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いわせんの仕事部屋

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よけいなお節介。

東京学芸大学、平野朝久先生の「子どもの見取り」の文章を読んで、もう7,8年前になる出来事を思い出した。(『学び手の視点から創る小学校の体育の授業』大学教育出版)

 

外で楽しそうにサッカーやSケンで遊んでいる子どもたち。その様子を2階の教室の窓から眺めているみさき。「外いって一緒に遊べばいいのに。一緒に行こう?」と言うボク。「こうやってみてるのが楽しいの」とみさき。

ふうん、そうなんだあと思いつつ、その時は正直よくわからかった。本当は入りたいのに「入れて」の勇気がでないだけじゃないかって。

そのみさき、教室でも一人で本を読んでいることが多い。休み時間はほとんど一人。ついボクは気になる。友だちと話せばいいのに。背中を押したくなる。

ある日の振り返りジャーナル、みさきはおおよそこんなことを書いていた。

本が大好きだと。そして本を読みながら、学級の人たちがおしゃべりしていたり、ふざけたりしてワイワイしているのが聞こえているのが好きだと。つい聴き入ってしまって、笑っちゃうこともあるんだけどね、と。

そのジャーナルを読んでから、あらためてみさきを見ていると、読書を楽しみつつ、教室のおしゃべりや空気を楽しんで、時々クスッと笑っていたりしていた。彼女は彼女なりの「心地よい、場への関わり」みたいなものがあるんだなあと。全然気づいていなかった。

ついついボクらは、ある種の期待や「こうあってほしい」という先入観メガネをかけて見てしまい、その見えたことで解釈、判断してしまう。でもこれって時と場合によっては、ひどいお節介になる。「学校的正しさ」が人を追いつめてしまう。

何でもわかった気になってはいけない。どんなに長い付き合いであっても、「本人にしかわからないことがある」ということを知っておかなくちゃいけない。本人の声を聴かなくちゃわからないことがあるという当たり前のことを、みさきのことを思い出す度に思う。勝手な解釈と過剰な判断。そんな失敗を何度してきただろうか。

 

 

「どの幼稚園でも、学校でも、先生の目からみると充実した活動をしていない子どもがきっといる。どんなに工夫し、試みても、おとなが期待するように活動せず、何もしていないように見える子どもがいる。

〜こういうときに、何かをさせようという考えを捨てて、子どもと一緒に何もしないで腰をおろしていると、その子どものまわりには、ひかえめで平和な空気がただよっているのを感じある。少なくとも、それまでのように、背を向けた関係ではない。
 子どもによっては、おとなが考えるのとは全く違った形での自己実現の仕方があるのではないか。保育者や学校の教師は、身体の労働をもって子どもの生活を支え、実生活で子どもに対して力をもつ人であるゆえに、何もしないこと、空想にふけること、目的のない役に立たない活動などに価値を認めない傾向がある。力を出し、努力をし、物を獲得し、充実する人には価値を認めても、物を手放して無欲に生きることによって満足する生き方には、関心を払わず、否定する傾向がある。前者を実とすれば、後者は虚の世界に生きる人といってもよい。しかしよく考えれば、だれでも、その両方の世界をもっているのではないか。

津守真『子どもの世界をどうみるかー行為とその意味−』NHKブックス 

 

子どもの世界をどうみるか―行為とその意味 (NHKブックス)

子どもの世界をどうみるか―行為とその意味 (NHKブックス)

 

 

 

学び手の視点から創る小学校の体育授業

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