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いわせんの仕事部屋

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学校における「主体性」をちょっくら考えてみる。

前回は、アクティブ・ラーニングの土台としての「安心・安全な場」についてまとめてみました。アクティブラーニングの視点として①対話的②主体的で③深い学びがあげられています。今回は「主体性」について考えたことをメモしてみたいと思います。

ところで主体性ってなんでしょう?大辞林第三版によれば主体性とは、「自分の意志・判断によって,みずから責任をもって行動する態度や性質」。ここでは差し当たり、主体性を、

「能動的に、自己選択・自己決定をもって自己や他者、ものごとに関係する態度」

としておきます。先の文科省からのメッセージでは、

「将来の変化を予測することが困難な時代を前に、子供たちには、社会の変化に受け身で対処するのではなく、現在と未来に向けて、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、自らの人生を切り拓き、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが求められています。」


と、今回アクティブ・ラーニングが重視される背景を説明しています。「自ら」と2度も書いてある。アクティブ・ラーニングにとって学びに「主体的」であることは必須でしょう。ここまでは多くの人は納得できるのではないでしょうか。ボクもここまでは納得できます。だがしかしです。

「主体性」って授業の中でだけ突然発揮できるものなのでしょうか?

そもそも、学校の中で「主体性」は大事にされてきているのでしょうか。

学ぶ主体、生活する主体として子どもたちは学校生活を送れているのでしょうか。ボクははっきり言って「あやしい」と思っています。学校における規律訓練権力の中、学校の中の行動原理は「他律的・受動的」であることが多い。時間通りに動くことを余儀なくされ、教師の号令、指示に従って動き、学校内のルールは「既にあるもの」として守らなくてはいけない。一見アクティブに見えてもそれは、指示に従って主体的に「させられている」と言ったらいいすぎでしょうか。それがデフォルトの学校で、学びだけ「主体的」になることってありうるのか?先のメッセージに戻るならば、「社会の変化に受け身で対処するのではなく、現在と未来に向けて、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、自らの人生を切り拓き、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出してい」けるようになるには学校や教室でこそ、その体験が原体験としてあるべきではないかとボクは考えます。

つまりアクティブ・ラーニングの前提条件として、

「学校や学級において子どもの主体性がベースになっているか」が大事ではないか

と考えるわけです。では具体的にはどんなことが考えられるでしょう?

 

例えば、学級のルールを決めたり、イベント等の企画をしたり、トラブルや相談を日常的に相談できる場が教室にあること。それは「クラス会議」や「サークルタイム」のように日常的にあることが重要です。大事なことは、そこでの失敗や試行錯誤が保障されていること。時には「ホントにうまくいくの?」というルールを作ってしまったりするかもしれない。問題解決がなかなかうまくいかないかもしれない。でもそんなの当たり前、なのです。大人の世界だって同じ。ましてやこれからの時代は「答えの決まっていない問題」に向かっていくわけです。だからこそ子ども時代から試行錯誤や失敗は保障されているべきです。まさに「主体性」を大事にしていきたい。

iwasen.hatenablog.com

ダン ロスステイン、ルース サンタナが『たった1つを変えるだけ』の本の中で、「ミクロ民主主義」という概念を提示していましたが、 これからの学校教育は、教室や学校で、 小さな民主主義を実現していくことが未来につながっていくと考えています。

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

 

 子どもたちはボクたち大人の本気を見ています。覚悟を決めなくては「きっとこう決めてほしいのだろうなあ」と教師の価値観、学校の表向きのストーリーに迎合する場になっていきかねません(ああ、たびたびあったなあ・・・・海より深く反省。「口出さないで!」「任せるならちゃんと任せて」と怒られたことも数知れず・・・)。時には、学校的価値を揺るがすこともあるかもしれない。だがしかし。コミュニティ内の問題を自分たちで解決したり、ルール自体を創っていき改善していくプロセスそのものが、「①対話的②主体的で③深い学び」であると言えるでしょう。何も教科に限ったことではないのです。またこの体験そのものがアクティブ・ラーニングを支える主体性を育むことになるのではないでしょうか。

 

例えば学習環境。ボクたちは、「子どもたちのために、いろいろやってあげるのが先生の仕事」と思いがちです。できるだけ手をかけ、時間をかけることが「よい先生」と思っている。これはわりと根強いです。新学期。先生が、教室のロッカーに一人ひとりの「名前シール」を貼ります。下駄箱にも名前シールを。掲示物を貼るのも先生が丁寧に丁寧に。放課後教室を整頓するのも先生。教室に季節の飾り付けをするのも先生。掃除当番表も、給食当番表も先生が美しくつくります。そして教室は『先生が丁寧に創り上げた場所』になります。ここで学ばれていることはなんでしょうか。
「自分がやらなくても自分の周りの環境は自動的に整っていく。」
「自分の周りを居心地よくするのは先生の仕事。」
よかれと思っていることが子どもたちの自主性を阻害し、「やってもらうが当たり前」という受け身にさせている。

学習環境も学習者であり、その場の主体である子どもたちと一緒に創っていけばよいのではないでしょうか。「教室のロッカーに一人ひとりの名前シールを貼る」には他の方法はないでしょうか。「せんせー、ロッカーに名前シールが貼ってありません-」「ほんとだねー」「誰がどこに入れるかわかりません」「そっかー、それは困ったねー。で、どうしたい?」「名前シール貼りたい。」「お!いいアイデア。どうぞどうぞ。そこにシールもあるし、名前の印もあるよー。あっちのテプラもあるから使ってもいいよ-。説明書も入ってるから読んで使ってみてねー」これで何の問題もなくスタートです。

「せんせー、給食献立表ないと明日の給食が何かわからないよ」「そっかー。確かにそうだねえ」「貼っていいですか?」「いいも悪いも、みんなの教室なんだから、いいと思ったことは、ボクに断らずにやるといいよー」
イラストが得意な子が手伝ってくれたりして、美しい「給食献立表コーナー」ができます。美的センス0のボクがつくるよりずっといい(涙)。困ったら、不都合を感じたら、自分たちでなんとかしていく。そうして、自分たちで教室をつくっていく。自分たちでやれること、やりたいことは自分たちでやる。そのことで子どもたちは、「自分の周りは自分が行動することでよりよくなる」ことを体験するのではないでしょうか。信頼ベースの学級ファシリテーションでは、それを「教室リフォームプロジェクト」として提案していますが、それは学習者と教師が協同で「主体性」を発揮していくプロセス、共にアクションリサーチしていくことにほかなりません。それは学習における「主体性」と根っこのところでつながっているでしょう。そもそも子どもたちにとって「主体性」は1つ。学習の時だけ発揮されるものではないのです。

 

例えば学習。苫野一徳さんはこう述べています。

...いつ何を学ぶかがかなり決められてしまっている学びのあり方は、考えて見ればひどく非効率的なことです。
子どもたちの興味・関心はそれ ぞれ異なっているし、学ぶスピードも、また自分 に合った学び方も、本当は人それぞれ違っているはずだからです。にもかかわらず、いつ何をどのように学ぶのかが一律的に決められてしまうのは、少なくとも子どもたち一人ひとりの学びの観 点からすれば、やはり非効率的なことといわなければなりません。
(苫野一徳『教育の力』 講談社 現代新書、2014、73頁)

違いをないことにして進めるのでは、子どもは受け身にならざるを得ません。そこで学習計画を自分で立て、ゆるやかに他者と協同しながら自学自習していく「学習の個別化」。詳しくは以下の本に載せた拙文にゆずりますが、自分の学習をモニタリングし、「自己選択・自己決定→実践→自己評価→自己選択・自己決定→・・・」のサイクルを日常のプロセスで繰り返していくことで、「自分の学習のオーナーは自分である」という「主体性」の感覚が育っていくのではないでしょうか。

授業づくりネットワークNo.19―格差と授業。 (授業づくりネットワーク No. 19)

授業づくりネットワークNo.19―格差と授業。 (授業づくりネットワーク No. 19)

 

以下はある子の振り返りです。

「1年間の自立チャレンジタイム(注:学習の個別化の時間のこと)を振り返って」
1年間やっていて、しっかり最後は自分で予定を立てられるし、しっかり振り返れるようになったと思います。最初はけっこうこの時間が苦痛だったと思うし、予定表で予定を立てるのもすごくめんどくさかったけれど、やっているうちに上達したと思うし、今は予定を立てたりするのも普通だ。自立チャレンジは自分の好きなこと、やるべきことをできるのですごく楽しく、しかもすごく勉強になる時間だったと思います。 この自立チャレンジで成長できたのは、予定をしっかり立てる力かなあ。最初の頃の予定表と比べてみると、最初は予定も、やらなきゃいけないからやる、みたいな感じがあったけれど、今はけっこう自分のやるべきこと、やらなければいけないことを明確にしてしっかり予定を組み入れるようになったと思います。あとはしっかり予定を立てて終わらせられるようになったので、自分の好きな算数とか理科とかを今までよりもできるようになったと思うし、そういうところで知識をつけたり、まとめたりする力をつけられたと思いました。そして最近はすきなことだけではなくて、1年の復習をすることもできているので、中学に向けて準備できてきていると思います。 この1年の予定表を見てみると、振り返りに毎回「色をぬっていなかった」とか「おわらなかった」とか書いてあって全然改善できてなくて、そこがうまくいかなかったと思います。 これから中学だし、中学に行ったら勉強量も増えるから、しっかり予定を立てて勉強と部活も両立できるように自分のことも考えながら勉強にも力を入れられるようにしたいです。 来年やる人へのアドバイスは、やっぱり将来絶対役に立つことだから、しっかり自分のやるべきことを、しっかりわかるようにして、しっかり終わらせていけば次につなげられると思う。この時間を一言で表すと「自立」だと思います。

自己モニタリングして、自分のペースで主体的に学ぶ。アクティブさのスタートは「わたし」からのこともあるわけです。 ボクが「ライティング・ワークショップ」の実践を大切にしてきたのは、そして広がるといいなあと思っている理由は、学習の中に「自己選択・自己決定」そして、自身の学び方やペースが大切にされている、まさに学習者の「主体性」をベースにした学び方だからです。

 

以上3つの例を挙げました。他にもいろいろな視点が考えられるでしょうが、ようは、日常の学校生活の中に「主体性」が発揮される場があるか、という視点が大切だ、ということが言いたかったのです。ミクロに授業を見ているだけではわからない学校の持っている文化まで含めて考えたい。こんな大げさなことでなくとも、日常のちょっとした場面で子どもの「主体性」が大事にされているかは、表れます。休み時間の過ごし方を選べるか。外でサッカーをしている人もいれば、教室でのんびり本を読んでいる人もいる。学習する場所を選べるか、ペースを選べるか、違いを大切にされているか、等々。

日頃は他律的で受動的なことを結果として求めていて、授業の中でだけ「アクティブ」であることを要求する。この矛盾は遠くない将来に「アクティブ・ラーニングさせられる」という皮肉を生む気がしてなりません。
繰り返しになりますが、「対話的主体的で深い学び」であるアクティブ・ラーニングのために、学校・学級の日常を子どもたちの「主体性」が発揮される場所にしていきたい。それは学習者中心の民主的な学校を目指していくことだと考えています。言うのは簡単、でも制度的な実践である学校の中では難しいことも多いこと、ぶつかることも多いこと、もボク自身痛感しています。そして年々難しくなっていることも・・・・・

自分でメモを書いてきたのを読み直してみても、改めて、ことは簡単ではないと思います。

だがしかし。子どもたちに「主体性」を要求するボクたちが、学校を変えていく「主体性」を手放すわけにはいかないなあと。いきなり大きく変わることはないし、蒔けるのは小さな種かもしれません。小さな種は次の日に大木になることはない。でも丁寧に水をやり続けてじっくりじっくり育てていくほかないなあと思うわけです。

 

残りは「対話的」かあ。難しいなあ…だれか続きを書いてください!