いわせんの仕事部屋

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異年齢・異学年の学び 

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。今年は更新の頻度をあげたい(希望的観測)。

ぼくにとって、ブログは自分の思考のツールです。書きながら言葉になっていないことを整理していく感じ。というわけで今年もとっちらかった文章になるかも知れませんがよろしくお付き合いください。

 

さて。

去年、文部科学省、「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」から出された「Society 5.0 に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」という報告書では以下のような記述があります。

Society 5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~
平成30年6月5日Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf


〜学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。
また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。(8p)

 

また経済産業省から出された「『未来の教室』と EdTech 研究会」第1次提言(案)でも、学校教育に期待される具体的変化の例として

同質性の高い学校・学級空間ではなく、マルチ・エイジのグループ編成、学校種を超えたグループ編成、障碍の有無なく混じり合い、多様性ごちゃ混ぜの人間関係の流動性の高い空間が一般的になり、同質性がもたらす相互牽制や相互不安、同調圧力やいじめや空気の読み合い等の問題も払拭する空間になっている。

なんて書かれています。

異年齢・異学年のことは、このような一見"派手”な発信だけではなく、平成28年にでた「小中一貫した教育課程の編成・実施に関する手引」の中でも触れられています。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/01/19/1369749_1.pdf

 

異学年交流のねらい

異学年交流の効果としては,例えば,以下のようなことが考えられます。

1 家庭や地域における子供の社会性育成機能が弱まっている中で,異学年交流に よって社会性(思いやりの心,コミュニケーション能力等)やリーダーシップを育成することができる

2 異学年で学ぶことが,新しい気づきや既習事項の振り返り,学習意欲の向上につながる

3 児童の中学校生活に対する不安感の軽減により,小学校から中学校への移行がスムーズに行われ,学校段階間のギャップの解消につながる

4 単独の小学校及び中学校では確保できない,十分な集団規模を確保して教育活動を行うことができる

5 人間関係が固定化してしまうことによる悪影響を抑え,多様な人間関係を構築できる

6 異校種の教員が必然的に連携し理解し合わなければならない場面が増え,協力関係が構築される

 

一斉の授業スタイルから学びの個別化(同じから違うへ)、異年齢・異学年への学び(分けるから混ぜるへ)が国レベルでも検討されていて、その価値は共有されていそうです。

ボストンカレッジ教授のピーター・グレイによると、私たちの社会は異年齢で構成されているにもかかわらず、学校では同年齢で過ごすことが多いのが現状です。社会の変化により、一家族当たりの人数が減少し、近所レベルでの異年齢の自由な遊びも減少しています。また学校で過ごす時間の増大、学校外の各種活動も年齢別の活動が普及しているなど、私たちが意図しなければ、異年齢の関わりや学びがおきにくくなっています。
また、異年齢混合の学びの効果として、年少者にとっては、

 

・今日誰かの助けがあってできることは、明日一人でできるようになる。
(発達の最近接領域と足場かけは、異年齢の中でこそ起きやすい)
・観察して学ぶ(あこがれる→まねる)
・ケア(気づかい)と精神的なサポートを受ける(ケアし合う原体験が育まれる)
年長者にとっては、
・育てたり、リードしたりすることを学ぶ
・他者に教えることを通して学ぶ
・年少の子たちの存在により創造性が喚起される

 

をあげ、異年齢混合での学びを推奨しています。

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

 

 異年齢混合こそ教育機関が成功するための秘密兵器とまで書いているんですよね。

 

実は、現在の多くの学校でも異学年の交流は行われていますが、清掃や縦割り班遊び等、特別活動等、教科学習以外の場面がほとんどです。

このようなイベント的な異学年交流には、「年上=面倒を見る人」、「年下=劣っている人」のような役割や人の見方の固定化が起きてしまい、実は逆効果になることも考えられそう。「効率的」に学校教育を行うために異年齢を使っている、というと言い過ぎでしょうか。

 

そもそも社会は異年齢で構成されています。

社会人になって「同い年でチームを作って仕事をする」なんて設定はほとんどないですし、社会で暮らすこと自体が異年齢で暮らすこと。ぼくが子ども時代に地域にあったのは異年齢の遊び集団。多様なメンバーの中で折り合いをつけながら遊ぶなんて当たり前田のクラッカーでした。異年齢のなかにいるって本来は極めて自然な状態です。

そう考えると学校だけが特殊な構成です。教える側にとって、管理する側にとって「効率的であること」が制度として続くうちに、多くの人が学校教育の中で過ごすうちに、いつのまにか普通のこととして受け入れられてしまったことなのではないかと思うのです。

 

全国で学校の小規模化が進んでいます。

例えば長野県を例に取ると、小・中学生は、約 20 年後に現在の6割程度まで減少すると予測されています。平成25年度ではすでに小学校の3校に1校、中学校の5校に1校が単級以下です。「今後も児童・生徒の減少に伴い学級数が縮小するなど、学校の小規模化の進行が懸念 」されています。

学校の小規模化はますます進むでしょう。

https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/kensei/shisaku/sogokyoiku/documents/shiryo2.pdf

 

学校が小規模化するときに、日常的な異年齢・異学年の学びを実践するチャンス!しかし、学校が小規模化すればするほど「講義中心の一斉授業に向かう」という逆説的なことが起きがちです。

学級に4人しかいないクラスでは、「一人一人に目が届き」、「今までの授業スタイルが通用する」し、そもそも「荒れにくい」状況なので、学校での学びの有り様を変えようというベクトルが働きにくい。短期的には困っていないので、今の教育の「標準と思われているもの」に向かっていってしまう。4人しかいないのに、手を挙げて発表する、なんてことが誰の疑いもなく成立してしまう。

それほど同年齢・同学年の制度は、ぼくたちの身体に染みこんでしまっています。ぼくらの経験からできあがったマインドがそのチャレンジを阻みます。条件が揃っているからといって実践できるわけではない。

様々な学校改革のチャレンジをみても、ドラスティックに仕組みを変えても、教師自身のマインドがなかなか変わらず、講義中心の一斉授業が残り続ける、ということが往々にして起こります。教師のマインドが形骸化させる。手強し。

 

またこれまでのやり方を前提にすると、異年齢・異学年の学びはイメージしにくい。講義中心の一斉授業では、年齢も学んでいることも違うメンバーが同じ場で学ぶことは、実質不可能だからです。学びの個別化が不可欠になります。経験のないことへのチャレンジは不安になります。

また国内には、日常的な異年齢・異学年の学びは学校単位で踏み出すほかなく、実践事例も少ないのが現状。小さなチャレンジの積み重ねがしにくい。これまた変化を阻む要因です。

 

では、どうやって踏み出すと、その可能性が見えてくるのか。

どのような条件整備が必要か。

教師や保護者のマインドが変わるためには何が必要か。

その時の実践のポイントはどこか。

考えてみたい問いはいくつも浮かんできます。

これからブログでぐいっと深めていきたいと思います。

 

端的に言えば、ゆるやかな協同性に支えられた個の学びを実質化すること。

その時に戻るべき本はこれ。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

人それぞれ、興味・関心や学びのペース等が異なっているということを大前提に、異年齢・異学年を前提に、大胆に日々の学びをリデザインすること。公教育を変えていく一歩目はここだと思います。とってもハードルが高い(ようにみえる)。でもこの一歩目に踏み出せるかどうかが、イノベーションを起こせるかどうかの分岐点。この一歩目は今当たり前になっている様々な仕組みを見直さざるを得ないからです。

 そのチャレンジをしたいし、応援したい。

さて、正月なので今日はここまで。ビールを飲もう!