「学級経営」を学ぶということの難しさ。実践知をどう共有するか①
今日はちょっと小難しく。
日本における学校教育では、近代以降、主に学級を基盤として教育活動が行われてきました。(学級制の歴史はまた別にまとめます。意外と日が浅く、近代の学校のためにつくられた”制度”なんですよね。決して自然な単位じゃありません)
平成20年6月に告示された「小学校学習指導要領解説総則編」の「3 学級経営と生徒指導の充実」においても、以下のように学級経営の重要性が示されています。
日ごろから学級経営の充実を図り,教師と児童の信頼関係及び児童相互の好ましい人間関係を育てるとともに児童理解を深め,生徒指導の充実を図ること。
学校は,児童にとって伸び伸びと過ごせる楽しい場でなければならない。児童一人一人は興味や関心などが異なることを前提に,児童が自分の特徴に気付き,よい所を伸ばし,存在感を実感することが求められており,そのために,生徒指導の一層の充実を図ることが必要である。生徒指導は,児童一人一人の人格を尊重しながら,規範意識をはぐくむなど社会的資質や行動力を高めるように指導,援助することである。
生徒指導を着実に進める上での基盤は学級であり,学級担任の教師の営みは重要である。学級担任の教師は,学校・学年経営を踏まえて,調和のとれた学級経営の目標を設定し,指導の方向及び内容を学級経営案として整えるなど,学級経営の全体的な構想を立てるようにする必要がある。学級経営を行う上で最も重要なことは学級の児童一人一人の実態を把握すること,すなわち確かな児童理解である。一人一人の児童はそれぞれ違った能力・適性,興味・関心等をもっている。学級担任の教師の,日ごろのきめ細かい観察を基本に,面接など適切な方法を用いて,一人一人の児童を客観的かつ総合的に認識することが児童理解の第一歩である。日ごろから,児童の気持ちを理解しようとする学級担任の教師の姿勢は,児童との信頼関係を築く上で極めて重要であり,愛情をもって接していくことが大切である 。
なかなかいいことが書いてあるなあ、指導要領。新指導要領ではさらに学級について書き込まれています。
子どもとの日々の営みである学級経営は現場の教員はもちろん、教員を目指す学生や院生にとっても重要な関心事です。熊井の指摘しているように、学級経営は何を教えるかという教科以前に、「学級で教える」という特有の問題に向き合わなければならない重要な課題だからです。
だがしかし!「学級経営学」という体系化された研究領域は存在していると言いがたいこの国。こんなに大事なのに。学級経営はその要素が複雑で学際的であるため、「学級経営という言葉は、存在しているものの、複雑でつかみどころのないものというイメージ」 のままであるといえます。
大学の授業でも、学級経営を学べる機会ってほとんどないのが現状です。これは問題。教科教育ばかりやって現場に放り込まれる。どちらが大事という話ではなくどちらも大事。
(だからこそ、つい最近、学級経営学会が立ちあがりました。とても大事な動き。)
では、学問領域もなく、大学で学ぶ機会がない中で、学級経営は実際にはどのように学ばれているのでしょうか。
例えば、若手教師は学生時代に教育実習の機会はあるものの、実質は現場に出てから自身の経験や、OJTとして先輩教師から学んでいくということが多いのが現状です。経験から学ぶというやつです。
しかし脇本は、「これまで若手教師であれば、同僚性を基盤とした授業研究の文化に参入することで、教師として成長することができた」 とした上で、若手教師は同僚との関係の中で学ぶことができていたとし、ベテランの大量退職という年齢構造の大きな変化で、若手教師を育成するミドル層が少なくなっている現状を危惧しています。実際都市部では既に起きている危機的な状況です。
また、山口が述べているように「教員構成が若年化すれば、若手教師が、日常的にベテラン教師から指導・育成される機会の減少に繋がるだろうし、このような機会が減少すれば、指導・育成する側、される側を問わず、教師の力量形成の機会が減少することになる」 ことが危惧されていて、現状山口の指摘は、そのまま現場の大きな課題となっています。
このままでは、これまで培われてきた実践知が伝承されていかず、今後の若手教師の質に影響を及ぼす可能性があります。
しかし、先のような現状では、学級経営は、現場に出てからの経験から学ぶか、実践から提案された様々な学級経営論の書籍から学ぶというアプローチが多くなることが考えられます。実際、書店にいくと実践者によって提案された学級経営論の書籍が多数並んでいますし、ぼくも書いてきました。
でも書籍から学ぶのって難しい。
実に様々な学級経営論が林立している状態であるとも言え、どの学級経営論から学ぶとよいのか、どう学ぶと良いのかがわかりにくい状態であると言えます。ぼくもそれに荷担しているなあと自覚しています。
安藤は学級経営論の変遷を概観すると大きく2つの構成要素があると重要な指摘をしてうぃます。一つは「学級経営の思想・理念」であり、もう一つは「学級経営の技術」です。この2つの要素が組み合わされて整理されると、それは学級経営論として広がっていきます。
しかし学級経営論が生み出されるベクトルと、生み出された学級経営論を手掛かりに実践しようとするベクトルにはズレや変質があるとも指摘しています。
初発段階での学級経営論は、より良い実践の探究から出発し、それを吟味精選するなかから他者と共有できる言葉で実践を表現する『論』を形成していくベクトルを持っている。そのため、具体的な教育技術が精錬されていく過程も、その背景にある思想や理念と切り離しては考えられないものである」 。
本来は、この2つの構成要素を一体として学ぶことが重要なのですが、安藤が同書で指摘しているように、理念や精錬の過程では実践に直結しないので、多くの教師は明日の学級経営に直結するような気がする教育技術(方法)としての援用を優先しがちです。(方法のパッチワークとしての学級経営)
現場での実践知の継承が難しくなっている現状の中、学級経営論の書籍等から学ぶというのは、先の指摘のようにどうしても教育技術の援用となってしまいがちです。朝倉も、学級経営はノウハウが流通することによって教育技術として学ばれている側面があると指摘しています。
具体的で役に立つノウハウの流通には、それを処方箋(くすり)のように教師に与えることができ、なおかつ学級経営に役立てることができる、という素朴な前提
があるというのです。
しかし、この技術志向には問題があるといいます。それは第一に「学級にかかわる問題と原因の矮小化」です。学級における問題は様々な要因が複雑に絡まり合って起きていることがあるが、それに対してある処方箋をあてれば解決する、という学び方は、その問題の原因を問うことなく解決に向かってしまうので「本質的な問題解決への道は閉ざされてしまう」というのです。
これはとても重要な指摘です。
第二には「学級経営をになう教師の実践改善と成長機会を奪うこと」です。省察を通じた専門性の向上の機会が失われてしまう可能性があるからですね。
このように
教師の知識や技術をそのように(ノウハウとして:筆者注)捉える視点は、教師の実践が状況によって異なることと、教師は実践の中で主体的に知識を形成していることへの着目によって1970年代から批判されてきた
にもかかわらず、日本の現状としては、ノウハウ(教育技術・方法)として学級経営を学ぶしか選択肢がない状況。
学級経営へのニーズは高まる一方、個人的な実践知が埋め込まれている学級経営の様々な提案は、ノウハウとして切り出してしまうと文脈から切り離されてしまうため、共有しにくいものになってしまうという悩ましい問題。
では実践知をどう共有していけばいいのでしょう?
そもそも実践知って?
いつかに続く。
参考・引用文献
・熊井将太 「学級経営論の教育方法学的検討 一学級経営の再評価をめぐる国際的動向」『山口大学教育学部研究論叢(第3部)』,2013,55-68,55頁。
・天笠茂「学級の経営技術」下村哲夫・天笠茂・成田國英 『学級経営の基礎・基本(学級経営実践講座1)』,ぎょうせい,1994,13頁。
・脇本他 『教師の学びを科学する: データから見える若手の育成と熟達のモデル』北大路書房 2015,
教師の学びを科学する: データから見える若手の育成と熟達のモデル
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↑オススメ本。
・山口裕也「構造構成的ー教育指導案構成法の提唱ー実践知の継承・伝承・学び合いの方法論」『構造構成主義研究』第3号,2009,北大路書房,183-211頁。
・桐田敬介,「美術教育における専門知のナラティヴ探求について」『美術教育』2012(296),2012,8-14.
・安藤知子「学級を対象とする研究の領域とアプローチ」蓮尾直美、安藤知子『学級の社会学一これからの組織経営のために一』ナカニシヤ出版、 2013, 123頁。
朝倉雅史「教師がよい学級を問う意味とは」末松裕基、林寛平『未来をつかむ学級経営 学級のリアル・ロマン・キボウ』,2016,学文社,65-68頁。
- 作者: 末松裕基,林寛平,赤坂真二,中村映子,橋本定男,鈴木瞬,朝倉雅史,生澤繁樹,内山絵美子,内田沙希,荻巣崇世
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↑
※学級経営のことを研究しようと思ったら必読の本二冊。
きく
去年から、ぼくの個人的な探究テーマは「きく」。
教師という「きくこと」がとても大切な仕事をしていながら、果たしてぼくはなにをどのようにきいているのだろうか。
ぼくは、人の話をきいているとき、相手が話したことを自分の思考の材料にしてしまう。
例えば「結局、学校教育はもう限界なんだよ」と相手が言ったとする。
するとぼくのノーミソは
「新しい思考の材料が増えた!」
とばかりに喜び出す。餌に飛びつく感じ。
ほどなく自分の中で脳内対話が始まる。
そうなるともう相手はぼくの前にはいない。
「そもそも限界と考えた時点で限界なんだよ」
「学校って守られているじゃん。その中でやれることって山のようにある。縛りがあるから自由になれるっていう面もあるんだよ」
「縛りがある分、検討すべき範囲が狭まるから、それは実はイノベーションを起こしやすいのかもしれないよ。そもそもゼロから考えるってすごく大変なことなのだから」
「ああ、でもぼくもそう考えた時期があったなあ。あれはいつだっただろう」
「異動して同僚となかなかうまくいかなくなった時だ。なるほど個人的に行き詰まると、一般化して制度のこととかにしたくなるんだな」
例えばこんな調子だ。
脳内対話に喜んでしまい、内省に突入してしまう。自分に潜っていくのが楽しい。
これ、読書している時と同じだ。
読みながらあれこれ考えるのが好き。それを日常のコミュニケーションにも適用してしまっている。相手を本のように扱っているのか。うむむ。
講演会や、そもそも議論している時などは、まあこれでいいんだと思う。
問題は日常のコミュニケーションにおいても、うっかり同じようにしてしまいがちなところ。
相手が話したことを思考の材料にして脳内対話がスタートする。(そう書くとなんだか素敵な感じだけど、ようは自分の思考のエサにしているという、とても失礼な構えだな‥)
「今日カレーにしようと思うんだけど」
「えー!」
(三が日明けてすぐカレーか・・・・せっかく時間があるんだから、もっと普段作れないもの食べたいなあ。そもそもカレー先週も食べたし。まてよ、これは俺に作れということか?週末はご飯当番だし。さらに家事最近サボり気味だし。だからといってこんな風に遠回しにやれはないよな。以下続く)
もはや妄想に近い。
「今日カレーにしようと思うんだけど」
「今日カレーにね」
「そう、明日天気良さそうだし、御岳神社の方にハイキングでも行きたいなーって。帰りにのんびり温泉入ってきて、新学期に備えようよ。カレーにしておけば、晩御飯ギリギリまでのんびりできるし」
「あー、それすごくいいねー。御岳神社ってハイキングできるの?」
という展開も充分に考えられるわけだ。
実際そんな感じだった。
「宿題やってきてないんだー」
「ああ、宿題やってきてないんだー」
と、そのままきければ、
「うん、実はさ〜」
とその先に相手が話したかったことにすすめるかもしれない。
「宿題やってきてないんだー」
「昨日もそうだったでしょ。休み時間にやりなね」
では、関係性すら遠のいてしまう。
人をどういう存在としてみているのかと、きくは地続きなのだろう。
相手の話したことを思考のエサにしないで、
判断の材料にしないで、
思考をスローダウンして、そのまま「きく」。
相手のことばについてゆくききかた。相手を追い越さない。相手の案内で旅に出る。
意識しているんだけど、なかなかできるようにならない。
数回、いつもと違う風景が見えた瞬間があったんだけれど。
今年も引き続きうろうろしてみよう。
御岳神社はきれいでした。
横並びの文化
教室で何か新しいことを実践しようと思ったとき、同僚の顔や管理職が気になる。
「自分だけ勝手なことをやっていると怒られるんじゃないか」と。
これは杞憂ではなく、
実際に「あなただけ勝手なコトされると困るんだよね」とか、
「学年で揃えましょう」という言葉は全国で飛び交っているだろう。
スタンダードなどはその最たるものだ。
なぜそうなるのか?
学年の先生は、
「あなたのクラスだけやっていると、保護者が不安になるから」と。
管理職は、
「いいのはわかるけど、他の先生のプレッシャーになるから」と。
新しいことにチャレンジしたい人は、イライラする。
「下にあわせているだけじゃ、学校が良くならないじゃないか!」と。
そこを強行突破し、やがて、その人は一人尖っていって同僚とうまくいかなくなる。
実践が誰の目から見ても素晴らしく、子どもが成長している姿で周囲が納得せざるを得ない場合はまだいい(それはなかなか難しいことだ)。
たいていは野心的なチャレンジなので、うまくいかないことだらけだったりする。
そうなると同僚や管理職からの風当たりも強くなる。
その人は、意固地になって籠もるか、外に出て行って憂さを晴らすか、新しい実践を諦めるか、等々の選択をする。
結果、誰も幸せにならない。
学校の「横並び文化」はなかなかやっかいだ。
新しいチャレンジに対しての反応は「恐れ」なのだ。
自分がこれまで大切にしてきたことが否定されるんじゃないか。やれてないことが露呈するんじゃないか。比較され、評価されるんじゃないか。
未知のものに出会って恐れを感じるのは、ある意味正常な反応。
正しい言葉じゃない感じがするけれど、実践の良し悪しは事後にしかわからない。やってみたい!といくら力説しても、正当性を吠えても、説得できるわけがない。
それに対して「だからダメだ!」と吠えても仕方がない。
恐れを助長するだけだ。
できることは、管理職や同僚に変わることを求めるのではなく、私(たち)のアプローチを変えることなんだと思う。
例えば小金井三小のチャレンジはつまりそういうものだった。
一緒に新しいことにチャレンジしてみよう、試行錯誤してみよう、それを共有しようという文化を築く。
それぞれ恐る恐るでも新しいことにチャレンジし続けたら、子どもや自身の変化、ましてや職場もじわじわ変わってきて、小さな成功体験をたくさんの人で積み重ねあえた。
「やってみてよかった」「チャレンジしてみて良かった」を組織で積み重ねないと、新たらしいことにチャレンジする文化は生まれてこない。
いい実践しているなーって人は、結局のところ職場の関係性をとても大切にしている人で、その結果イノベーティブな実践ができるんだよな、と思う。
「わー、おもしろそうなことやってるね!見にいっていい?」
「それいいねー!ぜひ全校に広げてよ!」
という言葉が職場に増えていくためには、私のアプローチを変えることしかない。ぼくもそれに気づくのにずいぶんずいぶんかかったし、職場の先輩諸氏には死ぬほど怒られた末にようやくたどり着けたんだけども。
「うちの職場はほんとクソで」なんて話を聴くと、まあそうなんだろうけれど、あなたもその一部だものね、という気持ちにならなくもない。
変化のためのコントローラーは手元にある。
一つだけ付け足すと、管理職や教育行政の大切な仕事は、イノベーションが起きやすい文化、自由な試行錯誤が山ほど起きる文化をつくること。特に教育委員会がんばれーと言いたい。
* * *
ついでに備忘録的に冬休みに買った本。
ブロックチェーン、AIで先を行くエストニアで見つけた つまらなくない未来
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なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか――すべての人が自己変革に取り組む「発達指向型組織」をつくる
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幼児教育へのいざないの増補分、レッジョ・エミリアの文章がものすごく良かったな−。
子どもに戻って、教室に座ってみる。
「自分が子どもだったらこの教室で学びたいか」
「自分はこの教室で幸せに過ごせるか」
「自分の子どもにはここで学んでほしいか」
ぼくは、自分が担任していた学級を見るとき、子どもを見るとき、勤めている学校を見るとき、いろいろな教室を参観するとき、あたかもそこに自分が子どもに戻って座っている、という視点で見ることが多い。
子どもに戻った自分がそこに座っていることを想像する。
そうすると理屈を超えて、なんというか身体の「感じ」で、居心地の良さや場をおおっている空気みたいなものが伝わってくる気がする。
「なんか気持ち悪い」にどれくらい敏感になれるか、がすごく大事だ、とぼくは思う。
教育実践の本を読むときも、気づくとその視点で読んでいることが多い。
授業を参観させていただいたとき、可能なときは席に座らせてもらって、一緒に授業に参加する。
そうすると「あー、話に飽きてきた」とか、「隣の子と話したいなー」とか、「先生ずっとしゃべってて疲れないのかなー」とか、いろんなことを感じたり、見えたりする。すごくおもしろい。
これってよく考えてみると、当事者の視点から場を眺め直してみる、ということをやっているんだな。
恩師、平野朝久先生は指導案をあらかじめ詳しく読まないとおっしゃっていた。読んでしまうと「その通りに進んでいるか」に意識が行ってしまう。子どもと同じ状態でその時間にいるようにしているそうだ。
「先生」を含む対人援助職の専門性の大きな一つは、「自分が子どもだったらこの教室で学びたいか」、この問いを持ち続け、感度を高め続けられるかだと思う。
これって、よく引用するんだけれど、出口治明さんの
「会社の偉い人で、『若手を鍛える』という人がいますよね。でもね、それは会社でやる前に家でできることなのかどうか、って思うんですよ。
パートナーにできないことは、会社でやっちゃいけません。」
という言葉にもつながる。(アエラ1487号)
今、子どもの宿題を手伝いながらこのブログを更新しているんだけれど、
ふと、たった今の自分の子どもと自分の関わりをながめてみる。
途中から、疲れてやる気が減少していく子を見て、
「おい、おまえの課題なんだから一生懸命やれよな」
という気持ちが芽生えて、言葉にちょっとトゲが入る。表情もそんな感じが出てたはず。
でもそれを子どもの側からみてみると、
「あ、不機嫌になっている。だから親に手伝ってもらうのはなあ・・・」なんて感じてるよな、絶対。おれも子どもの頃よくあったわ、そんな場面。
わかっているのに、ついこんな感じに反応してしまっているんだよなあ。
1時間を超えて集中力も切れてきているんだから、そうなって当たり前。
自分が子どもだったらどうしてほしいかな。
「疲れたからちょっと休憩するか」かもしれないし、「これ難しいなあ〜なかなか大変だよね」といってほしいかもしれないし、「続き明日にする?」かもしれないなあ。
少なくともイライラしている人にそばにいてほしくはない。
わかっていることとできていることって、すぐに乖離していく。
どこに立って、どこから見るか。
どこに立って、何を感じるか。
意識して繰り返していないと、ついつい自分の目から見える世界がすべてになってしまう。そうすると、例えば実践を記録するときに「子どもに振り返りを書かせる」とか「振り返りを書いてもらう」なんていう使役な書き方しちゃう。書かせるものではないし、書いてもらうものではないのにね。
子どもを操作対象にしない、は意識していないとやっちゃう。
手伝いながら、これを書いたことで、立ち位置を少し戻せた。
というわけで手伝いに戻りまーす。
学校はなんのためにあるのか。
学校ってあることが前提になっていて、タイトルのような問いを持つことって少ない。
「学校はなんのためにあるのか」。
吉田新一郎さんに紹介していただいた動画はこの問いからスタートします。
なかなか辛辣に学校教育を批判していますが、改めて学校の目的について考えるきっかけになる動画です。
目的を問わずして、手段を検討することはナンセンス。
ぼくらが軽井沢風越学園で実現しようとしている、学校の目的とは以下の通り。
私たちは、すべての子どもの<自由>に生きるための力を育むと同時に、<自由の相互承認>の感度を育む場所が学校だと考えています。より多くの人が「自由だ、幸せだ」という実感をもって生きられる社会が私たちの理想です。軽井沢風越学園では、このような社会の担い手を増やします。
昨日書いた、「異年齢・異学年の学び」もこの目的に戻ると妥当な選択だと考えています。
目的を描くことができたら、次は実装。
この実装に向けての1年。簡単そうで難しい。
でも本当に難しいのか?という疑問もある。実はとてもとてもシンプルなんじゃないかという直感もある。
やりながら考えていくほかないなあ。
異年齢・異学年の学び
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。今年は更新の頻度をあげたい(希望的観測)。
ぼくにとって、ブログは自分の思考のツールです。書きながら言葉になっていないことを整理していく感じ。というわけで今年もとっちらかった文章になるかも知れませんがよろしくお付き合いください。
さて。
去年、文部科学省、「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」から出された「Society 5.0 に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」という報告書では以下のような記述があります。
Society 5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~
平成30年6月5日Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf
〜学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。
また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。(8p)
また経済産業省から出された「『未来の教室』と EdTech 研究会」第1次提言(案)でも、学校教育に期待される具体的変化の例として
同質性の高い学校・学級空間ではなく、マルチ・エイジのグループ編成、学校種を超えたグループ編成、障碍の有無なく混じり合い、多様性ごちゃ混ぜの人間関係の流動性の高い空間が一般的になり、同質性がもたらす相互牽制や相互不安、同調圧力やいじめや空気の読み合い等の問題も払拭する空間になっている。
なんて書かれています。
異年齢・異学年のことは、このような一見"派手”な発信だけではなく、平成28年にでた「小中一貫した教育課程の編成・実施に関する手引」の中でも触れられています。
異学年交流のねらい
異学年交流の効果としては,例えば,以下のようなことが考えられます。
1 家庭や地域における子供の社会性育成機能が弱まっている中で,異学年交流に よって社会性(思いやりの心,コミュニケーション能力等)やリーダーシップを育成することができる
2 異学年で学ぶことが,新しい気づきや既習事項の振り返り,学習意欲の向上につながる
3 児童の中学校生活に対する不安感の軽減により,小学校から中学校への移行がスムーズに行われ,学校段階間のギャップの解消につながる
4 単独の小学校及び中学校では確保できない,十分な集団規模を確保して教育活動を行うことができる
5 人間関係が固定化してしまうことによる悪影響を抑え,多様な人間関係を構築できる
6 異校種の教員が必然的に連携し理解し合わなければならない場面が増え,協力関係が構築される
一斉の授業スタイルから学びの個別化(同じから違うへ)、異年齢・異学年への学び(分けるから混ぜるへ)が国レベルでも検討されていて、その価値は共有されていそうです。
ボストンカレッジ教授のピーター・グレイによると、私たちの社会は異年齢で構成されているにもかかわらず、学校では同年齢で過ごすことが多いのが現状です。社会の変化により、一家族当たりの人数が減少し、近所レベルでの異年齢の自由な遊びも減少しています。また学校で過ごす時間の増大、学校外の各種活動も年齢別の活動が普及しているなど、私たちが意図しなければ、異年齢の関わりや学びがおきにくくなっています。
また、異年齢混合の学びの効果として、年少者にとっては、
・今日誰かの助けがあってできることは、明日一人でできるようになる。
(発達の最近接領域と足場かけは、異年齢の中でこそ起きやすい)
・観察して学ぶ(あこがれる→まねる)
・ケア(気づかい)と精神的なサポートを受ける(ケアし合う原体験が育まれる)
年長者にとっては、
・育てたり、リードしたりすることを学ぶ
・他者に教えることを通して学ぶ
・年少の子たちの存在により創造性が喚起される
をあげ、異年齢混合での学びを推奨しています。
異年齢混合こそ教育機関が成功するための秘密兵器とまで書いているんですよね。
実は、現在の多くの学校でも異学年の交流は行われていますが、清掃や縦割り班遊び等、特別活動等、教科学習以外の場面がほとんどです。
このようなイベント的な異学年交流には、「年上=面倒を見る人」、「年下=劣っている人」のような役割や人の見方の固定化が起きてしまい、実は逆効果になることも考えられそう。「効率的」に学校教育を行うために異年齢を使っている、というと言い過ぎでしょうか。
そもそも社会は異年齢で構成されています。
社会人になって「同い年でチームを作って仕事をする」なんて設定はほとんどないですし、社会で暮らすこと自体が異年齢で暮らすこと。ぼくが子ども時代に地域にあったのは異年齢の遊び集団。多様なメンバーの中で折り合いをつけながら遊ぶなんて当たり前田のクラッカーでした。異年齢のなかにいるって本来は極めて自然な状態です。
そう考えると学校だけが特殊な構成です。教える側にとって、管理する側にとって「効率的であること」が制度として続くうちに、多くの人が学校教育の中で過ごすうちに、いつのまにか普通のこととして受け入れられてしまったことなのではないかと思うのです。
全国で学校の小規模化が進んでいます。
例えば長野県を例に取ると、小・中学生は、約 20 年後に現在の6割程度まで減少すると予測されています。平成25年度ではすでに小学校の3校に1校、中学校の5校に1校が単級以下です。「今後も児童・生徒の減少に伴い学級数が縮小するなど、学校の小規模化の進行が懸念 」されています。
学校の小規模化はますます進むでしょう。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/kensei/shisaku/sogokyoiku/documents/shiryo2.pdf
学校が小規模化するときに、日常的な異年齢・異学年の学びを実践するチャンス!しかし、学校が小規模化すればするほど「講義中心の一斉授業に向かう」という逆説的なことが起きがちです。
学級に4人しかいないクラスでは、「一人一人に目が届き」、「今までの授業スタイルが通用する」し、そもそも「荒れにくい」状況なので、学校での学びの有り様を変えようというベクトルが働きにくい。短期的には困っていないので、今の教育の「標準と思われているもの」に向かっていってしまう。4人しかいないのに、手を挙げて発表する、なんてことが誰の疑いもなく成立してしまう。
それほど同年齢・同学年の制度は、ぼくたちの身体に染みこんでしまっています。ぼくらの経験からできあがったマインドがそのチャレンジを阻みます。条件が揃っているからといって実践できるわけではない。
様々な学校改革のチャレンジをみても、ドラスティックに仕組みを変えても、教師自身のマインドがなかなか変わらず、講義中心の一斉授業が残り続ける、ということが往々にして起こります。教師のマインドが形骸化させる。手強し。
またこれまでのやり方を前提にすると、異年齢・異学年の学びはイメージしにくい。講義中心の一斉授業では、年齢も学んでいることも違うメンバーが同じ場で学ぶことは、実質不可能だからです。学びの個別化が不可欠になります。経験のないことへのチャレンジは不安になります。
また国内には、日常的な異年齢・異学年の学びは学校単位で踏み出すほかなく、実践事例も少ないのが現状。小さなチャレンジの積み重ねがしにくい。これまた変化を阻む要因です。
では、どうやって踏み出すと、その可能性が見えてくるのか。
どのような条件整備が必要か。
教師や保護者のマインドが変わるためには何が必要か。
その時の実践のポイントはどこか。
考えてみたい問いはいくつも浮かんできます。
これからブログでぐいっと深めていきたいと思います。
端的に言えば、ゆるやかな協同性に支えられた個の学びを実質化すること。
その時に戻るべき本はこれ。
人それぞれ、興味・関心や学びのペース等が異なっているということを大前提に、異年齢・異学年を前提に、大胆に日々の学びをリデザインすること。公教育を変えていく一歩目はここだと思います。とってもハードルが高い(ようにみえる)。でもこの一歩目に踏み出せるかどうかが、イノベーションを起こせるかどうかの分岐点。この一歩目は今当たり前になっている様々な仕組みを見直さざるを得ないからです。
そのチャレンジをしたいし、応援したい。
さて、正月なので今日はここまで。ビールを飲もう!
今年1年も大変お世話になりました。
2018年、大変お世話になりました。
年賀状を出すことをやめるようになって9年目になりました。
この個人的なつぶやきを持って今年1年お世話になったお礼とさせてください。
今年のハイライトはなんといっても、東京学芸大学教職大学院の職を辞し、一般財団法人軽井沢風越学園設立準備財団で開校準備に専念することにしたこと。
思い切ったようにも見えますが、自分の中では自然な流れの中のできごとでした。(中原淳さんには、対談の機会にお会いしたとき、「ドベンチャーに行きましたね!』と言われましたが 笑)
幸い、東京学芸大学教職大学院では非常勤で授業を持たせていただいていて、週1回の大学院の授業がとても楽しみ。2020年に開校して、ある程度落ち着いたら教師教育にも並行して関わっていきたい。
去年は2つの論文を書きましたが、今年度は実務に追われて書けなかったなあ。
・渡辺貴裕,岩瀬直樹「より深い省察の促進を目指す対話型模擬授業検討会を軸とした教師教育の取り組み」『日本教師教育学会年報』第26号。
・岩瀬直樹「教室内外の言説や経験を自分の力にしてきた教員の、学級経営における『実践知』とはなにか」『学校教育研究No32』,74-89頁。
修論をもとに、オートエスノグラフィー的ナラティブ探究を引き続き研究したいとは思いつつ時間が取れなかった…来年度も無理かなあ…2020年に無事開校したら、学校をフィールドとして実践研究を重ねていこうと思います。
本は共著の1冊のみでした。
インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)
- 作者: 青山新吾,岩瀬直樹
- 出版社/メーカー: 学事出版
- 発売日: 2019/01/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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青山さん、編集者の加藤さんと2年かかってようやくできた本。ぜひ感想をお聞かせください。
来年は、2月頃に、吉田新一郎さんとの共著がでます。井庭崇さんとの対談が収録された本も1月頃出る予定。あと1冊は書きたいなあと思います。よい企画が思いつくとよいな。
個人的には「きくということ」が個人の探究テーマでした。
西村さんのインタビューのワークショップで5泊6日をすごしました。
いい場だったなあ。
青木将幸さんのミニカウンセリングのワークショップの2日間も味わい深かった。
ぼくは今、日頃何気なく行っている「きく」ということの再構築の最中です。
来年もひきつづき「きくということ」がぼくの研究テーマです。
さまざまな場にも立たせていただきました。静岡県教委は2年目。来年もお声がけいただいてありがたい限り。宮城県教委での研修も思い出深い。たくさんのご依頼をいただきましたが、なかなか時間が取れず心苦しい限りです。
小金井三小での2年間のプロジェクトもひとまずのゴールを迎えました。このチャレンジは何らかのカタチにまとめたいなあと思います。
徳島の入田小学校の3年のプロジェクトは11月に終わりました。その際に訪れた神山町、自然学校TOECには大きな刺激を受けたなあ。
何か新しいことが始まりそうで楽しみ。
あ、そうだ。サンディエゴのHigh Tech High、サンフランシスコの、The Nueva school,New school,millenium schoolの視察にも行ったのでした。
静かに確信を深めた時間だった。
こう振り返ってみるといろんなことがあった。
とはいえ、開校準備にほとんどすべての時間を使った1年でした。
現在地はこんな感じ。
2018年秋、本城と岩瀬の現在地 – 軽井沢風越学園(設立設置認可申請中)
次の1年はいよいよ開校を目指しての具体的な準備に入ります。
迷いながら、楽しみながら、大切な1年をつくっていきます。
来年はどんな1年になるのやら。
まずは軽井沢風越学園設立プロジェクトが佳境に入っていろんなことが起こるだろうなあ。あー楽しみ。
1月からはジムに通い始めたいと思っております(希望的観測)。
「きくということ」と「かくということ」の探究を引き続き深めていきます。
このブログは、ウェブダイアリー時代(懐かしい響き)から10年が過ぎました。総アクセスも200万を超え、今は1日1000アクセスぐらい。ありがとうございます。
来年度はもっと日常的に書いていきたいなあと思います(自分に期待)。
1年間本当にお世話になりました。
というわけで、皆さんよいお年を!