いわせんの仕事部屋

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安心・安全な場。:付け足しあり。

文科大臣から2016年5月10日に「教育の強靭(じん)化に向けて」というメッセージが出されました。

教育の強靭(じん)化に向けて(文部科学大臣メッセージ)について(平成28年5月10日):文部科学省

ニュースでは「脱ゆとり宣言」!のようにセンセーショナルに報道されているところもあります。はっきり言って「強靱化」という言葉にセンスがないから、そうなるのもわかります。

文科省のHPを見れば、

「『ゆとり教育』か『詰め込み教育』かといった、二項対立的な議論には戻らない。知識と思考力の双方をバランスよく、確実に育む」

と書かれていて、脱ゆとりとは書いてません。しっかりしろよ、マスコミ。発信にのって簡単にミスリードしないように。

新しい指導要領がでるまえに「アクティブ・ラーニング」という言葉が、絶賛一人歩き暴走しているわけですが、そのことについては以下のように書かれています。

「アクティブ・ラーニング」の視点は、知識が生きて働くものとして習得され、必要な力が身に付くことを目指すもの。知識の量を削減せず、質の高い理解を図るための学習過程の質的改善を行う。

 そして、①対話的②主体的で③深い学びの3つがアクティブ・ラーニングの視点だと書かれています。文科大臣のメッセージの妥当性はちょっとここでは置いておくとして、少なくとも「対話的、主体的で、深い学び」には「なるほどそうなるといいなあ」と思うわけで、そしてそれは言うはやすし行うは難し、横山はやすしです。

 

公教育においてそのような学びが実現されるためにはどうすればよいか?グループワークを増やせばいい?ジグソー法のような協同的な学びの手法を導入すればいい?ことはそう簡単ではない、とボクは思っています。

そもそも学級が(学年が)「対話」が成立するような関係性になっているのか?

そもそも子どもたちの「主体性」が発揮されるような学校になっているのか?

この2つが成立していないかぎり、「深い学び」にはたどり着けないでしょう。この2つなくして、アクティブ・ラーニングしよう!なんていうのは、OSがウインドウズ3.1なのに、最新のソフトをインストールしようとするようなものです。すぐれた教材、素晴らしい学習テーマも、学級が学びに向かうコミュニティになっていない限り、むなしく空回りしかねません。(もちろん優れた教材、テーマが、学びに向かうコミュニティを創っていくということもあります。)

ずいぶん以前、とある研究校で参観した授業。授業前の休み時間から教室を覗いていましたが、子どもたちのやりとりのきつさが気になっていました。明らかにいじめすれすれの「いじり」が起きている。学級に子ども同士の権力関係が散見される。見ていて苦しくなる感じでした。しかし先生がやって来て授業がはじまると、それなりに動き始めます。現象としては「アクティブ」に学んでいる。とても活動的。それだけみるといい授業に見えます。よくよく子どもたちのやりとりを聴いていると、ほとんど雑談だったり、こたえを教え合っているだけだったり、わからないままほおって置かれている子もいるし、本人も聴かない(聴けない)だったりして、ちっともカシコクなっていない。これなら一斉授業で一人一人問題を解いた方がいいよな-、というのが正直なところでした。でもそのアクティブさが煙幕となっていて、みんなが学んでいるように見える。子どもはその自由度に、先生はその活動的な姿にお互いが満足している。これからこんな事例は増えていくのではないか、とちょっと危惧してます。

話を戻します。「深い学び」が成立する前提として、学級の中に「対話」と個々の「主体性」がベースになっている必要がある、とボクは考えています。学級がどのような場であるかを抜きにして、そこでの学びの成立は語れないのではないか。これは大人である自分たちに置き換えて想像してみればわかりやすい。殺伐とした、関係性の薄い職員室の中で、豊かな「対話」が起き、ここの教員が「主体的」に学んで、「深い学び」の研修が起きるでしょうか?起きるはずもない。まずは職員室でしょ、って。

では、学級はどのような場であればいいでしょうか?まず前提条件として、教室が「安心の場(コンフォートゾーン)」になっていることです。まずはこれがスタート。教室が安全であり、安心できる場であること。自分らしくいられること。安心がなくして対話は起きないし、主体性が発揮されることもなさそう。それはそうですよね。安心できる職員室じゃないと、職員同士の対話は起きにくいし(グチやカゲ口は起きるでしょうが・・)、主体的に何かしようとなんて思えない。だって何言われるかわからないですものね。

教育心理学者の鹿毛さんは学級の「空気」について、

教室や学校が持つ「空気」は、それぞれに固有の文化や風土を背景として、その場に存在するメンバーの振る舞いを規定し彼らの状態レベルの動機づけに影響を及ぼすことになる。もちろん場に特有な文化や雰囲気は固定的なものではない。それらは、場とメンバーによる現在進行形の相互作用を通してダイナミックに創出されていく。 (鹿毛 2013)

と述べています。ではどうすればよいでしょうか?

日常的なコミュニケーションと相互に関わりあう心地よい体験の積み重ねによって相互理解が深まるとともに信頼感が互いに構築されることによって、自分の存在が受け入れられているという感覚が促され、その場が当人にとっての「居場所」となる。     (鹿毛 2013)

学習意欲の理論: 動機づけの教育心理学

学習意欲の理論: 動機づけの教育心理学

 

 

ここで大切なのは、日常的なコミュニケーションと相互に関わりあう心地よい体験の積み重ね」です。先生が説教したから、語ったから、信頼感が育まれるわけではなく、そこにいるメンバー同士が、心地よいコミュニケーションの積み重ねをすることが重要です。とはいってもこれは残念ながら自然発生はしません。

教室を眺めていると、実は子どもたちはごく少数の相手としかコミュニケーションをとっていないことがわかります。授業中はもし一斉授業ならほとんどコミュニケーション場面はありません。休み時間は仲のよい数人と。給食のときにグループの人とちょこっとしゃべるだけで、あとは基本的に仲のよい子とコミュニケーションをとっているに過ぎないのです。うちの娘(小3)に聴いても、1人の友だちの名前しか出てきません。ずーっとその子といるみたい(涙)。学童では、たまにからんでくる男子を蹴っ飛ばしているみたいですが(笑)。

話がそれました。その場が居心地がよくなるには、そこにいるメンバーのできるだけ多くの人と心地よいコミュニケーションをとる機会が必要になります。あまり話したことのない相手とコミュニケーションをとる、子ども自身にこれを任せるのは最初は難しい。リスクがあるからです。大人でもそうですよね。大学院の授業ですら、皆さん最初は「コミュニケーションをとったことのある安全な相手」と固まって座ります。だからこそ「より多くの人と心地よいコミュニケーションをとる機会のデザイン」が重要になります。ボクはそのことを「教室のコミュニケーションを混ぜ混ぜする」と表現していますが、関係のつなぎ直しが必要なのです。

その方法の1つとして、ボクはちょんせいこさんと「信頼ベースの学級ファシリテーション」を提案しています。メソッドですから、必ずしもこれじゃなくてもできることです。状況と目的に応じてメソッドは選べばいい。とはいえボクは、信頼ベースの学級ファシリテーションや、詳しい解説は省きますがプロジェクトアドベンチャーは優れたメソッドの1つだと考えています。ボクの中では「学級ファシリテーション」はどちらかというと言葉を介した関係づくり、プロジェクトアドベンチャーはどちらかというと身体を介した関係づくりと整理しています。

よくわかる学級ファシリテーション3―授業編― (信頼ベースのクラスをつくる)

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アドベンチャーグループカウンセリングの実践

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 まずは教室が安全・安心な場になること。これが第1段階です。子どもたちが「こんなにいろんな人と話したことなかったなあ」「話してみると意外といい人だった」「誰とでもそこそこうまくやれそう」こんな体感が持てたら、まずはベースができた感じ。誤解がないように書いておきますが、「みんなとなかよしになろう」ということではありません。ほとんどのメンバーと一緒に話したり学べたりする関係、困った時はサポートし合える関係、せめてお互いを傷つけ合わない(自由を侵害し合わない)関係をつくること、です。そのときに鹿毛さんも書かれていますが、大事なのは「積み重ね」です。

余談ですが、ボクのファシリテーターとしての師匠で、友人である長尾彰は、ボクが勤務していた学校の校内研修に関わってくれていたとき、「職員室をよくしたいなら、まずはコミュニケーションの量だよ」とボクにしつこくしつこく話してくれました。ボクはピンと来ていなかったのだけれど、半信半疑ながら研究主任として、まず1学期間、職員室の中でひたすらコミュニケションの量を増やすようなデザインにしました。研修でも職員室でもとにかくいろんな人同士がコミュニケーションをとる機会をとったのです(こんなことに意味があるの?とさんざん言われながら 苦笑)。すると9月ぐらいになって、コミュニケーションの質が変わってきたことに気づいたのでした。雑談のようなコミュニケーションが多かったのが、授業のことや子どものこと、研修のこと、生産的な対話が増えていったのです。数ヶ月の積み重ねで明らかにいい方向に変化しました。そう思うと、大人も子どもも組織のありようや変化には差がないのだなとあらためて気づかされます。

 多様なメンバーと、最初は浅いコミュニケーションでいいから量を積み重ねていく。ゆるやかに安心・安全な場になることを通して「自身がコミュニケーションをとっていくことで、居心地は変わっていく」という感度をもってほしい。繰り返しになりますが、自分が行動したことによって居心地が変わったという確信は、学級で体験しておくべきことの優先順位としては極めて高いとボクは考えます。これから世界はますます多様化していきます。いや実は教室の中だって多様で異質なのです。ボクらはこれまでそこをなかったことにし「同質だ」と勝手に決めつけて学級や授業を運営してきた。でもそれはフィクションです。考え方も価値観も学びのスタイルもペースも実は違う多様なメンバーが集まっている異質な場なのです。そこから出発したい。お互いの違いを知る上でも、違っていても関係を切り結べるのだということを体感するためにも、多様なコミュニケーションの機会が必要です。そのきっかけを作るのが先生の役割ではないかと考えるわけです。

 ここで強調したいのは先生の役割は「きっかけ」づくりで、あくまでも創っていくのはそこにいるメンバー自身であること。先生を媒介としたコミュニケーションではなく、学習者同士のコミュニケーションを、あくまで学習者自身が進めていく。お恥ずかしい話ですが、30前半まで、ボクの学級は常に「ボクを媒介とした」コミュニケーションの集団でした。いや最後までぽろぽろとそういう要素は垣間見えていたかもしれません。ついつい距離を縮めすぎて「中心」にたってしまう・・・

この距離感を表現するのは難しいのですが、考える補助線としては「ファシリテーション」になるでしょう。またこれは別の機会に。

 

安心安全な場を出発点として、次の段階は「対話」と「主体性」について考えてみたいと思います。

 

つづく(かも)。