いわせんの仕事部屋

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ねっこ。

わけあって、自分の振り返りを読み直している。

自分で読んでいて、あらためて考えるきっかけになる文章に出会う(メタ省察?)。

その意味でも、振り返りを書くことって大事だなんだなって思う。

ついつい忙しさにかまけて、丁寧に考えることをおろそかにしてしまう。

忙しいときこそ、立ち止まること。

ていねいに生きていこうと思う。

  

*  *  *

 

先生にとって大切なことってなんだろう? 

「先生=ファシリテーターである」。

これはボクがここ数年言ってきたこと。

ファシリテーションは技術。 ここはボクのとりあえずの前提条件。 技術、としないと身につけることができないので まずはそう言い切ることにしてきた。

しかし、一番大事なことは技術や方法として切り出せるものではないんだとも思う。それは他ならぬ「わたし」が身につけるものだから。
誰が何を身につけたか、なんのために身につけたのか、っていうことがとても大事にな る。
ファシリテーションはややもすれば、大げさに言えば人を殺す道具にだってなる。

その昔。仮説実験授業にはまり、子どもたちが夢中になって科学の世界に浸っていくのを見て素晴らしいなあと思って続けてきたけど、あるときに危うさを感じたんだ。 そのときに感じた危うさ、20代半ばの当時に感じたのは「巧妙に 『原発は安全で世界最高の発電システムである!』という授業書を作って、巧みに問題を配列し、『ある事実』だけを伝えていけば、素直に『そうなんだー!』と信じる子どもたちを作ってしまっている」 ということ。原発はあくまでも例。20代前半の関心だったので。
仮説実験授業の先生の役割も、今思えばファシリテーター的。でも授業のデザイン次第で巧妙な誘導ができる。だから離れたんだよな。実は学習者の主体的な思考力が育っていないんじゃないかっ て。知識は空から降ってくる、事実は決まっている、という受け身の人を育ててはいけない、と。

ファシリテーションだって同じような危険性をはらんでいるとボクは思う。参加者主体であったらいい、というものではない。

どんな技術やスキルも「なんのために」がその価値を規定するし「だれがつかうか」もとても重要な要素だ。
となると、その先生の、 「わたしはだれか」 「わたしは何を大切にしているのか」 「わたしは何が好きか」 「わたしは何をしたいと思っているのか」、「わたしは幸せか。わたしは何が幸せと感じるか。」 「わたしは、どんなふうに暮らしているか」

みたいなことって、些細なようでとてもとても大事だ。

 

それはもはや先生として、というより一人の人として。一人の市民として。
「わたし」とは? という自分が大事なんだ。
それは素晴らしい人であらねば、ということではなく。
わたしはわたしを知っていて、そんなわたしを「なかなか悪くないな」って思えてるかってことなんだろうと思う。

 

一方。
そのまま素で先生として立つわけではない。

そこは、プロとしての「大切なこと」がある、と思う。

例えばなんだろう? 

「なんのために先生になったのか」

「先生としてのミッションは何か?」

「自分の理想の先生像をどう描いているか?」

「学習や、人の成長をどう考えているか」

 

「どう成長してきているのか。自分を磨いてきているのか。」

「めざす教育、めざす先生像は?」

「めざす社会は?」

仕事としてのねっこ。 わたしとしてのねっこと、プロとしてのねっこ。 これは全くのイコールではないけれど、それは積集合の ように共通しているところがあるはず。

その共通部分が大きければ大きいほど楽なのかな。 いや、共通部分が徐々に大きくなっていく、というイメージだろうか。
それとも 「わたし」のうえに「先生」が乗っかる感じ?

 

いずれにしても、この2つを丁寧に見つめてみること。そしてこの2つを磨きつづけることが、なんというか、先生としての「最低条件」なのではないだろうか。

その上で。 それを実現するために、勉強する。 練習する。 技術を身につける。 学び続ける。体験する。振り返る。 自分の強みや得意を生かす。 人に会う。 
ここにファシリテーションという技術が生きてくるはず。
それに魂を入れるのはやはり「わたし」なのだろう。

ある人の実践を見ていて感じたこと。技術は一生懸命練習して、ずいぶん身についてきている感じがする。インストラクションも上手になったし、ポジティブフィードバックの練習をしていたし。振り返りもよくやっている。 サークル対話をしてみたり、ホワイト・ボードミーティングをしたり、PAをやったりと「できる」 ことも、きっと同年代の先生たちより多いだろう。 アセスメントの練習もしているから、「みえる」ことも増えてきている、と思う。 でも。 ねっこが弱いんだ。ねっこが細い。
だからせっかく上に載せた技術が、ぽろぽろとこぼれ落ちてしまうんだ。 みえることも、できることも、機能しきれない。 がんばっているのに、成果につながっていく感じがない。 それはつらいだろうなあ、と思う。

じゃあ、そのねっこはどうやって育てていけばいいんだろう。

 

ボクの場合、まだまだ道半ばであり、まだまだまだまだなんだけれど、
一番は、ボク自身がおもしろがりで、楽しいってことをエネルギーになんでもやってみる、おもしろがってみる、っていうのが大きいと思う。実践してみて考えることが、自分のねっこを育てる根本になっているなあ。


自分が努力して、痛い思いも山のようにして「どんどん変わっていった」という自覚があるから、「人は変わっていく」ということを体験的に信じていること、は大きいなあと思う。その意味では先生になって、「がんばってきたこと」「学んできたこと」「練習したこと」「体験したこと」の積み重ねで今の自分があるという自負がある。

内省的な性格であることも「ねっこ」なんだろうなあ。 昔はそれはボクの「めんどくささ」だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 それがある意味この仕事には向いているんだ。 その内省も、思考の深みにはまっていく感じではなくて、ポジティブに変換しやすいのは気質なのか練習の賜物なのか。

 

とはいえ、まだまだなことも山ほど。

 

 

 

ボクは、ちょんせいこさんと一緒に「標準化」を大切にしてきた。 それは大切なことだとと思う。 標準化しないと、人が使える「技術」にならない。それは例えば医療現場なんかは「技術」として 習得可能なものにする、というのは圧倒的に大事なはず。違うかな?

その上でその技術を使う「人」をどう育てていくか。
その技術を更新していく人、現場にあわせて アレンジしていく人、産みだしていく人をどう 育てていくか。 そこもかんがえて、やっていく時期に来たと考えた。技術をアウトプットしてきたボクの責任として。

「子どもが好きだから先生になりました」 ってよく聞く。 いいことだし、きらいじゃあ話にならないし、ボクも好きだけれど。 でもそれだけだと子どもを抱え込んじゃう。 一番は、人の成長に貢献することが好き。とか。 人の成長を見るのがすき。とか。 人はちからがある。人には可能性がある、みたいなことを信じていることが大事なんじゃないかな。何より学び続けること、自分を問い直し続けることができるか。そして、自分が「消える」ことを当たり前と思えるか。自分の承認欲求を満たすために子どもを「使う」ことをしてしまわないように。

 

そして、よいモデルに出会うことも、もしかしたら、重要な一つなのだと思う。 それがないと、がんばる方向、学ぶ方向が定まらない。 いい人だけれど、先生としては悪くないだろうけれど、でも成長が止まっている、変わらないと言う人がいる。

成長すべき方向性を失っているんだよな。 だから、よいモデルを知っていることはボクが考えている以上に大事なのだろうと思う。

モデルを知っていると、それが評価の指標にもなって、今の自分もメタに見えやすくなる。 ボクにとっては、例えばざっくりいうと仮説実験授業時代は先輩の実践だったし、 その次に出会ったステキな同僚、当時自由の森校長の木幡寛さん、明治大の齋藤孝さん、国語専科教室の工藤順一さんに出会う。 その後ワークショップに参加し、いろいろなファシリテーターをみてきた。その中にはPAの難波さんや林さん、そして長尾彰さんがいた。 そのように「人」に影響を受ける時代から、中川綾さんに出会い、フレネやイエナプランのような教育のかたちや「価値」にモデルが移行していった。福祉領域でも活躍していたちょんせいこさんにも出会い、社会 と学校のつながりをリアルに技術でつなげることを見ることができた。

 

常にボクにはめざすべき方向、みたいなものがあったし、そこに向けて、けっこう愚直にやってきたなあとも思う。実践を通して学びまくってきたなあと思う。 モデルに出会うこと。それはできるだけ「リアル」なほうがいい。その意味でオランダにいったのは大きかった。

 

あとはなんだろうな。 学校という一つのコミュニティだけに属していない。いくつかのコミュニティに所属している自分である、ということかな。 例えば職場。家族。サークル。趣味。地域。 研究会。NPO。いくつものコミュニティ に所属していて、それぞれいろんな「自分」 がある。その共通部分としての自分。

それによって自分にバランスが取れていく。学校外に出て行くことが「先生」には特に重要だ、と思う。

 

 

とはいえ、いくらいいモデルに出会っても、

私たちは「だれか」にはなれない。

「だれか」をめざしていてもしょうがないんだ。

わたしはわたしとして、どんな人になりたいのか。

わたしはわたしとして、なにをめざすのか。

わたしはわたしとして、どんな一歩を踏み出すのか。

 

 

 

     *  *  *

 

最後に戻るのは「わたし」だ。 

今やれていないことは弱みではなく、成長のポイント。

苦しくても向き合おう。痛さこそがぼくを成長させてくれた。

なのに今は痛みから逃げている自分を感じる。よく見せたい自分を感じる。

ボクも46才とまだまだ若い(当社比)。

これからもたくさん出会い、考え、対話し、体験し、振り返り、変わっていきたいなあ。