いわせんの仕事部屋

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日野市教育委員会へ

昨日は、日野市教育委員会で研修。

「ゆるやかな協同に支えられた個の学び」に向けて、市をあげてチャレンジをスタートしています。

かなり踏み込んだ講演をしましたが、受け入れられている実感。変化を実感する2時間となりました。

すでに試行錯誤の中から良質の実践も生まれはじめています。

一律一斉から個に応じた学びへの転換、現場を支え抜く、ゆっくり変わっていくことを応援する、を本気でやろうとしている教育委員会と、試行錯誤を始めている現場。素直に感動しました。

 

充実した時間。どんな繋がりが生まれるか、これからが楽しみです。一緒に変化の担い手になりたいなあ。

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終日校内研修。

今日は、長野県御代田町立御代田南小学校で終日校内研修講師。

昨夏に町教委の研修を担当したことがご縁。

 

読み聞かせさせていただいたり、飛び込み授業させていただいたり、若手の先生のチャレンジに伴走させていただいたり。

飛び込み授業についてはずっとその価値に疑問を持っていたんだけど、石川晋さんの仕事の話をお聞きして、ぐいっと方針変更。現場に入る機会には、やることにした。

もう少し丁寧にいうと、1時間でつくれる関係性とか教材の魅力とか、学びの場をつくるのってそういうことじゃない、みたいなこだわりがあった。もっと長期な取り組みだろうと。学びを矮小化するのではないかと。

だがしかし、その時間で一緒につくれること、それをみていただく価値、失敗も含めてチャレンジすべきだと思い直す。多賀一郎さん、石川晋さんら諸先輩の覚悟のようなものから、ぼくも逃げてはいけないなあと。

 

自分の授業を材料に対話することの価値も感じられた。

どんな思考過程で何を考えていたかを検討材料にできるから。

 

放課後も90分いただいてたっぷり研修。

とてもいい場でした。

 

研修90分はたっぷり準備して、全部手放して場に立った。

体験と対話メイン。その場で考えながらの時間はヒリヒリしてたのしかった。

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公立校の可能性をあらためて感じた1日。

軽井沢風越学園設立予定地とも近い学校なので、今後つながりができるとうれしい。

単発でやれることにはかぎりがあるけれど、継続的な関わりになれば必ず何か生まれる。 職場に確かにある「想い」や「熱」を形にするには、型や技術も必要。

あらためて、学校の組織開発のお手伝いは、ぼくの好きな仕事の一つだと再認識。22年現場にいたからこそ「見える」こともある。その強みを活かして、学校支援の専門性をさらに磨いていきたい。

 

しばらくは設立準備に忙しくて、学校支援はほぼできないけれど、またいつかがっつりチャレンジしよう。

 

子どもたちに届きますように。

 

 

 

「学級経営」を学ぶということの難しさ。実践知をどう共有するか②

①はこちら。

iwasen.hatenablog.com

さらに小難しく進みます。こんなの読んでくれる人いるのかな・・・・・

(このブログ、振れ幅が大きくてすみません・・・・。自分のポートフォリオとして活用しているのでご容赦を)

 

そもそも教師の実践知とは何でしょうか。

学校現場では教師の専門性は技術的合理性で語られることが多いのが現状です。

プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方 (ショーン2007)

 

というわけです。

教育界の新しい動きは新しい方法や技術として提案され、教師はそれを現場に適用すれば解決するというわけですね(導管としての教師)。ここにおいて実践知とは目的に対する手段の関係となり、転移可能で脱文脈的なものとして捉えられています。


 しかし、佐藤(1997) が指摘するように、教師の仕事は「不確実性」を特徴としています。いつでもどこでも適用できる確実な方法はないことは、現場の教師は日々実感している当たり前のことです。だから日々大変なのですよね。AすればBになるなら、みんな苦労していないはず。

つまり文脈から切り離された理論や教育技術として蓄積されていく現状では、どうしても実践者と乖離が引き起こされてしまいがちです。そもそも教師の実践知とは、普遍的に確立された客観的なものではなく、個人的な文脈とは切り離すことができません。

 

文脈(学校なら教室の様子)を無視して、いつでもどこでもだれでも通用する方法はないと考えた方がいい。

 

日々の実践や、他者との関係、社会との関係の中で省察する(振り返る)ことを通して専門知として学ばれていくものだからでです。ショーンはこのような専門職像を「省察的実践者としての教師」と定義しました。



またクランディニンら(2011)は教師の実践知を、「個人的実践知」(personal practical knowledge)という概念で説明しました。

個人的実践知とは

意識的であれ無意識的であれ、信念と意味の本体であり(私的、社会的あるいは伝統的な)経験から生じたものであり、その人の実践において表現されるもの

 

であり、それは

イメージ、実践的原理、個人的哲学、隠喩、ナラティブ的統一性、リズム、そしてサイクル

についての言葉として表現されます。なんだかよくわかりませんね・・・

つまり李(2004) の説明を借りるなら、教師自身の個人的な経験や人生の歴史、その他のことに影響を受けながら、ジレンマやストーリーを生き、その過程での思考や行動が「個人的実践知」として表れているといえます。

この指摘は、学級経営を学ぶ上で、教育技術だけではなくその精錬されていく過程や、その背景にある思想や理念がどのような経験から生じたのか、その生成プロセスを明らかにする上でとても重要です。


ではそのような実践知はどのように記述されるのであろうか。これを考える上で、二宮 が2種類の知の様式ついて、野口の 「ナラティヴ・モード/セオリー・モード」を使って説明しています。この2つのモードの違いについて二宮は以下の2つの例文を挙げています。

ナラティヴ ・モード: 鈴木さんは、毎日、部活の早朝ジョギングに参加したため、マラソン大会で優勝した。
セオリー・モード : 毎日ジョギングをすれば、運動能力が向上する。

 実践の場においてはナラティブモードで実践知が語られることが多いのにも関わらず、実践を対象とする研究ではセオリーモードの〈知〉の方が尊重されている現状です 。ここが問題です。


つまり、二宮が指摘するように、

これまでの実践研究の多くでは、研究方法としてセオリーモードの〈知〉を用いてきたため、研究対象として個人の経験を扱っていても、研究プロセスのなかで、その個人の経験にまつわる固有の意味は削ぎ落とさざるを得なかった

のです。


 しかし桐田が指摘するように実践知は、

自然科学の法則のようにいつでもどこでも誰でも論理的に実証できる(=知覚的現実と一致する)ユニバーサルな『知』として存在しているのではなく、個々の具体的な他者・文化・制度とのかかわりのなかでその都度構築されていく、社会的に構成されたローカルな(=文脈依存的な)知であると捉えることができ

、実践研究において個人的実践知を明らかにするためには、セオリーモードの〈知〉だけではなく、ナラティブモードでしか表し得ない〈知〉がありそうです。


では、そのような暗黙知的な知識の文脈を解明していくにはどうすればよいのでしょうか。

それを考えていく上で,改めてショーンが描いた従来の「技術的合理性」(technical rationality)に基づいた「技術的熟達者」(technical expert)としての教師から、状況と対話し、行為の中で省察をする「省察的実践者」(reflective practitioner)という専門家の捉え直しを見ていきましょう。

これまで教師の専門性は「技術的合理性」で語られることが多かった野が現状です。いや今もなおそうですね。「プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する,道具的な問題解決という考え方」 です。しかし「複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値観の衝突」 がある現実世界では、技術的合理性に基づいた技術的熟達者では対応できないとショーンは指摘しています。

専門的知識を厳密に定義づけようとすると、実践者が実践の中核にあると見なした諸現象は排除されてしまう 。

とはいえ、目の前の固有の状況ばかりを優先しようとすれば、理論にそむくことになってしまいます。厳密性か適切性(rigor or relevance)をめぐるジレンマ に陥るのです。
 そこでショーンは、実践の中の知の生成を重視する「省察的実践者」という専門職像に転換しようと提起しています実践者の知は行為の外にあるのではなく、行為や行為の中の知につ いて 、行為の中で省察したり(reflection-in-action)、行為の後に省察したり(reflection-on-action)する中で生成し続けるのです。


 ここで確認しておきたいのは技術的熟達と省察的実践は対立概念ではないということです。

実践の認識論を発展させることにより、問題の解決は、省察的な探究というより広い文脈の中でおこなわれるようになり、行為の中の省察はそれ自体として厳密なものになり、実践の<わざ>は、不確実さと独自性という点において、科学者的な研究技法と結びつくようになる

 

とショーンが指摘するように両方大事なのです。

さて、ここまで書いてきたことをまとめると、省察を通して得られた専門知(実践知)を記述するためには、

①その省察を生み出した教師自身の個性的な信念と、
②その信念が培われた個別具体の経験、
③そしてその経験を取り巻く状況や文脈を解明する必要がある

とまとめることができそうです。

 

この解明にとって、セオリーモードの知(技術的問題解決を促す理論知)は本来脱文脈的であるため扱い得ないが、ナラティブモードの知(省察的実践を促す専門知)は文脈の明示化によって、上記①~③を扱うことができそうです。つまり、教師が教室内での教育実践と教室外での体験をナラティブモードで記述し、いかに自身のコンピテンスにしてきたかを考察することで、学級経営における個人的実践知、その生成プロセスの一端を明らかにし、共有できるのではないかと思うわけです。

キモは「ナラティブ」です。

そのアプローチを援用してアウトプットした書籍が以下です。

せんせいのつくり方 “これでいいのかな

せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ

  • 作者: 岩瀬直樹,寺中祥吾,プロジェクトアドベンチャージャパン(PAJ)
  • 出版社/メーカー: 旬報社
  • 発売日: 2014/09/25
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 自分でも好きな本です。

 

では、ナラティブを探究するとはどういうことか?

ナラティブで実践を記述するとはどういうことか?

ここでクランディニンの「ナラティブ探究」という研究方法にいきつくわけです。

 

いつかに続く。

 

参考・引用文献

・ドナルド・A・ショーン,『省察的実践とは何か』,鳳書房,2007ドナルド・A・ショーン,『省察的実践とは何か』,鳳書房,2007。

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

・D.ジーン・クランディニン他,『子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ』,明石書店,2011,21頁。 

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―

  • 作者: D ジーンクランディニン,ジャニスヒューバー,アン・マリーオア,マリリンヒューバー,マーニピアス,ショーンマーフィー,パムスティーブス,田中昌弥
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2011/04/15
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 ↑必読中の必読。


・李暁博「日本語教師の専門知についてのナラティブ的理解」『阪大日本語研究』16,83-113、2004。
・二宮祐子「教育実践へのナラティブ・アプローチ:クランディニンらの『ナラティブ探求』を手がかりとして」『学校教育学研究論集』東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科、第22 号,2010,38頁−39頁。
・野口裕二「ナラティヴ・アプローチの展開」野口裕二編『ナラティヴ・アプローチ』勁草書房,2009.5-8頁。

・野口裕二『物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチ の世界へ』医学書院,2002.27-31頁
・桐田敬介「高学年造形遊びにおける授業者の専門知に関するナラティブ的探求」上智大学総合人間科学研究科教育学専攻 博士前期課程学位論文,2011,10-11頁。

・佐藤学,『教師というアポリア』,世織書房,1997,94頁。

子どもで居続けること。

先生であることの専門性。

それは「ワクワクする学び手」であり続けること。

探究者のモデルであること。

いや違うな。結果として、周りにいる人が感染しちゃうような探究者でありつづけること。

 

きみはいつおとなになったんだろう。
きみはいまおとなで、
子どもじゃない。
子どもじゃないけれども、
きみだって、
もとは一人のこどもだったのだ。


子どものころのことを、
きみはよくおぼえている。
水溜まり。
川の光り。
カゲロウの道。
なわとび。
老いたサクランボの木。
学校の白いチョーク。
はじめて乗った自転車。
はじめての海。
きみはみんなおぼえている。
しかし、そのとき汗つぶをとばして走っていた子どものきみが、
いったいいつおとなになったのか、
きみはどうしてもうまくおもいだせない。

深呼吸の必要 (ハルキ文庫)

深呼吸の必要 (ハルキ文庫)

 

 

世界への驚きを忘れてしまった瞬間に、子どもたちとの協同探究者でいられないのだろうな。「おとな」にならず、「こども」で居続けること。

それなくしてファシリテーションなんて、ちゃんちゃらおかしいよね。

 

あ、ちなみにぼくは今、ボルダリングに夢中です。

自分のからだっておもしろい。

 

仕事の面では大人になるの大事だけどね。

ダブルバインド

教室では、ルールを守ったり、先生の指示を素直に聞いたりといった「受け身」の要求と同時に、創造性を発揮してアクティブに学ばなければならないという相反した要求が同居していて、子どもたちにとってダブルバインド のような状態になっていることがよくある。

主体性を発揮して!といいながら、言うことを聞いて動くことを要求したり。

怒らないから言ってごらんといいながら怒ったり…

ダブルバインドとは2つの矛盾するメッセージ(直接的なメッセージとメタ・メッセージ)の状況におかれてしまうこと。

 

この概念に触れるたっびに「ああ、自分にもよくあるなあ・・」
と情けない気持ちになる。

自身の日々のリフレクションに残っていないか探してみたら、5年以上前だけれどどんぴしゃなのがあった。
メモ書き程度のリフレクションだけど。
同じようなリフレクションが何回も。何度も何度もことばにして、何度も痛みを感じて、それでもなかなか超えられなかったんだよな。今も超えたか、と言われると道半ばだ。我が子にやっちゃうものな・・

教師のコントロール欲求は根深い。

 

(年齢、時期、エピソードの詳細は、本筋が変わらない程度に改変しています)

     

               *  *  *

 

今日の朝のサークル。
昨日教室で暴れて教室から飛び出していったAさんが

「私が今日はファシリテーターやる」と立候補して司会進行。


そこで出てきた課題をみんなの意見を拾いながら、いい感じでファシリテートしていた。

1時間目が始まる時間が来てしまい、

「じゃあ、続きは明日やろう」と声をかけ、1時間目の算数を始めようとしたら、

Aさんは怒った。
「あと少し時間があったら決められたのに!」

 

ここでつい感情的に反応してしまう。

「でも授業時間始まっているでしょう。朝のサークルはそういうルールだったよね。」

「あと少しで決まるもん!続きやる!」

「やるなら一人でやりなさい」

Aさんは椅子をバーンと蹴った。
結局算数に参加せず。

ぼくも「わがままだなあ」と放っておいた。

 

今これを書いていて、感情が落ち着いて改めて見直してみると、本当に相変わらずだな。情けない限り。
Aの中で何が起きていたのか、何を感じていたのか、ではなくて、自分がやりたいことで進めてしまう。
逃げ道のない選択の余地のない選択肢を示して追い込む。
このアプローチをなんとかしなくちゃいけないのに、つい出てしまう。超えられない。

「こう動いてほしい」
が事前にあり。
「そうできるはずなのにしていない!」とイライラして、
「じゃあもういいよ」
的な言動で動きを誘発させようとする。

思えば新任時代からそのクセがある。
係活動で似たようなことがあった。

あることで注意し、後に子どもたちが「ごめんなさい!」と謝りに来たのを「いいぞいいぞ」と喜び勇んで学級通信に書いたりしていた。その通信はいまでも残っていて、見直して見たらかなり勇ましく「子どもが成長したエピソード」として描いていた…

 

話し合いの時もつい言ってしまうときがある。
「もっと意見言ってもいいんじゃない?」
「もっとしんけんでもいいんじゃない?」

それらはたいてい自分が環境設定をしくじっているのに、
参加者のせいにしているのだ。
大人の場ではありえないのに、子どもにやってしまう残念さと横暴さ。

最近の授業での「イライラ」もそれに起因する。
欲張って「ここまでいける」を設定し、それにいかないとイライラする。

子どもの側からそこで起きてることを見直してみよう。体験してみよう。その場で何が起きて何を感じているのか。
ぼくがしたいことではなく、子どもたちはどうしたいと思っているのか。
ぼくが不安定だから、子どもたちは、仲良しに固まっていくのだ。不安だから。

 

せっかくのチャレンジの場面だったのになあ…

 

丁寧に丁寧に。
自分のコントロール欲求をもう一度眺めてみよう。

「本はさ、人が死んでも受け継がれていくんだよね。」

『モリス・エスモアと空とぶ本』。

モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本

モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本

 

 

この本は、担任時代に学校の図書室で見つけた。

アニメの絵本化なので、この絵本自体は評価が分かれているけれど、ぼくは好き。

これはディズニーがアニメーションにしていて、 それもすごく好き。

担任時代、学級で共有したいと思える本だったので読み聞かせしていた本。

 

5年生担任の時のエピソード。

読んでいるときの反応がすごくよかった。

「あ、色が変わった」

「たぶんルイス絶望してるんじゃない?」

「春夏秋冬になってるよ」

「さっきも似たような絵なかった?ちょっとめくってみて」

聴き手がいろいろなことをつぶやく。

読書を日常的に続けていると、読み聞かせでも自然と本に問いかけるようになっていく。

 

読み終えたとき、

「本、すきなんだね」

「本を大事に大事にしてきたんだね」

「本は読まれるために生まれたんだもんね。」なんて子どもたちは話していた。

せっかくなのでアニメも視聴。


The Fantastic Flying Books of Mr. Morris Lessmore

 

終わったあと小グループで対話。普段実践していたブッククラブのような時間。

 

Aさん、Bくん、Cくんの対話を録画して起こしてみた。

書字が苦手なAさん、読書が好きじゃないBくんと読書家のCくん。

 

A「本もいいけど、アニメもいいね」

B「どこが印象に残った?」

A「最後らへんでしょ」

C「やっぱさいごだね」

A「あの女の子も書くのかな」

C「書く人ばかり、読む人ばかりが導かれていくんじゃない?」
A「本はさ、人が死んでも受け継がれていくんだよね。」

C「たくさん人がいたら、そのかずお話があるんだよね」

うんうん。

「はずかしいことだけ、文字は飛んで行けばいいのに」 とAさん。

 

「1度書いた本は次の世代に受け継がれていってまた受け継がれて・・・・とつづく。本って100 年後、1000年後の子どもにも読んでもらえる。本は読まなきゃ死んじゃう」

と最後にCくん。


すごいよね。話したいことがあれば、人は対話する。
こういう様子を見ると、テクニックじゃないんだよなあとつくづく思う。

読むのがあまり得意ではない人にとっては、読み聞かせや映像は力強い。 オーディオブックとかあれば、読みが苦手な人の手助けになる。
ブッククラブもそうだけど、読めているけど書字が苦手な子がいる。 Aさんは苦手だけど、映像から読めていて、対話の中で深めていく。

学校教育って「書くこと」で評価していること、理解度を測っている側面があまりにも大きすぎる。これが少なからず子どもたちを苦しめている、 という当たり前のことに気づいた時間だった。

「本を読む」「手で書く」に囚われすぎていると、学びにくさを生んでしまう。それぞれの学習者にあうものを用意すること。個別化の重要な側面。

 

この絵本、ぼくにとってとても大切です。

保護者と学校。

保護者を「お客さん化」してしまっているのは、実は学校。学校や授業にコミットするチャンネルをつくっていないからだ(今の多くのPTAは形骸化しているし)。

 

長男が小さい頃、ぼくは1年間育児休暇をとった。ちょうど長女が小学1年だったので、「よし!学校に関わるチャンスだ!」と張り切っていたけれど、学期に2回の読み聞かせボランティアと、お通夜のような懇談会、家庭訪問しかチャンネルがなくて愕然。
保護者から眺めてみると、難攻不落の閉じた空間だ。担任と密に連絡を取ったのは、娘の友だちとのトラブルの時だけだった。そんな時に信頼関係をつくるのは難しい。

 

関われないのなら、「預ける」しかない。お客さんマインドになるのは当たり前だ。そうなる他ない。

閉じた学校は学校の論理で動いてしまい、保護者をシャットアウトする。「口を出してほしくない」とチャンネルを閉ざし、学校独自の慣例が残り続ける。そこに違和を唱える保護者をクレーマー扱いしかねない。

実は保護者の側にも「預けてしまおう」感が多い。
コミットして当事者になるのはなかなかしんどいことだし、それならば「お客さん」である方が楽。時間を割かなくていいからだ。

文句を言っているだけの方が楽だ。Lineで学校や担任の悪口が回るなんてこともあるだろう。

実は両者の思いは一致しているので、ありたい姿になかなか向かわない。

対話を続けながら一緒に子どもの学ぶ場をつくるのは、手間がかかる。だから「預ける−預かる」関係性を維持してしまうほうが短期的に楽であり、結果、両者の本来持っている力、想いがまったく発揮されない。

 

「幸せになってほしい。そのための力を身につけてほしい。成長してほしい」。
実は保護者と教員の願いは大きな方向で一致している。場所は違えど同じ子の成長に関わっているからだ。にもかかわらず、保護者と教員が日常的にコミュニケーションをとる機会がほとんどない。お互いのことを知らないまま進んでいく学校。
両者とも断片的な話や噂、かつての評判などの少ない情報から推測するほかなくなる。
不信が不信を招く。
同じ子を見ているのに情景を共有していない。

 

まずは小さな一歩からはじめてみてはどうか。
学校からできること。

まずは、「学級でのポジティブな情報を保護者に伝えるチャンネルを複数持つ」こと。
例えば、
・写真や学級通信で様子を伝える
・ポジティブな情報を電話や手紙、連絡帳、一筆箋等で伝える
・会って話す機会を増やす。
・参観や懇談会で子どものポジティブな姿を共有したり、保護者の願いや感想を知る機会を作ったりする。
・授業参加の機会をつくる、一緒に授業を創る    等々。

目的や状況、関心に応じて方法は山ほどある。
複数持つというのがポイント。一つのチャンネルだけでは共有できない可能性もあるし、どのチャンネルが自分や保護者とマッチするかもわからない。いくつかプロトタイプを試してみるのがミソ。
この小さな一歩から、子どもや学級の様子が保護者に伝わり、一緒に成長を喜んだり、保護者と担任が子どものことで対話できるようになっていったりして、良好な関係が少しずつ築かれていくきっかけになるはず。
ちょっと関わってみようかな、という気持ちにつながるかも知れないし、関わってみたら思ったより手間ではなく楽しかった!ということもおこるかもしれない。
小さくでも動いてみることで、何か生まれる。

写真は保護者と行っていた交換ノート。
ここからいろんなことが生まれたなあ。

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今ならICT使えばカンタンにできること。

そもそもICTの得意はこういうコミュニケーション機能。

どんどんチャレンジしてみるといいと思うなあ。

 

では、保護者や地域からできることってなんだろう?

一緒にできることってなんだろう?

 

子どもたちが育つ場は、実は大人も共に育つ場。

毎日行く場所だからこそ「ああ、今日も楽しみだ−!」とまるで放課後、原っぱにあそびにとびだしていくように、軽やかに向かう場にしたいなあ(原っぱというのが古いけど)。

あそびだって手間をかけて創った方が楽しい。

学校もきっとそうなんだと思う。

 

Facebbookの記事の転載です。タイムラインに流れていかないように。