いわせんの仕事部屋

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学び続ける教員って個人の努力?

 

「学び続ける教員像」みたいなことが言われています。
教員は学び続ける存在。
それ自体はよく分かります。
ではどうやって?

こういう話は、一人ひとりの教員個人の取り組みや努力に還元されがちですが、それって危ない。いわゆる「自己責任論」ですね。

学んでないのはおまえのせいな。
うまくいかないのはおまえのせいな。
これって本当でしょうか?

 

本来、誰しも教員として成長したいとは思っている。
そういうぼくたちに、
「学び続けたいと思える環境が保障されているか」どうか。
ここが決定的に大事だと思うのです。
これを抜きにした「学び続ける教員像」の議論は危ない。教室も同じです。

 

学校の中にいかに「学び続ける場」をつくるかは、
年齢構成が大きく変わりつつある学校現場にとってはより重要です。
かつては、教員になれば、その現場で「先輩から学ぶ」がある程度機能してきました。同僚性が残っていたのですね。
私事で恐縮ですが、かく言うぼくも、1校目でも2校目でも3校目でも、思いっきり厳しいフィードバックをくれつつも、いろいろ教えてくれたり、協働できたりした先輩がいました。狭山市駅前で夜中の2時まで酔っ払って説教されたことも。「おまえみたいに自分のことしか考えてない研究主任に誰もついていくわけねーだろ!!」。泣きながら聴いていたことを覚えています。

iwasen.hatenablog.com

 

話がそれました。
職員室での学びなくして今のぼくはないなあ、と思うわけです。

しかし、年生構成の変化や多忙化等、学校を取り巻く諸条件でそれが難しくなってきている。
どうすればよいでしょうか。

「教員が学び続ける環境」として、メンター制やOJTが取り入れられていたりもします。なんとか構成的に、意図的に同僚性をつくろうというわけです。
このような営みはこれからも重要視されるでしょう。

 

だがしかし。
メンター制やOJTの最大(?当社比)の欠点。
それは、中原さんが以前、たしかブログで書かれていましたが、

・OJTの学習効果は「師」に依存する
・師の能力を超えることは、学べない

んですよね。

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 「OJT信仰・手放しのOJT礼賛」を超えて : OJTの脆弱性・成立条件を考える

 

変化が求められる学校教育。
自分が学校で体験していない、教わっていない方法で授業をすることが求められています。アクティブ・ラーニングとかいって。

その点、メンター制やOJTだけでは限界がある。退職校長が初任者指導に当たる、というシステムもいいところもありますが、上記のような欠点もあるわけです(もちろんその人に寄ります。素晴らしい指導者になる方もいらっしゃいます)。

ワンセンテンスで言うと、イノベーションが起きない、のです。

どんどん「小さく」なっていってしまう。

 

端的にはまずは職員室自体が
「学習する組織」になっていく、ということです。
この職員室で大切にされることは、教室で大切にされることと入れ子構造です。

職員室自体が、ケアし合い、学び合い、成長しあえる組織になること。
これにつきます。

 

繰り返しになりますが、

先生が学び合い、エンパワーしあえる環境を学校内につくること(物理的にも時間的にも)。

様々なリソースにアクセスできる環境を整えること。

管理職や教委の仕事はこの支援です。

 

 

他にはどんな策があるかなあ。うむむ。知恵を求む。ない知恵をしぼると、

一つは外にある民間の教育団体や、支援機関、学びの場へのアクセスをもっと公的に支援してはどうでしょう?
そこで学んだことをそれぞれが現場に持ち帰り、学び合うことを支援する。中と外がつながる仕組みが必要です。外にはたくさんの知恵があります。それを活用しない手はない。「中と外をつなぐ仕組み」がその1です。

 

二つ目は、「想定外の未知のものにであう」体験。
ぼくたちが学校の中にいただけでは思いつかないような学びのあり方が社会にはたくさんある。そういう場に積極的に出かけていく。出かけていくことを支援する。「民間企業への派遣」というのではなくてね。
見なくてはわからない。見ることで改めて自分の学校を見直すことができます。
そういう意味では、学芸大の教職大学院の授業で行われていた夏の課題、「大人のワークショップに参加してくる」は、手前味噌ですがなかなかいけてます。

 

もう一つ。
大学院で3年間仕事をして実感したことなのですが、
教員としての力量を高めるための専門知、みたいなものは確かにあります。
問題は、普通の先生がそのような理論や知恵にアクセスできる環境がない、ということです。

同僚性の中でエンパワーされ「学びたい!」と思った教員がアクセスできるようなコミュニティが用意されている必要があります。学会ではハードルが高い。
もう少し気楽にアクセスできるコミュニティ。
そういう意味で、研究者はもっと「現場で協働する」にシフトする必要があります。
研究と実践に上下はありません。
上下の方向性の研修や場が多すぎます。

同じ場で学び合う、参加のハードルの低いコミュニティ。中から外へだけではなく、外から中へも。
夢物語のような感じもしますが、でも大事だと思うのです。
「中と外がつながれる仕組み」をもっと検討するといいなあと思います。

 

ここまで書いてきたことがつながっていくと、
ゆくゆくは、ハーグリーブスのいう「専門職の学び合うコミュニティ」が生まれていくのではないかと、思うわけです。

この夏、いくつもの学校で校内研修、教委主催の研修に参加してきました。とても熱心に参加してくださり、ぼくは確信しました。なんとかしたい、学びたい、とほとんどの人が思っている。

でもチャンスがなかった。チャンスを待っている。環境を待っている。
今までの研修のあり方自体を見直す時期です。
スペシャルにやる気のある先生、だけではなく、普通の先生が学び続けたい、と思え、それを支える仕組み。
その視点を大切にしたい。

        *  *  *

というわけで、「学び続ける教員とは」で考えたことを一気にはき出してみました。まだ生煮え。

 

居心地のよい職員室、安心・安全な職場だけではだめなんだよな。居心地のよいきょうしつ、だけではダメなのと同様。
とはいっても、まずはここなんだけど。これができていない職場があまりにも多いんだけれど。
これはゴールではなく、スタートライン。

 

新任の先生にとって、リアリティ・ショックがあるのは当たり前。
そもそも、教員というのは、大学(院)卒業のときに「完成」しているわけがない。
学び続けるというのは、いったり戻ったり、喜んだり悩んだりしながら試行錯誤していくプロセスだから、ぼくは今だって成長の途上。

リアリティ・ショックがある前提で、それを受け止められる職場を創ることが大事なのだよなー。それは学校の努力だけの話ではなく、制度やシステムの問題でもある。

繰り返しになるけれど個人に還元するアプローチでは限界があるんだよな。

 

職員室の組織開発を真剣に考えるときです。