いわせんの仕事部屋

Mailは「naoki.iwase★gmail.com」です。(★を@に変えてください。スパム対策です)

「学級経営」を学ぶということの難しさ。実践知をどう共有するか②

①はこちら。

iwasen.hatenablog.com

さらに小難しく進みます。こんなの読んでくれる人いるのかな・・・・・

(このブログ、振れ幅が大きくてすみません・・・・。自分のポートフォリオとして活用しているのでご容赦を)

 

そもそも教師の実践知とは何でしょうか。

学校現場では教師の専門性は技術的合理性で語られることが多いのが現状です。

プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方 (ショーン2007)

 

というわけです。

教育界の新しい動きは新しい方法や技術として提案され、教師はそれを現場に適用すれば解決するというわけですね(導管としての教師)。ここにおいて実践知とは目的に対する手段の関係となり、転移可能で脱文脈的なものとして捉えられています。


 しかし、佐藤(1997) が指摘するように、教師の仕事は「不確実性」を特徴としています。いつでもどこでも適用できる確実な方法はないことは、現場の教師は日々実感している当たり前のことです。だから日々大変なのですよね。AすればBになるなら、みんな苦労していないはず。

つまり文脈から切り離された理論や教育技術として蓄積されていく現状では、どうしても実践者と乖離が引き起こされてしまいがちです。そもそも教師の実践知とは、普遍的に確立された客観的なものではなく、個人的な文脈とは切り離すことができません。

 

文脈(学校なら教室の様子)を無視して、いつでもどこでもだれでも通用する方法はないと考えた方がいい。

 

日々の実践や、他者との関係、社会との関係の中で省察する(振り返る)ことを通して専門知として学ばれていくものだからでです。ショーンはこのような専門職像を「省察的実践者としての教師」と定義しました。



またクランディニンら(2011)は教師の実践知を、「個人的実践知」(personal practical knowledge)という概念で説明しました。

個人的実践知とは

意識的であれ無意識的であれ、信念と意味の本体であり(私的、社会的あるいは伝統的な)経験から生じたものであり、その人の実践において表現されるもの

 

であり、それは

イメージ、実践的原理、個人的哲学、隠喩、ナラティブ的統一性、リズム、そしてサイクル

についての言葉として表現されます。なんだかよくわかりませんね・・・

つまり李(2004) の説明を借りるなら、教師自身の個人的な経験や人生の歴史、その他のことに影響を受けながら、ジレンマやストーリーを生き、その過程での思考や行動が「個人的実践知」として表れているといえます。

この指摘は、学級経営を学ぶ上で、教育技術だけではなくその精錬されていく過程や、その背景にある思想や理念がどのような経験から生じたのか、その生成プロセスを明らかにする上でとても重要です。


ではそのような実践知はどのように記述されるのであろうか。これを考える上で、二宮 が2種類の知の様式ついて、野口の 「ナラティヴ・モード/セオリー・モード」を使って説明しています。この2つのモードの違いについて二宮は以下の2つの例文を挙げています。

ナラティヴ ・モード: 鈴木さんは、毎日、部活の早朝ジョギングに参加したため、マラソン大会で優勝した。
セオリー・モード : 毎日ジョギングをすれば、運動能力が向上する。

 実践の場においてはナラティブモードで実践知が語られることが多いのにも関わらず、実践を対象とする研究ではセオリーモードの〈知〉の方が尊重されている現状です 。ここが問題です。


つまり、二宮が指摘するように、

これまでの実践研究の多くでは、研究方法としてセオリーモードの〈知〉を用いてきたため、研究対象として個人の経験を扱っていても、研究プロセスのなかで、その個人の経験にまつわる固有の意味は削ぎ落とさざるを得なかった

のです。


 しかし桐田が指摘するように実践知は、

自然科学の法則のようにいつでもどこでも誰でも論理的に実証できる(=知覚的現実と一致する)ユニバーサルな『知』として存在しているのではなく、個々の具体的な他者・文化・制度とのかかわりのなかでその都度構築されていく、社会的に構成されたローカルな(=文脈依存的な)知であると捉えることができ

、実践研究において個人的実践知を明らかにするためには、セオリーモードの〈知〉だけではなく、ナラティブモードでしか表し得ない〈知〉がありそうです。


では、そのような暗黙知的な知識の文脈を解明していくにはどうすればよいのでしょうか。

それを考えていく上で,改めてショーンが描いた従来の「技術的合理性」(technical rationality)に基づいた「技術的熟達者」(technical expert)としての教師から、状況と対話し、行為の中で省察をする「省察的実践者」(reflective practitioner)という専門家の捉え直しを見ていきましょう。

これまで教師の専門性は「技術的合理性」で語られることが多かった野が現状です。いや今もなおそうですね。「プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する,道具的な問題解決という考え方」 です。しかし「複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値観の衝突」 がある現実世界では、技術的合理性に基づいた技術的熟達者では対応できないとショーンは指摘しています。

専門的知識を厳密に定義づけようとすると、実践者が実践の中核にあると見なした諸現象は排除されてしまう 。

とはいえ、目の前の固有の状況ばかりを優先しようとすれば、理論にそむくことになってしまいます。厳密性か適切性(rigor or relevance)をめぐるジレンマ に陥るのです。
 そこでショーンは、実践の中の知の生成を重視する「省察的実践者」という専門職像に転換しようと提起しています実践者の知は行為の外にあるのではなく、行為や行為の中の知につ いて 、行為の中で省察したり(reflection-in-action)、行為の後に省察したり(reflection-on-action)する中で生成し続けるのです。


 ここで確認しておきたいのは技術的熟達と省察的実践は対立概念ではないということです。

実践の認識論を発展させることにより、問題の解決は、省察的な探究というより広い文脈の中でおこなわれるようになり、行為の中の省察はそれ自体として厳密なものになり、実践の<わざ>は、不確実さと独自性という点において、科学者的な研究技法と結びつくようになる

 

とショーンが指摘するように両方大事なのです。

さて、ここまで書いてきたことをまとめると、省察を通して得られた専門知(実践知)を記述するためには、

①その省察を生み出した教師自身の個性的な信念と、
②その信念が培われた個別具体の経験、
③そしてその経験を取り巻く状況や文脈を解明する必要がある

とまとめることができそうです。

 

この解明にとって、セオリーモードの知(技術的問題解決を促す理論知)は本来脱文脈的であるため扱い得ないが、ナラティブモードの知(省察的実践を促す専門知)は文脈の明示化によって、上記①~③を扱うことができそうです。つまり、教師が教室内での教育実践と教室外での体験をナラティブモードで記述し、いかに自身のコンピテンスにしてきたかを考察することで、学級経営における個人的実践知、その生成プロセスの一端を明らかにし、共有できるのではないかと思うわけです。

キモは「ナラティブ」です。

そのアプローチを援用してアウトプットした書籍が以下です。

せんせいのつくり方 “これでいいのかな

せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ

  • 作者: 岩瀬直樹,寺中祥吾,プロジェクトアドベンチャージャパン(PAJ)
  • 出版社/メーカー: 旬報社
  • 発売日: 2014/09/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (4件) を見る
 

 自分でも好きな本です。

 

では、ナラティブを探究するとはどういうことか?

ナラティブで実践を記述するとはどういうことか?

ここでクランディニンの「ナラティブ探究」という研究方法にいきつくわけです。

 

いつかに続く。

 

参考・引用文献

・ドナルド・A・ショーン,『省察的実践とは何か』,鳳書房,2007ドナルド・A・ショーン,『省察的実践とは何か』,鳳書房,2007。

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

・D.ジーン・クランディニン他,『子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ』,明石書店,2011,21頁。 

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

  • 作者: D ジーンクランディニン,ジャニスヒューバー,アン・マリーオア,マリリンヒューバー,マーニピアス,ショーンマーフィー,パムスティーブス,田中昌弥
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2011/04/15
  • メディア: 単行本
  • クリック: 1回
  • この商品を含むブログを見る
 

 ↑必読中の必読。


・李暁博「日本語教師の専門知についてのナラティブ的理解」『阪大日本語研究』16,83-113、2004。
・二宮祐子「教育実践へのナラティブ・アプローチ:クランディニンらの『ナラティブ探求』を手がかりとして」『学校教育学研究論集』東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科、第22 号,2010,38頁−39頁。
・野口裕二「ナラティヴ・アプローチの展開」野口裕二編『ナラティヴ・アプローチ』勁草書房,2009.5-8頁。

・野口裕二『物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチ の世界へ』医学書院,2002.27-31頁
・桐田敬介「高学年造形遊びにおける授業者の専門知に関するナラティブ的探求」上智大学総合人間科学研究科教育学専攻 博士前期課程学位論文,2011,10-11頁。

・佐藤学,『教師というアポリア』,世織書房,1997,94頁。