いわせんの仕事部屋

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思い込みメガネ。

運動会シーズンが終わりましたね。このシーズンになると毎年思い出すエピソードがあります。

もう10年近く前のこと。

 

クラスは、運動会に向けて動き出していました。
その学校は学年の種目で「全員リレー」というのがあります。
クラスを4チームに分けてリレーチームを作り、各色対抗でリレーをするのです。
ボクは燃えていました。

 

クラスの練習は結構いい感じ。
チームの雰囲気もなかなかステキ。
ボクはこの取り組みで、「みんながまとまるといいなあ」と思っていました。

凝集性を学級のまとまりに使おう!と思っていたんですね。

チームで協力して全力でリレーに取り組む過程で、たくさんのことを感じ、学んでほしい。そうも思っていました。

 

とはいえ。

しかし普段の体育の時間は、組み体操の練習に時間がとられてしまい、

一番燃えているリレーの練習がなかなかできませんでした。

なかなか練習の時間がとれないので、

運動会までは毎日、帰りの会を早めに終わりにして、自主的に練習ができる時間を確保することにしました。

 

必ずしも走るのが得意!!というわけではない子が、

「バトン練習しに行こう!」

と友達を誘って、ランドセルを背負って弾むように教室を飛び出していく姿や、
校庭から、3階のボクらの教室に向かって、

「いわせーん!来てタイム計って−!」

とニコニコ叫んでいる姿を見ると、ボクはうれしくなっていました。いいぞいいぞって。

 

朝や20分休みに、密かに走り込みをしている子もいるみたい。
汗をふきふき、朝自習の時間に、
「今日も走ってきたんだ−」
なんて話しかけてくれると、じーんとします。
一生懸命っていいなあ、かっこいいなあって。

リレーの様子を見ても、本当にうまくなったし、いいチームワーク。


本気でそう思っていました。

今、思えば、燃えていたのは一番はボクなんですよね。それに付き合うように延焼した子たちが一緒に「燃えてくれていた」のかもしれません。もちろん燃えまくっていた人もいる。ボクが見えていないところで、いやいや燃えていた人、燃えているふりをしていた人、ただただ苦しかった人。いろいろいたはず。

でも当時のボクにはそれがまったく見えませんでした。

ボクの思考の中にどこか「行事は燃えるべきもの!」という思い込みがあったのです。

そんなボクに、一人ひとりの心のありように気づけるアンテナはありませんでした。

 

 

         *  *  *



そしてある日の放課後。
いよいよ運動会まで残り日数もわずかです。
大型連休があるので、放課後練習できるのはあとその日を入れて3回だけ。
そこで、ボクは気を利かせたつもりで、帰りの「振り返りジャーナル」を書く時間はなしにして、下校にしました。

そうすれば、子どもたちは「自主的」にリレーの練習をやるだろうって。ほんとにいやらしいなあと今なら思えます・・・でも当時はそれすら「いいこと」だと思っていました。

 

いつものように、
「1回走って帰ろう!」
と声をかける子がいて、どやどやと校庭に向かっていきます。

でも中には、
「今日は家で自主練習っていうことで!」
といって、さっさと帰って行く子もいます。
早く帰って遊びたいのかな?

そういえば、一昨日も給食の時間に放課後遊ぶ約束をしていて、帰りになると、
「今日は自主練にしよう!」
と早々に帰っていった一群がいました。
今日も同じパターン??
逃げるように帰って行くようにも見えてきた。
なんだよ、せっかくわざわざリレーの練習ができるように早めの下校にしたのに。



正直に告白します。
瞬時にこう思いました。
「100%全力で運動会に向かうんじゃなかったのかよー」
「ボクに勝利をプレゼントしてくれるっていったじゃん」
「そもそもみんなで練習しないと意味がないだろう。長い時間やる訳じゃないんだから!」
「何でやろうという声を無視して帰るの?それでベストを尽くしているって言えるの?」

「なんのために振り返りジャーナルなしにしたと思ってんだよ。あそぶためじゃないぞ!」

 

なんていう声が、自分の頭の中に浮かんできて口からついて出てきそうになりました。
帰ろうとしている人に嫌みを言ってしまいそう・・
もう少しで口にしそう・・・








とそのとき。Aさんが、

 

「OK!じゃーねー! イワセン−!時間あったら来てね!」

 

と笑顔で声をかけてくれました。

それでふっと我にかえった。


そっか、やりたい人が集まってやっている練習なんだよね。
ふと我に返りました。
本当に本当にあぶないところでした。




校庭に出ると、抜けるような青空の下、

残った10数人が楽しそうに、でも真剣にバトンの練習に取り組んでました。
「今うまくいった!!」
「もう一回やろう!」
「イワセン、見ててね!」

何だかとても楽しそうではじけてます。

 

帰ろうとしていた数人の男子が、
「○○〜、1回だけ一緒にやろうよ−」
と女子にやさしく声をかけられ、なんだかちょっとうれしそうに、

「しょうがねえなー。1回だけな」

ある人は、「じゃ、1回やっていくか!!」と急にやる気を出し、
またある人は、「捕まったぁ。。。」という感じで「わかったあ〜・・・」と元気なく加わり。

走って逃げ帰る人も。そのときには笑って「あ、逃げてった。また明日ねー!」といえる余裕を取り戻していました。

 

20分ぐらい、あーでもない、こーでもないと相談しながらバトンパスの練習をしたり、100mの走り込みをしたり。

「今のいい感じだよね」

「もう少し、距離を近づけてみようか」

「オッケー!決まったぁ!!」

「みんなそろそろ終わりにしない?」とボク。

「じゃ、ラスト1回だけ!」



その時にようやく、本当にようやく肚落ちしたのです。
やりたい人が集まって練習している。
それってとてもステキなことです。
もちろん、その日にはやりたくない人もいるだろうし、用事がある人もいるし、その気になれない人もいる。

放課後は遊びたい!っていう人もいる。
それってすごく当たり前のことなんじゃないか。

 

ボクが子どもでこのクラスにいてもきっとそう。
「今日は早く帰って遊びたいんだよ〜正直。その代わり体育のときチョー真剣にやるからさ」
なんて思うこともありそう。
「帰りぐらいは自由にしたっていいじゃん」
なんて思うだろうな。

 

改めて思い出してみると、クラスの子達、体育のときの練習、すごい真剣にやってたなあ。
むしろ、
「やるときはやって、遊ぶときは遊ぶ!」
とメリハリがついている、なんて見方もできます。
帰るという選択肢も当然ありなわけです。

 

「○○帰っちゃったのかぁ。それじゃあバトンパスの練習できないなあ。じゃあ今日は走り込むか!」
そんな当たり前を、当たり前に受け止めて、楽しそうに練習している子ども達を見ていると、
何だか自分が恥ずかしくなってしまいました。

 

「全力を尽くす=全員が残って自主的に練習をする」

なんて勝手な思い込みメガネで、クラスを見てしまっていた。
これって改めて考えるとすごいこわいことだし、ボクはそのメガネを随分長いことかけっぱなしだった。今も時々かけてしまっているかもしれない。


 

「これはこうなんだから、子ども達はこう行動するはず(行動するべき)」
という価値のものさしで子ども達を見てしまう。
それは時に子どもを深く傷つける。


自分のチャレンジを自分で選べる。
それを当たり前にやっている子ども達に、大きな大きなことを学ばせてもらった20分間でした。

 

「じゃーまた明日ーー!!」
「バイバイイワセーン!」

 

元気に帰って行く子ども達。
ボクはそうやって、子どもたちから鍛えられてここまで歩んできました。

こんな失敗を積み重ねながら、少しずつ凝集性に頼ることを手放し、少しずつ凝集性のあやうさがわかってきました。

 何度も何度も失敗しちゃってきましたが・・・・

「わかる」と「できる」には大きな壁があります。

でも「思い込みメガネかもしれない!」と自分に警報を鳴らすことだけは意識していようと思います。

 

そんなことに気づけた日って、空がすごくきれいに見えたりする。

今日、研究室から見た空はとてもきれいで、その下で幼稚園の子たちがうれしそうに運動会練習をしていました。その風景から思い出したエピソードでした。

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