いわせんの仕事部屋

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本番とお稽古

教職大学院での選択科目「学校教育ファシリテーターの養成」を担当しています。
この授業はひたすら「お稽古」の時間。
実際にファシリテートしてみてフィードバックをもらう。振り返る。
時には自分の様子を動画で撮って見直す。ひたすらお稽古です。
なかなか大変な時間ですが、たくさんの方に受講していただています。
ぼくがファシリテートした場面を分析してもらう、というなかなかヒリヒリしたこともやってみて、果たしてモデリングとして機能しているのか不安になりつつ、でもぼくも学びの素材になることを大切にしています。

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もちろん授業の時間の中だけでは学びきれるわけもなく、院生の皆さんにはいろいろな文献を紹介して読んでいただく一方、
自分の関わる様々な場でファシリテートしてみること、例えファシリテーターはできなくても「ファシリテイティブにそこにかかわる」ことを意識してみることをオススメしています。
 
そんな中、現職院生にも、学卒院生にも「実際にやってみた」という方が現れ始めています。
学卒2年生(ストレートマスター2年生)の方々は、下のエントリーで紹介した「対話型模擬授業検討会」を実際の現場で、実際の授業の検討会のファシリテーターとして本番に挑んでいます。
先週は、東京都高等学校国語教育研究会(都国研)の集会で10人の院生たちが「検討会コーディネーター」の役割を務め、昨日は東京都立淵江高校でファシリテーターにチャレンジ。
今日は東京都立六郷工科高等学校で行われているAL実践交流会で、対話型模擬授業検討会のファシリテーターにチャレンジしています。
自身が学んできたことを足がかりに、学校現場での変革にチャレンジし始めている姿に打ち震えます。完全に自立した学習者であり変革者です。
もはやお稽古ではなく、本番なのです。
 
そんな中、一人の院生の方がフェイスブックで、ファシリテーターをやったときの振り返りをアップしていました。
ご本人の許可を得て一部を転載します。
 
        *  *  *
 
 
研修とかの経験が、「相手を理解する」という教師にとって非常に重要なことの土台というか礎になるんだろうなと感じる。
これから教員になる上で、非常に価値がある貴重な2年間を送ってこれたんだなと実感できるようになっていて、手応えを感じつつある今日この頃。
 
そして、あれよあれよと、ファシリテーターをすることになったり対話型検討会も、急にアウトプットが増えてきて、いろんなことを考えさせられる。でも昨日、F高校で感じたのは、「チャレンジしてよかった」という素直な思い。
 
先週H高校で初めてやった時、正直、生の授業で対話型検討会なんてしたことがなかったから不安も大きかったけれど、自分でもよくわからなかったが、かなり手ごたえがあったし、ワクワク感、楽しさがあった。
それは多分、今まで自分がやらせてもらってたことが世の中に広がっていったり、色々な人との繋がりが増えたり、「可能性」を大きく感じたからだと思う。
 
そして、その時に強く考えさせられたし、自分に足りないなと思ったのは、「挑戦する心」「積極性」だった。
 
なんでかH高校での研修会の夜に、チームのサッカーの練習が入っていて、その時に言われたのが、
「サッカー選手はボールに対する欲がないといけない。ボールを取ったら欲を出すように、生活でも積極的な考え方をしよう」ということだった。
 
どうも逃げ腰で、どこか消極的なところがあるなとすごく反省した。
 
その言葉もあって、迷ってたけど、
F高校でのファシリテーターを引き受けた。積極的に、と思って。
 
でも、気づいたら、担当の授業に、同期は一人もいなくて、1つの授業の対話型検討会のファシリテーターを全て任せられることに。
 
現場に行くまであんまり緊張はしてなかったけど、いざ、授業を見に階段を登りながら、相談する仲間もいないんだなーと思うと、一気に不安と緊張が走った。
教室に一人で入って、いつも通りに見ようとするけれど、やっぱり不安。
見学者の方は従来通りのスタンスで、教室の後ろから眺めているし、お偉いさんもいそうだし、かなり硬い雰囲気もあった。
どうなるんだ?これやばいぞ、って思いでいっぱい。
 
授業が普通に始まって記録をとりながら授業を見ていると少し落ち着きつつ見られたが、終わってみるとやっぱり不安。自分の見方感じ方であってたのかな と確認したくなる。
 
でも同期と会っても共有できる話ではないから、授業後、話したい思いを抑えて、授業で感じたことを整理しながら、どうやったら検討会をうまく進められそうかを必死に考える。
論点はどこだ?って。まあ結局、今まで通りにしかできないなとは思いつつ、のほほん、とは参加できないプレッシャーが結構あった。
 
検討会は、
授業者の方と私を含めて結局7名。
F先生がいなかったら本当に知らない方々ばかり(しかも、いろんな人から終わった後に「あそこは、フラットな関係が難しかったんじゃない?」と聞かれることが多いくらい、立場的に上の方々が集まった場だった)ので、本当の「お稽古」。
お稽古が嫌い、なんて言ってられない笑
人間、追い詰められた方が成長するのは確かだな笑
 
でも、大学院で岩瀬先生がやっているのを思い出しつつ、見よう見真似で、その日、朝食べたものを聞いたりしながら、進めて行く。
 
最初のちょっとしたアイスブレイクの価値を改めて感じる。本当に、朝ごはん聞くだけで、かなり場が和んだ。さすが、教員経験者ばかりで、話すと話したがりの人が多くで場が和む。
みんなに笑顔も出たり、ちょっとホッとする。
 
検討会のホワイトボードとかは、なかなか頭が回らなくて、書きながら整理して、論点を結局絞れるところまでは今日は行かなかったところが、個人的な反省。検討会については、また今度時間を作って次に活かさねば。
 
最後、外部の方から
若いのに(ホワイトボードに)こんなにうまくまとめて行くからすごいなと思って見ていた。私も1学習者として感じたことを授業者に1対1で伝えることはやってきていたが、このように、フラットに複数の人と伝え合って交流できる場があることはすごいなと感じた。これからこの地区にもぜひ進めていきたいと言葉をいただいたのは非常に嬉しかった。
 
今回、不思議だったのは、
緊張したり不安になったりはしたけれど、本当のパニックゾーンという感じでもなく、割と平常心でいられたこと。(むしろ、研修校での研究授業とかの方がパニックゾーンになっていた)
 
そして、この対話型検討会のファシリテーターを私たちM2がやっていることの不思議さを改めて感じた。
 
帰り道、久々に本屋に立ち寄って、
ファシリテーター関係の本を眺めていて気になったのが、この本。早速、読みながら、本と対話しながら、今回の検討会とかを振り返ってたら、やっぱり我々がファシリテーターをやってるのは「なんか変だな、面白いな」と改めて思った。
 
読んで引っかかった箇所は
「ファシリテーターの目標は、学習者が自分で学び、成長できるようにすることであり、学習する内容を成熟するまで学び続けるようにすることです」
 
というもの。そして、ファシリテーターは、コンテンツとプレゼンテーションスキルが最低限のスキルとも書いてあった。
 
検討会において、学習者は、誰に当たるのか? 授業者や参加者であり、ファシリテーターは一応我ら院生に当たるのであろう。
 
そうすると、我々院生が授業者や参加者が自ら学び成長できるようにすることを促すということになる。そんな大層な役割だったのか?そんな意識は全くなかったが、すごいことをやっていたのか…?
 
教師としての年輪を考えると、最も経験もなくコンテンツに対して専門性が低いと考えられる院生が、現場の教員を相手にファシリテーターをしている
 
という構造が、改めて稀有なものであり、不思議さを伴うもののように振り返って思う。
 
今回の参加者や授業者の方々の受け止める力に改めて感謝しなければと思うとともに、このように、超がつくほどの若手を価値があると思って積極的に使ってくださる場があることに、「可能性」を感じているのかもしれないとふと思った。
 
そして、私たちM2がすでにファシリテーターを行なっているということは、カリ授の授業の先生方は偉大なファシリテーターだなと思う笑
 
だって1学習者だった私たちが、まさに「自分で学び、成長できるように」なってきているし、「学習する内容を成熟するまで学び続け」ているわけだから。
 
ファシリテーターは学習者がファシリテーターになれるようにすることだし、ファシリテーターを育てて行くことでもあるのかなーと思った。
 
他の人のファシリをすることができれば、自分の授業に関しても、必然的に同じようなスタンスで考え改善することができる。対話型検討会深い。今回貴重な体験積ませてもらって改めて感謝。
 
                *  *  *
 
自身の変化を振り返ってのファシテーターとは何かへの洞察には、ただただ共感。
だって1学習者だった私たちが、まさに「自分で学び、成長できるように」なってきているし、「学習する内容を成熟するまで学び続け」ているわけだから。ファシリテーターは学習者がファシリテーターになれるようにすることだし、ファシリテーターを育てて行くことでもあるのかなーと思った。
この部分に教師の役割の本質が語られていると感じます。
経験を通して学びが有機的に繋がっていくリフレクションの文章に、経験の語り直しから、これから教員として一歩を踏み出す彼女は、新たな「支えとするストーリー」(クランディニン)を編んでいるように読めます。
他にも書きたいことは色々あるのですが、今回は「お稽古と本番」。
読んでいて興味深いなあと思ったのは、彼女は今回のチャレンジを「お稽古」と捉えていると感じられる点。
お稽古と思ったからあんまり緊張しなかった。
お稽古と捉えるということは、言い方を変えると場に対して「学習者であり続けている」ということではないかと思ったわけです。
お稽古と捉えるから、チャレンジできる。
お稽古と捉えるから、振り返って次に生かそうとする。
お稽古と捉えるから、失敗することもあり、と思える。
安心ゾーンからチャレンジゾーンに一歩踏み出すマインドのあり方なのかもしれません。

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ぼくは小学校教員のころ、
「日々ファシリテータートレーニング」と思ってやっていました。
そういうマインドでいると、
「今日はこういうチャレンジをしよう」
という意識が芽生えて、終わると自然に振り返り始めるのです。
 
「お稽古と本番」の関係っておもしろいなあ。