ダブルバインド
教室では、ルールを守ったり、先生の指示を素直に聞いたりといった「受け身」の要求と同時に、創造性を発揮してアクティブに学ばなければならないという相反した要求が同居していて、子どもたちにとってダブルバインド のような状態になっていることがよくある。
主体性を発揮して!といいながら、言うことを聞いて動くことを要求したり。
怒らないから言ってごらんといいながら怒ったり…
ダブルバインドとは2つの矛盾するメッセージ(直接的なメッセージとメタ・メッセージ)の状況におかれてしまうこと。
この概念に触れるたっびに「ああ、自分にもよくあるなあ・・」
と情けない気持ちになる。
自身の日々のリフレクションに残っていないか探してみたら、5年以上前だけれどどんぴしゃなのがあった。
メモ書き程度のリフレクションだけど。
同じようなリフレクションが何回も。何度も何度もことばにして、何度も痛みを感じて、それでもなかなか超えられなかったんだよな。今も超えたか、と言われると道半ばだ。我が子にやっちゃうものな・・
教師のコントロール欲求は根深い。
(年齢、時期、エピソードの詳細は、本筋が変わらない程度に改変しています)
* * *
今日の朝のサークル。
昨日教室で暴れて教室から飛び出していったAさんが
「私が今日はファシリテーターやる」と立候補して司会進行。
そこで出てきた課題をみんなの意見を拾いながら、いい感じでファシリテートしていた。
1時間目が始まる時間が来てしまい、
「じゃあ、続きは明日やろう」と声をかけ、1時間目の算数を始めようとしたら、
Aさんは怒った。
「あと少し時間があったら決められたのに!」
ここでつい感情的に反応してしまう。
「でも授業時間始まっているでしょう。朝のサークルはそういうルールだったよね。」
「あと少しで決まるもん!続きやる!」
「やるなら一人でやりなさい」
Aさんは椅子をバーンと蹴った。
結局算数に参加せず。
ぼくも「わがままだなあ」と放っておいた。
今これを書いていて、感情が落ち着いて改めて見直してみると、本当に相変わらずだな。情けない限り。
Aの中で何が起きていたのか、何を感じていたのか、ではなくて、自分がやりたいことで進めてしまう。
逃げ道のない選択の余地のない選択肢を示して追い込む。
このアプローチをなんとかしなくちゃいけないのに、つい出てしまう。超えられない。
「こう動いてほしい」
が事前にあり。
「そうできるはずなのにしていない!」とイライラして、
「じゃあもういいよ」
的な言動で動きを誘発させようとする。
思えば新任時代からそのクセがある。
係活動で似たようなことがあった。
あることで注意し、後に子どもたちが「ごめんなさい!」と謝りに来たのを「いいぞいいぞ」と喜び勇んで学級通信に書いたりしていた。その通信はいまでも残っていて、見直して見たらかなり勇ましく「子どもが成長したエピソード」として描いていた…
話し合いの時もつい言ってしまうときがある。
「もっと意見言ってもいいんじゃない?」
「もっとしんけんでもいいんじゃない?」
それらはたいてい自分が環境設定をしくじっているのに、
参加者のせいにしているのだ。
大人の場ではありえないのに、子どもにやってしまう残念さと横暴さ。
最近の授業での「イライラ」もそれに起因する。
欲張って「ここまでいける」を設定し、それにいかないとイライラする。
子どもの側からそこで起きてることを見直してみよう。体験してみよう。その場で何が起きて何を感じているのか。
ぼくがしたいことではなく、子どもたちはどうしたいと思っているのか。
ぼくが不安定だから、子どもたちは、仲良しに固まっていくのだ。不安だから。
せっかくのチャレンジの場面だったのになあ…
丁寧に丁寧に。
自分のコントロール欲求をもう一度眺めてみよう。