自分の「支えとするストーリー」はどのようにできていくのか?予告編。
学校においては隠れたカリキュラムが存在します。隠れたカリキュラムとは、アメリカの教育学者フィリップ・ウェズリー・ジャクソンが用いた言葉で、いわゆる学習指導要領や授業計画等の明示的なカリキュラム(顕在的カリキュラム)ではなく、教師から生徒へ「暗黙のうちに伝達される価値や規範、信念などを指」します。*1。
例えば「集団を乱す行動をしてはいけない」というのは隠れたカリキュラムといえます。学校で子どもは、明示的に示されていないことを結果として学んでいることがあるのです。
しかし子どもたちだけでなく、教師もまた無自覚に、所与のカリキュラムから学んでしまっている実践知があるのではないでしょうか。
以下は僕の昔の日々の振り返りからの抜粋です。
新任からの5年間、「学校についてのストーリー」(学校は何のためにあるのかについて、他者によって綴られ、他者に対して語られるストーリー*2)への違和感を見過ごすことができませんでした。整列、行進、大きな声の返事等々…
オルタナティブな教育に関心のあった僕は、このようなストーリーが我慢できず,職員会議で反対を大声で唱えたりもしていました。
当然そこでは「対立のストーリー」となってしまいます。学校についての支配的なストーリーへの違和感、それと衝突する若い教師…しかし、教員として駆け出しだった僕にはそれを変えるような影響力はありませんでした「対立するストーリー」は学校についての支配的なストーリーに逆らっているので、若い教師にとってはなかなか持ちこたえることができません。行進への違和感は、学級の子どもたちにやることを強要しない、あまり必要と考えていないんだよねと教室でこっそり吐露するなど、「秘密のストーリー」(学校の風景においてであれ、その外においてであれ、安全な場所でのみ他の人に語られるもの*3)として生き続けることとなりました。
しかしそうしているうちに、年齢を重ねるにつれて、いつの間にかそこに違和感を感じにくくなっていっていたのです。
「対立を避けるために秘密のストーリーとして持ち続けているのだ」と自分を納得させていたのですが、そうしているうちに、自身も「学校についてのストーリー」と同化していっていっていたのでした。当初持っていた違和感を少しずつ手放してきてしまっている,そのことに気づいたときには愕然としました。
学級への「集団凝集性*4」 についても新任の頃は違和感を持っていました。しかし上記の例と同じくいつのまにか学級経営の中に凝集性を持ち込むことは普通となっていってしまっていたのです。
学級の集団凝集性が高まってくると、周囲の評価が変わってきます。
例えば運動会の行事のときに、後述のブログの記事のようにまとまっている学級は、保護者からも同僚からも評価されるようになっていきます。学級経営に力を入れている先生。「先生、熱血ですね−!」と言われると素直に褒められていると感じていたのが正直なところ。子どもからも保護者からも「いい先生」と思われるのは、正直悪い気はしません。同僚からも「力のある」教員と思われるのは気持ちいいものです。そのような日々の積み重ねは、自分の実践が「うまくいっている」という認知になるので、それを問い直すベクトルが弱くなってしまいます……
2009年になってもこんなブログを書いています。
正直に告白すると、このような実践にあまり疑問を感じていませんでした。
いや、むしろ「好ましい実践」と認識していました。
教員になりたての頃の僕だったら、このような学級は「気持ち悪い」と考えたに違いないありません。にもかかわらずなぜそうなってしまったのでしょう。
今ならわかります。
なぜなら学級内は盛り上がり、外部(同僚、管理職、保護者)からも評価されるからです。学級を「チーム」というメタファーで捉え、目標がはっきりする運動会やミニバスケットボール大会など仮想敵がいる行事で学級の結びつきを強くしようと続けてきました。行事の盛り上がりは保護者からも評価されます。行事で活躍する人は、学級内にあって目立っている子が多い。彼らの満足は学級の安定にも繋がると考えているところもあったのでしょう。もちろん学級全体に気を配りながら、私は、目標に向かっていくプロセスで起きる凝集性に頼っていたのです。まとまりのある学級、行事で結果を出す学級、の担任は学校文化の中で生きやすい。この状態が評価される状態では自己の問い直しが難しい。自身の持っていた違和感が薄れていき、学校の文化と徐々に競合しなくなっていったのです。
2つのストーリーの齟齬を感じていない時、ストーリー間の緊張関係がない状態というよりむしろ重なり合っていくプロセスであると言えます。
そんな時、そもそもを問う振り返りをするのはとても難しいものです。
では僕はその中で、どのように自身の「支えとするストーリー」を取り戻し、更新し、自身が大切にしていることと実践がつながっていったのか。
大学院では、そんなことをナラティブ探究という研究手法で探究してみました。
(いつかに続く)
※1保田卓「カリキュラムと学力問題」石戸教嗣編『新版教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社,2013,146頁。
※2※3
子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ―カナダの小学生が語るナラティブの世界―
- 作者: D ジーンクランディニン,ジャニスヒューバー,アン・マリーオア,マリリンヒューバー,マーニピアス,ショーンマーフィー,パムスティーブス,田中昌弥
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2011/04/15
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログを見る
※4集団凝集性とは、フェスティンガー(1950)らにより「集団成員に留まるように作用する心理学的な力の総量」と定義された(小杉考司「集団の静的構造」藤原武弘編『社会心理学』,晃洋書房,2009,153頁)。凝集性が高ければ、「まとまりのよい集団」としてコミュニケーションが活発で、集団全体で共同的に活動することができるが、マイナス面も指摘されている。例えば平野は「特に日本のような集団の凝集性(一致団結しようとする傾向)や集団の一斉性(互いに同一性を保とうとする傾向)、そして集団の同調圧力(同じように行動するよう求める傾向)が強い文化では、集団思考の危険性が高いと言える」とし、このような集団心理がいじめに繋がる危険性を指摘している。(平野美沙子「いじめを考える心理学 - いじめの深刻化を防ぐために -」『環境と経営 : 静岡産業大学論集 21(1)』, 9-16, 2015,11頁。)
教室で「つい怒っちゃう」という相談。
先生がイライラする時。 様々な研修や講演で、若い先生から一番相談が多いのは「つい怒ってしまう」「怒鳴ってしまう」というもの。
安定的に子どもたちの前に立てない、という相談。
どう話すといいだろう?と考えたときの5年前のメモ。
なぜぼくたちは、怒ってしまうのか?イライラしてしまうのか?
自分で思い返してみる。
例えばぼくがイライラしている時って、 「自分の見通しと違う時」。
言い換えると、「自分の思っていた通りにならなかった時」。 残念な理由だ…
例えば、朝自習を見に行って騒いでいたとする。 その時間にやることは黒板に書いておいたし 、騒いじゃいけないこともわかっていたはずだ。 当然静かにやっているものだという「見通し」を持っていた。
ところがワイワイ騒がしい。若い頃は、例えばそういう場面でぼくはイライラしてしまうことが多かった。
ある程度経験を重ねると、似たようなシーンは何度も体験してきているので、そういう気持ちがわき起こってきても、すっと収まって、「何が原因だろう?」と、スッとひいて考えたり、聞けたり、観察できたりすることが多くなった。
そうすると、自習の時に騒いでいた原因って、
「ついしゃべってしまいたくなる自習内容だった」とか、
「直前まで静かだったけれど、トンボが窓から入ってきて大騒ぎになっていた」とか、
「週明けで、なんとなく気持ちが落ち着いていなかった」とか、
「次の時間の社会のプレゼンが気になっていて、相談していた」とか、
「誰かがおならした」とか、
まあ、その場によっていろいろあるわけだ。
ちょっとおちついて考えたり、子どもたちに聞いたり、観察したりすれば見えてくるのに、ぼくらは瞬間的に「反応」してイライラしてしまう。
時には怒ってしまう。
他に例はあるかなあ。そう例えば忘れ物を繰り返す子。なんで毎日言ってるのに忘れるの!となってしまったり。 「ここでちゃんと身につけないと将来困るから」 なんて、ぼくらは自分の怒りを正当化するし、それはすこしは「正しい」。
でもその子も、遠足のお菓子は絶対忘れないし、お楽しみ会の衣装もしっかり持ってくる。 もしかしたら、家庭環境で忘れ物をしない、というのがなかなかハードルの高いことなのかもしれないし、そもそも困っていないかもしれないし、忘れ物0の人も、実はお母さんが全部やってくれている、なんてこともあるわけだ。
そう考えると、何がいいことなのかなんてけっこう怪しい。
なのにぼくらはイライラする。
もう少しその「反応」を深めてみよう。 ぼくらはなぜ、「自分の思い通りにならなかった時」にイライラするのだろう。 自分の言ったことを聞かなかったから?「従わなかった」から? じゃあなぜ聞かないとイライラするのだろう? 「自分のことをないがしろにされた」「軽く見られた」、もっというと「バカにされた」と思ってしまっているんだろうか。
自分が言ったことをあなたはやるべきなのに、やらなかった。 あなたは私のコントールに従わなかった。
ここにイライラの原因の一つがある。 ということは、その根っこには「相手をコントロールしたい」と思っているぼくがいる、ということだ。
そうか、「コントロールしたいのにできなかった」ということへのイライラだったらしい。 そう思って、今までの怒り体験を思い返してみると、結構当てはまってしまう・・・・ぼくらの持っているコントロール欲求はなかなかやっかいだ。
イライラするのは感情なのである程度しょうがない。自然に反応してしまっているのだから。 もちろん改善の余地はあるだろうけれど、そう簡単には変えられそうにない。「なぜ怒ってしまうのか」と自分に問いを向けても、「わかっちゃいるけど怒っちゃう」と自分 を責めて終わりだ。
じゃあぼくらはどうすればいいんだろう?
イライラという、その感情の先に、どう行動するかは、ぼくたちの手の中に選択肢がある、はずだ。どんな選択肢があるだろう?
先ほどの忘れ物の場合。イライラを感じたら、その感情を受け止めつつ、ふうーっと深呼吸。「間」をとってみよう。
怒る以外のポジティブな解決策ってないかな?と考えてみる。
・「そっかあ。じゃあ今日はどうすれば困らない?」と一緒に次の策を考える。
・忘れ物の多いものはレンタルを用意しておき、「あそこから借りて返しておいてね」と伝える。
・「忘れ物0作戦」を本人と一緒に考える。
・ぼくのをサッと貸す。
・「じゃあ今日は参加できないねえ。見て学ぶことにしようかー」と言う。
・「他のクラスの人やクラスの人に借りられるか相談してみたら?」と伝える。
例えば事前に学級のルールとして、
「忘れ物をするのは人間だからしょうがない。ぼくもしょっちゅうするし…忘れた後が大事だものね。自分が困ったり、他者に迷惑をかけないように手を打っておこう。友達に見せてもらう約束をしたり、他のクラスから借りておいたり。どうにもならないときは、その時間が始まる前にそうだんにきてね。始まってからだと、 他の人を待たせることになるから、必ず事前にね。
困った時に周りに見せてもらえるように、普段から親切にしておいた方がいいよー。普段鼻くそ とか隣の人にくっつけてたら、いざというとき貸してもらえないからね 。笑」 なんて話しておくのはどうだろう?
自分がイライラする場面を思い起こし、イライラしたら、まずはそのイライラの感情を受け入れ た上で、でもぼくらはプロなのだから、その感情を素で外に出さない。
危ない時は、ふーっと深呼吸。
落ち着いたら。 この場面でどんな選択肢があるのか?を考えて、冷静に分析して行動する練習をしてみよう。 コントロールを手放して、子ども自身が自分で選択して行動できるよう、場と環境をつくっていってみてはどうだろう。
とはいえ夏休みの宿題がたまっている我が子を見ると、つい反応して「ちゃんとやりなさい!」なんていいたくなるんですけどね・・・・・・・
言うは易く行うは難し。横山はやすし。
子どもの頃の原体験。
以前こんな恥ずかしい題の本を書いた。
その本のあとがきです。
今と同じこと、違うこと、いろいろあるけれど、大切に思っている核はかわっていなさそう。
* * *
「こんなにいい天気で、こんなにいい風が吹いているのに、教室で座って勉強してなきゃいけないなんてなあ。早く学校終わらないかなあ。帰って遊びたいなあ」
窓際の席の小6のぼくは、泣きたくなるほどキレイな空を見ながらぼんやりとしていました。
「また岩瀬はよそ見してる!窓の外に先生はいないぞ」
何度注意されたことか。
この感覚、ぼくは今も残っています。
「こんなにいい天気で、こんなにいい風が吹いているのに、教室で座って勉強してるなんて不自然だよなあ」
そう思ってしまうのです。
ですから、教室のわんぱく坊主が、
「イワセン、こんなにいい天気で教室で勉強ってないでしょ。バスケしにいこうよー」
なんて声につい共感してしまいます。そうだよなあって。
新任の時の学級通信をひもといてみると、ぼくは、天気のいいに近くの山にいって、葉っぱで布団をつくってみんなで寝てみた!なんてことが書いてありました。 (読み返すまですっかり忘れていました)
最近でも、いい天気の時は、外で読書をしたりすることもあります。
気持ちがいいのです。外で本を読むのって。
その時間を体験するって、読書のありがたみを何度も講釈たれるより、圧倒的に豊かだなあ、と思ってしまいます。
文字通り、「あそび命」だったぼく。
子どもの頃の記憶は遊んだことばかりです。
走って帰って真っ暗になるまで野球をしていたこと。
蛙のおしりにストローを刺してふくらませ、水に潜れない蛙を見て笑ったこと。
近所のお兄ちゃんと空き地に秘密基地をつくって、お菓子を持ち込んで食べたこと。
ナイショでゲームセンターに行ったのを父親に見つかって、思いっきりげんこつされたこと。
どこまで歩いて行けるかチャレンジしよう!と、近所のチビ達をつれて線路沿いをグングン歩いて行って、チビ達が泣き出して大変だったこと。
拾った子猫をどうしても飼いたくて学校に持っていって怒られ、しょうがないので友達と空き地でこっそり世話したこと。
「動くロボットをつくりたい!」と本気で思い、家にあるガラクタを友達と持ち寄ってなんとかつくり出そうとしたこと。
そんなことばかりが頭を巡ります。ぼくは思うのです。
幸せな子ども時代だったなあと。両親は決して理想的な親だったわけではないし、いやなこともたくさんあったけれど、でもやっぱり。日々は輝いていて、ドキドキワクワクに満ちあふれていました。
思い出だからキレイになっているところは多分にあるでしょうが、それでもやっぱり楽しかった。そこには「やりたいこと」がありました。「自己決定できる自由な時間」がありました。大人の目の届かない遊べる「場所」がありました。友達との「かかわり」がありました。
今はそんな空間も、時間も、仲間も難しい時代になってしまいました。
本来は学校が引き受けるべきことではないだろう、と直感的に思います。しかし、現実は今、子どもたちの起きている時間のほとんどを過ごす学校は、いい悪いを超えて、子どもたちにとって大きな大きな場になってしまっています。そこをある程度引き受ける覚悟、が必要なのではないか。 2013年のぼくはそう考えています。
学校がドキドキワクワクの場になること。学校に「やりたいこと」があること
学校に「自己決定できる時間」があること。学校に友達との「かかわり」があること。
学校だからこそできること。ぼくはこれからそれを試行錯誤し続けていきたいなあと思っています。
ちょんせいこさんとぼくで対話を重ねて創った目指すゴール。それは、この言葉に集約されます。
* * *
信頼ベースのクラスとは
先生(ファシリテーター)からのエンパワーで
安心を感じ、満たされ始めた子どもたちが
その姿をモデルにしながら、互いにエンパワーし始め
豊かな言語活動をベースに
遊びや学びを通じて無邪気に笑い、泣き、学びあい
高めあい、つながりあいながら
小さな成功体験や達成感を積み重ねる中で
子どもや先生が、本来、自分がもつ力に気づき
自分やクラスがまだまだ伸びていくこと
成長することを実感し、信頼することができる
強みを活かし、弱みを克服しながら
厳しい環境や課題、困難があったとしても
学びのサイクルの中でそれらを乗り越える方法を
体験的に学び
これからの毎日に、ポジティブな予測を持つことができる
やがて自分とクラスの成長がグン!と加速していく
自立的に協調しながら
友達や社会とのつながりや可能性を実感する
そんな「幸せな子ども時代」を過ごせるクラスです
* * *
ぼくの先生としての原点は、もしかしたら、子どもの頃住んでいた札幌市西区発寒にある市営住宅のそばにあった雑草だらけの原っぱにあるのかもしれません。
これからも、がんばりすぎず、あきらめず、楽しんで進んでいきたいと思います。
自動化と無能化
今日は横浜の「りんごの木」の参観。早く家を出たら、ずいぶん早くついちゃったので、カフェで朝ごはん食べながら、心に綴り行く由無し事を。
去年の秋にスバルのインプレッサに乗り換えました。中古です。
かっこいい。この車、「アイサイト」という機能が付いていてこれがなかなか便利。
前の車に一定の車間距離でついて行ってくれたり、線からはみ出すと「はみ出し注意!」という文字とともに警告音が鳴ったり、前に近づきすぎると「前方注意!」という文字とともに警告音が鳴り、自動ブレーキもついてる。運転者はハンドル操作だけしてればいいというわけです。安全安全。特に高速道路は本当に楽で、ちょっとした渋滞でも、前の車にゆるゆるついて行ってくれるので以前よりずっとストレスがなくなりました。
最近軽井沢に通う機会が多く、片道120キロぐらいあるんだけれど、距離ほど負担を感じなくなりました。運転アシスト機能万歳!この車にして本当によかった。
で。妻はステップワゴンに乗っているわけですが、先日、家族でちょっと遠くのイオンまで高速に乗って買い物に出かけたときのこと。
久々にステップワゴンを運転。
「あー、運転感覚随分違うなー。ふんふん♩」
なんて運転していたら助手席の妻から一言。
「あなた、車の運転下手になったんじゃない?」
曰く、ブレーキを踏むのが遅くなったし、なんかフラフラしている感じがすると。やたらよそ見をするようになったと。
むむむ。自覚は全くなかったのですが、しばらく運転していると「やっぱり下手になってる。乗ってて怖い!注意が散漫!」
どうやらこの半年で本当に下手になったようだ。
「自動運転に慣れすぎてるんじゃない?」と妻。
いや自動運転じゃないんだけど、という無意味なツッコミは飲み込んで、言われて見るとそうかもしれない。車が注意してくれているから、ちょっとずつそこへの信頼(という名の依存)が生まれて、ぼーっと運転しているのかも。言われてみれば以前ほど気をつけて運転していないなあ。時速も調整してくれるのでアクセルに注意しなくていいし、はみ出しそうになると教えてくれるし。やたら景色を見る余裕が出た気もする。
その機能がない車に乗ったときに、つまり自分の能力で運転しなくてはならなくなったときに、使わずに退化した能力を突きつけられたわけです。
いやあ、おそるべし運転アシスト機能。そういえばナビを使うようになってから、色々な場所での地理感覚や方向感覚もかなり鈍ってるな。
そういえば似たような心当たりはまだあるぞ。
我が家は共働きで、子育て3人をしながらのバタバタ生活を長らくしていたので、晩御飯は食材宅配サービスの「ヨシ◯イ」を愛用していました。仕事場を飛び出し、学童にお迎えに行って家に帰ると、今日の夕食分の食材が届いている。食材によってはもうすでに切ってある。
あとは付いてくるレシピ通りに作れば、30分〜40分で夕食が出来上がり。そこそこ美味しくて、栄養バランスにも配慮が行き届いている。
我が家はこのヨシ◯イのサービスにどれだけ助けられたか。買い物の時間も調理の時間も短縮できてほんとうに助けられました。ありがとうヨシ◯イ。
妻と交代交代しながら、10年近く晩御飯作りに勤しんできました。家に帰ってテキパキ料理してました。それを続けたらさぞかし料理上手になったと思われることでしょう。
それが全然できるようになってないのだ!!悲しいことに。
毎日ひたすらレシピに書いている通りに作っているだけで、何故ここでこの調味料を使うのかよくわからない。書いてある分量通りに「大さじ1と3分の1か」と機械的に入れるだけ。「味付けは大体これくらいだな」とか、「ちょっと味が薄い気がするから調整しよう」とか全然応用が利かないのです。なぜ今日、この調味料を使うのか、なんて考えないので、味付け力が身につかない。。
「食材も測られて、必要な分だけ送られてくる」ので、どの料理に何が必要なのかが全然学ばれていかない。時々一念発起して、今日は買い物してご飯を作ろう!と思っても、「八宝菜に必要な材料は◯◯だから、買い物してこよう」という知恵が身についていない。レシピが必要なのです、レシピが。
なんで中火なのかわからない。強火じゃだめなの?なんて疑う事もなく、書かれている通り中火にするだけ。でも美味しいのができるのです。だから10年間困ったことはありませんでした。
そして今、はたと気付くのです。10年も料理を続けてきて、何もできるようになっていない、と。手際だけはよくなりました。包丁使いも上手。
でもレシピがないとだめなのです。食材を選んでもらわないとだめなのです。10年も時間を割いてきたのに、自分のノーミソを使ってこなかったばかりに・・・・・・・応用できない。
そのサービスを手放した今、つまり自分の能力で料理しなくてはならなくなったときに、使わずに伸びなかった能力を突きつけられたわけです。
もっと積極的にこのサービスを活用していればこうはならなかったはず。美味しい料理を作れるようになったはず。意識して自分の「料理力」につなげる方法はあったはずです。勿体無いことしたなあ。
個別最適化してくれるサービス、痒いところに手が届き、自動でやってくれるサービスが、人の力を無能化する。
これって気をつけないと、これからの学校教育にも起きかねない。
例えば個別最適化された学習。
「個別最適な問題を自動で選んでくれてその問題を解いていったらできるようになっていく!という学び方」にも同じことが起きる可能性がありそう。自分で自分の学びをデザインしたり、振り返って改善したり、ができなくなる危険性がありそう。
口を開けて最適を待つ子を育てかねない。
このあたりは慎重に考えていく必要があるな、と妻からの叱責から思い至ったわけです。
とはいえ、今日は早朝から横浜まで長距離ドライブだったので、運転アシストに助けられてラクラクでしたー。一度知るとやめられません……
中年やベテランのぼくらは若手の先生とどう付き合っていくのか。
6月に5泊6日のインタビューのワークショップにいってきました。
とても味わい深い時間だった。これからの足場になる時間でした。がんばって行ってよかった。
さて。
若い若いと思っていたぼくも,先日誕生日が来て48才。もう立派すぎるオジサンです。今までのように普通にフィードバックしていても、いつのまにか「ベテランに意見された・・・」と相手を萎縮させてしまうことも(涙)。自身の加齢と位置の変化を感じずにはいられません。
そんなぼくらは、若い方々とどう付き合っていけばよいのでしょうか。以前にある教育雑誌に書いた雑文をリライトして載せてみます。
若年化が進む学校現場
団塊世代の大量定年退職によって、学校現場では若い先生が増えています。ある市ではなんと毎年1000人規模で初任者が増えているそうです。学校を支えるミドル層(30・40代)が極端に少なく、大量の20代と50代といういびつな年齢構成になっている学校も少なくありません。今は都市部が中心ですが、これから地方にも同じ波がやってくるでしょう。大都市ではすでに担任の半分が20代なんていうことも起きています。教員経験5年未満で学年主任、なんてこともあるのです。
そんな中、ぼくたちはどのように若い先生の成長を支援すればよいのでしょうか。ここで考えたいことは「成長」は何も若い先生の問題だけではないということです。30〜40才の時期、つまり中堅(ミドル)の教員にとっても、まさに伸び盛りのとき。さまざまな経験を重ねてくる中で、さらに実践が変わっていくときです。僕も30代後半から実践にイノベーションが起きました。
「若手の育成よりも、自分の成長のほうが先だ!」
「まだまだ自分の成長で精いっぱいで、若手の成長の支援どころじゃない」
「自分だって、まだ若手(のつもり)!」
なんて声も聞こえてきます。
確かにまだまだ自分のことを一生懸命やりたい時期。そう思うのは当たり前ですよね。若手の成長を促しつつ、自身も成長していくという2つの両立は可能なのでしょうか。
「教師の成長」って?
ここで「教師の成長」について考えてみたいと思います。教師の専門性は、かつて「技術的熟達者」として捉えられていました。簡単にいえば、いつでも適用できる教育技術や教育方法をたくさん身につけていくことで専門性を高めていくというモデルです。ぼくも若い頃ずっとそう思っていました。とてもわかりやすいモデルといえます、
それに対して、ドナルド・A・ショーンという研究者は、たくさんの技術や方法を身につけるだけでは専門性は高まらないぞ!と指摘しました。そもそも教室はそこにいる子どもたちや環境によって千差万別。ひとつとして「同じ教室」はありません市、毎年毎年違います。
ある教室で効果的だった方法がほかの教室でもまったく同じように効果的とは言えないのです。ですから、教師はその場や子どもに応じて工夫して実践し、その実践を振り返り、振り返りから気づいたことを活かして実践していくという「振り返り(省察)」を行うことで成長することが必要です。
このように「振り返り」を繰り返しながら成長していく専門家を、ショーンは「反省的実践者」と定義しました。
もちろん、「技術的熟達者」と「反省的実践者」は対立した関係ではありません。教師の成長には両方必要といえます。ただ、今まではあまりにも前者に焦点が当たり過ぎていた感があります。
技術や方法を学ぶのはもちろん、日々の実践を振り返り、そこから気づきを得て学ぶことを通して教師は成長していく、ということをぼくたちは知っておく必要があります。
言い換えると、「教師は経験を振り返り、次にいかしていくことによって成長する」ということです。このことを以降は「振り返り」ということにします。
先輩としての「私」はどんな存在か
若い先生の成長を支援するというのはどういうことでしょうか。ついついぼくたちはセンパイとして「技術や方法を教える」となりがちです。
それってとても大切。でもそこに課題はないでしょうか??
若い先生とぼくら中年は「非対称」な関係であるという自覚が必要です。「若手に教える」というスタンスは、一方的に指導するという上下の関係になりがちで、時には説教に聞こえるかもしれません。「教える側」にそのつもりがなくても,「教わる側」はそう捉えてしまうかも知れません。しかし先ほど考えてきたように、これだけでは「技術的熟達者」の面しか見ていない若手支援です。教師の成長には「振り返り」が重要であることは先ほど確認しました。ですから、若手の成長を促すには、「よりよい振り返りができるように支援する」ことが重要になりそうです。
皆さんが若い頃、どんな先輩があなたの成長を促してくれたでしょうか?
ぼくも思い出してみます。ぼくの若い頃は、自分のやりたいようにやってみたい!」という気持ちを強くもっていました。ですから、「こうしたほうがよい」という一方的な指導には、正直反発を感じていました。説教されている感じがしたのです。かといって放って置かれるのもとても困りました。ぼくは生意気だったので仕方がありませんが……。
ぼくがしてほしかったこと、それは「話を聴いてほしい」でした。初任校にそんな先輩が1人いました。放課後、「岩瀬さん、今日クラスはどうだった?」とよく声をかけてくれました。うまくいったこと、困っていることをたくさん聴いてくれたうえで、うまくいった実践を意味づけてくれたり、困っていることには「明日はどうすればいいと思う?」と質問してくれたり、「こんな方法もあるよ」「この本読んでみたらどう?」とアドバイスしてくれる先輩。時には「私のクラスを見に来る?」と誘ってくれました。ぼくが大失敗して愚痴ったときには、「私も若い頃そうだったよー。保護者に怒鳴られたりして大変だったよー」なんて昔話をしてくれたり。そんな話を聴いたときは「なんだ、みんな若い頃はそうだったのか」とホッとしたものです。今思えば、その先輩はボクに「振り返り」を促してくれていたのだなあと思います。もちろんその先輩は、技術の指導、例えば学級通信の書き方、保護者への電話の仕方なども,その時その時のリアルな場面で教えてくれました。技術的熟達も支えてくれてたんですね。そんなふうにさり気なく寄り添ってくれる先輩に、ぼくは一切の押しつけがましさや一方的な指導という感じをもちませんでした。前回の記事の先輩はまさにそんな先輩でした。僕のモデルです。
「自分の成長を支えてくれた先輩」はどんな先輩でしょうか? 僕は若手からどのような先輩に見えているでしょうか・・・・・。ちょっと自信がなくなります…言うは易く行うは難しです。昔の人はうまいこと言いました。
若い先生に対して振り返りを促す
では、具体的に若い先生の「振り返りを促す」ためにはどうすればよいかを考えてみましょう。
最終的な目標は「若手の先生自身が自分で振り返り、成長できるようになる」ことです。そのために最初は「伴走」して、徐々に任せていくイメージをもつことが必要です。ここでは具体例から考えてみましょう。経験から学ぶモデルに「経験学習サイクル」というものがあります(コルブの経験学習モデルをもとにしています)。
①具体的経験
まずは「具体的な経験」があります。これは日々の実践の中に起きていますね。
②振り返る
今日(あるいは今週)の実践の中で印象的なことを1つ挙げて振り返ってもらいましょう。
まずは具体的な場面の想起です。
今日、みんなで総当たりじゃんけん大会を開いたんです。名簿をもって、どんどんじゃんけんをしていくっていうゲームです。みんなに仲良くなってほしくて。そうしたらAくん、じゃんけんしてないのに、どんどん名簿に○をつけていくんですよ。
その行動がすごく気になっちゃって。しばらく様子を見ていると、「先生! オレこんなに○をつけたよ!」とうれしそうに報告に来たんです。私、つい「ズルしても楽しくないでしょ!」と注意したんです。そうしたら、「ズルしてねーし」と怒って、すねて出て行った。
そんなAくん、担任してからずっと算数の時間になると、まったくやろうとしないんです。声をかけても「どうせオレバカだし」、「やってみようよ」と声をかけても「やーだね。ぜってーできない」と伏せってしまうんですよね。
情景が浮かぶよう(動画モードで脳内再生できるよう)、できるだけ具体的に想起してもらうように促します。例えば、「Aくんって、いつもそうなの?」「なぜそんなにAくんが気になるの?」のようにです。具体的な経験を改めて2人で眺めてみます。若手の先生はこんなふうに振り返り始めました。
Aくんはいつも、ああいう感じなんですよね。前の学年でも、ああやってわがままを言うことがあったって聞きました。もう3年生で中学年だし、ズルは認めてはいけないって思うんです。もし認めると、ほかの子たちにも広がってしまうかもしれないですし。やっぱり公平性を大切にしなければ、マジメにやっている子がバカを見ると思うんです。
本人の振り返りはどうしても一面的になります。振り返りにはクセがあるのです(これは年齢や経験によりません。むしろ経験を積んだ方がクセが強くなりがちです。経験を絶対視してしまうのですよね。自省・・・猛省・・・)
似たような経験をしてきた先輩の先生は、Aくんを怒り続けても問題は解決しないことを知っています。Aくんにかかりきりになることで、ほかの子たちも落ち着かなくなっていくことも。
③(振り返りから)教訓を見つけ、選択肢を増やす
ですから、先輩としての役割は、「もっと違う見方がないだろうか」と促すことです。ここで「指導モード」にならないことがポイント。目標は「1人で振り返りができるようになること」です。自分で気づくチャンスをつくりたい。例えば、こんな質問はどうでしょうか?
「Aくんは、なんでズルしたんだろう? 先生にどうしてほしかったのかなあ」
ついつい自分視点になってしまう振り返りを、相手側(学習者側)から見てみる(視点の転換)質問です。
そうかあ、もしかしたらじゃんけんをしていないのに○をつけたのは、先に○をつけちゃえば、他の人に勝てると思ったのかもしれないな。他の人に勝ちたい、負けたくないという気持ちだったのかな。もしかしたら、ずっと怒られてきたAくんのしたかったことは「先生にほめられたい」。そういう意味ではモチベーションが高かったなあ。何で怒っちゃったのだろう……。
先輩はここで、「算数のときのやる気のなさも同じ感じなのかもしれないね」などと共感的に受け止められるといいなあ。算数のときのやる気のなさも、ほめられたいのにできないから、自己否定になっている可能性がありそうです。
このように気づきが生まれてきてから、自身の経験からアドバイスしてみてはどうでしょうか。
「できる・できない」が自分の価値を決めると思っている傾向があるのかもしれないね。私のクラスにも以前、できることには一生懸命だけれど、苦手なことには「それ嫌い!」と徹底してやろうとしない子がいたの。その子の根底にあるのは「認められたい」「承認されたい」だったんだよね。
ここで、「やらない子、ズルをしている子たちは、実は承認されたい」という教訓が共有でき始めました。では、これからどうすればよいでしょうか? 次に活かせる選択肢を検討します。
承認されたいということは、アプローチを変えなくちゃですね。まず何から実践したらいいでしょうか。Aくんにとって、やってみたらできたという小さな成功体験が必要ですね。いきなり算数では難しいし……、Aくんは生き物にとっても詳しいから、次の理科の単元で活躍できる場面をつくろうかな。教室の金魚の世話も手伝ってもらおうかな。
ここでようやく、選択肢を増やすために先輩から実践のアドバイスをしたり、具体的なスキルを伝えたり、関連する書籍などを紹介したりすると、本人にとっても学びになるでしょう。自身の気づきから得た学びの機会だからこそ、切実感と必然性が生まれます。このように次の選択肢を増やし、自身で選ぶことを支援する、こんなふうになるといいなあと思います。
④新しい状況に適用する
そして、実際に適用してみます。それを振り返り、そこから教訓を見つけ〜と振り返りのサイクルを回すことで,少しずつ対人援助職の専門家として成長していけるのです。
「やってみてどうだった?」とサイクルを回すきっかけづくりを続けます。
いかがだったでしょうか。この振り返りで学んだ教訓は、Aくんに限らず、他の子たちにも活かせる可能性も出てきました。振り返りから学ぶ、振り返りのサイクルを自分で回せるようになるために伴走しながら支援するのが先輩教師の役割です。その支援的なかかわりは、若い先生のモデルになり、彼らが年を重ねたときに若手を支援するときに役立つでしょう。
だがしかし、だがしかし(2回繰り返すのがミソ)。
これだけでは、ぼくら中年、ベテラン勢の「自分自身も成長したい」は満たせない感じがします。実はそんなことはないのです。振り返りの中での「教訓を引き出す」プロセスでは、共に考えることで、ぼくら自身が新たな気づきを得ることもあります。2人ではどうにも解決できないときや、新たな選択肢を増やしたいとき、ぼくら自身も本を読んだり、学んだりしなくてはなりません。また、自身の実践からアドバイスするときに、普段、無意識でやっている実践を言語化することができます(実践知の言語化)。そのことで自身の実践を見直すこともできるチャンスになるわけです。
また、ぼくらも日々振り返りをし、若手の先生に共有し、意見をもらう、というのはいかがでしょうか。ぼくらもまだまだ道半ばです。
繰り返しになりますが、振り返りには1人ひとりクセがあります。経験を重ね、専門性が高まったからこそ視野が狭くなり、「思い込み」が増えている可能性が高いのです。しかし自分のクセは、自身では気づきにくいものです。そこで、若手の先生に意見をもらったり、質問したりしてもらうことで、自分の思い込みが明らかになり、新たな視点が生まれるかもしれません(unlearn =学びほぐし)。
過去の経験にしばられて成長していないのは、実はぼくら自身かもしれないのです。
自分自身の実践を見つめ直し、当たり前を問い直して、なお成長し続ける姿は、若手の先生にとって何よりの「学びのリソース」となるでしょう。
また、ぼくらはよほど意識していないと、なかなかアドバイスや助言をもらう機会がありません。そこで若い先生に日常的に授業を見てもらい、一緒に振り返りをしてはいかがでしょうか? 放課後、自身の実践について一緒に対話してもらうことで、自身の実践を見直す契機にできます。このように「謙虚に学び続ける先輩」の姿は、「若手の成長」にいちばん役立つことでしょう。そして何より、このようなアプローチは、職員室を「学び合う組織」へと成長させる可能性に開かれます。職員室全体でお互いの実践を交流したり、振り返りを促進し合ったりできる関係性が築かれていけば、自身の成長、若手の成長はもちろん、学校全体が成長していく、まさに《共育》の場となるのです。
「一方的に教える」を超えて共に成長する《共育》へ
若い先生の成長を支援することを通して、ぼくら中年、ベテランが成長していく《共育》について考えてきました。若い先生の「振り返り」の支援をすることで成長を促すことは、実はぼくら自身の「振り返り」の力を伸ばすことになります。どうすれば振り返りが深まるかを体験的に学ぶことができ、その学びから自身の振り返りも深まり、振り返りから学ぶ力が高まります。そしてそれは、教室で子どもたちが「振り返りから学ぶ」ことをデザインするときにも活かせる実践知です。
「一方的に若手に教える」を超えて、共に成長する《共育》へ。若い先生が増えていくからこそ大切にしていきたいものです。これは職員同士の学び合う文化の創造かもしれません。
人の成長に寄り添うって本当に本当に難しい。
自身を戒めるために、あらためて書いてみました。
一番大切なことは「私自身が学び続け、変わり続けること。自身の前提を問い直すこと」なのかもしれません。相手に望むよりまず自分。明日もがんばろう。
きょうしつ。
教室。
拙著『せんせいのつくり方』より。
ちょっと長いけれど、自分のために書き出してみます。
数年後、ぼくの描いているビジョンは変化しているだろうか。
なんにせよ、そのときそのときに一生懸命コトバにしてみることだ。
.
.
.
.
人間関係の流動性。
困ったときに「困った」と外に表明でき、それをクラスが、「関係の濃さ薄さ」を超えて受け止めてサポートする。
それ以外の時は緩やかにつながっている。
教室の中に複数のネットワークがある。そのときそのときに応じて関係が変わっていく。
複数の回路があれば、必然的にゆるやかな「つながり」となる。
いろんな人がいてもよい、ではなく、「いろんな人がいるほうがよい」ということを実感するためにクラスで様々な形の実践がある。
例えば。ブッククラブで「ああ、こんな考え方があるのかあ。社会には自分とは違う考えの人もいるんだなあ」と思うこと。
算数の時、 「ああ、この人の説明だとわからないのに、この人の説明だとよくわかるなあ。試してみないとわからないものだなあ」と実感すること。
様々な時間に、自分の強みが発揮できること。他者の強みを見て、
「へー、自分が苦手なことでも得意な人がいるんだなあ。逆に自分が得意なことでも人には苦手 のこともあるんだなあ」
「自分が役に立てたり、得意なのはここだなあ」
と思えること。
多様な中で、学校は人工的な空間ではあるけれど、 出来る限り自然で自分らしくいられること。 やりたいことがそこにあること。 科学だったり、読書だったり、裁縫だったり、作家だったり、人によっては掃除だったり。ダンスや歌もステキだ。
たとえば給食の時間にやっている算数寺子屋。
「やりたい人はやればいいし、そうじゃないひとは別にやらなくていい」
という緩やかな自己選択があること。
やら なても不利益にならない開放性。
やっているからえらいとか、やっていないからだめとか、そんなのはない。 どっちもあり。個人の自己選択・自己決定が保証されている。
寺子屋や算数の時みたいに、 「サポートして」と援助を求めることができる。 それが幅広く受け止められる。 受け止められて解決したり、進んだりできる。
その成功体験が、より「サポー トして」を言いやすくし、コ ミュニティの問題が早めに可視化されるようになり、健全性が保たれる。
起きている時間のほとんどを過ごす学校。
今は下校時刻が4;00で、外で遊んでいい時間が4:30まで。 実質かえって友達と遊ぶ時間はない。 子どもたちにとって、学校での時間が友 達と過ごす唯一の場なのだ。 その学校にとって、教室にとって、「居心地がいい」「やりたいことがある」「自 分らしくいられる」というのは以前にも増して重要だ。
だた、それだけではやはり学びの場ではない。 自分の成長を実感できること。自分の変化、をちゃんと自分でわかっていること。 変わってきているから、これからも変わっていけるだろうという自分へのポジティブな期待。 ただ「居心地がよい」だけではなく、その中での成長実感。 やればできるようになる、というマインドセット。 周りの人や大人がモデルとなり、自分が「伸びようとする高さ」が見えてくること。
自分の位置が自分で測れること。
時間軸が長いこと。 すぐに成果が出たり、変わったりしないこともある。 いつでも長い時間軸を意識して焦らないこと。待つこと。 1年単位での実践ではここへの意識がよわくなる。 気をつけよう。
ボクがグッと伸びたのは、教員になってからだぞ。子ども時代は遊んでばかりだ。
他のクラスや学年との「バリア」ができるだけないこと。 そのためには。一緒にやれることを増やすこと。子どもが行き来するしかけをつくること。 例えば本を借りに行ったり。クラスを混ぜた授業をしたり。担任が授業を交換したり。 ここはまだあまりやれていないから、これから意識していこう。
ああ、そのバリアは、学校の中と外、にもあるんだよな。
そのバリアをなくしていきたい。
クラスというコミュニティを居心地よく、よりよいものにしていくのは、わたしの手の中、にあること。
わたしの一歩がそのきっかけになる、ということが実感できること。
違いを前提に、共創的な対話を重ねられること。
対話をあきらめないこと。
ぞくぞくよい本が出てきて困る。(メモ)
続々、よい本があらわれてきて困る。
★★★★★
まだ半分だが、なぜもっと早く読んでおかなかったのかと自分を恨む。
リーディング・ワークショップ/ライティング・ワークショップの実践者はもちろん、学習者へのカンファランスを重視している人は必読です。
★★★★★
今までもパラパラと見ていたのだけれど、昨日の夜一気に再読。
村上さんの実践のすごさと共に、そこへの赤木さんの解説が秀逸。実践を読み解くとはこういうことだというお手本。特別支援教育の見え方が変わります。改めてすごい本だ…従来の教育書とは一線を画しますよ。「なめはち」実践の解説には震えました。
教科と総合学習のカリキュラム設計: パフォーマンス評価をどう活かすか
- 作者: 西岡加名恵
- 出版社/メーカー: 図書文化社
- 発売日: 2016/03/25
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
立った今読み始めた本。
ぼくは読む前に10分くらいでパラパラと全体に目を通すのだけれど、逆向き設計を学ぶ決定版のような本の予感。
いやはや読むべき本が多くて困るわ・・・・
寝る前に読む本として,これも今購入。
では晩ご飯をつくろう。ダッシュで帰宅だ。