークルになることのよさと難しさは?

これらの問いを考えなら、ではどうしていくのがいいかを検討し、試行錯誤したいです。

さらにいうと、場で起きていること、一人ひとりの子どもが、その場で何を経験し、結果として何を学んでいるか?という問いも持っていたい。 サークルで大切にしたい価値とは逆のことが結果として伝わってしまっていることもあり得ます。

 

繰り返しになりますが、人数の多いサークルの場ってなかなか難しい。

誰でもどこでもうまくいく方法はないし、コンセプトがいいからといってうまくいくというものでもない。そこには目的とつながる実践知が必要です。 実践知を磨くには、試行と振り返りのサイクルをグルグル回すこと。フィードバックをいかすこと。

 

ちなみにぼくは、かなり構成的にサークルの場をつくっていく派でした。
小さな足場かけをつくり、成功体験を積み重ねていく派でした。

例えば、毎日たっぷり読み聞かせをすること。「きくって楽しい」という体験を山ほど積み重ねること。ペアで聴きあう体験をたっぷりすること。小さなサークルからはじめること。等々。それでも30人のサークルが自然になっていくには、たくさんの壁が存在します。この続きはまたいずれ。

以下はある日のサークルの様子です。

 

   *  *  *

 

「朝のサークルタイム」
月曜日の朝は、なんとなく子どもたちが疲れて見える。
スポーツ少年団での練習や試合のあった人、
遠出をして帰ったばかりの人、
ついつい夜更かしをした人。

全体的になんとも調子が出ない感じ。
ぼくもまた、ちょっとボーッとしていたりする。

 

そこで月曜朝は決まって「おはよー!」とあいさつをした後、

「土日どんな風に過ごしていた?」
というテーマで、2,3人で対話する。

まずは少人数でたっぷりチェックイン。全員の前で話すのはプレッシャーもかかる。数人ならたくさんの人が話せる。
いろいろあった人もなかった人も、ワイワイと楽しそう。

「野球大会だったんだけどさあ・・負けちゃった−」
「雨降ってたからずっと家にいたよー」
「父の日の準備始めた?」

漏れ聞こえてくる声をききながら、元気かな−、つかれてないかなーと子どもたちひとり一人の様子を見る。

 

3分くらい話した後、数人の人が全体にシェアする。
「だれかみんなに話してくれる?」
「じゃあ、おれが」と、Kくん。

「土曜は朝は10時頃起きて、お母さんに怒られながらパンを食べたんだよね」
 起きるのおっそー!

子どもたちからつぶやきがもれる。
(日頃から「幸せなら態度で示そうよ」と話していた。ウナウナと頷いたり、小さな声で反応したりすると話し手は「ああ聞いてくれているんだなあうれしいなあ」って伝わるよ、と。)

「昼ご飯は食べなくて−、で。部屋の片付けしろって母さんに怒られたから、いやいややって〜」 あはは

「夜ご飯食べて、1日終わった−。」 
わはははは!なんにもしてないじゃん!

さまざなつぶやきがもれる。

「日曜はなにしたっけなー、午前中部屋の片付けして」どんだけ汚いんだ!
「午後は部屋の片付けしてるっていいながらゲームして、夜ご飯食べて終わった−。
雨降っちゃうと野球がないから急にやることなくなるんだよねえ〜 」
ああ、わかるー。

外のスポーツをやっている子達から共感の声。


たわいもないこんなことを、みんなで笑ったり、うなずいたりしながら、クラスの波長をゆっくり合わせていく時間。,こんな感じでゆるやかな1週間のスタートを切る。

 

   *  *  *

聴き手である人たちの反応は、読み聞かせをしているときの反応にちかい。

読み聞かせの経験と、サークルで人の話を聴くことは実はつながっていたりします。

 

サークルにまつわる記事は以下にもあります。

iwasen.hatenablog.comhttp://iwasen.hatenablog.com/entry/2015/10/20/191606

 

iwasen.hatenablog.com

 

iwasen.hatenablog.com

 

iwasen.hatenablog.com

 

 

 

プロジェクトをつくる:メモ。

今、軽井沢風越学園設立準備財団ではカリキュラムづくりのまっただ中。

今日も東北学院大学の稲垣忠さんをお招きしてPBL(Project Based Learning)デザインの研修でした。あーおもしろかった。

 

さて、PBLのカリキュラムどうやってつくるの?

どんなプロジェクトに価値があるの?どんなフレームワークを使ったらいいの?

そもそもどうやって教科を横断したカリキュラムをデザインするの?

学習指導要領は押さえられるの?

 

次々に様々な疑問や不安が押し寄せてきます。

ぼくたちは自分がこれまでにやってみたことのないことをやろうとすると,不安が襲ってきます。自分への期待値を過剰にあげてしまって、一歩踏み出しにくくなる。失敗したくない。それは多くの人にある感情です。

 

ではどうすればよいか?

まずは自分への期待値を下げて、とりあえずつくってみちゃうこと。

つくってみると、形ができるので、他の人と一緒に眺めることができるようになります。一緒に触ってみることができます。フィードバックを受けることができます。形にしないまま問いや疑問の空中戦をしていても、なかなか前に進みません。

 

とりあえずつくってみるには、何をとっかかりにすればよいか?

まずは先行事例を参考に、たくさんつくってみればいいんじゃないかな。

例えばHigh Tech High(以下HTH)。PBLで有名な学校。

こたえのない学校の藤原さとさんのブログに詳しいです。去年藤原さんと一緒に見学に行きましたが、魅力的な学校でした。生徒がプロジェクトをそれはそれは楽しそうに語ります。

kotaenonai.org

 

 

HTHのホームページには学校で行われているPBLが惜しげもなく紹介されています。小、中、高の事例がたくさん。

これらをざーっと全部見て整理してみるだけでも、

「なるほど、プロジェクトってこんな風につくるんだな」

と勘どころがわかってくるでしょう(1日あればできる)。

しかもグーグル翻訳を使えば日本語で読める!(ちょっとあやしいけど)

www.hightechhigh.org

 

プロジェクトのつくりかたのPDFもあります。英語だけど・・・・

https://www.innovationunit.org/wp-content/uploads/2017/04/Work-That-Matters-Teachers-Guide-to-Project-based-Learning.pdf

 

これらのフレームワークを活用しつつ、HPのテーマ例に刺激を受けつつ、先ずはたくさんつくってみること。批評しあうこと。

「このフレームワークでいいのかな」と恐れる必要はありません。

つまらないプロジェクトができたら、それはフレームワークのせいではありません。逆を言うと、どんなにステキなフレームワークがあってもそれだけで良質のプロジェクトがつくれて、実践できるわけではないのです。

(さらに言うと、つくることと実践することの間には大きな段差があることにも注意。実践知は実践でしか培えない部分も多いです。ですからたくさん場に立つのが大事。対人のことは対人の中で学ぶほかない)

 

試行と思考のサイクルをグルグル回すこと。

自身の情熱からプロトタイプをたくさん作ってみること。

忌憚なくフィードバックしあうこと。

いくつかのプロジェクトをかけ算してみること。

いいのができた!と思ったら自分たち自身が学習者となって実際に学んでみること。やれることはたくさんありそうです。

 

ちなみにこの学校のカリキュラムも参考になります(ここも見にいきました)。

www.newschoolsf.org

Principlesも明確。

探究のフレームワークもHTHとは違いますが、小学校にマッチしそうなフレーム。つまりいろんなアプローチがあるのです。

ちなみにこのHPは丹念に掘っていくと、フレームワークのPDFもダウンロードできます。

 

自分が子どもなら「絶対にやってみたい!」と思えるか。

いや大人になった今も「ワクワクする!やってみたい!」と思えるか。

シンプルにそんなところがスタートラインだと思います。

 

ちなみに風越では、 

すべての子どもの “自由” に生きるための力を育むと同時に、“自由の相互承認” の感度を育む

ことを目指すので、カリキュラムを考えるための3つの問いは、

 

・「私は誰か。私が自由に生きるための力は何か」
・「私は他者やコミュニティとどう関わり、相互承認し合うのか」
・「私は自由で幸せな社会をつくるために、どう貢献していくのか」

 

です。これで探究の領域を考えていくのも手です。

 

自分用のメモです。よくわからない感じでごめんなさいー。

 

自学ノート

自学ノートや家庭学習ノート。

この実践を根本的に考え直したい。


自主的に学んでほしい。

自分の学びをマネジメントしてほしい。

自分の学びをデザインしてほしい。

自分の「〜したい」から探究してほしい。

 

そんな願いから、これらの実践群は試行錯誤を重ねてきた。


でもね。

これって、日々の授業で実現すべきことなのではないか。

日々の学校での学びこそ、良質の「自学ノート」的であるべきなのだ。学校での授業有り様を温存しておいて、家庭での学びだけ学習者の責任で変えていこうとするのはいかがなものか。


家に帰ってもやるとしたら、

「学校で没頭していて、うっかり家でも続けてしまった」

となることが自学なのだ。

そもそも持ち帰らなくてよいよね。

家では家の時間を過ごせばよい。自己責任的に学習者のせいにするのはやめよう。

問い直すべきは日々の授業だ。家庭学習の在り方ではない。僕も長らく実践してきたけど、本当にそれでよかったのか批判的に捉えなおさなきゃと思う。

 


ずいぶん昔、読書嫌いだったNくんが、

「いわせん、昨日『カラフル』の続きが気になりすぎて、布団の中で懐中電灯で読んでたら、お母さんに見つかって怒られた!」

とうれしそうに報告してくれた。

そういうことなんだと思う。

 

校舎工事、ついに立ち上がってきました。

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GWに読んだ本続き(メモ)。

GWに読んだ本続きです。

弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)

弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)

 

 ★★★★★

友人、神吉宇一に紹介してもらった本。

「投機的な振る舞い」とそれに伴う近くの変化(グラウンディング)で人の行動を見ていく面白さ。PAの見方もこの本でかなり変わった。ジャンルの違う本は大事だ。新書も読んでみよう。

〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション (講談社現代新書)

〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション (講談社現代新書)

 

 

 

 この本も『7つの神話〜』に続いてあたりだった。

教師の勝算: 勉強嫌いを好きにする9の法則

教師の勝算: 勉強嫌いを好きにする9の法則

 

★★★★★

書評を書く必要がないくらい充実した書評が2つ。

こちらをぜひ見てください。

askoma.info

 

www.s-locarno.com

 

認知心理学や学習科学はちゃんと触れておいた方がよいなあ。

慌ててこれも再読。

Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ

Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ

 

★★★★

あらためて読む価値のある本。

私たちは、つい今までの学習経験や指導経験をもとに、日々の授業をデザインしてしまう。

例えば、重要なところに蛍光ペンで線を引いて覚えるようにしたり、漢字をたくさん書くことでマスターしようとしたり、何度も繰り返し読むことで理解しようとしたりすることを学習者に要求する。また、教師自身がわかりやすい説明をすれば学習者は理解すると考えていたりするものだ。しかしこれらは本当に効果的な学び方と言えるのだろうか?

1万数千時間の「被教育体験」は私たちの身体に染み渡っていて、疑うのは本当に困難だ。

本書は、学習科学についての多くの実証研究をもとに「学び方」について網羅的にまとめた本である。


こと学習に関しては、研究による裏づけのない思い込みが多々まかりとおっている

うーん、誠に耳が痛い。私たちが被教育体験から身につけた学習方法は必ずしも良いものではないことがよくわかる。

著者は、子どものころに学習困難を抱えていたそうである。

今振り返ると、どうやら私は学習のしかたがわからなかったらしい。自分の思考をどう扱っていいかがわからなかった。自問したり、目標を設定したりすることができず、そもそも何かを知るということの意味からしてわかっていなかった。学習する能力は自分にはとうてい手の届かないものに思われ、そのために、スクールカウンセラーの評価に書かれていたように「途方に暮れて」いたのだ

 


画一的な(経験則にもとづいた)指導を超えて、


学習とはつまり理解のプロセス、メソッド、体系なのである。学習とは一つのことへの集中と計画性と内省をともなう活動であり、学習の方法がわかれば習得の度合いと効果は大きく上がる

のならば、私たち自身が学び直すことは、日々の授業改善にすぐに役立つはずだ。『教師の勝算』と併せて読むといいと思います、うん。

 

本書で取り上げられている6ステップは以下の通り。

 

1、価値を見いだす:学びたいと思わなければ学ぶことはできない。専門知識を習得するには、そのスキルや知識に価値があるとみなさなければならない。さらに、意味づけを行わなければならない。学習とはすなわち対象の意味を知ることである。  
2、目標を設定する:知識を習得する初期の段階においては、集中が重要だ。何を学びたいのかを厳密に見きわめて、目的と目標を設定しなければならない。  
3、能力を伸ばす:練習にも、他人と差がつく力をつけられるようなものがある。学習のこの段階では、スキルを磨き、パフォーマンスを向上させるためにそのことに特化した手段を講じる必要がある。  
4、発展させる:この段階では、基本から踏み出して、知識を応用したい。スキルと知識に肉付けして、より意味のある形の理解を形成したい。  
5、関係づける:すべてがどう噛み合うかがわかるフェーズである。私たちは結局、個別の事実や手順だけを知りたいのではなく、その事実や手順が他の事実や手順とどう関わり合うかを知りたいのだ。  
6、再考する:学習には間違いや過信がつきものだから、自分の知識を見直し、自分の理解を振り返って、自分の学習したことから学ぶ必要がある。

 

それぞれのステップに具体的な学習方法が、実証研究をもとに提案されている。例えば、重要なところに蛍光ペンで線を引くのではない学習方法として、自分で自分に問題を出したり、自分に説明してみたりするような、能動的な学習活動が最も効果が高いという。人は情報をコピーする存在ではなく、意味を理解する存在であるからだ。ここのような日々の実践の改善のヒントが詰まっている本だ。

こういう本を職場で読書会するのもいいんじゃないかなあ。

 

思わず考えちゃう

思わず考えちゃう

 

★★★

箸休め。小6の娘も「あるあるだなー!」といいながら1日で読んでました。 

 

ヤンキーと地元 (単行本)

ヤンキーと地元 (単行本)

 

★★★★★

厚い記述のエスノグラフィ。
公立で20年以上やってきて、その一端に向き合ってきた。でもそれは一端に過ぎなかったなあ。教育を教育の範囲で眺めていると、視点を変えるとギャグになるくらい空中戦。全くもって見えていないことに気づかされる。貧困を見ずして教育は考えられない。

 以下の本とセットで。

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

 

 

 ⑧

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

 

★★★★★ 

友人に勧められて手に取った一冊。
今の自分にしっくりときた。いいタイミングでいい本に出会った。

私たちはいつでも、過去を悔やんだり、まだ来てもいない未来を思い悩んでいる。どんなに悩んだところで、所詮や過ぎ去ってしまった日々へ駆け戻ることも、未来に先回りして準備することも決してできないのに。
過去や未来を思う限り、安心して生きることはできない。道は一つしかない。今を味わうことだ。過去も未来もなく、ただこの一瞬に没頭できた時。人は自分がさえぎるもののない自由の中で生きていることに気づくのだ

 

私たちの国で起きていること 朝日新聞時評集 (朝日新書)

私たちの国で起きていること 朝日新聞時評集 (朝日新書)

 

★★★★

晩ご飯の買い物がてらTSUTAYAに寄って手に取った本。

情報を整理するのに役立った。 

 

 ⑩

なんのための仕事?

なんのための仕事?

 

今これを読んでいます。 

 

子どもは大人たちの姿を見ながら、自分の将来への希望や期待を見出したり、育むものだと思う。

 

仕事観というのは本人の体験もさることながら、どんな大人の姿を見てきたか?によって形成されるところが大きいので、若い人は、もしわけもなく惹かれる大人がいたら、その人の仕事が自分のやりたいものであろうとなかろうと、近づいて、なんとかしてそばで時間を過ごすといいと僕は思っている。

あり方に触れることが、最もあり方に影響を及ぼすので。それは何よりも得難いものだと思う。

あるいは本人にまみえなくても、堪らなく好きなものや、わけもなく惹かれるものがもしあったら、これ以上ないほどたっぷり浸るといいと思う。何かに向けて動いてゆくときに必要な熱の蓄えに必ずなる。